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2008/07/03

『アイヌの世界―ヤイユーカラの森から』

 計良光範さんの『アイヌの世界』は、書名の通りアイヌの世界が、心にそっと触れるように届けられる。押し付けがましくもなく、隠れているのでもない。淡々としながらやがてしっとりと心に沁みてくるようだ。こんな風に与論のことを書けたらいいなと思った。この感じはどこからやってくるのだろう。

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 『アイヌの世界』には、99のエッセイが収められている。「春」「夏」「秋」「冬」の章があり、エッセイはそれぞれの季節のどこかに入っている。もっとも、もともとアイヌには「夏」と「冬」の概念しかなかったそうで、この春夏秋冬の区分も際立った違いは、「春夏」と「秋冬」の間にあると言ったほうがいいかもしれない。これなど、ぼくは「長い冬と短い夏」を「長い夏と短い冬」に置き換えれば、与論と同じだと思った。

 たとえば、「アイヌ文様」というエッセイ。

 冬の炉端では、男も女も手仕事に励み、その手元からは美しい文様が生み出されていきます。  アイヌ文様は木製の生活道具に彫刻されたものと、衣類などに刺しゅうされたものに分かれますが、彫刻と刺しゅう-立体と平面という特性から、デザインそのものに違いがあるのと、文様が持つ意味あいにもいくらか違いがあるようです。

(中略)

 女の人が刺しゅうして作り出していく文様は、それを身につけた人を災いや魔神(とくに病魔)から守るためのものです。
 絵や写真でアイヌの伝統的な衣装を見るとよくわかりますが、文様が入っている位置には二足のパターンがあります。襟、裾、袖口、そして背中に、大小やデザインの違いはあっても、必ず文様がほどこされています。それは、その場所が一番無防備で、魔神が侵入しやすい所なので、文様によってそれを防ぐためなのです。とくに背中は自分では見えない所ですから、文様の力でいつも守ってもらわなければなりません。背中にひときわ目立った大胆な文様が刺しゅうしてある着物が多いのはそのためです。(『アイヌの世界―ヤイユーカラの森から』(計良光範)

 こんな風に易しい言葉を使った「ですます」調で、話しかけるように書かれている。それでぼくたちは、この本の世界に構えなく入っていける。実はこの本は、「毎日中学生新聞」に連載されたもので、この易しい文体は、中学生向けに書くことを意識して選択されたものだ。

 けれどこの本は、中学生向けに書かれた易しい本と言ってしまえば、それが心にそっと触れる理由になるかといえばそうではない。書き手からしたら、中学生向けであることは連載中ずっと念頭にあるわけだが、そのために選ばれた易しい文体は、別の力も生んだように見える。

 苦難の経験はそれをどのようにすれば誰かに伝えることができるのか。そんな難しいテーマにこの本は応えているように思えた。それはどうしてだろう。易しい文体で書かれているから? そう答えてみても、それは必要条件かもしれないがとても十分にならない。抑制が効いているから? そうには違いないけれど、そんな風に言って終わらせたくない。

 この本には、アイヌの受けた受難もきちんと書かれている。胸が痛むしそれが現在の問題でもあることに気づかされる。けれどこの本から浮かび上がるアイヌ像は、巨大な受難にあえぐ姿ではなく、生き生きした姿のほうなのだ。浅い書き方しかできないのだが、それはアイヌの生き生きした姿の描写に大半の紙面を使い、まるで付録のようにおしまいにいくつかアイヌの歴史を綴っていることからやってくる。そしてこの構成が、難しい問いに応える力になっているのではないだろうか。受難について書かれた量が少ないから受け止めやすいという意味ではない。魅力が伝えられた後だからなお、受難は痛ましさとしてより純粋に読み手に受け止められる。そんな感じなのだ。

 中学生向けだから易しく書く。その制約の結果、計良さんは中学生の人生経験にも伝わるように、アイヌの世界を丁寧に子どもの目線で書いていった。そして、アイヌの歴史も中学生に分かるようにと事実を淡々と記述した。それが返って、受難の大きさを自然に伝える力になった。それは相手が中学生だからというだけではなく、経験の無い人に、苦難の経験を伝えるための条件もクリアすることになった。そんなことではないかと思った。 

◇◆◇

 ここには、「自分の心を述べる」即興歌、「ヤイサマ」がひとつ挙げられている。

私の大事な恋人が
どこか遠いところへやられた
あなたは今どこにいるのか
鳥になりたい
風になりたい
風よ 憎い風よ
お前は自由な風だから
お前だけは私の恋人の
まわりをまわり
さわっても歩けるだろうが
私は人間だから
行くことができないのだ
ヤイサマネナ
仕方ない
風にでも 鳥にでもなって
とんで行ったら
恋人にさわれるだろうか
ちょっとでも姿を見れないだろうか
ヤイサマネナ
ヤイサマネナ…………

 このヤイサマは、幕末期、労働力として強制連行された恋人を奪われた女性の想いを歌ったものだという。この詩は、同じ北の大地で生まれた中島みゆきの「この空を飛べたら」を思い出させる。

空を飛ぼうなんて 悲しい話を
いつまで考えて いるのさ
あの人が突然 戻ったらなんて
いつまで考えているのさ

暗い土の上に 叩きつけられても
こりもせずに 空を見ている
凍るような声で 別れを言われても
こりもせずに信じてる 信じてる

 あぁ人は 昔々 鳥だったのかもしれないね
 こんなにも こんなにも 空が恋しい

飛べる筈のない空 みんなわかっていて
今日も走ってゆく 走ってく
戻るはずのない人 私わかっていて
今日も待っている 待っている

この空を飛べたら 冷たいあの人も
やさしくなるような 気がして
この空を飛べたら 消えた何もかもが
帰ってくるようで 走るよ

 あぁ人は 昔々 鳥だったのかもしれないね
 こんなにも こんなにも 空が恋しい
 あぁ人は 昔々 鳥だったのかもしれないね
 こんなにも こんなにも 空が恋しい

 「この空を飛べたら」は、ヤイサマに似ている。そういうより、「この空を飛べたら」は、ヤイサマを元歌にしているのかもしれない。「この空を飛べたら」は失恋歌だが、この曲からやってくる哀しみの大きさを想うと、ヤイサマは聞いたことがなくても、「この空を飛べたら」を通じてヤイサマを聞いたような気分になることもできるのではないかと思えた。

 こんな連想を許すのも、この本は囲いを作らず、そこに風が吹いていると感じられるからだと思う。また、表紙にある切り絵は、本のところどころにも登場して、この作品に力強い表情を加えている。人間力がやせ細ってきたのを感じたら読みたい本だ(するといつもか)。

追記
 ところでぼくは、与那国島で見た衣裳のデザインがアイヌ文様とそっくりだったのをとても興味深く思っている。あ、それから、せっかくお会いしたのに軽率な気がして、計良さんにサインをいただかず仕舞いだった。次回、ぜひにである。



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