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2008/07/07

『鹿児島戦後開拓史』 1

 久しぶりに与論の話題に戻る。それだけで何だかほっとする。
 与論から満州へ、満州から鹿児島の田代へ、移住した島人の話だ。

『鹿児島戦後開拓史―荒野に生きた先人たち』

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 健康に自信がある。働くことは少しも苦にならない。そんな若者にとって十分に活躍する場がなければ、閉そく状態に陥りやすい。戦前の与論は、まさにその通りであった。
 昭和十六年六月、池田福利さんは三年半の兵役を終え郷里に帰ってきた。与論町那間出身の父は、茶花と朝戸に小さな雑貨店を開いていた。日用品や砂糖など食料品を扱う店の売り上げはしれていた。畑はあったものの、元気な父子で存分に腕をふるえる広さではなかった。
 与論島は先にあげたほかに古里、叶、立長、城、東区、西区の各集落から成る。夜遊びなどで集まる青年たちの共通の話題は「六十四ヘクタール(島内農家の平均耕作面積)ではどうしようもない」で、いつも壁にぶち当たっていた。  そんなときである。屈折した不満を抱えた青年たちを〝孤島脱出でデッカイ人生へ〃と目覚めさせる人が現れた。池田さんの小学校時代の同窓生で満州拓殖委員会に務めていた竜野健之助さんが休暇で帰郷し、満州開拓の夢を吹き込んだのである。

 開拓という国策を実地に移す機関として当時、満州拓殖公社(通称蒲拓)が設立されていた。この日満両国籍を持つ特殊法人を監督する目的でできたのが満州拓殖委員会である。
 両国政府から六人ずつの委員と七人ずつの随行員が任命され、満州開拓政策の全般について両国政府に建議する権限も持っていた。それだけに「未開の大陸は君たちの腕をふるう絶好の舞台だ。狭い与論で不遇を嘆いているときではない」と説く竜野さんの口調は若者の心をとらえた。
 これに触発されて大陸に青いニジをかける青年たちはたちまち十人を超えた。「この日で現地を確かめよう」と話がまとまり、池田さんが行くことに決まった。十八年三月、単身船でまず鹿児島市に渡る。『鹿児島戦後開拓史―荒野に生きた先人たち』

 ぼくの祖父も満州へ行った。だが、帰島して以降、なぜ満州へ行ったのか、多くを語らなかったという。なぜ、祖父は祖母や子どもたちを連れて満州へ行ったのだろう。その胸の内を知る機会はなかったけれど、ここでその背景が語られている。移住を余儀なくされる飢餓が控えていたというのではなく、占領意識があったわけでも当然なく、狭い島を出て広い土地を開拓したいという高揚感があったのだ。母によれば祖父が家族を連れて渡満したのは、昭和18年8月だから、先遣のすぐ後だ。ここにも、満州開拓の当時の熱が伝わってくるようだ。

 一戸当たり二二一ヘクタールのコメ作り。水田のない与論の人たちにとっては夢のようなことが、満州移住で現実のものとなった。けれど、〝荒野の理想郷づくり″の前に予期せぬ運命が待ち受けていた。
 昭和二十年七月六日、開拓団の警備指導員・池田福利さんは盤山県の兵事官署から「すぐ出頭せよ」との通知を受けた。軍隊にいたことがあるので、新しく(在郷軍人分会)設立の話でもと想像しながら出かけた。
 ところが、差し出されたものをみて驚いた。三枚の召集令状ではないか。確かめると池田さんら開拓団にいる予備役三人の名前が記入されていた。与論開拓団の召集第一号である。中一日おいて奉天の関東軍の部隊に入隊、さらに二日後には朝鮮全羅南道の光州市へ転属になった。
 しかし、池田さんはここで運よく?アメーバ赤痢にかかって入院し、八月十五日の日本降伏の報を聞く。開拓団には妻の久子さんと長女を残しており、家族や団員の安否を思うと胸も張り裂けんばかりだった。が、どうすることもできなかった。

 与論開拓団は百四十五戸から百人の男たちが赤紙一枚で兵役に駆り出された。当時の開拓団では日本国の名を借りた〝男狩り旋風″が吹きまくっていた。日本の開拓団員のなかには町を歩いているところを巡査に呼びとめられ、「まだ召集されていなかったのか」といって白紙にその場で名前を書いて渡され、有無をいわきず入隊させられた人もいる。
 満州開拓者を募る際、当局は暗に〈開拓は兵隊に準ずるので召集されることはない〉と兵役免除をにおわせた。これも魅力の一つになって渡満した者も少なくなかった。けれど、与論開拓団の先遣隊と幹部のなかにはそんな例は皆無だと信ずる-と池田さんは、いまでも強調する。
 「国が存亡の危機に直面しているときに、軍務を忌避するなんて考えられないこと。ただ唐突で戸惑ったのは事実ですけど」
 召集された男たちは家をあとにする際、異口同音に「万一のとき、自分のことは自分で始末するように」と言い残した。戦陣訓が金科玉条とされていた時代には仕方のないこととはいえ、それは最大の悲劇につながった。『鹿児島戦後開拓史―荒野に生きた先人たち』

 「兵役免除」がにおわされたのもそれが簡単に裏切られるのも、そうだろうなというリアリティがある。ぼくの祖父の行く先はハルピンなので、盤山の池田さんとどこまで状況が同じだったかは分からない。そもそも、同じ与論から出発して、ハルピンと盤山という近くはない場所に移住する背景も分からない。しかし、夢から修羅へ、舞台は急展開して命からがら脱出したのまでは共通している。


追記
 たまたま与論の兄(やか)から、与論言葉で助かったという話を聞いた。満州から徒歩で引揚げ途中に満人に捕まり会話をしたとき、与論言葉で話すと「日本人ではない、朝鮮人だ」と解放されたというのだ。与論の民は、日本人である証を立てるために戦時中も必死だったが、ここでは言葉により非日本人と見なされることが命をつなぐことになった。ここに、朝鮮や中国から、非琉球を疑われたときは琉球人として振る舞い、薩摩の同行者であるときは、大和人として振る舞った近世期奄美人の投身が続いているのを見るようだ。誰にでもなれと命じられた強制は、誰にでもなれるという強みとして生きた。どちらも必死な場面の投身を、ぼくはポジティブに受け止めたいと思う。



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コメント

 クオリアさん

 先々月に与論に行って、ウジャやウバの最後の伯母の
先月の葬式には帰れませんでした
土曜日の朝早く報せがありました。その日に島に着いて
通夜に間に合っても、翌日の昼すぎの仕事には間に合い
ません
 伯母は、94歳です。天寿を全うしたかと思います
でも、行かなければならないとう「ドゥッチュイムイ」
はありましたけど行けませんでした
いとこたちが、ナユンドウ、ワーチャガウウクイシュウ
トゥ・・・とやさしく云ってくれました

 あくる日の仕事が昼ではなくて夜だったら、夜にでき
ないだろうかなどと、結局は詮無いことでした
子であれば日を延ばしもできるでしょうが、甥姪の立場
で云えたものではありません
私は、自分のことを云っているつもりではありません
飛行機が飛んで便利になった今の時代でも、それが与論
の島の現実なのです

 昨日、小さなライブが終わらせてホッとしているところ
です
与論の島を出た親先祖のこであるわけですから、自分は
今の与論にすんでいる人たちにとっては、「タビンチュ」
です
旅島にいきているかぎり、「郷に入れば、郷に従え」の
諺は、その通りだと思って生きてはいるつもりです。
でも、ユンヌンチュである誇りをもって生きています

 やっと、ユンヌのことを語りはじめた貴兄のこの頁を
読んでほっとした思いです
このコメントをやめればいいのにどうしても余計なこと
をいうのが性分のようですので、タンディ ドーカ

 追記の「~ここに、朝鮮や中国から・・・」の以降の
コメントは蛇足かと思います
ポジティブかネガティブであるのかは別にして、与論の
ことを語る時は非琉球とか奄美とか大和人・・・のこと
はふれずに、ふれなくても分かるように語ってほしいと
思います

 私の云いたい真意はそういうことのつもりです
名瀬は、奄美の島々で育った方であれば、比較してとか
比喩的に話す思いも強いのでしょうね
比喩はそのものではないし、たとえ話ですよね
比較は、その対象次第で・・・ではないかと思います

 古い人間でしょうが、温故知新、字も読めない書け
もしない親先祖の遺してくれた言葉や唄の凄さに如かず
ではないかと、自らを叱咤激励しています

投稿: サッちゃん | 2008/07/08 00:59

サッちゃんさん

父も祖母も亡くなったのは休日で、すぐに駆けつけることができました。気を遣ってくれたみたいでありがたかったです。

いとこのみなさんの言葉もありがたいですね。「ナユンドウ」。ゆんぬんちゅの言葉はいいです。

投稿: 喜山 | 2008/07/08 22:28

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