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2008/06/22

鶏小屋のある出版社-南方新社

 南方新社の向原さんにお会いした。奄美と薩摩の「民衆と和解」(「消された薩摩の歴史から」『それぞれの奄美論』)に共感して、お話したいと思ったからだ。なし崩し的な民衆和解も民衆和解への射程のない批判も望むところではない。けれど、そんな細い糸を縫うような主張に出会えることはなかなかない。

 ごめんください。訪ねたぼくが最初に案内されたのはなんと鶏小屋。出来立てでしかもお手製。鶏はクローバーもよく食べるのだという。向原さんが差し出すと、我先にとついばんでいた。思うに数千あると言われる出版社のなかでも鶏小屋併設なのは、南方新社だけではないだろうか。半農半出版、いや「半」の比重があるわけではないだろうけれど、理念として半農半出版を掲げているような鶏小屋の佇まいがよかった。

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 南方新社の社内は、奄美関連本満載(当たり前だが)で、図書館として使いたいくらいだった。けれど、その圧倒感が他人事みたいに向原さんは、『奄美ほこらしゃ』(和眞一郎)、『シマ ヌ ジュウリ』(藤井つゆ)、『かごしま西田橋』(木原安妹子)など、重要な本を紹介しながら、飲み物を出してくれたのだが、それがもう「島美人」なのであった。

 それからしばし奄美談義。で、慌ててバス停へ走り、天文館を通るバスに乗り奄美、沖縄の人が多く住むという易居町の居酒屋で、奄美ゆかりの方たちと飲んだ。美味しかったし楽しかった。自分が積極的に求めてこなかっただけで、問題意識を共有できる方はいるんだ、と、そんな当たり前のことを再確認するようだった。

 考えてみると、ぼくの奄美の知識はその半分近くを南方新社に拠っているのではないだろうか。そしてその比重はますます高くなりつつある。これはぼくの好みというのではなく、奄美本を尋ねれば必然的にそうなる。南方新社が無かったら現在の奄美論はどうなっていただろうと思うと慄然とする。大きな仕事は深刻そうな表情ではなく飄々たる人柄に担われている。それはすごいことだ。

 鹿児島弁を女性がゆっくりしゃべるとメロディのように聞こえるときがある。似た感じは京都の女性が京都弁をしゃべるときにも思う。向原さんの口調は両者が融合していて、鹿児島弁と京都弁を行きつ戻りつしながら、人をゆったりさせる音色を放つので居心地よかった。ありがとうございます。


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