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2008/06/08

『あの戦争から遠く離れて』

 泣きっぱなしで読んだ。営業の途中のマクドナルドやドトールコーヒーでぼんろぼんろと涙がこぼれてきた。いい物語というのではない。これは事実だ。ここには人間の人間らしい感情や振る舞いがあり、それが素直に相手にも伝わる関係のなかで、愛情豊かな人間の姿がくっきりと浮かび上がってくる。その人間のありように、心動かされた。

 その中身はといえば、城戸幹として生まれた子が、孫玉福として中国に生き、そして再び城戸幹として生き直す、その半生が描かれている。こう書けば、ぼくたちは「中国残留孤児」のことを思い出すだろう。城戸さんは確かに中国に残留した日本人だった。けれど、城戸さんが帰国したのは、厚生省が「中国残留孤児」の捜索に動いた1981年以降のことではなく、それより以前、しかも日中国交回復より前の1970年のことなのだ。

 どうしてそれができたのだろう。その解答がこの作品から伝わってくる大きなもののひとつで、それは城戸さんの名前そのもので幹のようにしっかりした太い確固とした意思、日本へ帰る、両親や家族に会いたいという意思だ。誰よりも早くしかも独力で帰国を果たしたという点だけを採っても城戸さんの意思が並外れたものであることを教えている。

 しかし城戸さんは家庭的にいづらかったというのではない。むしろ養母はこれ以上にない慈愛で城戸さんを孫玉福として育てている。ここにある母子像は、いまのぼくたちがどう逆立ちしても届きそうにない愛情の交感がある。それなら、それでも城戸さんを帰国へと駆り立てたのは何だろう。それは、国家としての中国の中での日本人の生き難さが影を落としている。城戸さんは高校生のときに履歴書への記載を「漢民族」から「日本民族」へと改める。そしてそのことが深刻な尾を引き、二度、大学受験に失敗する。しかもこの失敗は、試験の失敗ではなく、「日本民族」が障害になったのだ。

 それなら城戸さんは、いやその時は自分の日本名すら知らない孫玉福は、なぜ「漢民族」改め「日本民族」としたのだろう。ここに、このノン・フィクションとしての作品の小さな謎がある。
 
 そのころ高校では「交心運動」が盛んになった。「交心」とは、「腹の底を打ち明ける」という意味で、

「中国共産党に心を捧げ、自分について何もかも打ち明ける」

 というものだった。この交心運動では、党や毛沢東に対する忠誠を語り合うのだが、相互批判の討論は次第に激しさを増し互いの猜疑心を呼ぶ。そんな背景のなかで、孫玉福は日本人としてののしりを受ける。

 玉福が衝撃を受けたのは日本鬼子という言葉を浴びせられたからだけではなかった仲の良い友達以外は、玉福が日本人であるということを誰も知らないはずだった。ところが、あまり話をしたこともない宋さえも玉福が日本人だということを知っていた。すでに同級生の大半が、玉福が日本人であるということを知っているのかもしれない。盛んに交心運動が繰り広げられているいま、いつ日本人だということを理由に共産党に忠実ではないと訴えられるかわからない。そう思うと衝撃は恐怖へと変わった。
 玉福は、自分が日本人であることを自ら申告する以外の方法はないと思った。それもできるだけ早い時期に。まずは自分の履歴書に記載している民族を、「漢民族」から「日本民族」に変更する修正申告書を高校に提出した。そして同じものを共産党の青年団支部にも提出した。ちょうどこのとき、大学受験の願書提出の時期と重なっていたため、願書にも国籍は「中国」、民族を「日本民族」と記入して提出した。とにかく無我夢中だった。

 討論が相互批判へと変わりつるしあげに近い状況すら想定されるのは当時の中国の社会状況だが、そこで、「漢民族」のままにせずに「日本民族」と書くことへと促されたのは、城戸さんの個性だという気がする。日本人ということが広く知られ、そのことを理由に反体制の烙印を押されることを恐れても、「漢民族」のしておくことで、自分の忠誠の証を立てておこうとする態度もあるだろう。そしてむしろ、無難に乗り切ろうとしたらそうするのではないだろうか。「漢民族」改め「日本民族」という書き換えは、孫玉福を思い遣る教師たちからはなぜそんなことをするという叱責を呼ぶように、反体制を名乗るような行為として受け止められかねないものだったが、城戸さんにとっては「交心」の証だったのだ。

 しかしこの行為が、国家としての中国にいる日本人としての生き難さを生み、孫玉福を帰国へと駆り立てることになった。孫玉福さんは数百通の手紙を日本へ送り、24時間当局に監視されている気配におびえながら折れずに、中国にいながらついに帰国を果たす。

 『あの戦争から遠く離れて』ある場所にいて、そんなぼくたちが戦争のことを受け取る道筋のひとつを、この作品から受け取ることができるのではないだろうか。それは、たった一人しかいない生の道筋であれ、その人が主人公の物語は語られる価値があるということも教えてくれている。

『あの戦争から遠く離れて―私につながる歴史をたどる旅』

Photo













◇◆◇

 この作品を語る上では欠かせないひとつの特徴がある。ある胸を打つ人生を送った人物の伝記を書く場合、何らかの契機を持った第三者が、何かに惹きつけられるように取材を繰り返し、その果てに伝記を書き上げるのが定型だと思う。ところが、この作品の主人公である城戸幹の伝記を書いているのは、城戸久枝さんという名の娘さんだ。これは、娘が父のことを書いた作品なのだ。

 子が親のことを書く。ふつうそれは難しいと感じられる。特に、親に「偉大」という世評が付きそうな場合、その記述は親自慢になりかねないし、子も知らず知らずに偉大な親像に傾斜していくのを免れない。けれど、『あの戦争から遠く離れて』はそういう作品ではない。これは城戸久枝さんがペンネームを使い作品を世に出したとしたら、子が書いているとは誰も思い至らないだろう。

 下手をすれば読者が鼻白むことになりかねない展開にこの作品がなっていないのは、父の半生を父自身が語るわけでなく身近な類型も無かったため、子にとっても父の半生が謎だった。そしてそこに謎があるということは、娘の城戸さんが自分の存在を確かめようとするときに謎を持つというとに他ならない。つまり、娘の城戸さんは、自分が解かなくてはならない固有の問いを持ってしまったのだ。

 私には、父の人生を知ることが必要だった。日本人でありながら「残留孤児の子」であり、残留孤児や二世、三世からは「ただの日本人」に見えるという「日本生まれの残留孤児二世」。そんな、どちらでもありながらどちらでもない私の「存在」(アイデンティティ)が、そうすることを求めていた。まるで居場所のないイソップ童話のこうもりのような自分は、どこからやってきたのか-を確かめるために。

 こうして城戸さんは父の物語を自分の存在を確かめるためのテーマとして受け取り、取材をはじめる。それは切実なだけに徹底していて、中国に留学し中国語を覚え、父を知る人たちから父のエピソードを中国語で聞き、父が恐怖を覚えた日本人への罵りにも出会いもしている。ここに費やした時間は10年にもなるという。城戸さんの問題意識は自分のアイデンティティに関わるがゆえに、「中国残留孤児」問題にも及ぶ。

 山本さんの心の奥底には、「なぜ自分の親は迎えに来てくれなかったのか……」という深い悲しみが沈殿しているようだった。「国に棄てられた」として裁判で闘う残留孤児たちのなかでも、父のように親と生き別れた人には、国に対する怒りとは別の思いも存在しているのではないかということに、そのとき私は初めて気づいた。彼らは、裁判で国の責任を問いながら、その向こうに、「なぜ自分は中国に残されたのか」という、自分を中国に残した産みの親に対する無言の問いを発しているのではないか。父の眼差しを通して父の人生を追ってきた私には、そう思われてならなかった。

 私は、日本からの返事を待ちながら、ただひたすらに日本宛の手紙を書き続けていたころの父を思った。父もまた、身元が判明するまでは、「なぜ両親が探してくれないのか……自分は棄てられたのではないのか」という悲しみを抱えながら、中国で生きていた。ある日、酩酊した父が振り絞るような声でそのときの心境を語ってくれたことがある。昔のことを思い出しながら父は時々絶句していた。父の胸の内には、自分を中国に残した両親に対するさまざまな思いが去来しているようだった。

 しかし、父や山本さんのその問いは、直接は誰にぶつけることもできず、裁判でも決して答えを得ることのできない、やるせない、行き場のない問いである。彼らは、一生その問いを抱えたまま生きていく-。

 中国残留から帰国を果たした日本人が国に対して挙げている声の向こう側に、城戸さんはもうひとつの問いを見つける。

「なぜ自分は中国に残されたのか」
     それは国に対して向けられているのではない。いや国の責任を問う声には違いないのだが、本質的には、親への問いを含んでいるのではないかと城戸さんは思う。

 このところは作品中、もっとも城戸さんの自己問答が掘り下げられた箇所であり、この問いの前に立ち止まらずにはいられない。けれどそれは、「彼らは、一生その問いを抱えたまま生きていく」として不遇な彼らへの思いやりだけではない。その向こうに、誰かが誰かを見捨てるということなら、それはぼくたちの日常のなかに潜んでいることなのだ。ぼくたちは、彼らの声からそうした内省を受け取ることができるし、この内省は彼らに手渡すことができるものかもしれない。そんな普遍的な課題として受け取ったときはじめて、ぼくたちは彼らと心を通じ合わせる手がかりを掴むのではないだろうか。

 この作品を書いた城戸さんはすごい親孝行をしたと思った。こんなこと、誰にできるわけでもない。親と子が向き合うという現在の社会のテーマに対しても、この作品は投げかけるものを持っている。

 その上で少し付言すると、ぼくは父の半生を辿った前半を折り返して、娘が父の足跡を辿った軌跡であるこの作品の後半は不要ではないかと思った。いや不要というか、別の作品に思えた。ここは、長いあとがきとして添えればよかったのではないだろうか。映画のDVDのよういえば、作品と肩を並べるほどの力あるメイキング映像として作品についている、というようなポジションで。父のことを娘が描くという例のない構成であれば、「私につながる歴史をたどる旅」である娘の物語を後半にする理由は分かるけれど、ぼくは別々の作品のように受け取るしかなかった。それはこの作品の小さな弱点に思える。

◇◆◇

 『あの戦争から遠く離れて』に惹きつけられるのは、城戸さんの「どちらでもありながらどちらでもない私の『存在』」自問が、「琉球でもあり大和でもありながら、琉球でも大和でもない」という奄美的な課題と似ている側面を持つからだ。

 私は、中国で中国人の反日一辺倒の態度に遭遇したとき、それを決して受け入れることはできなかった。しかし、帰国後の日本で、同様に一方的な決めつけから日本人が強く中国を非難する場面では、しばしば中国を擁護する立場に立っていた。それもまた偽ることのできない私の感情だった。「嫌中」でも「親中」でもなく、もちろん「反日でもない。中国で中国人に育てられた父を持ち、生身の中国人を人より少し身近に感じられる環境にいたからだろうか、単純な二項対立を超えて、私の気持ちはいつも中国と日本の間で宙に浮いていた。
   たとえば城戸さんのこんな述懐は思い当たる節が多いと、ぼくたちは感じるのではないだろうか。大和人と沖縄人と置き換えてみてもいい。どちらをどちらに置き換えるということではなく、そうした二項対立の狭間で宙吊りにされることが似ている。

 それだから「中国残留孤児」の言葉にも彼女は敏感に反応する。

 「私たち残留孤児は中国では『日本鬼子』と呼ばれていじめられました。そして日本に帰ってきてからも、日本人なのに日本語も話せず、『中国人』と言われています。それでは私たちはいったい何人なのでしょうか? どうか、私たちの願いを聞いてください。よろしくお願いします」
 彼の言葉に私は胸が締めつけられるような思いだった。どうにか彼の切実な訴えを正確に秘書に伝えようとしたが、日本語に訳す私の声は弱々しく震えていた。
 デモ行進のときの彼らの姿がフラッシュバックした。彼らの胸のなかにはさまざまな思いが積もり積もっている。しかし日本語のできない彼らは社会のなかで自分の思いを表現する手段がない。そんな彼らがいったん中国語で話す機会を得ると、その思いがとめどなくあふれ出てくる。会ってみればわかると言った大久保さんの真意がわかったような気がした。

 ぼくはこの件りを読んだときに、日本人と言ってもらうために、自分たちの言葉を抹殺してでも共通語を習得しようとした奄美人の姿がだぶってみえる。と同時に、もうひとつのことも思った。ぼくは、沖縄を見放してそそくさと日本復帰し、奄美の言葉を自ら消滅の憂き目に追いやってきた来し方を悔しく感じてきたし、昇曙夢が唱える日奄同祖論を情けなく思ってきた。けれど、ここにある「中国残留孤児」の言葉を経ると、ぼくはそんな自分の態度を少し反省している。

 ぼくの両親やその上の世代が死に物狂いで共通語の習得に励んだ結果、ぼくたちは不自由なく共通語を操ることができている。それがなんぼのものだということも含めて、そのおかげでぼくたちは現在の生活を享受できている。その短時間で成し遂げたことは紛れもなく奄美の島人の努力の成果だ。ぼくはそこで自分たちの言葉を失ったことを残念に思い指弾するというのではなく、何も自分たちの言葉を否定することはなかったという反省に立って、自分たちの言葉を見直しつくることが自分に課せられたテーマだと思えばいい。そんな風に感じた。それは、この本がもたらしてくれたぼくの態度変更だった。


付記
 ぼくの母と祖父母も満州へ行き、引き揚げてきた人たちだ。この本が他人事ではないような気がした所以だ。そしてこの本には一度だけ奄美大島という言葉が出てくる。そんな小さな縁も感じた。


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