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2008/07/21

頭に物を載せて運ぶ

 復帰運動では奄美諸島内でも各島々に温度差があるように、沖永良部島内でも温度差があった。沖永良部や与論は一六〇九年の薩摩藩島津氏の琉球侵攻までの琉球統治時代の名残で民謡や民舞、風習から食べ物まで琉球文化の影響が強く残っている。薩摩藩直轄地となった奄美諸畠五島の中でも特に琉球に近い沖永良部、与論は琉球との交易によって沖縄文化は生活の中に浸透している。  薩摩藩の琉球侵攻後も沖縄との交易は続き、テーサン船(クミウバ)やマーラン船と呼ばれる平安座船が頻繁に往来して琉球の文化を伝えていた。戦後のアメリカ世になると船も大きくなり、ますます盛んになった。私のルーツも沖縄といわれている。勝連方面の平安座島といわれ祖父の代までは沖縄の家畜商たちが頻繁に出入りし、材木や壷などの生活用品を運び、沖永良部からは牛や豚などを運んだ。

 二島分離情報はそのような琉球文化と決別して大和民族らしくしようとした。水道のない時代、島では水くみは女性や子供の仕事、桶を頭に載せて地下を流れる暗川から運ぶ。畑からの行き帰り、農作物も頭に載せて運んだ。「頭に物を載せて運ぶな、着物の帯を前結びするな。琉球民族と間違われ、日本復帰に差し支える」とこのような意見が和泊町手々知名方面から出た。
 和泊町亭々知名集落や和泊集落は薩摩藩の士族の子孫が多く、大和民族(日本)だという意識が島内でも特に強い。二島分離説が流れた時に和泊町国頭集落の婦人会長だった西村サキさん(八七歳)は「帯の前結びをやめないと琉球民族と間違われるとの話があった」と語る。和泊町婦人会では生活改善運動とともに日本民族
への取り組みも始まった。『奄美戦後史―揺れる奄美、変容の諸相』

 ぼくが奄美の復帰運動は自失の完成だというとき、「頭に物を載せて運ぶな、着物の帯を前結びするな。琉球民族と間違われ、日本復帰に差し支える」としたことが象徴的だと思っている。自分を否定する行為がなぜ、復帰だろうか。

 だが、ぼくはあまり憂えないでおこう。「頭に物を載せて運ぶ」のも、「着物の帯を前結びする」のも、祖母の優美な姿として覚えているから。

 ここでは、奄美における奄美と沖縄の分離は、奄美島間だけではなく、島内でも現れたことを押さえておこう。

 沖永良部で最も沖縄に近親感を持つ知名方面になると話は違う。米軍のレーダー基地をかかえ、基地で働く人たちが多い知名では「日本復帰したら米軍がいなくなり職場を失う、景気が悪くなる」と懸念する声もあった。

 こうした微妙なニュアンスは、奄美の二重の疎外の幅を教えてくれる。


「復帰運動史の中の南二島分離問題」川上忠志
『奄美戦後史』12



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