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2008/06/04

「消された薩摩の歴史から」

 薩摩の思想として奄美と薩摩の関係をほぐす解答の言葉に出会うことは滅多にない。ぼくが知っているのは、与論高校に赴任した山之内さんの次の言葉だけだった。

 第一は、かの宝暦治水事件を新たに奄美群島からの視線から立体化することである。黒糖収奪が強化された一因に、宝暦治水による藩財政悪化があったことは容易い想像される。木曽三川に倒れた薩摩義士を顕彰するのは良い。だが、同時に、藩財政再建の人柱となった奄美群島の人々の無念も救済されなければならない。
 義士の鎮魂と島民の鎮魂を同時に行う慰霊祭など呉越同舟ではないか、という批判はあるだろうが、歴史における悲劇の連鎖、差別の再生産という視座は、宝暦治水事件に複雑な陰影を与えるのである。(『南日本新聞』)

 「マイノリティーの視線を」

 ここに解答はあると思う。奄美の二重の疎外とその隠蔽を解除する言葉だ。実のところ、解答を想像すること自体は難しくない。けれどこう書いた山之内さんが「呉越同舟」という批判をすぐに想定するように、解答を提出することそのものが困難に見えている。それは解答はあるのにそこに至る道筋が見えていないからだと思う。

 ところで嬉しいことに、『それぞれの奄美論・50』で、もうひとつ、解答の言葉に出会うことができる。

 今、鹿児島で出版社を経営しながら、隣り合う薩摩と奄美の関係をどう解きほぐすことができるのかが、一つのテーマになっている。かつて海でつながり珍しい産物の交易を通して友好的な関係を築いてきたはずの両者である。それが、いつしか歴史の中で絡まり、ねじれてしまった。
 両者の関係の修復は、互いの歴史を知り、ねじれた部分に光を当てるところからしか始まらない。
 ここで一人の歴史研究者に注目せざるを得ない。中村明蔵・鹿児島国際大学教授である。かつて、奄美の人々と友好的な関係を築いていたであろう薩摩の民衆・隼人に焦点を当てている。
 隼人の受難は、まず七二〇年のそれが象徴的である。大伴旅人に率いられた万余の天皇の軍隊がこの地に攻め入り、千四百人余の首と捕虜を朝廷に持ち帰ったのである。二年数カ月の抵抗もむなしく、隼人は征服された。薩摩の大地では、家々に火がつけられ子どもが逃げ惑う、阿鼻叫喚の地獄絵図が繰り広げられたに違いない。

 そして次の支配者は、島津・関東武士団であった。鎌倉期に島津家とその家臣団が、関東から大量に乗り込んできて、民衆・隼人を支配する。七百年続いたその過酷な民衆支配は、まさに農奴的支配といっても過言ではなかった。「八公二民」の税、家族や集落さえ分断した「門割制度」……。
 一六〇九年、奄美に攻め入った薩摩の軍勢も、以降の薩摩役人たちも、元をただせばこの島津・関東武士団だった。奄美の人々が黒糖地獄に喘いでいた頃、薩摩民衆も苛斂誅求の収奪下に置かれていたのである。
 このような消し去られた薩摩の歴史にふれるとき、薩摩と奄美の新しい関係が透けて見えてくるのは私だけだろうか。

 いま、薩摩と奄美の問には、さながら民族的対立が潜んでいるような気がする。給与の水増しと、出世への開門という取引条件で、島の警察、学校、県行政の出先機関に転勤してきた現代薩摩役人。ときとして見られる、その居丈高で投げやりな対応が嫌悪感を増幅させているのかもしれない。士族の子孫であるとは限らないこれらの人々の意識も、明治期に起きた平民の士族への同化・上昇現象の名残であろう。
 来る二〇〇九年、島津侵攻四百年に際しても、口先だけならともかく、真の和解がはかられるとは考えにくい。しかしそうだとしても、権力関係とは無縁な人々の相互の歴史に対する想像力が、いつしか関係の改善を実現するのだと思う。
 そのとき、「権力的支配関係から民衆の和解へ」という一つの視点が、重きをなしてくると思う。(『それぞれの奄美論・50』

 薩摩の支配者と民衆を分離し、薩摩の思想自体の批判を可能にするとき、「奄美の人々が黒糖地獄に喘いでいた頃、薩摩民衆も苛斂誅求の収奪下に置かれていたのである」という言葉は説得力を持つ。薩摩の思想は無批判のまま、ひどい目に合ったのは同じだったという開き直りを聞くことはあっても、支配者と民衆を分離する視点がかの地から聞こえてくるのはほとんどない。だから、この視点自体が貴重なのだ。

 解答の言葉を言える向原さんは、徳之島で「ヤマトモン」と言われ、鹿児島では「シマ」と言われた経験を持っている。

 今から三十数年前、鹿児島県本土から徳之島伊仙小学校に転校した。高校教師だった父の転勤にともなってのことである。
 赤土と亜熱帯の木々、草花。本土からの転校生も、南の島の物珍しい風景と、小さな教室にとけ込むのに、そう時間はかからなかった。インガム(クワガタムシ)を探し、シイやムベといった木の実を採り、自分でこしらえた粗末な道具で海に漁りにいったりした。教室は、収穫を自慢しあう場であり、次の行事の作戦基地でもあった。  単調な毎日でありながら、自然の輝きに包まれていたように思う。そんな子どもも、しばしば厄介な場面に遭遇した。
 「ヤマトモン」「ヤマトモン」
 大人や、年長の子どもたちから発せられ、交わされていくこの言葉には、必ず棘が含まれていた。「ヤマトモンには気を許すな。信用するな」と。
 その都度、キラキラした自然の世界から引き剥がされ、暗いむき出しの棘にさらされることになった。その棟が、薩摩と奄美という歴史的な社会関係に由来することを、やがて子ども心に知る。

 伊仙小を卒業した私は、本土の中学校に入学した。今度は、もう一つの棘を浴びせられることになる。
 「シマ」 「シマ」
 こそこそと囁かれる言葉に「シマの何が悪い」と、心の内で反発しながら、無性に悲しくなったのを思い出す。島の人たちの防衛的な言葉とは裏腹の侮蔑的なその言い回しの中に、どす黒い醜さが藩み出ていた。そのような人たちと同類であることが、ただ悲しかったのだ。

 両者の痛みを知るという経験から、向原さんは「民衆の和解」という問題意識を掴み取ったのだと思う。ぼくも賛成だ。ぼくは向原さんの「消された薩摩の歴史から」を読み、薩摩と奄美の関係をほぐす問題意識の担い手に思い当たった。向原さんが、「ヤマトモン」と「シマ」の両方の言葉を浴びたように、それは二重の疎外を一身に引き受けた者に訪れるテーマなのだ。


「消された薩摩の歴史から」向原祥隆



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コメント

 クオリアさん

 「現在、過去、未来・・・」という歌が、どのくらいか
前に流行ったことがありました
民俗学の先達が、柳田さんでしたか似たようなことを云っ
ていたような気がします

 タビンチュ(ヤマトゥウチュ)とシマンチュを峻別する
ことにどういう意味があるのか、分かりません
今の現実を生きているだけの人々には、それが必要である
ことは何となく分かるような気はします

 元々は大名、武士の出だとか、貴族、皇室の血統だとか
系譜を持ち出していかにもということに意味はあるのでし
ょうか
都会から遠いほど、誰々さんはどこの誰さんの親戚でどこ
の大学を出ていて・・・などと自分のことでもないことを
自慢するのが当たり前のようです

 ヤマトゥウチュかシマンチュかは、少なくとも未来的に
は意味がなくなると思います
温故知新、不易流行・・・などの大切さは別の話です

投稿: マニュ | 2008/06/05 00:04

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