「奄美 21世紀の可能性」
二十一世紀の奄美とは
近代とは、自然を征服することを可能とした理性を持つ人間によって、世界が作り上げられてきたとする。その過去から未来へと進歩・発展する歴史観のなかで、この「ハブ狩」の一文が内包した意味など、あたかも不在のごとく一顧だにされなかった。だが今、その歴史の細部へと目を向けた時、奄美人とハブとの関係は、そのまま私た ちの現代とその可能性を照射するものとしてあることが分かる。
この非同一なものを排除するのではなく、受容する思考こそが新しい社会関係と共同性のありようを模索する可能性を与えてくれる。他者との共存、自然との共生という言葉で何かを展望したつもりになる表層の現実とでも言うべき位置から、その思考の同一化そのものを揺さぶるような、多様なあり方を生み出す具体的な一歩を踏み出 すことができる。
このように奄美が暮らしのなかに鍛えてきた思考が、今こうして私たちの可能性へと力を与えてくれる。そして島峡地域社会としての多様な奄美の島々のありようが、その細部に宿す暮らしの多様に重層する知が、私たちを挑発する。
奄美の苛立ちとは、近代とその変化に目が奪われ、こうした奄美の知をどこかに見過ごしてきたのではなかったかという疑心暗鬼によるものだとも言い換えていい。だから自信を持って改めて断言しよう。
二十一世紀の奄美、それは語られない言葉に耳澄ませながら、暮らしのなかに培った多様に重層する知の遺産を活用する時の到来なのだと。(『それぞれの奄美論・50』)
これは抽象的な言い回しに躓かなければ、共感できる。与論にはハブがいないので実感を込めにくいところはあるが、ハブを違うものと見なすのではなく、ハブと人間を同じと見なす視線。もともと奄美が持っていたこの視線が、奄美の未来の可能性なのだ。言い方は逆に聞こえるかもしれないが、そういうことだ。
ぼくもそう思う。21世紀、奄美はその視線を回復させているだろうか。
「奄美 21世紀の可能性」高橋一郎
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コメント
私も 同じ目線です。
与論島で その目線を回復させようではありませんか。
ヴァッカスの神の呪文から再び解放され、日々暮らしがまともに展開しています。
隠れて飲む でなく
堂々と飲めるかに挑戦してみましたが
ダメでした。
潔く 負けるが価値あると
思って 断酒を誓いました。
投稿: awa | 2008/06/29 04:43
awaさん
回復させましょう。
きっと飲酒よりこの上ない世界が待っています。(^^)
投稿: 喜山 | 2008/06/29 22:56