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2008/06/17

「奄美の黒い輝き」

 奄美の黒糖焼酎文化は上流社会のものであった。しかし、それを支えたのは庶民の焼酎文化であった。『南島雑話』によれば、「椎の実、蘇鉄、栗、麦、甘藷、桑実…」など様々な奄美の植物から焼酎が造られ、庶民の飲料となっている。
 奄美が長寿の蓬莱島であるのは、焼酎の楽しみが一つにあったからであろう(奄美全体では九十歳以上の高齢者は千五百七十人)。今年九月の敬老祝賀会会場、名瀬市の奄美文化センターは、五百人の皆さんで賑わったと報じられていた。日本一の長寿本郷かまとさん (伊仙町出身、鹿児島市在住)は、先月百十三回日の誕生日を迎えられた。サトウキビ栽培に携わりながら、四男三女を育てられたという。本郷さんの大好物は黒砂糖、晩酌にさかずき一、二杯の焼酎を飲むこともあるとか。もちろん島唄と手拍子の踊りもお得意である。
 奄美はこれからも生命を育む黒い輝きを増していくにちがいない。黒豚(島豚)、クロマグロ、クロウサギ、泥染、黒酢、黒麹…などなど、奄美の魅力は尽きない。(『それぞれの奄美論・50』

 与論島を起点に「色」を発想すると、何といっても与論ブルーがあり、砂浜の白がある。そしてそれに、ガジュマルの緑や花の赤や土の赤などの原色が続く。代表的なのは、なんといっても「蒼」だと思う。「黒豚(島豚)、クロマグロ、クロウサギ、泥染、黒酢、黒麹」という黒の系列はぼくには驚きだ。けれどよく考えてみると、確かに、黒砂糖しかり、泥染めしかり。そしてここに挙げられていないものでいえば、あの夜の闇らしい闇も、黒だ。

 黒としての奄美。これは奄美の地域ブランドづくりにはヒントになる。
 この着眼は、原口さんが、分析的な視点で奄美を捉えて得られた発見だ。だが一方、ぼくは原口さんの文章は、他の「それぞれの奄美論」者には感じない違和感も惹起せずにはおかなかった。それはなぜだろう。

 その違和感は、エッセイの冒頭からやってくる。

 奄美の魅力を問われれば、私は一番に黒糖焼酎を挙げたい。理由は芳醇いだけでなく、その甘い香りが奄美の世界に誘ってくれるからである。黒糖焼酎は奄美の歴史が長年にわたって育んできた黒潮文化に違いないと思う。
 そもそも酒は百薬の長といわれ、適量なら長寿の薬である。その原料である黒糖が奄美では「生き薬」といわれ、もともと江戸時代薬種問屋が扱う貴重な薬なのだから、黒糖焼酎が養生の妙薬でないはずがない。この奄美の宝ともいうべき黒糖焼酎の起源は謎とされているが、早くても黒糖生産が軌道に乗った元禄年間(十八世紀末)以降であることは間違いない。黒糖以外の原料(粟などの雑穀、椎の実や米など)なら、奄美の焼酎づくりの歴史は古く、すでに藩政時代には、奄美は藩からその生産地に指定されるほどであった。

 ぼくはまず、「軌道に乗った」という表現に躓く。軌道に乗ったってあんた、それは誰が誰に言う言葉だろう。原口さんの書いている18世紀末とは、薩摩藩による黒糖の買い入れが開始されたと想定される時期であり、そうとしたら、「軌道に乗った」というのは薩摩藩が言う台詞なのだ。

 元和九年(一六二三年)、藩は新しい征服地である大島に統括の方針を示したが、その中に「諸百姓、なるべき程しやうちう(焼酎)を作り相納むべき事」とある。藩は奄美の農民に「しやうちう」すなわち泡盛の製造を命じたのである。このときすでに奄美には焼酎製造の高い技術があったと見られる。藩が焼酎を責納品の一つにしたのは、日本では焼酎が高価な舶来品として珍重されたからである。島津氏は室町時代から舶来の焼酎を将軍家などへの贈り物にしていた。応永十七年 二四一〇年)、上洛した第七代島津元久は、将軍足利義持に「南蛮酒と沙糖」十壷を引出物としている。

 ぼくはすぐまた躓く。こんどは、「征服地」という言葉だ。薩摩にとっての征服地である奄美。躓くのは「軌道に乗った」と同じように、「征服地」が薩摩からの視点で書かれていることに由来しているだろう。けれどそれだけではない。もっと躓くのは、「征服地」と書く筆致が、もう済んだこととして書かれていることだと思う。それはひとつには、奄美の魅力を「黒」として見いだす分析的な視点が加担している。その分析的な視点は、奄美から距離を持つことによって生まれるものだが、その距離感は、ここに書かれた時代の奄美を、本土近世期を書くのと同じような、過去の歴史として書く態度を生んでいる。その距離感が「征服地」という言葉を選ばせるのだ。

 江戸時代、琉球では、白砂糖の生産は普及していないので、砂糖とは黒砂糖である。とすれば、砂糖焼酎は黒糖焼酎以外には考えられない。鶏飯など奄美における薩摩役人への接待文化の高さを考えるとき、江戸時代に黒糖焼酎があったとしても決して不思議ではない。
 奄美が焼酎の生産地であったことを示す別の史料がある。悪名高い黒糖専売制下に適用された黒糖と諸物品との交換表である(「砂糖惣買入に付品値段の党」、一八三〇年)。この中で、鍋一丸が代糖二〇〇斤、焼酎甑一つが二〇〇斤、酒一升が二五斤、茶家一つが五斤と決められている。これらの品目は鹿児島から奄美へ送られるものであるが、焼酎甑は、黒糖生産に欠かせない鍋と並んで諸晶中縮緬に次ぐ高い債がついている。交換表には焼酎がなく、酒があることから、気温の高い奄美では清酒は造られていなかったことがわかる。ただし、みりん酒や神酒は造られていた。

 ぼくの違和感は次第に憤りへと傾いてゆく。「接待文化の高さ」って何だ? 「悪名高い黒糖専売制」って何だ?
 どちらが「高い」のもその通りだろう。だが、ここで苛立ちを催さずにおかないのは、歴史をあまりにおすまし顔で通り過ぎているからだと思う。そんな昔のことをと、人は原口さんは言うだろうか。だが、昔のことではない。4世紀前のことであったとしても、現在までその痛みは続いていると感じられていることだ。痛みは続いている。その横を、ここは昔、征服されて悪名高い制度が敷かれたところです、とまるでバスガイドさんのように案内されて通過してゆく。原口さんの書きっぷりは、現場が現場であり続けているのにすでにガイドさんをしているようなものだ。ぼくにはそう感じられる。

 幕末の一八五〇年代、名瀬で暮らした流人の名越左源太が著した 『南島雑話』は奄美研究のバイブルと言われるほど大島の風物を洩らさず記しているが、なぜか「黒糖焼酎」の製法については記述がない。わずかに「留汁焼酎とて砂糖黍を活したる焼酎に入ることあり、至て結構なり」と記してあるにすぎない。左源太は在島中に島津斉彬が藩主となったため、流人の身から大島の地理調査役を命じられている。従って左源太は大島の上流社会との交流を深めたと思われる。幕末大島においては、「家稼業一番な、ま東や前織衆、うりが二番な、ま住佐応恕衆、大和浜三能安衆」と唄にまではやされた諸鈍の林前織、住用の住佐応怒、大和浜の太三能安の三大富豪(衆達)が互いに饗応しあったが、最後の番の家では、もはや前の二家で饗応の限りを尽くしたので、焼酎で風呂をわかして歓待した、という逸話が残っている。こうした逸話が生まれる背景には、上流階級では泡盛や黒糖焼酎が愛飲されていたことが考えられる。

 「上流階級」って誰のことだよ。そう毒づきたくもなってくる。この距離感は何だろう。ほっかむり。
 原口さんの記述に躓くのは、過ぎ行かない薩摩藩支配時代を過去の歴史として済ましていることから来る。けれど実のことろこの苛立ちは、原口さんがそうと知ってて知らぬ顔で過ぎようとしている、そのほっかむりに由来しているのではないだろうか。
 奄美に黒を見いだす、その分析的視点と同じ遠い距離から原口さんは奄美の歴史を視る。けれど、ここには他の「それぞれの奄美論」者にはある近い距離からの視点が欠けている。原口さんはそれがここに欠けていることを知っているのだ。このほっかむりは、『鹿児島県の歴史』で奄美の歴史に知らぬ振りするのと同じ構造に思える。


「奄美の黒い輝き」原口泉


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