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2008/07/31

奄美内部からの日本復帰相対化の声

 高橋さんの沖永良部学に触れて、杉原さんや黒柳さんのように奄美の日本復帰を相対化する考えを、奄美内部からも聞くことができた。

 日本復帰後の約三〇年間は、本土への応化が進み、「中心主義」に発展する。この時代には島民の意識に大きな変化がみられた。日本への復帰運動の中で、沖永良部島民は「本土」か「沖縄」かという二者択一を迫られた。本土と沖縄を両極(中心)として、その狭間で生きてきた沖永良部島民は、復帰運動の勃興とその結果達成された復帰という歴史的事実により、自らのアイデンティティを大きく揺さぶられた。漠然と捉えられていた生活習慣や芸能は、この復帰を境に、それらが「本土」のものであるのか「沖縄」のものであるのかということが意識され、その正統性を追求するという「中心主義」に発展する。しかし、これは同時に、自ら固有のアイデンティティの存在に目を背けてしまうことに他ならなかったのである。『奄美戦後史―揺れる奄美、変容の諸相』

 高橋さんは戦後の沖永良部島を3つに区分している。まず、第一期は敗戦から復帰までの米軍施政権下の時代で、特殊な状況のなかで芸能が盛んになった。第二期が、引用した箇所で、本土への「中心主義」に傾斜する時期である。だがこの時期は、本土に目が向くことは「自ら固有のアイデンティティの存在に目を背けてしまうことに他ならなかった」としている。復帰が相対化されていると感じられるのはこういう箇所だ。日本復帰をして日本人になったということだけが結論の文脈のなかからはこの言い方は出てこない。

 そして第三期は、1980年代後半で、高橋さんによれば、

この頃になると、標準語推進運動の成果により標準語を話せる子供は多くなったが、反対に方言を話せる子供が少なくなり、教育者たちは島の方言が消滅してしまう可能性に気づき始めた。方言を話せない子供たちが親になる時代を想像し始めた。現時点では方言を話せる老人もいるが、次第に少なくなることは明らかで、子供に方言を伝承できる者がいなくなれば、方言の消滅は必然であると容易に推測できるからである。島の文化である方言消滅に強い危機感をもったため、学校や社会での方言使用禁止の方針はなくなり、逆に方言の大切さが説かれ始めた。

 与論でもいまでは、学校の教室で「方言」の授業がある。方言を徹底的に禁じたその同じ空間で方言を教えるというのだから、隔世の感があるというものだ。

 郷土の再評価の時代の影響もあり、沖永良部島民の多くは、島の文化に誇りをもっている(中略)。そしてまた、島民は、復帰運動では、日本人、鹿児島県民であることを主張したが、文化的には鹿児島より沖縄の文化に愛着や親近感を強く感じている。その中でも歴史的に長期にわたって島民が志向し続けた沖縄の芸能は、特に島民には愛着があるようである。(中略)地域や地方の足元の文化を見つめ直す中で、改めて沖縄との文化的繋がりが再認識され始め、沖縄との交流も盛んになってきている。

 これは与論もそうだと思う。沖永良部や与論にとっては、「沖縄との交流」は自己回復という側面を持っている。それは理屈ではない。高橋さんが冒頭に書いているように、沖縄の民謡を聞いて「血が騒ぐ」のだ。


「沖永良部島の戦後史から現在をみる」高橋孝代
『奄美戦後史』22



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2008/07/30

「与論二世」というアイデンティティ

この文章を書くにあたっていろいろ資料を集めた後で、豚足やナリみそなどを買いに行きながら三和町界隈を歩く機会があった。改めて歩く街は、県庁移設などですっかり変わったが、奄美出身者には欠かせない物産店などで聞く鹿児島弁ではない「標準語」を開きながら変わらないものも依然としてあると思った。そして知識をえた後に歩く街がいつもと違って見えたことは、言うまでもない。花見の風景であったように、それぞれの島々/シマがそれぞれに存在し、それでいてそれらが同時に交差し、ノイズを出す鹿児島市のシマ。そのなかで多様なものが交差する音を開き続けること、そしてその音が作り出す空間が鹿児島市で過ごした「二世」のシマなのかも知れないと歩きながら思った。『奄美戦後史―揺れる奄美、変容の諸相』

 ぼくは生粋のゆんぬんちゅは自分で終わるしそれはそれで仕方ないと思ってきた。それに、生粋と思うこと自体が思い込みで、ゆんぬんちゅだって、北から南から来た人たちの交流の産物に過ぎないからと考えたりして。けれど、本山さんのエッセイを読み、「与論二世」というアイデンティティのあり方があるのを知る。それは新鮮な驚きだった。

 ぼくは、ぼくで終わるとあまり思いつめずに、子どもたちにも与論のことを、与論の子でもあることを伝えていきたい。そう、思い直そう。


「鹿児島市のシマ」本山謙二
『奄美戦後史』21



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2008/07/29

帰りを待つ島人の街

 1946年の2・2宣言の後、本土から引き揚げる島人は、まず「非日本人」登録をしなければならなかった。

そうした「非日本人」登録をふまえながら復興史をみていくと「終戦を機に大島を主として、種子島、屋久島、沖縄方面の離島復帰者が、どっと鹿児島港へ詰めかけた。しかし各離島の領土帰属問題がはっきりしないうえ、就航船舶の手当てもつかない状況であったため、状況待ちの人々が同港付近に滞留した。(中略)しかもこの滞留者は九月以降も次第に増え、期間も長期化し、市は天保山に収容施設を決めて、沖縄帰還者を中心に収容した。」という「状況待ち」という記述など深く理解できる。このように鹿児島市は、戦災都市のなかでも、米軍占領が決まったトカラ、奄美、沖縄方面へ帰還する人々が、鹿児島港から出る船便を頼り、港周辺へ集まり「状況を待つ」という側面をもった都市だったのである。そして米軍占領下に置かれると、「目的の島々は、米軍占領地のために帰国できない。当然集結してきた人々は、焼け跡地にバラックを建て、雨露をしのぐことになる。さらに生活の手段として、そこでなんらかの仕事をはじめる。このため鹿児島市ではいわゆるブラック・マーケット『ヤミ市』の中にこれらの人々が含まれる結果となった。この露天形式のものや、路上に品物を並べただけの風呂敷商売が、鹿児島駅から朝日通り界隈まで続いていた。小川町・易居町一帯である。」と米軍占領により帰る事ができなくなった人たちが小川町や易居町周辺で生活し始めたことを記している。『奄美戦後史―揺れる奄美、変容の諸相』

 恥ずかしながら、ぼくは本山さんのエッセイで、初めて小川町、易居町に奄美出身者が多い理由を知った。そこは戦後、思うように島へ帰れなかった「トカラ、奄美、沖縄」の島人が集う場所だったのだ。

 そういえば、6月、南方新社の向原さんに連れて行ってもらったのは、あれは易居町の居酒屋だった。鹿児島にもちょっと懐かしい場所があると思うと、嬉しい。

「鹿児島市のシマ」本山謙二
『奄美戦後史』20


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2008/07/28

日本の喪失と鹿児島からの解放

 黒柳さんは、杉原さんと同じように奄美の日本復帰を、内部からはなかなか聞こえてこない声で分析してくれている。

 単純化を恐れずに敢えて言えばこのような民主化の進む祖国日本を失ったことは「喪失」ということができ、差別に苦しめられた鹿児島県からの否応なしの自立は「解放」と言うことができよう。もちろんこのように截然と分けることはできないだろうが、本稿ではこの「解放」に伴って生じた政治的再編成とそれに伴う政治構造の変容を検討したのである。この時期、奄美群島は鹿児島県庁の出先機関として行政を運営する大島支庁を中心とした県の一部としての政治空間から、軍政府の決定する政策に従う「地方政府」として行政を運営する政庁を中心とした独自の政治空間へと変貌を遂げた。しかも、政庁は、もちろん軍政府の監督下ではあったが、大蔵省管轄の税務署、逓信省管轄の郵便局、果ては司法省管轄の裁判所や刑務所といった戦前の国家機関をも系列化したもので、こうした「中央政府」ぶりはこれまでの奄美群島の住民だけでなく日本の住民も地域レベルにおいて経験したことのないものであった。人的にも、軍政施行に伴って日本に本籍を有する官吏は送還され、復帰に至るまで奄美群島の官庁は地元住民のみで運営された。政庁の知事以下各部課長から一般職月にいたるまで全て自前の人材であったのは、奄美群島にとって近代以降この米軍政下に置かれた足掛け八年のみのことである。一九四六年三月の軍政施行後一九五二年四月の琉球政府発足まで旧鹿児島県地域には鹿児島県知事と臨時北部南西諸島政庁知事・奄美群島政府知事という二人の知事がいたのであり、この歴史的事実は重い意味を持つといえる。『奄美戦後史―揺れる奄美、変容の諸相』

 日本からの分離という「喪失」と鹿児島県からの分離という「解放」。奄美の内部からは、「喪失」の声は割れんばかりに聞こえてくるが、「解放」の側面はほとんど聞かれない。ふつうに考えるとそれは不思議なことだ。どうして、「日本の喪失」は声高に言われるのに、「鹿児島からの解放」が言及されることはないのだろう。

 このことは、米軍統治を「異民族支配による屈辱」と評価するのにそれに該当する言葉を対薩摩に対して用意していないのと符合している。そう考えれば、それは鹿児島が「日本」というカードを持っているから、「解放」は無意識に抑圧されているのだと思う。あるいは、「解放」を感じる余裕は当時、望むべくもなかった。

 もしそうなら、「奄美群島政府知事」が存在した事実の重みは、ぼくたちが改めて受け取るべきこととしてあるのだと思う。


「奄美群島の分離による地域の政治的再編と政党」黒柳保則
『奄美戦後史』19



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2008/07/27

こころなさの色合い

 戦前の奄美群島、即ち鹿児島県大島郡は、政治的に見ると国政や県政への参加といった制度面について他の地域と同様に行われており、何ら異なることはなかったが、政治的な実態面や社会経済的な観点から見ると県内において差別的な待遇を受けていた。例えば県知事や県会議長はもとより県(庁)の出先機関として奄美群島を管轄した大島支庁の支庁長に地元出身者が就いたのは敗戦まで小林三郎と谷村秀綱のみという有様であり、一方一九四〇年まで半世紀にわたり、奄美群島を県予算において独立させ緊縮財政を余儀なくさせ続けた奄美大島「独立経済」という「切り捨て」政策を取り、産業基盤整備を不可能にし経済を大いに疲弊させた。また、県庁や大島支庁が奄美群島の政治家や住民に接する態度にはこころないものがままあったようである。『奄美戦後史―揺れる奄美、変容の諸相』

 「こころないものがままあった」どころの話ではない。「県庁や大島支庁が奄美群島の政治家や住民に接する態度」は、こころなさは基本的な態度として貫徹されていたと思う。

 けれどこのこころなさは、奄美を「産業基盤整備を不可能にし経済を大いに疲弊させ」ようと意図するほどの悪意ではない。奄美の疲弊は結果であって、県がもともとたくらんでいたことではない。県のこころなさは悪意ではなく、無関心というのが近いに違いない。だが、改めていえば、その無関心が疲弊を招いても構わないと見なしているという点では、未必の故意というべきものかもしれない。

 いまはむしろ、差別というより無関心が克服すべき関係の実相ではないだろうか。


「奄美群島の分離による地域の政治的再編と政党」黒柳保則
『奄美戦後史』18


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2008/07/26

ポスト団塊の女性ぽいのか?

 いやはや、ポスト団塊の女性ぽいということか?
 でも、ポスト団塊ってどんな感じなのか?

Tushinbo_img_2






















みなさん、お試しあれ。

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サンゴ祭、晴れるといいですね

 町役場のウェブサイトを覗いたら、ヨロンサンゴ祭りのプログラムが載ってた。

 第38回 サンゴ祭プログラム

 見ると、今年は、小野綾子さん、川畑アキラさんの出演が予定されています。たしか去年は、雨で延期の1日開催になってましたよね。今年は晴れて、全プログラムできるといいですね。

◇◆◇

 小野さんは「たましいの島」をきっと歌うんでしょう。

 「たましいの島」は、「はるか日本の南」、「はるか南の島」とその方位が語られる。「日本の」と場所を想定する言葉も盛り込まれているけれど、「南」と、どちらかといえば、『めがね』と同じように、あいまいに言われているだけだ。

 そのあいまいさは、言葉と音楽にしても、「不思議な言葉と唄があるという」と、あいまいなままに置かれている。そしてそれはこの詞のよさだと思う。ここが「琉球」の言葉と唄と説明的になったら、先のあいまいさはむしろ損なわれてしまうだろう。

 では、あいまいなままの紹介に終始するかといえば、そうではなく、「誰もがみんな自分の家で死ねる島があるという」というフレーズは、強烈な自己主張を放っている。ここは、作者ももっとも強調したかったところに違いない。それが「たましいの島」というタイトルにもつながっているものだ。

 まるで理想郷じゃないかと思えるような島の紹介だ。

 改めてみると、これは映画『めがね』に先立つ、優れた与論島の紹介文だと思う。

 歌『たましいの島』のための映像も、その何もなさが、ああ与論だと思わせてくれる。この映像もいい。


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日本復帰の相対化

分離されて質的に窮乏化が極端に進んだ現実からは緊急避難的に「日本本土に帰るしかない」となったのも当然だろう。さらに、本土との歴史的文化的民族的一体感を基本とした復帰思想が、冷戦構造の中の「政治主義的判断」に「敗北」した経緯もふまえるならば、無い物ねだりを承知であえて言えば、奄美の復帰運動には「何のための復帰なのか」を問うことが欠落していた、と言えるかもしれない。『奄美戦後史―揺れる奄美、変容の諸相』

 奄美の日本復帰を相対化することができる杉原さんは誰だろうと思って、執筆者紹介を見ると、和歌山県出身の方なのだった。やはり、内部からの声ではなかった。

 ぼくは、復帰相対化の声をありがたく想いながらも、この言葉を、奄美の内部からの声として掴み取りたい。日本復帰の相対化は、ぼくたちの宿題だと、改めて思う。


「『北緯三〇度』とは何だったか-奄美の分離と復帰を考える-」杉原洋
『奄美戦後史』17



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2008/07/25

奄美は沖縄軍事拠点化のためのカードか

 「実質復帰」論の「勝利」は、実は米国が望んでいたことでもあった。というのは、米国(軍)にとって「北緯二九度」以南の島々の中で最も重要だったのは沖縄島の確保であって、基地の島・沖縄で復帰運動が燃え上がっては困ることだったからだ。激しさを増す奄美の復帰運動が沖縄に波及することは何としても避けなければならなかった。三条撤廃のスローガンを下ろして旧鹿児島県大島郡の復活を強調する運動が望ましかったといえる。

 折しも、一九五二年六月五日、沖縄で「日本道路会社争議」が起きた。軍政下で初の組織的な労働争議だ。那覇市の琉球立法院前にテント小屋が出現、ハンガーストライキに突入した労働者たちは「貸金をよこせ」 「生活を保障せよ」と訴えた。主体になったのは奄美出身者たち。指導したのも非合法の奄美共産党メンバーだった。
 争議の背景には、このころ沖縄で恒久的な基地建設が始まり、膨大な「軍作業」が発生したことがあった。それは四九年一〇月の中国共産党政権の誕生、五〇年六月の朝鮮戦争勃発を契機としていた。本土へは行けない、働く場所もない奄美の人々は競って沖縄に出た。「五〇年から五二年にかけて、毎月一千人近い男女の働き手が島から消え、その数はついに五万名余に達した」。奄美の人口の四人に一人が流出した勘定だ。
 この基地建設には鹿島建設、清水建設、間組、大成建設などの日本本土大手土建会社が乗り込んできていた。インフレ抑制策のもとで不況にあえぐ本士土建資本にとって沖縄基地建設は願ってもない再生のチャンスだった。言い換えれば、本土土建資本の1部は沖縄を足掛かりに復興したわけだ。日本道路会社も清水建設の子会社だった。

 争議のもう一つの背景には、貸金や労働条件には明らかな差別があり、奄美や宮古・八重山から来た労働者は最低の扱いを受けていたということもあった。米国人それも白人が最上で、フィリピン人、本土からの出稼ぎ者、沖縄本島人と続き、その下が奄美・先島の人々だった。
 結局この争議は琉球立法院、住民などの強い支持を得て、争議団の全面勝利となり、軍政下での労働法制整備の要求に発展していくことになった。『奄美戦後史―揺れる奄美、変容の諸相』

 ここから気づくことをメモしておこう。

・アメリカは、奄美が沖縄と一体になって「三条撤廃」を主眼とする復帰運動を展開されるのを避けたかった。奄美はその思惑にまんまと乗った。思惑を勘定に入れる余裕はなかった。

・この面からは、アメリカが、沖縄島だけでなく奄美も軍政下に置いたのは、沖縄島を軍事拠点化するためのカードとして奄美を用いるためだったのかもしれない。

・薩摩は奄美を喰らって明治維新を果たした。日本は沖縄を喰らって独立を果たした。

・沖縄のなかでも奄美は差別された。それが沖縄に対する反発心の要因のひとつになっている。

・本土のゼネコン資本は、沖縄の軍事基地建設によって生き延びた。

・沖縄の軍事基地建設は、奄美の生活を助けた。

「『北緯三〇度』とは何だったか-奄美の分離と復帰を考える-」杉原洋
『奄美戦後史』16




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2008/07/24

「太平洋中の天然の牢屋」

 前に、軍政期奄美に見られた親米の態度から、そこに二重の疎外からの解放という側面があったと考えた。けれどそれはあくまで潜在的なもので、軍政は抑圧的であったと受け止められていたようだ。

この五年間の奄美軍政は、占領初期にこそ「言論、集会、宗教、組合の自由」を保障した「命令5号(自由令)」(堅ハ年六月四日)を出すなど民主化政策もとったが、それは一年半ほどで終わって四七年九月=日には「命令13号」を出し、命令5号を取り消した。これは同月七日からの私設市町村長会(「私設」とは公式招集でなく自主的に誓ったという意味)が復帰要望を決議して、それを軍政官に提出しようとしたのを拒絶する意思表示だった。以後望化のけん制、弾圧の時期に入った。「軍政府情報官はおどろくばかりの諜報網を張って」、軍政に協力的でないという理屈をつけて、ささいな発言や、文書表現をチェック・干渉し、集会でのプラカード撤去などの強権的な圧力をかけ、軍事裁判での〃断罪〃をちらつかせた。言論表現の自由は極端に抑圧された。経済的に極度にひっぱくしていた上、さらに政治的にも抑圧されて「さながら太平洋中の天然の牢屋」(雑誌「自由」五一年四月号)と形容された奄美の現実が、徐々に日本復帰によってしか事態は打開されないという意識を醸成し始めた。特に四九年四月二九日に発表された軍政府の「配給食糧三倍値上げ」方針は全島の怒りを呼び、「日本復帰」への思いがいっそう切実で確固としたものになった。それは日本本土との歴史的、文化的、民族的一体感に基づく復帰思想(感情)といえるだろう。『奄美戦後史―揺れる奄美、変容の諸相』

 なんというのか、「ささいな発言や、文書表現をチェック・干渉し、集会でのプラカード撤去などの強権的な圧力をかけ、軍事裁判での〃断罪〃をちらつかせた。」という状況は、まるで戦前の延長だ。経済的だけでなく、政治的にも奄美は逼迫していたのだ。

 ぼくは、「さながら太平洋中の天然の牢屋」という表現に目が留まる。アメリカの軍政は戦前の延長に見えるが、「さながら太平洋中の天然の牢屋」なのは、薩摩藩の侵略以降、同じだと言えるからだ。


「『北緯三〇度』とは何だったか-奄美の分離と復帰を考える-」杉原洋
『奄美戦後史』15



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2008/07/23

恣意的な境界設定

 杉原さんの問題意識は、なぜ、トカラ・奄美・沖縄・先島が行政分離されることになったのか、というものだ。

「北緯三〇度」以南の南西諸島とは、トカラ列島、奄美群島、沖縄諸島、先島諸島(宮古、八重山)を指す。確かに、沖縄島とその周辺の島々では職烈な戦闘の結果、日本軍の支配が排除され、軍政が敷かれた事実がある。しかし、トカラ、奄美、宮古、八重山では地上戦闘はもちろん米軍が上陸した事実もない。日本(軍)の支配権が排除されたとはいえず、占領地でもないそれらの地域が、なぜ、戦後五カ月もたってから分離され直接軍政下に置かれなければならなかったのだろう。『奄美戦後史―揺れる奄美、変容の諸相』

 米軍が上陸したのは沖縄島とその周辺の島々で、そこでは日本軍の支配が排除された事実があるが、「トカラ、奄美、宮古、八重」は地上戦闘、上陸の事実はない。占領地でもないこれらの島々はなぜ、分離されたのだろう。なぜ、「北緯三〇度」以南だったのだろう。

 「北緯三〇度」で奄美・トカラが行政分離され、実際に軍政がスタートしたのは四六年三月一四日だった。だが、その直後、GHQと参謀本部の間で、奄美・トカラの施政権は日本(鹿児島県)に戻した方がいいという驚くべき論議がなされている。
 民政局(GS)の参謀長あて四月三日付文書では、「1・29の覚書で分離が命じられたこれらの島々は、真空状態に置かれてしまった。海軍軍政府は行政の組織化、経済の再生、救援物資の供給、財政という諸問題で困難に直面した」と述べ、「北緯三〇度以南の鹿児島県の領域は日本に含むよう再定義すべきだ」と提案した。
 さらに「開票あいまいな軍政境界を時期尚早に決めたことにあるのではなく、これらの島々を最も効果的で経済的な方法で管理することである。…‥沖縄だけを直接軍政に置き、鹿児島県部分は軍政下に票ないことによって、負担は大幅に軽減される」と負担の大きさが問題と正直に指摘している。しかも奄美・トカラの施政権の返還は、「1・29覚書を修正するのが単純で直接的だ」とその方法にまで言及した。
 そもそも「北緯三〇度」で分離することには、現地の軍政府は懐疑的だった。現地の立場からすれば分離の根拠も明確ではなかった。にもかかわらず、さまざまな思惑が絡んで分離は強行された。だが分離後の軍政を担当した現地は結局、「軍政に置くことはやはり無理だ」と述べたのだ。
 もちろん、このような経緯は当時知られるべくもなかった。

 杉原さんの問題意識に続けて、ひとっとびに結論の箇所を引いている。要は、「北緯三〇度」以南にさしたる根拠は無く、調査の結果、奄美は鹿児島県下にあるのを自然と思っているので、鹿児島県に戻したほうがいいという見解が出たほどだった。しかし、どさくさにまぎれてなのか、分離は強行されたという。

 ここにあるのは地図の視点だ。「北緯三〇度」以南という表現そのものがまさに地図の表記であるように、頭上はるか高いところから見る地図の視点で境界は設定されている。杉原さんはこの恣意的な設定に問題提起をしているのだけれど、支配の論理はいつもそうだと思う。それはアメリカに限ったことではない。

 薩摩藩は、琉球侵攻したとき、なぜ、与論島以北を直轄領としたのだろう。直轄領としたところで、植民地として甘い汁が吸える島ではないことは、侵略途上、沖永良部島の次は沖縄島と、与論島は眼中になかったことからも、また、与論島では黒糖収奪が本格化したのは明治直前であったことからも伺い知れる。ここにあるのも地図の視点だと思う。そこに大きな理由などなく、切りがいいからだ。喜界島、大島に始まる島嶼の流れでみるとそれは与論島で一端切れて、大きな沖縄島が始まる。これらの諸島は、琉球本体に辿り着くまでの「道之島」と言うなら、まさに与論島は「道之島」の終わりに位置している。たったそれだけのことだと思う。

 地図の視点で、切りがいいからと境界は引かれる。でも、その境界設定が安直であったとしても、そこで与論島は琉球ではなくなり、沖縄県になることはなく、鹿児島県下に入り、沖縄復帰の際はこともあろうに日本の象徴すら演じる。その境界のなせるマジックに島人は翻弄されてきたのであり、その影響は甚大なのだ。

 ぼくたちはぼくたちも地図の視点を持って、地図の視点が作った境界設定を相対化する視線を持たなければならない。境界に抗うのだ。


「『北緯三〇度』とは何だったか-奄美の分離と復帰を考える-」杉原洋
『奄美戦後史』14



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2008/07/22

復帰運動の宿題

 奄美の島と人々がそれぞれの思いを交錯させながら勝ち得た「日本復帰」。それは泉芳朗議長を頂点にした立派な指導者たちのそれぞれの血のにじむような苦難と活躍があったむ私たちはそのことを忘れてはならない。
 あれから五十数年。戦争が終わって六〇年。「世界平和」を願ったはずが今でもどこかで戦争が続いている。
 「奄美の復帰は早かった、沖縄と一緒で良かった」という意見もある。奄美のその後の人口減少、沖縄との経済の格差(補助金の格差)等々……。
 しかし当時の先人たちは戦後の混乱と異民族支配の屈辱、子孫の教育など戦後復興を考えたら一日たりとも母国日本に帰りたいのが人情なのだろう。私たちはそれでいいと思う。先人たちの民族の叫びと世界の歴史に刻まれた「血の一滴」も流さずに勝ち得た「日本復帰」の運動を忘れずに、これからの郷土建設に取り組んでほしい。『奄美戦後史―揺れる奄美、変容の諸相』

 奄美の復帰運動をめぐる言説のなかで違和感があるのは、「異民族支配による屈辱」という表現だ。それなら、薩摩藩による支配は、異民族支配ではなかったのだろうか。いや、異民族支配という表現自体に茶々を入れたいわけではない。アメリカ占領期を「異民族支配による屈辱」と言う割りに、薩摩藩による支配に対するそれに対応する表現がないのがいぶかしいのだ。薩摩藩による支配に対する表現が空白なのに、アメリカ支配を「異民族支配による屈辱」と表現するのは、紋切り型の言葉に歴史認識を委ねすぎてしまっているように感じられる。たとえば、この表現だけでは、ジョージさんがトラックを貸してくれた文脈はただの矛盾にしか映らなくなってしまう。

 「異民族支配による屈辱」を置くことで、その分、奄美の復帰運動は美化されていないだろうか。ぼくたちは先人の労力を尊重するなら、「私たちはそれでいいと思う」と肯定するなら、復帰運動が行ってきた自己否定を捉え返す宿題に取り組むべきではないだろうか。

 というか、それをぼくたちの宿題として受け止めたいと思う。


「復帰運動史の中の南二島分離問題」川上忠志
『奄美戦後史』13


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2008/07/21

頭に物を載せて運ぶ

 復帰運動では奄美諸島内でも各島々に温度差があるように、沖永良部島内でも温度差があった。沖永良部や与論は一六〇九年の薩摩藩島津氏の琉球侵攻までの琉球統治時代の名残で民謡や民舞、風習から食べ物まで琉球文化の影響が強く残っている。薩摩藩直轄地となった奄美諸畠五島の中でも特に琉球に近い沖永良部、与論は琉球との交易によって沖縄文化は生活の中に浸透している。  薩摩藩の琉球侵攻後も沖縄との交易は続き、テーサン船(クミウバ)やマーラン船と呼ばれる平安座船が頻繁に往来して琉球の文化を伝えていた。戦後のアメリカ世になると船も大きくなり、ますます盛んになった。私のルーツも沖縄といわれている。勝連方面の平安座島といわれ祖父の代までは沖縄の家畜商たちが頻繁に出入りし、材木や壷などの生活用品を運び、沖永良部からは牛や豚などを運んだ。

 二島分離情報はそのような琉球文化と決別して大和民族らしくしようとした。水道のない時代、島では水くみは女性や子供の仕事、桶を頭に載せて地下を流れる暗川から運ぶ。畑からの行き帰り、農作物も頭に載せて運んだ。「頭に物を載せて運ぶな、着物の帯を前結びするな。琉球民族と間違われ、日本復帰に差し支える」とこのような意見が和泊町手々知名方面から出た。
 和泊町亭々知名集落や和泊集落は薩摩藩の士族の子孫が多く、大和民族(日本)だという意識が島内でも特に強い。二島分離説が流れた時に和泊町国頭集落の婦人会長だった西村サキさん(八七歳)は「帯の前結びをやめないと琉球民族と間違われるとの話があった」と語る。和泊町婦人会では生活改善運動とともに日本民族
への取り組みも始まった。『奄美戦後史―揺れる奄美、変容の諸相』

 ぼくが奄美の復帰運動は自失の完成だというとき、「頭に物を載せて運ぶな、着物の帯を前結びするな。琉球民族と間違われ、日本復帰に差し支える」としたことが象徴的だと思っている。自分を否定する行為がなぜ、復帰だろうか。

 だが、ぼくはあまり憂えないでおこう。「頭に物を載せて運ぶ」のも、「着物の帯を前結びする」のも、祖母の優美な姿として覚えているから。

 ここでは、奄美における奄美と沖縄の分離は、奄美島間だけではなく、島内でも現れたことを押さえておこう。

 沖永良部で最も沖縄に近親感を持つ知名方面になると話は違う。米軍のレーダー基地をかかえ、基地で働く人たちが多い知名では「日本復帰したら米軍がいなくなり職場を失う、景気が悪くなる」と懸念する声もあった。

 こうした微妙なニュアンスは、奄美の二重の疎外の幅を教えてくれる。


「復帰運動史の中の南二島分離問題」川上忠志
『奄美戦後史』12



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サンゴね.jp

 あんとに庵さんの「珊瑚を守る会みたいのがある」で、与論のことが記事になっているのを知った。

 「サンゴ救え ダイビング記録の報告サイト開設」

ダイバーの潜水記録をネットで集め、白化や死滅が進むサンゴの再生に役立てよう――。こんな試みを、鹿児島・与論島のNPO法人と九州大学が21日から始める。同島は年間約2千人がダイビングを楽しんでおり、得られた多くの記録をもとに、サンゴの実態把握や保全につなげる。

 その拠点になるサイトがここ。

 http://www.sango.ne.jp

 ここ、何と呼べばいいんだろう。「サンゴね.jp」って愛称もいいかもだ。

Sango_2

















このサイトのデザインもいい感じ。植田さん、がんばれ。


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2008/07/20

「完全復帰」から「実質復帰」へ

 分離報道の出た頃の奄美大島の日本復帰運動は、講和条約三条撤廃(三条は米国が奄美や沖縄、小笠原などの施政権を当面の間持つと定めた)を主張する「完全復帰派」と、奄美だけの日本復帰を主張する「実質復帰派」とに分かれた混迷の時期だった。
 上京した三町村長は国際情勢を肌で感じながら軍事基地を多くかかえる沖縄と一緒に復帰運動をしてはならないことを悟る。在京のリーダーたちの意見も聞き入れながら奄美だけの純粋な復帰運動を前面に押し出した「実質復帰」に傾斜した。このことは復帰論で揺れていた奄美大島の日本復帰運動の方向を「実質復帰」に結びつけていった。
 こうして講和条約三条撤廃と信託統治絶対反対をともに唱えていた沖縄と決別して、奄美は奄美諸島のみの実質復帰へと運動を転換させる役割を二島分離情報は担った。『奄美戦後史―揺れる奄美、変容の諸相』

 分離報道は、奄美のなかの沖縄である南奄美二島を、奄美のなかの奄美に塗り替える。そうすることによって、復帰運動は、奄美・沖縄・小笠原を一体に考えた完全復帰から、奄美単独の実質復帰へと傾いてゆく。この二島分離報道は、完全復帰の声が大きくなるのを嫌がったアメリカのメディア操作だとする風聞も生んだ。

 沖縄との別れの瞬間である。


「復帰運動史の中の南二島分離問題」川上忠志
『奄美戦後史』11


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2008/07/19

『芸術言語論-沈黙から芸術まで-』

 吉本隆明さんの講演、『芸術言語論-沈黙から芸術まで-』を聞いてきた。

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 吉本さんの講演を聞くのは久しぶりだった。学生の時分は地の利を生かして吉本さんの講演を「ぴあ」や何かで見つけては聞きにいった。『ハイ・イメージ論』の頃である。中央区の区民会館のようなところ、池袋のリブロブックセンター。学生なのに無理して名古屋まで追っかけをしたこともある。品川の寺田倉庫で、中上健次や三上治と共同主催した「いま、吉本隆明25時」は圧巻だった。これがあるから東京にいると思い込んでいた。おかげでぼくの物まねレパートリーのなかには吉本さんの講演真似も入っているくらいだ。

 吉本さんの講演を聞かなくなったのは関心が薄れたからではない。あの水難事故以来だろうか、吉本さんが講演しなくなっていったからだ。以来、年齢を思えば仕方ないと諦めてきたので、今回、ほぼ日刊イトイ新聞主催で講演があると聞き、とても嬉しかった。おまけに、吉本さん自身も柳田國男の「海上の道」の講演をイメージしてやるということなので、その力の入れようも楽しみだった。

 会場では、加藤典洋さんにもお会いできた。「加藤さん?」、声をかけずにはいられなかった。加藤さんはきょとんとされている。それはそうである。ぼくは加藤さんの本を大好きでよく読んでいる読者の一人というに過ぎないのだから。でも、「ご本、好きで読ませていただいています。」と伝えられたのはよかった。それだけでも行った甲斐があるというもの。

 吉本さんのおしゃべりは、ああ吉本さんだなと思わせてくれる醍醐味充分だった。今日の最大の肝は、アダム・スミスが彼の経済論で、りんごの価値は、木に登ってりんご採ってくるまでの労働のことであると分かりやすく規定したと吉本さんは評価していたけれど、それと同じように、芸術言語論の基礎の自己表出と指示表出を、樹木にたとえて、幹と根が自己表出であり、枝、葉、花、実が指示表出であると表現したことにあると思う。

 いま、コミュニケーション論が盛んだけれど、吉本さんの「芸術言語論」は、言ってみれば反コミュニケーション論で、「沈黙」に価値を置いている。というか、自己表出である言語の幹や根にあるのは、「沈黙」なのだと位置づけている。吉本さんは「沈黙でさえ表現であり、価値である」と確か、そう言っていた。ここまで言ってくれるから、ああ吉本さんだと思う。ここまで言ってくれるから、長きにわたり失語という沈黙を続けている奄美のことも疎外されずに含まれていると、自分のことに引き寄せても聞くことができる。吉本さんの文芸批評は「境界を持たない」のだ。

 「自由、平等、無価値」と言ったのも印象的だった。「芸術言語論」のことを、「自由、平等」と切り出したので、何が続くのかと思いきや、「無価値」ときた。芸術の価値を云々する「芸術言語論」を「無価値」と言うのは、それは吉本さんの自己抑制で、「芸術言語論」といっても何かを強制するものではないし、その世界に入るも入らないも任意であることを指しているのだと思う。作者の真意が分かる分からないが偶然の出会いに左右されるように、「芸術言語論」にしてもそれは同じなのだと。この言い方は親鸞の口吻を思い出させるものだ。

 思い出させるといえば、終盤に何かを思い出そうとして頬杖をついたときは、少し前にスクリーンに映し出された太宰治の表情そっくりでどきっとした。糸井さんの強制終了?間際には、天を仰ぐような手振りで話すのだったが、その姿はさながらシャーマンだった。でも、何といっても、冒頭、舌を出して照れ笑いをしている表情がよかった。

 時間はオーバーし、当初、休憩を挟み、糸井重里さんが質問して答えてもらうトークセッションも想定されていたみたいだったが、その時間がなくなるくらい吉本さんはしゃべり続けた。糸井さんのおしゃべりも書くものも好きだが、吉本さんの話が聞きたいぼくとしては、吉本さんのおしゃべりに終始するのでよかったし、もっと聞きたいくらいだった。最後の「二列音」のことは、まだどこにも書いたりしゃべったりしてないものだと思うから、なおさらだった。

 糸井さんも驚いていたけれど、会場に詰め掛けた、あれは二千人くらいだろうか、人たちは三十代がメインで吉本さんの読者という感じではなかった。ぼくや加藤さんのような存在は部分で、全体的には、糸井さんのファンが吉本さんの話を聞きにきたような、そんな雰囲気だった。

 吉本さんの話が尽きないように、吉本さん自身も、完成を禁じられて無限成長をするしかないのが宿命のように見える。八十三才の言葉は、学生時代に聞きほれていたときと変わらず刺激的だった。


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ジョージさんのトラック

 南二島分離報道後の運動を盛り上げたのに小中学生や高校生、教師たちの熱い闘いがあった。その中で教職員や生徒たちが果たした役割も大きい。沖永良部高校の教職員や生徒たちも、貧苦にあえぎながらも運動に燃えに燃えた。また各小中学校でも生徒たちが集会や断食に参加したり、作文集で全国に発信、島の実情を訴えた。
 「な~んでかえさぬーエラブとヨロン、同じはらから奄美島、友よ~うたおう復帰の歌を我ら血をはくこの思いー」。沖永良部高校では「この緊急事態に勉強どころではない」と教師ともども「復帰の歌」を歌いながら街宣活動を行った。現在のような広報手段がなかった当時、高校生の街宣活動は大きな威力を発揮し、たちまち島内に二島分離は伝わった。
 沖永良部にはトラックが四台しかなかったので、その二台を借りて全島を回った。その時、面白いことが起きた。他にレーダー基地の米軍兵士ジョージさんが運転する一台が参加して高校生を乗せ島内を回ったのだ。
 日ごろから米軍兵士と高校生たちは野球の交流で親しかった。彼らは「復帰の歌」を歌い、トランペットを吹きながらシュプレヒコールを叫んだ。その楽器も米軍から貰ったのであった。ここにも復帰連動に軍政府の監視の日が厳しい名瀬あたりとは想像もつかない大きな違いがあった。 『奄美戦後史―揺れる奄美、変容の諸相』

 アメリカが日本への復帰運動を後押しするなんて、他では見られなかった光景ではないだろうか。もちろんこれは国家の行為ではなく、アメリカ軍人の人柄と沖永良部島民との交流があって生まれたものだ。それは例外的なものだろうが、これが現実という意味では重要な意味を持っている。こういうことがあったと記すこと自体に価値がある。

「復帰運動史の中の南二島分離問題」川上忠志
『奄美戦後史』10


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2008/07/18

二七度と二七度半

 五二年九月二六日、NHKがトップニュースで「奄美諸島の返還は間近」と報じた翌日、毎日新聞が奄美諸島の返還について取り上げ、岡崎勝男外相とマーフィー駐日米国大使との会談を「北緯二七度半以北の奄美諸島の行政権を日本政府に返還するか考慮中……」と報じた。それは沖永良部と与論を切り離し、徳之島から北の奄美諸島の返還を意味していた。
 毎日新聞のこの記事を見た鹿児島市在住の奄美社社長武山宮信氏は、新聞が届かない両島の町村長などに「二島分離絶対反対大会を開いて、強く反対運動を起こすべき」と打電した。この報道は両島の住民や本土にいる出身者に大きな衝撃となった(半度の差は大きい、二七度は与論と沖縄の間、二七度半は沖永良部と徳之島の間である)。
 つまり奄美大島や徳之島などでは「日本に返せ」なのに南二島では「置いていくな、一緒に返してくれという運動であった。『奄美戦後史―揺れる奄美、変容の諸相』

 「低調で大らかな運動」が切迫したのは、沖永良部島と与論島を分離して北奄美が復帰するかもしれないという報道を耳にしてからだ。ここは何というか、現金というかちゃっかりしてるというか末っ子ぽいうかなんというか、な面も感じられるところだが、南二島のキャラクターはよく出ていると思う。

 27度と27度半の違いは、アメリカにとっては大きな意味はなかっただろうが、この二つは、前者が、沖縄と奄美を別つ境界であり、27度半が奄美のなかを別つ境界線であることが興味深い。27度半の境界線の持つ意味は、

 <北奄美> 奄美は沖縄とは違う。 
 <南奄美> 奄美は沖縄と同じだ(似ている)。 

 という違いとして現れている。これは、<琉球>と<大和>の二重性の分岐点でもあった。
 
 奄美には二重の復帰運動があったのだ。いや違う。奄美の復帰運動は、北奄美としての復帰運動と南奄美としての復帰運動の二つの加算だったと言うことができる。思うに、報道のあとに南奄美が躍起になった背景には、北奄美の南奄美への低関心もあったのではないだろうか。


「復帰運動史の中の南二島分離問題」川上忠志
『奄美戦後史』9




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2008/07/17

「低調で大らかな運動」

 米軍基地のあった沖永良部島は基地経済で賑わっていた。そして、同じ奄美でも大島とは違う現実があった。

米軍兵士が百人前後駐留、地元の作業員や米軍兵士のポケットマネーで働く人たちなどがいて知名の街は基地経済で賑わっていた。  沖縄と文化や経済的にもつながりが深く距離も近い沖永良部や与論の一般住民にとっては現実的には名瀬市民のような切実感はなかった。それは島の若者たちは日本本土のかわりに沖縄に出稼ぎに出て仕送りを続けた。

 沖縄とアメリカとのつながりが、この二島に余裕を生んでいる様が見て取れる。

 名瀬市の軍政府と違い沖永良部のレーダー基地は後方支援の兵士たちだ。住民との融和政策を取ったのか比較的に兵士と住民は仲が良かったという。基地建設当初から基地の真ん中を町道が通り、住民の生活道路で自由に往来していた。クリスマスには島民を招いてのクリスマスパーティーも基地内であった。
 それに貧苦のどん底にあっても自給自足的な農村地帯。食糧値上げも直接の影響は少なかった。名瀬市という中央から離れた離島という背景もあり、名瀬市民のような軍政府による締め付けもあまり及ばないので復帰運動が大衆運動にまでは発展していなかった。
 情報不足という側面もあった。新開はもちろん、ラジオすらも家庭にはない時代。島民の情報入手は電報だけだった、それは役場とか限られた場所にしか届かない (復帰運動期間中の役場の電報は八百通を超えた)。一般住民は戦後の混乱と生活に精一杯で復帰運動への関心が薄かった。
 復帰協議会支部傘下の和泊町青年団長の大脇達夫氏や知名町の石山栄川氏、与論町の福富雄氏などが名瀬に参集し、密航陳情団に参加。苦労しながら東京に陳情に出かけている。しかし教職員や青年団などを除いて運動は低調で大らかな運動だった。『奄美戦後史―揺れる奄美、変容の諸相』

 アメリカとの交流がある。自給自足で食糧不足も深刻ではない。軍政府の締め付けもあまり及ばない。情報も不足している。こうした背景は、沖永良部島と与論島が呑気である条件になった。この事実は重要だと思う。これはことアメリカ占領期だけでなく、薩摩藩占領期にも同様のことが言えて、それが現在の島民性に影響していると思えるからだ。

 この事実は、奄美史をトータルに見据える上でも、南奄美としてのぼくたちが北奄美を思い遣る上でも大切だと思う。


「復帰運動史の中の南二島分離問題」川上忠志
『奄美戦後史』8



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2008/07/16

南二島からみた復帰史

 『奄美戦後史』。次は、川上さんの「復帰運動史の中の南二島分離問題」。
 川上さんの問題意識は、

 奄美諸島の日本復帰運動史の記録は奄美大島、ことに名瀬市中心に書かれたものが多く周辺離島の話は少ない。復帰運動に対する各島々の温度差があり、沖永良部島や与論島(以下、沖永良部、与論)二島分離問題などは悲しいかなどこか片隅に追いやられている。「奄美大島だけが奄美ではないよ、周辺離島のこともちゃんと書いてよ……」と末の弟たちのごとく見栄に駄々を言いたくなる。

 というもので、嬉しい限りだ。駄々をこねましょう(笑)。

四五年四月、米軍は沖縄に上陸した。沖永良部や与論は沖縄に近い。南西の空が赤々と燃え上がり砲弾の音が聞こえてくる。島の住民たちは次はこの島に米軍が上陸するのではないかと不安にかられ、最後の「その日のために」第三避難壕と呼ぶ数百ヵ所警カ所ほどの集団自決壕も掘った(九九年、和泊町越山周辺で私がその一部の壕を発見した)。幸い戦争が早く終わり米軍の上陸もなく沖縄のような悲劇は起こらなかった。

 沖縄島を見つめながら固唾を呑んだのは、与論だけではなく沖永良部もそうだった。ぼくは沖縄島での地上戦の上に自分の命があるのを知っておきたいと思う。「集団自決壕」を掘っていたことも。

 戦争は終わった、わが家でも長兄は船員で軍属であったが北海道千島列島で戦死した。もう一人の兄も栄養失調死という悲劇をかかえながら戦後復興にとりかからなければならない。それは子だくさんゆえ、来る日も来る日も食糧増産に追われていた。芋を植え、根っこまで食べつくしたソテツを植え直し、海水を炊き塩を作った。海も陸も山も、ありとあらゆる物が食料となる時代の到来であった。から芋(サツマイモ)を構えても太るまで待てないから収量が少ない。常食はヤラブ(ソテツの実)のおかゆ。食べてもすぐお腹が減る。次兄は食べ盛りの弟や妹たちの残飯を食べた(お米の残飯でなく芋の皮を丸めて)。  「これではいけない、弟や妹に飯を食べさせたい」と思い、沖縄に出稼ぎに出た。沖縄ではいくつかの転職の後、運よく米軍の消防隊に入れて故郷の病弱な母親の薬代と家族の食糧代の足しに仕送りを続けた。

 徳之島の浅間飛行場建設に徴用された父親たちは、家庭での「黒糖酒」作りを学んできて、簡単な仕掛でソテツの実の粉でお酒を作っていた。子供の私たちは酒釜の前で番をさせられ、時々なめて顔を赤くしていた。『奄美戦後史―揺れる奄美、変容の諸相』

 ここでは、戦後の食糧不足と、それを補うための近隣の島への出稼ぎの様子が分かる。でも、川上さんの人柄だろう。苦しい状況を伝えていても、「子供の私たちは酒釜の前で番をさせられ、時々なめて顔を赤くしていた」というユーモラスな表現が素敵だと思う。


「復帰運動史の中の南二島分離問題」川上忠志
『奄美戦後史』6



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2008/07/15

自失の完成としての日本復帰

 こうして見てくると、この八年間で、奄美出身者の間で、自己を規定する位相が変化しているのが分かる。敗戦直後は、(奄美(人))であるとの自覚が「三国人」を忌避する形で明確に打ち出され、郷土会が乱立して飽和状態になった時は、奄美・沖縄双方から両者を包含する「南西諸島」に対して距離感を置き、奄美側が選択した祖国復帰という日本に対する求心力の強弱によって、沖縄側からの共闘申し入れを拒否するという態度が表明された。そして復帰運動の高揚は、「旧鹿児島県大島部」の原状回復という現実的な選択をすることで、自分たちが「鹿児島」のカテゴリーの中に位置づけられることを自ら欲したのである。また「もうひとつの復帰運動」である「二島分離反対運動」では、再び「奄美とは一体どこなのか」という根元的な問いが、奄美出身者に課せられるようになるのである。考えてみると、奄美は常に 〝大きな他者″と出会うことで、転位を繰り返し変容しながらも、(奄美という記憶)を紡ぎ続けているような気がする。それは「奄美の復帰遊動はわれわれが潜在的なエネルギーでかち取ったのだし、いつでも、あれだけの力、エネルギーは発揮できるんだということを再確認して復帰連動を振り返りながら、将来ともこの力(奄美魂)を堅持できるように、勇気と誇りを持って二世三世にうけついでもらいたい」(平豊)といった自己充足した言説が再生産されていくことを意味するのかも知れない。『奄美戦後史―揺れる奄美、変容の諸相』


 ぼくは奄美人の端くれとして、この自己評価をそのままでは継承することはできない。99.8%の同意なんてまるで全体主義体制化の民意で、あまりに内省がない。この、日本人への総雪崩に対して、ぼくは喉元まで「情けない」という声をせりあがってくるのをどうしようもない。

 けれどそれでは奄美人の奄美評価としてはつれなすぎるというものだ。奄美の復帰運動は、二重の疎外の行き場のない構造が突き詰められ、他者を省みる余裕もないまでに追い詰められたものである。復帰は、自己回復ではなく、1609年以来の失語がさらに強化され、自失として完成したのである。奄美は自分たちの存在の維持するために日本を選択したのである。そう理解する他ない。

 そのやむなさを認めると、やはり解消されていない二重の疎外の構造が残ったというのも確かなことに思える。


 
「“阪神”復帰運動に至る奄美出身者の慟哭」大橋愛由等
『奄美戦後史』5



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2008/07/14

「高校再編と離島の戦略」

 ちょうど一年前、南日本新聞に掲載された「マイノリティの視線を」には、<薩摩>が<奄美>に強いた二重の疎外とその隠蔽を自らの思想に繰り込むとはどういうことなのかが具体的に提示してあって嬉しかった。ことに、鹿児島本土出身の方から生まれた言葉としてはかつてないものだと感じた。

 その書き手、山之内勉さんが、南日本新聞に「高校再編と離島の戦略」という記事を投稿している。テーマは、与論島にとって切実な与論高校存続の問題についてだ。

 高校存続問題とは、地域の歴史を守る戦いであるとして、山之内さんは高校存続運動の思想を挙げている。
 
 1.「与論高校存続運動は、未来の歴史をめぐる攻防である」

 山之内さんは廃校後を睨んだ条件闘争として、「島外へ進学する際の一般入試の免除、奨学金制度の創設、帰省旅費の支給等」を最低ラインとして挙げる。面白いのは次のアイデアで、「与論高校の『分校』を県内に展開させる」というのだ。たとえば、鹿児島工業校内に「与論高校・電子機械科分校」を置くというのである。

 ぼくが面白いと思うのは、このアイデア自体もさることながら、この根拠に、与論の島人の口之津、三池、満州、旧田代町への移住の努力の歴史を挙げていることだ。「各地にできた『与論村』は、その地の経済・文化に大きく寄与し、与論島民が島外で飛躍する新拠点となったのである」と、与論の島人の実績から導いているのだ。

 2.「与論高校存続運動は、過去の歴史をめぐる攻防である」

 与論高校の廃校は、県が設置したものを県が引き揚げる。「そう単純な話ではない」として、山之内さんは書いている。

薩摩藩に「黒糖」を奪われ、米軍統治下で「日本国民の権利」を奪われ、標準語を奨励する教師に「方言」を奪われた与論島民にとって、与論高校の廃校は、それら離島抑圧の歴史に連なる「人材育成機能」の収奪劇であり、本土の「原罪」性を示す事件なのである。  「人にかけた情けは水に流し、人から受けた情けは石に刻め」という与論の俚諺は美しい。だが、与論島民は歴史的に、本土に大きな「貸し」があることを忘れる必要はない。(「南日本新聞」)

 こう言ってもらうと、与論の人は恐縮して、ついで、そんなことを言って大丈夫かと心配する気がするが、ぼくは今回も山之内さんの理解と愛情に基づく言葉に驚いた。それと同時に、<薩摩>と<奄美>の民衆の和解と理解は難しくないと励まされる。

 「貸し」は返してもらうと言わなければならないとぼくも思う。たとえ、与論の島人にとってそれが苦手科目であったとしても、それはしなきゃいけないことだ。ぼくは、そうしたいと思っている。



 

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「もうひとつの復帰運動」

 大橋さんは、第4期を「もうひとつの復帰運動」と位置付けている。それは、1952年9月に、毎日新聞が沖永良部島と与論島の二島を分離して復帰する可能性があるという報道に端を発して、二島から「二島分離復帰反対運動」が起こったことを指している。

第1期 敗戦の混乱~「祖国分離」
郷土会の乱立期      1945.08-1951.01
第2期 対日講和条約へ
署名運動の展開      1951.02-1951.09
第3期 復帰運動の再建
低迷期を経て運動の高揚 1951.10-1952.08
第4期 二島分離反対運動
「もうひとつの復帰運動」  1952.09-1953.12

 この二島の特徴について、大橋さんは書いている。

北部三島(喜界島、奄美大島、徳之島)と南部二島(沖永良部島、与論島)は、同じ奄美の中にあっても、歴史や社会の成り立ちなど南と北と分けて考えることが可能ないくつかの差異の要素がある。文化的に言えば、南二島は、地理的に近い沖縄(琉球)/北山(沖縄本島北部のヤンバル)に対する親近感が、北部三島に較べて強く、シマウタも、沖永良部から南は琉球音階が多く入っている。

 これは二重の疎外の側面からも言える。

 <奄美は琉球ではない。大和でもない。>

 この二重の疎外は、奄美は、琉球とは「地勢と自然と文化の同一性」があるのに政治的共同性が異なるとされ、大和とは政治的共同性は同一なのに、「地勢と自然と文化」は異なるというややこしい構造になっている。

 それは奄美内部では、「地勢と自然と文化の同一性」から<琉球>に引かれる面と、政治的共同性から<大和>に引かれる面との二重性を生み、それが地域では、徳之島と沖永良部島との間に差異線を生んだのだった。徳之島以北は、<大和>との政治的共同性に引かれ、沖永良部島と与論島は、<琉球>との「地勢と自然と文化」の同一性に引かれるのである。

 この側面からみれば、「もうひとつの復帰運動」とは、<大和>との政治的共同性の同一性が<琉球>との「地勢と自然と文化」の同一性を被覆する過程である。そしてこの被覆を牽引しているのは、<大和>の上位概念としての「日本」である。

このような歴史的経緯をふまえた上で考えてみると、「二島分離反対運動」が提供したのは、奄美というのは、一体どこからどこまでの地域なのかという奄美(人)自身に向けた問いであるといえよう。「北緯二七度半」の毎日新聞記事に気付いて関係者にいち早く報せた武山宮信(沖永良部出身)が主宰する『奄美』(鹿児島市)には「はたして(大橋注二一島分離が)然りとせば、伝えられる『奄美の復帰』は、まさに第二の悲劇への転位である。奄美を形成する五つの島々(大島本島、喜界島、徳之島、沖永良部島、与論島)は、どの島が一つ欠けても最早奄美でなくなるのだ」と書かれている。この「奄美でなくなるのだ」という根元的な問いに対して、神戸ではどのような対応がとられたのだろう。一九五二年一〇月一九日に神戸市葺合区(現・中央区)の筒井八幡神社境内にて行われる二島分離復帰反対集会に向けた準備会で、根相は「名称の件についても、永良部与論或は奄美大島完全復帰と云う名称を用いる話が出たが自分の提案により鹿児島縣をいれる様にする」(「根村日記」一九五二年一〇月一四日付として「鹿児島縣奄美全諸島完全復帰促進大会」という名称にしている。つまり「二島」は「鹿児島県」の中の「奄美全諸島」に位置づけられるのだという名辞へのこだわりで奄美の一体性を表明しているのである。『奄美戦後史―揺れる奄美、変容の諸相』
   奄美はどこからどこまでが奄美なのか。この問いの答えは今でも自明ではない。  奄美は「どの島が一つ欠けても最早奄美でなくなる」と言われるけれど、その根拠を突き詰めると、そこに要請されたのが「鹿児島県」という根拠なのだった。このことは、「奄美」という地域が外部からの政治的な強制力によってしか共同性を持ったことがないことを物語っている。それは直接的には薩摩藩の直轄領であり、「(琉球)-(沖縄)=(奄美)」や「琉球に至るまでの道の島」などと、消極的な表現しか与えられてこなかったことを指す。ここに「鹿児島県」という枠組みが与えられても、それは既成事実として要請されているのであり、同胞や文化といった根拠によって「鹿児島県」が要請されているわけではないのだ。

 こういう経緯を見ていると、奄美は奄美としてどんな根拠であれ内発的な自己規定を必要としているのではないかと思える。そうではないだろうか。


「“阪神”復帰運動に至る奄美出身者の慟哭」大橋愛由等
『奄美戦後史』4




 

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2008/07/13

むぬゆでぃたばーり

わな、うれーたーねーし、
きむじゅらさるぴちゅない、ないちゃさい

ぱーぱー。
うれーえんぼーぬっちゅんげーら、
ちゃーがんちむーゆい。

あちゃ。
うれーえんぼーいちゃしゅんげーら。
ちゃーさんみんしゅんち。

がしがわな、うくりとぅるなてぃ、
うれーたーねーししーならじちょー。

なゆんだーちてぃ、
むぬゆでぃたばーり。

がしりよーちてぃ、
はたてぃたばーり。

わなうれーたふいぬききちゃさぬなーじ。

さたしちたばーり。
むぬゆでぃたばーり。



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二重の疎外からの解放

第1期 敗戦の混乱~「祖国分離」
郷土会の乱立期      1945.08-1951.01
第2期 対日講和条約へ
署名運動の展開      1951.02-1951.09
第3期 復帰運動の再建
低迷期を経て運動の高揚 1951.10-1952.08
第4期 二島分離反対運動
「もうひとつの復帰運動」  1952.09-1953.12

 第3期は、サンフランシスコ講和条約で奄美・沖縄が米国の施政権下に置かれることになり、奄美・沖縄はさらに追い詰められ、それは復帰に対する態度の違いとなって浮かび上がってきた。そしてその態度の違いは一方的なものではなく、双方ともに協調できないことを言明する過程だった。

 まず、沖縄から奄美へのメッセージ。

沖縄出身者にとって、日本から分離された同じ運命を共有する者として、奄美出身者と共同歩調をとることはやぶさかではないものの、組織の一体化については疑問が出され、互い尊重しながら連帯していこうということとなった。その際に「薩南諸島から八重山群島までを総称するための組織名称(大橋注=南西諸島」のこと)では総ての連動で主体性と迫力が著しく減退すること」といった理由が「沖縄人連盟兵庫県本部」から挙げられている。“沖縄”という名辞が持つ磁力と象徴性にこだわっているのだ。

 ここで沖縄は奄美とのつながりについて、「日本から分離された同じ運命を共有する者」という消極的な根拠を挙げ、たとえば琉球王国の同胞としてなどのような積極的な根拠を挙げていない。沖縄は「南西諸島」という他者からの呼称ではなく、自家製の言葉で対置しようとしたのではなく、「沖縄」にこだわったのだ。奄美とのつながりを、同じ日本から分離させられた者という消極的な理由しか見出せないなら、「沖縄」という県を根拠にするのはある意味、当然だろう。

 二重の疎外により奄美は、「琉球ではない」という規定を受け取るが、それは沖縄にとっても、「奄美は琉球ではない」という規定として現れたはずだ。その規定は、時を経て、もはや自明になってしまったのかもしれない。しかし、「南西諸島」ではなく「沖縄」を選ぶとき、疎外されたのは奄美だけではなく、宮古、八重山も含まれるのかもしれなかった。「沖縄」は、「日本」という中心に対して、「沖縄」という中心で対抗しようとしているのかもしれなかった。

 次は、奄美から沖縄へのメッセージ。

指定された会場に赴いてみると、沖縄出身の若者が集まっていて、「奄美の青年と沖縄の青年が共に協力して復帰遥動を進めたい」という申し入れだった。これに対して京田は、「沖縄と奄美は共通した立場にあるので、復帰連動の協力を抱否するものではない」と連帯意識を披涯するものの、「奄美群民の九九%以上が祖国日本への復帰を悲顧とし熱望している。それに対して沖縄県民の間では、(1)祖国日本への復帰を希望する。(2)一定期間米国の統治も止むを得ない。(3)少数ながら沖縄県の独立を希望する。以上三派に分かれているとの情報がある」と分析して、奄美が一丸となって祖国復帰を目指している立場の違いを伝え、「したがって沖縄県民の重心が、祖国日本への復帰に統一されていない状況下で、復帰運動を共にする事は、結果的に私達の運動が束縛される危険がある。以上の理由で現時点での協力は不可能である」と答えたのである。『奄美戦後史―揺れる奄美、変容の諸相』

 ふつうに考えれば、復帰から独立までの議論の幅があるのが健全である。それが奄美にはなかった。なぜなのか。ぼくは、二重の疎外により奄美のアイデンティティはいつも不安定で、より追い詰められていたからだと考えるしかないと思う。

 大橋さんによれば、この両者は、アメリカへの態度にも違いが認められるという。

 この二つ目の事例について言い得ることは、沖縄側からの「南西諸島」という名辞への反発と、奄美側の「祖国日本」への求心力と復帰を保証するための(親米〉の態度である。これは「アメリカの反目をかいたくない」といった意味にも還元できよう。

 ここには反米の態度は復帰に差し障るという奄美の切迫した心情が伺える。けれどそれだけではなく、奄美に親米の態度があったとしたら、それはアメリカの統治が二重の疎外からの解放を意味する面があったからである。二重の疎外は、「奄美は琉球ではない。大和でもない」というカタチをしていた。これに対して、アメリカの統治下では、「奄美は琉球ではない」という疎外が外的な強制力のたまものとはいえ解かれる。また、「大和でもない」という規定は、同一に見えるが、それは日本から受けた規定ではなく、アメリカから受けたものであり、かつ日本との交流が絶たれることにより、二重の疎外の構造がいったん宙吊りにされたのである。ここには、その事態を深呼吸する余裕はなかったはずだが、二重の疎外からの解放という意味を確かに持ったのであり、それが親米という態度になって表出されたのだと思える。


「“阪神”復帰運動に至る奄美出身者の慟哭」大橋愛由等
『奄美戦後史』3


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「忘れたんじゃない思い出さなくなるだけさ」

 元コブラツイスターズの川畑アキラさんが、沖縄でニューシングルを発表したという。

 「忘れたんじゃない思い出さなくなるだけさ」

 曲はまだ聴いてないけれど、このタイトルはなんとなく与論の人が書いたものだという気がする。生きることの諦念や知恵が底にあって、しかもそれをネガティブよりはポジティブの方で表現しようとするから、なるようにしかならない、ではなく、なるようになる、と聞こえてくるような、そんな感じ。生真面目さを肩透かしするようなところもあって。ああ与論の人だ、と思う。

 祖父が三線をやっていて、子供のころに聴いていた。島を出た後に祖父が東京に来て「島の思いを忘れないように、寂しくないように」って自分の使っている三線を渡してくれた。そこからバンドででも三線を取り入れようと考えた。(琉球新報)

 このエピソードもいいなあと思う。沖縄発の活躍を応援したい。

 
 あ、ここで試聴できました。

 ♪「忘れたんじゃない思い出さなくなるだけさ」



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2008/07/12

外国人ではない印

 「阪神」での奄美復帰運動の動向。まず、日本から離れ米軍統治下に入った奄美は、「奄美は日本ではない」という規定に対して、「奄美(人)は外国(人)ではない」と応えた。

第1期 敗戦の混乱~「祖国分離」
郷土会の乱立期      1945.08-1951.01
第2期 対日講和条約へ
署名運動の展開      1951.02-1951.09
第3期 復帰運動の再建
低迷期を経て運動の高揚 1951.10-1952.08
第4期 二島分離反対運動
「もうひとつの復帰運動」  1952.09-1953.12

 第2期はどうだったのか。

こうした「三国人」と区別するためのシーニュ(しるし)として注目したいのは、連盟員であることを示す胸につけるバッチである。喜界島出身で、尼崎の奄美連盟に結成当時からかかわっていた孝野武志は、買い出しをしてきた人々の群れを乗せた列車が駅に到着すると、朝鮮半島出身者が他人の荷物も一緒にプラットフォームに放り投げてそれを持ち帰ってしまうことを実見している。このような時に効力を発揮したのが、奄美連盟のバッチであった。「バッチをつけていれば、朝鮮半島出身者も野暮なことはしなかった」と言う。このバッチは、尼崎では沖縄人連盟が先に付けていたと孝野は証言している。後には、奄美連盟の他にも、南西諸島連盟などもバッチをつけていて、これが奄美や沖縄出身者で構成する団体に属していることの明確なシーニュとして機能することになる。「三国人」でもなく「内地人」でもない曰く言い難い第三の立場として自らの存在を衆目にさらすことになるのである。『奄美戦後史―揺れる奄美、変容の諸相』

 日本の内部に組み入れられている時、奄美人は失語しその姿を消すようにいることで、日本人というみなしを受けようとしてきた。このとき奄美人は区別のつかない存在というより、存在を消去してきた。ところが、奄美が日本の外部として位置づけられたとき、奄美人は、バッチという印によって区別のつく存在として自己を表現した。そのとき、「『三国人』でもなく『内地人』でもない曰く言い難い第三の立場として自らの存在を衆目にさらすこと」になったとしてもそれは、日本人でもない外国人でもない第三の立場を主張したというより、日本人に組み入れえほしいという焦慮を託したのである。

そして(第二期)からは、復帰という大きな成果目標が出現することによって、出身者間ではそれまでの生活擁護と「三国人」に対する防御的な団体活動から、日本という枠内における奄美人としての位置確認作業が重要課題となっていくのである。

 その奄美人のアイデンティティ確認作業はバッチとして結晶した。印としてのバッチがあったということを、ぼくも覚えていようと思う。


「“阪神”復帰運動に至る奄美出身者の慟哭」大橋愛由等
『奄美戦後史』2


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2008/07/11

『奄美戦後史』へ

 戦後の与論から、こんどは戦後の「奄美」。
 ぼくは、1609年起点の奄美の困難を「二重の疎外とその隠蔽」と考えているが、それが近代以降はどのように変容していったかを追ってみたい。

『奄美戦後史―揺れる奄美、変容の諸相』
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 まず、大橋愛由等さんの「“阪神”復帰運動に至る奄美出身者の慟哭」。
 大橋さんは、敗戦から復帰までの「阪神」の奄美出身者の動向に照らして4期に分けている。
 
 第1期 敗戦の混乱~「祖国分離」
 郷土会の乱立期      1945.08-1951.01
 第2期 対日講和条約へ
 署名運動の展開      1951.02-1951.09
 第3期 復帰運動の再建      
 低迷期を経て運動の高揚 1951.10-1952.08
 第4期 二島分離反対運動
 「もうひとつの復帰運動」  1952.09-1953.12

 その第1期。

 当時の日本社会は、日々の生活物資も事欠く状況であり、配給だけではとても生活できる状態ではなかった。「神戸の治安は乱れ三国人が暴れに暴れて、日本人の買出し部隊の物品を横領していたのですが、警察は全く手が出せず、彼等のなすが儘になっていた」ために、連盟もそうした買い出し行為の擁護に乗り出すことになったのである。東の証言を続けよう。「当時奄美連盟では、ある人脈の依頼で三越百貨店の六階のフロアを提供して頂き、そこを事務所にして県の依託事務の他に悪い三国人の鎮圧と治安維持に一役も二役もかっています。青年隊二〇〇人を組織して毎日三〇人を動員して、神戸駅周辺一五人三宮周辺一五人と割りあてをしてそこの治安と警備に当らせました」。いまはすでにない神戸市中央区の元町通商店街の西端に位置していた三越百貨店を拠点として、警察組織が弱体化した敗戦直後の混乱期に、奄美出身者ばかりではなく、日本人擁護を使命と考える奄美連盟の動きが見えてくる。「三国人が奄美の人や内地の人の品物をかすめ取る時は断固としてこれを阻止しなさい(但し警察がするのは邪魔しない)。万一言う事をきかない時は三越の本部に連絡しなさい。いつでも予備の応援隊を派遣するから。その結果は日を追うて彼等の暴動がなくなりました」と語っている。(『奄美戦後史』

 大橋さんは、差別的な意味ではなく、この時期の奄美人との関係で重要な意味を持つので、「第二次大戦前および大戦中、日本の統治下にあった諸国の国民のうち、日本国内に居住した人々の俗称。敗戦後の一時期、主として台湾出身の中国人や、朝鮮人をさし」た言葉として「三国人」を使っている。そして、

 当時の神戸における奄美出身者にとって、「三国人」を否定的にとらえ、彼らと自らを峻別することが、自己規定作業の重要な案件であった。

 いわゆる2・2宣言で、奄美が沖縄とともに米軍統治化に入ったことは、

 奄美は日本ではない。

 という規定を受けとったことを意味している。そのときの奄美の反応が、「三国人」との区別という形で現れている。「奄美は日本ではない」という規定に対して、

 奄美は外国ではない。
 奄美人は外国人ではない。

 という自己主張と行動が表出されたのだ。それは、「日本人擁護」という形すらとった。


 第1期では、もうひとつ読み取れることがあった。
 奄美連盟の幹部が昇夢曙などの東京の奄美出身者に連盟への賛同の話しを持ちかけると、お前たちの活動は「三国人的」だから共鳴できいないと一蹴されてしまう。そこで結成者の東は東京に乗り込み、「奄美三〇万の同胞がアメリカの占領下で途方にくれている時、東京のあなた方はどんな気持ちでおられるのですか?」と詰めより、東京奄美連盟発足の第一歩になったという。

 同じ奄美人同士の応答にも、中央からの距離によって「日本人」のグラデーションが認識の下敷きにあるような印象を受ける。中央にいる奄美人のほうがより日本人らしいという下敷きだ。


「“阪神”復帰運動に至る奄美出身者の慟哭」大橋愛由等
『奄美戦後史』1


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2008/07/10

『百万円と苦虫女』

 縁あって映画の試写会に行ってきた。俳優や監督の舞台挨拶がありカメラのフラッシュがたかれるシーンはTVでしか見たことがないから、まるで社会見学気分だった。

 ※「百万円と苦虫女」プレミア試写会開催!

 『百万円と苦虫女』(タナダユキ、幻冬舎)の小説は読んでいたので、物語の筋は分かっていてみたのだが、映像としてみると、主演蒼井優がぴったりはまっていて、今後この作品のことを思い出すときは、この映像と一緒にしかイメージできないだろうなと思った。

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 職場で飲みに誘われて苦笑いしていると、親しくなりかけている男の子に「いつも困った顔して笑うんですね」と突っ込まれ、「本当は行きたくないんです」と答える、その苦笑いのような表情が、いかにもこの顔でなければという感じでよかった。蒼井優演じる主人公はこのように所在がない。所在がないから所在そのものを消してしまおうとして百万円貯めたら引越しをする旅芸人のような、旅バイターになるのだ。

 そこは非現実的なのだけれど、でも「誰も自分を知らない場所に行きたい」という所在を消したい気持ちは、よく分かるものだ。ぼくも中学高校を過ごした鹿児島を一刻も早く出たかった時はそんな気分だった。そう思い出すと、自分もそうだと思うところがよく出てくる。仕事帰りに飲みに誘われるのを避けるべく、人気のあまりない駅を通勤に選んだり、その前になにしろ社会人になる初めての就職のときは、社員旅行のない会社というのが重要な条件だった。カラオケも行けない、人付き合いは苦手を旨、としてきた。それでも、否応なく参加する場になると、飲むのは滅法強く、飲むペースも態度も崩さぬままに結局は、介抱する側にいるので、酒の強さの一点が所在を助けてきた、と言えばいいだろうか。主人公でいえば、かき氷をつくる、桃をもぐのが上手で、そこで所在を作るのだが、百万円とともに去りぬ、な女を通していくので、なんとなくこちらも懐かしい気分で見ていった。

 最後は、いじめに立ち向かおうとする弟の手紙を受け取り、自分より弱い者に励まされて、背中を押されるように、「自分を避ける」場所から脱しようとするところがこの物語の出口になるのだけれど、主人公が、大事なことが言えず、余計なことは言ってしまい、肝心なところで出会いを逃してしまうコミュニケーション不全を辿っていくうちに、ぼくも懐かしい気分ばかりではいられなくなる。大事なことが言えず余計なことを言い大事な出会いを逃してしまうのは、今も変わらない自分の姿でもあるからだ。そう思い当たると、エンディングで新しい街へ出かけようとする主人公の表情は粋のいい颯爽としたものに見えてくるのだった。

 ただ、部屋に入るや、畳やフローリングの床にうつぶせで大の字になってふうっと息をつく姿は主人公ならではの生きる気分だ。それは、舞台挨拶で、バイトをするとしたら何をしたいかと聞かれて蒼井優が、「一日に十本しか借りに来ないようなそんなテンションのレンタルビデオ屋さん」と答えるその中身と同じものだと思う。

 蒼井優は、『ニライカナイからの手紙』という映画でも主演を演じたという。気になる作品だ。


 ※映画『百万円と苦虫女』




 

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『鹿児島戦後開拓史』 4

 与論町での観光への芽生えは、昭和四十年ごろ、当時の竜野通雄町長(故人)らが過疎を防ぎ若者に夢を持たせる方法はないものかと、いいだしたのがきっかけである。それには自然の美しいこの島に客を誘致し、お金を落としてもらう観光産業をおこそうということになった。
 手はじめに町民で東京を視察することになり、有志四百四十人が「波の上丸」で上京した。四十二年のことである。ちょうど高度成長の真っ最中で、首都圏には全国から人が集まり、反対に九州や東北などでは過疎が深刻になっていた。
 その後、計画を具体化すべく四十四年に半官半民の「与論観光株式会社」が設立された。いまでいう〝第三セクター〟である。そして最初の事業としてキャンプ場を経営した。地元では豪華客船「クイーンコーラル」の就航(四十七年)、海中公園センター完成(四十八年)、与論島国定公園指定(四十九年)、「エメラルドあまみ」「クイーンコーラル1」就航(五十年)、「与論空港開港」(五十一年)など観光産業をもりたてるための整備が着々と進められた。

 しかし、与論観光ブームの火つけ役は沖縄返還運動に絡む海上集会である。対日講和条約によって、北緯二九度以南の奄美と沖縄は日本との行政分離が決まった。その後、昭和二十八年に奄美が本土復帰してからは北緯二七度線が新たな〃国境線〟となった。沖縄の日本復帰を促進するため、昭和三十八年以降は毎年四月二十八日に北緯二七度線の海上で本土側と沖縄側の代表団が交歓を行った。日本側の代表は鹿児島港から現地へ直行するか、前もって与論島に渡っていて、当日漁船などをチャーターして交歓会に参加する方法をとった。
 「上陸した人たちは多いときで三千人ぐらいいたでしょうね。北緯二七度線は与論港の少し沖合ですから皆さんハシケなどに分乗して、それは独特の交歓風景でした」と語るのは、町観光協会会長の川畑辰雄さん(五八)。
 4・28集会には労組員を中心にさまざまな職業の人たちが参加した。与論にとって、これは島おこしを進めるうえで強力な武器になった。畠の民宿や旅館に滞在した客を、地元は息子や娘が帰ってきかときのように温かく迎えた。素朴な人情と美しい畠のイメージは口コミで全国に広まった。やがて旅行業者が注目。与論出身の社長を持つ大島運輸がひと肌脱いだことも大きい。

 与論島が観光地として脚光を浴びてきたことは、島外の与論出身者にいい知れぬ誇りを与えているようだ。田代に入植した一世たちは語る。
 「まぶたを閉じれば、あの美しい島が浮かんできます。狂おしいほど懐かしい。だけど、それは自分一代。子や孫にとっては遠い見知らぬ孤島でしかない。こうして人はまざり合い、時代は移ろうのですね。これでよいのだ、と納得するしかありません」『鹿児島戦後開拓史―荒野に生きた先人たち』

 当時人口7000人の島で440人の上京もすごいが、それ以上に、与論の観光化に沖縄の復帰運動が力になったのは知らなかった。

 復帰前の沖縄にとって、与論島が日本の象徴を演じたのは、境界のなせる皮肉だったが、その力は観光という副産物も産み出したことが分かる。ぼくもこの境界の力とは無縁でない。観光地として脚光を浴びたときに少年期を迎えたので、「いい知れぬ誇り」を抱くことはなかったが、振り返ってみれば、出身を問われて、「与論島です」と、ためらいなく言えてきたのは観光化が背景に大きく預かっていたと思う。「与論?いいわねえ」という声を、仮にそれが観光イメージに基づくものであっても身に浴びてきたのだから。

 けれど、「これでよいのだ」という与論一世の言葉はあまりに寂しすぎやしないだろうか。そんなこと言わずに、故郷の島のことを語ってあげればいいと思う。そのとき関心がなくても、いずれ島を訪れる契機を持つ子孫も出てくるだろう。そのとき彼らにとって島はかけがえのない存在になるのではないだろうか。

 盤山を訪れたとき、墓地に足を運んだ。田代の土になる覚悟で入植した与論の人たちも、歳月の流れとともに、ここで永遠の眠りにつく一世は増えている。与論と田代にそれぞれ住んでみてその違いは何が一番大きいのだろうか。「台風なんかも島は吹き荒れ方が違う。それと病気になったとき、こちらはすぐ鹿屋にでも行けるけど、与論ではそうはいかない。地続きだという安心感、これは大変なものですよ」
 二十七年、盤山から南風谷に移り住んだ池田さんはしみじみと語る。

 近代以降、島の人は「日本人」になるために必死だった。けれど九州や本州に渡るのはそれとは別の欲求もあったことが分かる。それは、「地続きという安心感」だ。台風で被害にあったとき、病気になったとき、島では食や医を島では大きな障害が立ちはだかるが、地続きならその心配が要らない。地続きという安心感がほしい。そんな心情もいつわざるものだ。

 ぼくはふと思う。それならなぜいにしえの島人は、あんなに小さな島に住むことにしたのだろう。南には辺戸が見え、大きな島があるのが分かり、北にも大島があり、少なくともそのどちらかの存在は知っていたろうに。そんな疑問が湧いてくる。でも、不思議なことではないのかもしれない。いにしえの島人にとって、海は隔てるものではなく道だったのだ、きっと。




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2008/07/09

『鹿児島戦後開拓史』 3

 それほど大げさではないけれど、与論の人たちにとってふるさととは何だろうか。
 「泣きだしたくなるほど懐かしい。でも与論は心のなかに生きているのです。親せきの不幸などで向こうへ行くとホッとするより、早くわが家へ帰りたくて落ち着かないんですよ。知人も年ごとに減り、ますます〝心の島〃になるばかりです」
 与論を離れて四十三年の町さんの弁である。後を継いだ町議の有馬さんの場合、郷里にいたのは十七年間だ。田代にはその倍以上住んでいる。だから「あなたはよそからきて町議になり、えらい出世ですね」などとひやかす人には、本人はムキになってやり返すそうだ。「何をおっしゃいますか。私の田代暮らしは間もなく半世紀。もう〝地ゴロ″ですよ」

 町さんは田代に入植して自立のメドが立つと、墓から先に造った。「再び故郷には帰るまい」と誓ってのことである。満州のときも大陸に第二の与論を築く意志は固かったが、敗戦でままならなかった。町さんら移住一世はふだんは与論の方言を使う。そんな家庭に育ったので、二世たちも方言はわかる。しかし、二世は田代出身であり、与論に特別の愛着は感じない。さらに三世になると、島言葉もわからないし関心もない。
 「命がけで日本に引き揚げてきたこと、血を吐く思いで田代開拓に打ち込んできたことなどを話しても、〃それは時代がせしめたんだ″ぐらいにしか考えませんからね、若い人たちは。たまに昔話をするけど、相手にされませんなぁ」(町さん)
 ふるさとから思い浮かぶ具体的なイメージは自然、言葉(方言)、郷土芸能などである。それはそれぞれの生活体験に根ざしている。島で暮らしたことのない二世、ニ世と一世がふるさと意識を共有できないのは当然のことであろう。
 盤山の二世たちは地元の人と結ばれるケースが目立つ。(田代のなかの与論〉意識は時とともに確実に風化していく。「田代の土に骨を埋めるのだと決心した以上、それでよいのだ」としながらも、一世たちはちょっぴり寂しげでもある。(『鹿児島戦後開拓史―荒野に生きた先人たち』)

 寂しくないわけがないと思う。ぼくも以前は何とも思ってなかったはずだった。というのか、無意識にいつまでもあるものだと思っていただろうか。けれど今、「なぐりゃーや」と言ってくれるぱーぱー達や、「きちゃんむい」と言ってくれるうばたーがやがていなくなると思うとたまらなく寂しい。自分は中途半端にしか喋れなくても、与論言葉を喋れる人の輪がなくなることがあるかもしれないと思うと、たまらない。

 父も鹿児島に墓を買ってあった。それを亡くなった晩に知って心底、驚いた。与論の墓に入るものと思って疑ってなかったからだ。ぼくはどうしたらいい。そう思わずにいられなかった。

与論の人たちにとってふるさととは何だろうか。

 泣き所。ぼくにとって与論というふるさとは、もしここ以外だったら愛着ほどほどに生きられただろうにと思わせる強烈な宇宙だ。どうやったら収まりがつくのか分からない。文章にして気持ちを鎮めるので精一杯だ。


 ところでこの本を読んで、与論ゆかりの地としての田代に、いつか行ってみたいと思った。

P.S.
 昨日の地震。あんまーは、「なんともないよ、ははは」と笑っていたので、たいしたことはないと思っていたが、今日の報道を見ていると、相応に大きかったように見える。南日本新聞では、「本土に比べ観測網の密度が低い」などと、ここでもか、な文言も見られる。ともあれ、大事に至らずほっとしています。


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2008/07/08

『鹿児島戦後開拓史』 2

 引き揚げ者は伊敷収容所からのちに鴨池収容所に移った。当時は伝染病がはやり、せっかく日本に帰りながら栄養失調と過労から命を落としたケースは数えきれない。ただ、いつまでも収容所にとどまってはいられない。やがて与論に帰る者、大牟田市の親せきを頼って出て行く者、それぞれ身のふり方が決まった。
 そのなかで挫折を乗り越え再び開拓で生きようと決心した人は七十五戸に達した。県開拓課、開拓日興会とも相談、入植地探しがはじまる。これらの指導機関は土地条件や人情など総合的に判断して、はじめ種子島行きを勧めた。甑島や坊津などの種子島移住が成功していることが大きな理由であった。

 けれど、与論開拓団の代表は首を縦にふらなかった。何でも相談してきた野村県諌宅で、町団長らは次々に訴えた。「与論島に比べ種子島は本土に近く面積も広いことは確かです。でも緊急を要するとき、未永い子孫の繁栄を願うとき、本土にしたいのです」「総合的に判断して、入植地は肝付郡の田代にしたいと思いますので、その線で県との折衝を願います」
 それほどまでなら…と県議も了承、政治折衝を約束してくれた。実は、郷里でも満州でも水と燃料(マキ)に恵まれずに苦労した与論開拓団の人たちは、再出発に当たり水とマキの豊富な入植候水が田代入植の決め手に補地として田代を選び、関係者の協力を求めたのだった。
 鹿児島には離島が多い。離れ島は自然の美しさとそこで暮らす人たちの厚い情けがかけがえのない宝だ。半面、教育・医療・娯楽面などは都会の尺度では測れないほど立ち遅れている。
 いまでこそ与論~鹿児島間は飛行機で九十分で結ばれるが、当時は船で五日もかかっていた。これでは親が危篤との知らせを受けたとしても、子どもは死に目にもあえない。本土であれば、こんな悲しい思いをしないですむ。〈肉親に会いたいとき、本土にさえ住んでいれば)これは島の人たちに共通した切実な気持ちなのだ。『鹿児島戦後開拓史―荒野に生きた先人たち』

 なぜ、与論開拓団は命からがら満州から本土へ戻った後、与論へ帰らなかったのだろう。一旗揚げようと出た手前、島の人に会わせる顔がないと思ったからだろうか。満州で事態が急変したため、開拓精神がくすぶっていたからだろうか。『鹿児島戦後開拓史』は、答えはそのどちらでもなく、いわゆる離島苦を避けるためだったように見える。であればこそ、種子島への移住も断り、田代に決めたのだった。

 この決断をぼくたちは軽んじられない。大型船ができ、TVが出来、航空機ができ、インターネットが出来、島と九州島や本州島との距離は格段に縮まっている。それでも離島の不安が根こそぎにされるわけではない。まして交通、交流手段が限られていた段階では、島の孤絶感、不安は現在と比べ物にならないくらい大きかったのだ。ぼくの父も退職後は島に帰らなかった。身体にひと一倍不安のある父も、離島苦あるいは離島不安を避けたかったのだと思う。



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2008/07/07

『鹿児島戦後開拓史』 1

 久しぶりに与論の話題に戻る。それだけで何だかほっとする。
 与論から満州へ、満州から鹿児島の田代へ、移住した島人の話だ。

『鹿児島戦後開拓史―荒野に生きた先人たち』

Banzan_2














 健康に自信がある。働くことは少しも苦にならない。そんな若者にとって十分に活躍する場がなければ、閉そく状態に陥りやすい。戦前の与論は、まさにその通りであった。
 昭和十六年六月、池田福利さんは三年半の兵役を終え郷里に帰ってきた。与論町那間出身の父は、茶花と朝戸に小さな雑貨店を開いていた。日用品や砂糖など食料品を扱う店の売り上げはしれていた。畑はあったものの、元気な父子で存分に腕をふるえる広さではなかった。
 与論島は先にあげたほかに古里、叶、立長、城、東区、西区の各集落から成る。夜遊びなどで集まる青年たちの共通の話題は「六十四ヘクタール(島内農家の平均耕作面積)ではどうしようもない」で、いつも壁にぶち当たっていた。  そんなときである。屈折した不満を抱えた青年たちを〝孤島脱出でデッカイ人生へ〃と目覚めさせる人が現れた。池田さんの小学校時代の同窓生で満州拓殖委員会に務めていた竜野健之助さんが休暇で帰郷し、満州開拓の夢を吹き込んだのである。

 開拓という国策を実地に移す機関として当時、満州拓殖公社(通称蒲拓)が設立されていた。この日満両国籍を持つ特殊法人を監督する目的でできたのが満州拓殖委員会である。
 両国政府から六人ずつの委員と七人ずつの随行員が任命され、満州開拓政策の全般について両国政府に建議する権限も持っていた。それだけに「未開の大陸は君たちの腕をふるう絶好の舞台だ。狭い与論で不遇を嘆いているときではない」と説く竜野さんの口調は若者の心をとらえた。
 これに触発されて大陸に青いニジをかける青年たちはたちまち十人を超えた。「この日で現地を確かめよう」と話がまとまり、池田さんが行くことに決まった。十八年三月、単身船でまず鹿児島市に渡る。『鹿児島戦後開拓史―荒野に生きた先人たち』

 ぼくの祖父も満州へ行った。だが、帰島して以降、なぜ満州へ行ったのか、多くを語らなかったという。なぜ、祖父は祖母や子どもたちを連れて満州へ行ったのだろう。その胸の内を知る機会はなかったけれど、ここでその背景が語られている。移住を余儀なくされる飢餓が控えていたというのではなく、占領意識があったわけでも当然なく、狭い島を出て広い土地を開拓したいという高揚感があったのだ。母によれば祖父が家族を連れて渡満したのは、昭和18年8月だから、先遣のすぐ後だ。ここにも、満州開拓の当時の熱が伝わってくるようだ。

 一戸当たり二二一ヘクタールのコメ作り。水田のない与論の人たちにとっては夢のようなことが、満州移住で現実のものとなった。けれど、〝荒野の理想郷づくり″の前に予期せぬ運命が待ち受けていた。
 昭和二十年七月六日、開拓団の警備指導員・池田福利さんは盤山県の兵事官署から「すぐ出頭せよ」との通知を受けた。軍隊にいたことがあるので、新しく(在郷軍人分会)設立の話でもと想像しながら出かけた。
 ところが、差し出されたものをみて驚いた。三枚の召集令状ではないか。確かめると池田さんら開拓団にいる予備役三人の名前が記入されていた。与論開拓団の召集第一号である。中一日おいて奉天の関東軍の部隊に入隊、さらに二日後には朝鮮全羅南道の光州市へ転属になった。
 しかし、池田さんはここで運よく?アメーバ赤痢にかかって入院し、八月十五日の日本降伏の報を聞く。開拓団には妻の久子さんと長女を残しており、家族や団員の安否を思うと胸も張り裂けんばかりだった。が、どうすることもできなかった。

 与論開拓団は百四十五戸から百人の男たちが赤紙一枚で兵役に駆り出された。当時の開拓団では日本国の名を借りた〝男狩り旋風″が吹きまくっていた。日本の開拓団員のなかには町を歩いているところを巡査に呼びとめられ、「まだ召集されていなかったのか」といって白紙にその場で名前を書いて渡され、有無をいわきず入隊させられた人もいる。
 満州開拓者を募る際、当局は暗に〈開拓は兵隊に準ずるので召集されることはない〉と兵役免除をにおわせた。これも魅力の一つになって渡満した者も少なくなかった。けれど、与論開拓団の先遣隊と幹部のなかにはそんな例は皆無だと信ずる-と池田さんは、いまでも強調する。
 「国が存亡の危機に直面しているときに、軍務を忌避するなんて考えられないこと。ただ唐突で戸惑ったのは事実ですけど」
 召集された男たちは家をあとにする際、異口同音に「万一のとき、自分のことは自分で始末するように」と言い残した。戦陣訓が金科玉条とされていた時代には仕方のないこととはいえ、それは最大の悲劇につながった。『鹿児島戦後開拓史―荒野に生きた先人たち』

 「兵役免除」がにおわされたのもそれが簡単に裏切られるのも、そうだろうなというリアリティがある。ぼくの祖父の行く先はハルピンなので、盤山の池田さんとどこまで状況が同じだったかは分からない。そもそも、同じ与論から出発して、ハルピンと盤山という近くはない場所に移住する背景も分からない。しかし、夢から修羅へ、舞台は急展開して命からがら脱出したのまでは共通している。


追記
 たまたま与論の兄(やか)から、与論言葉で助かったという話を聞いた。満州から徒歩で引揚げ途中に満人に捕まり会話をしたとき、与論言葉で話すと「日本人ではない、朝鮮人だ」と解放されたというのだ。与論の民は、日本人である証を立てるために戦時中も必死だったが、ここでは言葉により非日本人と見なされることが命をつなぐことになった。ここに、朝鮮や中国から、非琉球を疑われたときは琉球人として振る舞い、薩摩の同行者であるときは、大和人として振る舞った近世期奄美人の投身が続いているのを見るようだ。誰にでもなれと命じられた強制は、誰にでもなれるという強みとして生きた。どちらも必死な場面の投身を、ぼくはポジティブに受け止めたいと思う。



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2008/07/06

奄美からこそ、ヤポネシアは生まれた

 奄美は、シマ(島)が主役の島嶼帯であるとしたら、島尾敏雄のヤポネシアは、島尾が奄美に住んだからこそ生まれたのだと思う。大和では個々の島が主役だという実感はもう得られない。また、沖縄にはシマ(島)が主役という原質は残っているが、那覇を核にした都市化により、奄美ほどには感じられなかっただろう。ヤポネシア・コンセプトの発生源は、奄美なのだ。

 ヤポネシアという発想は、「ネシア」が「島としての地域」という意味を持つように、島の大小に関係なく、個々の島が等しい価値を持つという視線に支えられている。この理念に最も適っているのは、奄美の島々である。そういうより、奄美がそういう島々だから、ヤポネシアは奄美で生まれたのだ。

 
 ※ユンヌヤユンヌデール
  シマが主役!奄美です。


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2008/07/05

東京のフォークソング

 ゆうべは、「奄美の家」で弟の誕生祝い。もうすっかり奄美の家の常連さんかもしれない。
 何度も通っていると、ここに来ると会える顔があるのが分かってきた。最近だと、与論に20年通って、例年通り、サンゴ祭りのときに今年も行くという勝司さんもそのおひとり。

 ゆうべの勝司さんの小噺二つ。

 ひとつ。与論で台風のあと、おじいさんに「台風、家が壊れたりするから大変すよねぇ」と話したら、おじいさん。「大工さんはどうするの。台風が来るから大工さんも仕事ができるわけだがね」。勝司さんは思う。そ、その通り。いや、負けたね。

 ふたつ。スーパーで屋久島の水を買ったときのこと。おばあさんが、「水、買うの?」、「ええ、屋久島の水」、「ほんとに屋久島の水? そこで蛇口ひねって出したんじゃないの?」。勝司さんは思う。そ、そうかも。負けた。

 いやあ、いかにもゆんぬらしい話でいちゃれました。


 それから、「マルス エイ ソル」の杉村さんとビートルズとサイモン&ガーファンクル談義もさせてもらった。杉村さん曰く。東京に住んでいるのに東京が嫌いなのは悲しい。東京人が東京を好きになるには、東京のフォークソングが必要なんだ。ぼくははっとさせられた。で、サイモン&ガーファンクルは、ニューヨークのフォークソングなんだとお聞きして、さらにびっくり。そうか、S&Gの音楽はそういう意味があったのか、と気づかされた。

 というわけで今日は、サイモン&ガーファンクルを聞き直した。いままでとは全く違った風に聞こえてくる。ぼくも、東京のフォークソングを待ちわびる気持ちだ。ますます、事態は厳しくなっているのだけれど。


 あ、主役のマイ・ブラザーは元気そうで、ひとまずほっとした。



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シマが主役!奄美です。

 奄美の島々は、シマ(島)が世界であり宇宙であるという世界認識の原型を持ってきた。だから、「奄美」という抽象は育ちにくい。強いて言うなら、シマ(島)以上の抽象を許さない地域が「奄美」なのだ。広告コピーのようにすれば、

 シマ(島)が主役!奄美です。

 である。シマ(島)が豊穣な世界を持っているから、薩摩藩の直接支配のなか、大型船の製造を禁じられ、島に封じ込められて、奄美間、対琉球の交通がままならなくなっても琉球弧の文化を失わなかったのである。また、シマ(島)が基底にあるから、「奄美」という共同性を構築する必然性を持たなかったのだ。

 これはアイヌも同じだったのではないだろうか。

 コタンが主役!アイヌです。

 こう、だろうか。


 これまで、奄美とは何か、まわらぬ舌で書いてきた。すぐに分かる共通性が見当たらないので、「真珠とガラパゴス」として、高島から低島までの幅で言おうとしたことがある。最後に笑え(「奄美、この懐かしき島々」)と思ったこともある。奄美が無価値ではないことは、「もしも奄美がなかったら」と考えると自明なことが分かった。アイデンティティの構造から、「琉球と大和の二重意識」と見なしたりもした。この二重性こそは奄美だと考えると、それは珊瑚礁をメタファー(「奄美とは珊瑚礁である」)にすることもできる。

 奄美をひと言で。尽きないテーマだ。



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2008/07/04

ユンヌヤユンヌデール

 奄美のことばかり書いていると、島の人から、ユンヌヤユンヌデールと言われる。

 ユンヌヤユンヌデール。

 改めて見るとおまじないの言葉みたいだが、「与論は与論である」という意味だ。こう言いたい気持ちはよく分かる。それはぼく自身の言葉でもあるからだ。

 「奄美」と言っても、それが日常的に交わされる言葉のなかで登場することはほとんどない。喜界から与論までを総称していう言葉としてぼくは使っているのだけれど、奄美が日常的に使われないのは、喜界から与論までの共同性が希薄だからだ。行政区は存在するけれど、それだって呼称は「大島郡」なのだ(そういえば、どうして奄美郡ではなくて大島郡なんだろう)、ますます「奄美」は使われない。奄美大島のことだって、「大島」と呼んでいるのだから。また、大島の人が「奄美」と言う場合も大抵は、奄美大島のことを指している。「奄美」なんて、実はないのだ。

 「奄美」と書けば、その共同性への反作用のように、「島は島だ(ユンヌヤユンヌデール)」という言葉を呼ばずにいない。そしてそれはユンヌに限ったことではなく、エラブはエラブの、トゥクはトゥクの、ユルはユルの、ウキはウキの、キキャはキキャの、ウウシマはウウシマの言い方で、「島は島だ」という言葉を引き寄せているに違いない。いや、与論はユンヌでひとまず終点と言ってよいが、与論より大きい島は、島名では大き過ぎて、シマ(集落)を最終単位にして言うはずである。

 「シマはシマだ」。そういう反作用が産まれるのはよいことだと思う。というか、それこそは奄美はだと思う。奄美は、奄美という共同性を生まなかった。しかし、島人は帰る場所を持ってきた。シマ(島)は枯渇しなかったからこそ、「シマはシマだ(島は島だ)」と言うことができる。

 「シマはシマだ(島は島だ)」。逆説的だけれど、それが基底のリアリティとしてあるのが、奄美なのだ。



 

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2008/07/03

『アイヌの世界―ヤイユーカラの森から』

 計良光範さんの『アイヌの世界』は、書名の通りアイヌの世界が、心にそっと触れるように届けられる。押し付けがましくもなく、隠れているのでもない。淡々としながらやがてしっとりと心に沁みてくるようだ。こんな風に与論のことを書けたらいいなと思った。この感じはどこからやってくるのだろう。

Photo













 『アイヌの世界』には、99のエッセイが収められている。「春」「夏」「秋」「冬」の章があり、エッセイはそれぞれの季節のどこかに入っている。もっとも、もともとアイヌには「夏」と「冬」の概念しかなかったそうで、この春夏秋冬の区分も際立った違いは、「春夏」と「秋冬」の間にあると言ったほうがいいかもしれない。これなど、ぼくは「長い冬と短い夏」を「長い夏と短い冬」に置き換えれば、与論と同じだと思った。

 たとえば、「アイヌ文様」というエッセイ。

 冬の炉端では、男も女も手仕事に励み、その手元からは美しい文様が生み出されていきます。  アイヌ文様は木製の生活道具に彫刻されたものと、衣類などに刺しゅうされたものに分かれますが、彫刻と刺しゅう-立体と平面という特性から、デザインそのものに違いがあるのと、文様が持つ意味あいにもいくらか違いがあるようです。

(中略)

 女の人が刺しゅうして作り出していく文様は、それを身につけた人を災いや魔神(とくに病魔)から守るためのものです。
 絵や写真でアイヌの伝統的な衣装を見るとよくわかりますが、文様が入っている位置には二足のパターンがあります。襟、裾、袖口、そして背中に、大小やデザインの違いはあっても、必ず文様がほどこされています。それは、その場所が一番無防備で、魔神が侵入しやすい所なので、文様によってそれを防ぐためなのです。とくに背中は自分では見えない所ですから、文様の力でいつも守ってもらわなければなりません。背中にひときわ目立った大胆な文様が刺しゅうしてある着物が多いのはそのためです。(『アイヌの世界―ヤイユーカラの森から』(計良光範)

 こんな風に易しい言葉を使った「ですます」調で、話しかけるように書かれている。それでぼくたちは、この本の世界に構えなく入っていける。実はこの本は、「毎日中学生新聞」に連載されたもので、この易しい文体は、中学生向けに書くことを意識して選択されたものだ。

 けれどこの本は、中学生向けに書かれた易しい本と言ってしまえば、それが心にそっと触れる理由になるかといえばそうではない。書き手からしたら、中学生向けであることは連載中ずっと念頭にあるわけだが、そのために選ばれた易しい文体は、別の力も生んだように見える。

 苦難の経験はそれをどのようにすれば誰かに伝えることができるのか。そんな難しいテーマにこの本は応えているように思えた。それはどうしてだろう。易しい文体で書かれているから? そう答えてみても、それは必要条件かもしれないがとても十分にならない。抑制が効いているから? そうには違いないけれど、そんな風に言って終わらせたくない。

 この本には、アイヌの受けた受難もきちんと書かれている。胸が痛むしそれが現在の問題でもあることに気づかされる。けれどこの本から浮かび上がるアイヌ像は、巨大な受難にあえぐ姿ではなく、生き生きした姿のほうなのだ。浅い書き方しかできないのだが、それはアイヌの生き生きした姿の描写に大半の紙面を使い、まるで付録のようにおしまいにいくつかアイヌの歴史を綴っていることからやってくる。そしてこの構成が、難しい問いに応える力になっているのではないだろうか。受難について書かれた量が少ないから受け止めやすいという意味ではない。魅力が伝えられた後だからなお、受難は痛ましさとしてより純粋に読み手に受け止められる。そんな感じなのだ。

 中学生向けだから易しく書く。その制約の結果、計良さんは中学生の人生経験にも伝わるように、アイヌの世界を丁寧に子どもの目線で書いていった。そして、アイヌの歴史も中学生に分かるようにと事実を淡々と記述した。それが返って、受難の大きさを自然に伝える力になった。それは相手が中学生だからというだけではなく、経験の無い人に、苦難の経験を伝えるための条件もクリアすることになった。そんなことではないかと思った。 

◇◆◇

 ここには、「自分の心を述べる」即興歌、「ヤイサマ」がひとつ挙げられている。

私の大事な恋人が
どこか遠いところへやられた
あなたは今どこにいるのか
鳥になりたい
風になりたい
風よ 憎い風よ
お前は自由な風だから
お前だけは私の恋人の
まわりをまわり
さわっても歩けるだろうが
私は人間だから
行くことができないのだ
ヤイサマネナ
仕方ない
風にでも 鳥にでもなって
とんで行ったら
恋人にさわれるだろうか
ちょっとでも姿を見れないだろうか
ヤイサマネナ
ヤイサマネナ…………

 このヤイサマは、幕末期、労働力として強制連行された恋人を奪われた女性の想いを歌ったものだという。この詩は、同じ北の大地で生まれた中島みゆきの「この空を飛べたら」を思い出させる。

空を飛ぼうなんて 悲しい話を
いつまで考えて いるのさ
あの人が突然 戻ったらなんて
いつまで考えているのさ

暗い土の上に 叩きつけられても
こりもせずに 空を見ている
凍るような声で 別れを言われても
こりもせずに信じてる 信じてる

 あぁ人は 昔々 鳥だったのかもしれないね
 こんなにも こんなにも 空が恋しい

飛べる筈のない空 みんなわかっていて
今日も走ってゆく 走ってく
戻るはずのない人 私わかっていて
今日も待っている 待っている

この空を飛べたら 冷たいあの人も
やさしくなるような 気がして
この空を飛べたら 消えた何もかもが
帰ってくるようで 走るよ

 あぁ人は 昔々 鳥だったのかもしれないね
 こんなにも こんなにも 空が恋しい
 あぁ人は 昔々 鳥だったのかもしれないね
 こんなにも こんなにも 空が恋しい

 「この空を飛べたら」は、ヤイサマに似ている。そういうより、「この空を飛べたら」は、ヤイサマを元歌にしているのかもしれない。「この空を飛べたら」は失恋歌だが、この曲からやってくる哀しみの大きさを想うと、ヤイサマは聞いたことがなくても、「この空を飛べたら」を通じてヤイサマを聞いたような気分になることもできるのではないかと思えた。

 こんな連想を許すのも、この本は囲いを作らず、そこに風が吹いていると感じられるからだと思う。また、表紙にある切り絵は、本のところどころにも登場して、この作品に力強い表情を加えている。人間力がやせ細ってきたのを感じたら読みたい本だ(するといつもか)。

追記
 ところでぼくは、与那国島で見た衣裳のデザインがアイヌ文様とそっくりだったのをとても興味深く思っている。あ、それから、せっかくお会いしたのに軽率な気がして、計良さんにサインをいただかず仕舞いだった。次回、ぜひにである。



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2008/07/02

「二重の疎外」、メモ

 以前、書いておいたメモ。アップロードしてなかったので、挙げておきます。

◇◆◇

 「地勢と自然と文化の同一性の親和感から琉球を向けば政治的共同性が異なると無視され、政治的共同性の同一性から薩摩を向けば地勢と自然と文化により差別される」という「二重の疎外」の表現は情念をまとっているので、それを抜き抽象度を上げよう。

 地勢と自然と文化の同一性を根拠に<琉球>を向けば
 政治的共同性の差異により疎外され、
 政治的共同性の同一性を根拠に<大和>を向けば
 地勢と自然と文化の差異により疎外される。

 ここで、<琉球>による疎外は、「無視」や「同情」として表出され、<大和(薩摩)>による疎外は、「差別」や「植民地的支配」として表出されたはずた。奄美の、琉球(沖縄)に対する断絶の強調や親和感、あるいは、大和(薩摩)に対する対立意識や、同一視あるいは支配者意識への同化など表出の態様は、それぞれの疎外のあり方への反応の態様をあらわしている。言い換えれば、現在の奄美の<琉球(沖縄)>、<大和(薩摩)>への態度の幅のなかに、疎外のあり方を推測することができる。


二重の疎外とその隠蔽は、

<大和ではない、琉球でもない。だが、大和にもなれ、琉球にもなれ>

と表現できる。

1)<大和ではない>は、反大和(薩摩)意識となって表出。反大和(薩摩)かつ親琉球(沖縄)となる場合もある。
2)<琉球でもない>は、沖縄への区別意識となって表出。
3)<大和ではない、琉球でもない>は、反薩摩かつ沖縄への区別意識となって表出
4)<大和ではない、琉球でもない。だが、大和にもなれ、琉球にもなれ>は、日本人への渇望となって表出

奄美のアイデンティティ意識は、1)~4)の幅となって現れる。

◇◆◇


 今日は弟と姪っ子の誕生日。おめでとう、かずちゃん、せんりちゃん。


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2008/07/01

ピリカのバッグ

 今日はeメールコミュニケーションのセミナーで一日立ちっ放し。足が疲れた。マネジメントスクールは代官山にあるのだけれど、いつも場違いだよなと思いつつ歩いている。でも、まわりは緑があってほっとするのだ。

 おとついは仙台だったなんて、嘘みたいだ。

ManagementschoolTopWood














 思い出してみると、去年の6月23日、ぼくは札幌への出張の最終日、アイヌ文化交流センターへ足を運び、そのまま市内のピリカ民芸店で買い物をして東京に戻った。そしてその翌日に父の危篤の報を聞いて鹿児島へ向かいそのまま父の他界を見届けた。

 そして今年、父の一年祭を終えた翌週に、今度は仙台でアイヌの歴史を直接、聞くことができた。計良さんに、ピリカのおばちゃんは近所だよと教えられて驚きながら、一年前のことを思い出した。気づいてみれば、ぼくはピリカに行ったときと同じいでたちでおり、その時買ったバッグで会場に来ていた。

 あまり整理できないけれど、なんだか不思議なありがい縁だ。

Pilica_bag


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