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2008/06/30

「まつろわぬ民たちの系譜」を終えて

 29日、「まつろわぬ民たちの系譜」というサブタイトルでパネル・ディスカッションに参加した。というより、参加させてもらった。

アイヌ・奄美・沖縄-まつろわぬ民たちの系譜
Ainu, Amami, Okinawa: RE-collection Of Occupied Memories

○パネラー
・計良光範氏
(アイヌの積極的自律を目的とする「ヤイユーカラの森」運営委員長。)
・田場由美雄氏
(思想史研究家、法政大学沖縄文化研究所研究員、その他多くの肩書きを持つ。首里在住。)
・前利潔氏
(沖永良部島在住。知名町中央図書館勤務。図書出版まろうど社から第一評論集『無国籍の奄美』を現在編集中。)
・喜山荘一氏
(与論島出身。与論・奄美・琉球弧から思索するブログ「与論島クオリア」を主宰。)

 ぼくは、「まつろわぬ民」という投げかけに対して、そういうより、奄美は「失語の民」というのがふさわしいのではないかと受けて、「失語」の起点である1609年をどう受け止めるのかというテーマでレジュメにあるような話をした。

 田場さんは、「失語」を受けて、沖縄をめぐる言説は氾濫しているけれど、中身は空しくなっているのではないかとおっしゃった。一方、沖縄は国家に対しては地上戦のこと、沖縄を踏み台に平和条約を結んだことなど、謝罪を求めるけれど、受け止めてくれない、なぜ、そうしないのか分からない。沖縄の内部ではそこで、もう日本はいいからと、香港や台湾や南洋の島々など近隣の地域と交流を深めはじめている。こうした中で、基地問題などのネガティブな問題は依然として存在し、それを隠蔽するかのように「癒しの島」というポジティブな側面が語られる。ルサンチマンを梃子にした言説は終わりつつあると感じられるのと同時に、そのポジティブな側面もネガティブな側面も言葉は氾濫するけれど空疎であるのと同じように力を無くしていっている様に見える。ぼくの意訳もあるけれど、こんな沖縄の内側からの課題をまっすぐに話されていたと思う。

 ぼくは、沖縄が日本に向き合うのに疲れてしまわないようにと願いながら、脱ルサンチマンの沖縄言説のありようを考えるのが課題なのかなと思った。沖縄の内部から「沖縄は本土を癒すために存在しているのではない」という声を最近、聞くように思う。これはルサンチマンを梃子にした声だ。これをルサンチマンとして言わないとしたらどうなるのだろう。たとえば、観光客が「癒された」と感じる力を沖縄は確かに持っているのだから、本当の癒しの島を実現するために、基地撤廃の運動にコミットしてほしい、と、そう本土の人に伝えること。これは脱ルサンチマンの言説になりうるだろうか、と考えた。

 計良さんが、幕藩体制期、松前藩はアイヌの生産物を低いレートで米などと交換してアイヌを収奪したと話したとき、薩摩藩が奄美から黒糖専売を行い、やはり低いレートで米や生活用品と交換して奄美を収奪したのと同じだと知り、驚いた。だが、相違点も強烈だ。琉球は薩摩から大型船建造を禁じられ、島に封じ込められる。そして国家からは島は「点」と見なされ、移住はしないが対中国との貿易拠点やアメリカの軍事拠点として存在させられてきた。一方のアイヌの地は、「面」と見なされたのだろう。軍事拠点よりは人々が移住するのだが、その時、「無主の地」として土地を大地を奪われる。

 奄美はしばし実体が問われる。実体が希薄、もしくは無い、という意味で。しかし、実体は、いかに心細い場であるにはしても、「点」としての島が実体の可能性を担保してきた。だが、アイヌは実体を支える場を奪われたのだ。だから、「先住民族」を国家が認めるとき、そこには当然、土地の返還が伴わなければならない。それはひとつ民族としてのアイヌのためにというだけではなく、情けは人のためならず、わたしたちの中のアイヌのために、とも思った。

 前利さんは東北の地という場を意識して、島尾敏雄のヤポネシアの言説の変遷を追っていた。そのなかから、沖縄と奄美のヤポネシア受容の仕方の違いを浮き彫りにした。島尾の手を離れてヤポネシアが思想として独り歩きしたとき、沖縄にとってはそれは反国家思想の根拠となり、奄美にとっては奄美=日本の根拠になった、と。二重の疎外の文脈からいえば、<大和ではない>という規定を強いられた沖縄は、「反大和」の規定を育て、<大和ではない、琉球でもない>という規定を強いられた奄美は、「でも日本ではある」という規定に救いを求めた、といえばいいだろうか。

 前利さんの発表の白眉は、日本、沖縄、奄美、アイヌについて国税、学校教育、徴兵制、参政権について比較したことだった。この一覧表をみたとき、自分のアイデンティティが近代化の過程の相違としてあらわすことができるみたいで、一瞬、やれやれと思ったが、アイヌ、沖縄、奄美を共通に語る視点が提供されてとてもよかった。それは、今回のパネル・ディスカッションの最大の収穫でもあるはずのものだ。そして前利さんによれば、共通の視点でみるとき、国家としての日本は、奄美、沖縄に対して包摂という態度で臨むが、アイヌに対しては排除の態度で臨んでいる。

 終わってみて改めて思うのは、今回のテーマの意義は、それぞれの語が等価ではないにしても、アイヌ、沖縄、奄美が同時に語られたことにあるのではないかと思えた。これは奄美内部からは決してできない土俵設定だと思う。たとえばぼくでも気後れしてできないだろう。その意味で、これは大橋さんのおかげだ。でも、それは自然になされなければならないことだ。ぼくにしても、困難の無限連鎖(あそこのほうがここよりもっと大変だ)と、なし崩し的な同一化(みんな大変なんだ)による思考停止を止めるために奄美の固有の困難を明らかにしたいと考えているのだから。

◇◆◇

 テーマがヘビー級だから雰囲気も終始ヘビー級だったかといえば、そうではない。むしろ、逆だった。
 初日、時間になってもやってこない田場前利組を気にして、大橋さんは何度か入口まで見に行っては引き返してくることを繰り返していた。で、たまたま大橋さんが再び見に席を立ったところへ田場前利組、到着。そのときの開口一番が「なんだ大橋段取りワルイナア」である。苦笑。それから、仙人の風貌の田場さんの初日のいでたちはミツヤサイダーのTシャツ一枚。寒くないですか?と肩をさすると、「なんで?」とこれまた仙人のお答えなのであった。
 
 また、お店に入るたびにビール6本、などと頼んであっという間に飲み干す南チームを見て、計良さんは、「本当によく飲みますねえ」と驚かれていた。呆れられていませんようにと祈るところです。でも、計良さんはシカのソーセージを振る舞ってくれて、これが美味しかった。お酒の肴にもとてもよかった。奄美、沖縄料理屋さんのとっておきメニューかなんかで用意しておくとすごく受けるのではないかと、また酒つながりの発想をしてしまった。

 ぼくはといえば、奄美・琉球に対する考えを人前で話すのははじめての機会だった。失語というのは自分のことではないかと笑ってしまう。もちろん発語すりゃあいいってもんではないが、潮時と受け止めたい。

 聞いてくれたみなさん、計良さん、田場さん、前利さん、大橋さん、山内さん、安西さんに感謝です。とおとぅがなし。


 あ、そうそう。「島唄館・沖縄」だっけ?違うかな?そこで、山内さんの三線と唄を堪能できました。仙台で懐かしい音が聞けるとは。波照間島出身の店主さんは、与論小唄が元唄だよねといって、「十九の春」を歌ってくれたのも嬉しい出来事でした。



 

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広告?

 六本木の街角にて。

 二つの看板広告と思って通り過ぎようとしたら、下は、人、でした。
 一瞬、リアルな絵の広告のように見えて思わず撮りました。

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 そう見えませんか? (^^;)



 

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2008/06/29

仙台雨

 仙台から戻ってきました。
 仙台メディアテークは、建築物そのものが面白くて、パネルディスカッションが始まるまでは、ひたすら写してました。

 本番の「アイヌ、沖縄、奄美-まつろわぬ民たちの系譜〈記憶の更新・再構築〉」も濃密な時間でしたが、それは追ってご報告するとして、まずはこの未来的な?空間を紹介します。

 今日の仙台は雨でした。仙台ぽくない(本当は知らないけど)、南のような大粒の雨でした。

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『それぞれの奄美論・50』を終えて

 『それぞれの奄美論・50』の最後の奄美論まで終わってしまった。できればもっと読みたい。もっと色んな人の、特に若い人の奄美論を読みたい聞きたい。奄美の各島の表情が見えてくるほどに知りたい。

 でもそれは贅沢というものかもしれない。奄美発の声が聞こえたというだけでひとまず充分だと言わなければならない。少なくとも、読みはじめたときの気分はそうだったのだから。語られない場所、語らない場所があるとしたら、それが奄美だ。そういう想いはぼくの偏見に過ぎないと分かっただけでもよかった。

『それぞれの奄美論・50―奄美21世紀への序奏』
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 『奄美の島々の楽しみ方』もそうだったけれど、この本は、90年代の前半頃の『おきなわキーワードコラムブック』を思い出させた。『おきなわキーワードコラムブック』は、与論島の感覚で読んでも、言葉といい気分といい共通しているのが楽しかった。ただそれだけに、そこには奄美が欠落しているのが寂しかった。それは、「おきなわ」キーワードであって、「あまみ」キーワードでも、「よろん」キーワードでもないことを思い知らされるようだった。

 それを思うからか、『それぞれの奄美論』を、奄美版『おきなわキーワードコラムブック』と見てしまう。すると当然のことながら違いが際立って感じられてくる。

 『おきなわキーワードコラムブック』は1960年代生まれが執筆の中心メンバーであるのに対し、『それぞれの奄美論』執筆者のボリューム層は1940年代生まれだ。それと関連して、『それぞれの奄美論』は方言を喋れるあるいは方言世界を知っている人々の手になるが、『おきなわキーワードコラムブック』は方言を喋れなくなった世代の記念碑のようなものだ。もっと言うことはできて、だから『おきなわキーワードコラムブック』は風俗学的視点で書かれているのに対して、『それぞれの奄美論』は民俗学的視点が大勢を占める。

 この違いを並べて気づくのは、那覇は都市化が進み、名瀬には牧歌が遺されているということではない。そういうことではなく、奄美には、『おきなわキーワードコラムブック』の1960年代生まれがコラムネタにしているウチナーヤマトグチ(沖縄大和口)と呼ばれるものが、無い、ということだ。シマグチという言い方は聞いても、アマミヤマトグチ(奄美大和口)という言葉は聞いたことがない。

 ウチナーヤマトグチ(沖縄大和口)のようなアマルガム言語を奄美は生んでいないのは、「方言撲滅運動」が激しくかつ長期化したからだと思えるが、ぼくたちはここでも、奄美の「日本人」への変身願望の強度を見るようだ。



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2008/06/28

「奄美 21世紀の可能性」

 二十一世紀の奄美とは
 近代とは、自然を征服することを可能とした理性を持つ人間によって、世界が作り上げられてきたとする。その過去から未来へと進歩・発展する歴史観のなかで、この「ハブ狩」の一文が内包した意味など、あたかも不在のごとく一顧だにされなかった。だが今、その歴史の細部へと目を向けた時、奄美人とハブとの関係は、そのまま私た ちの現代とその可能性を照射するものとしてあることが分かる。
 この非同一なものを排除するのではなく、受容する思考こそが新しい社会関係と共同性のありようを模索する可能性を与えてくれる。他者との共存、自然との共生という言葉で何かを展望したつもりになる表層の現実とでも言うべき位置から、その思考の同一化そのものを揺さぶるような、多様なあり方を生み出す具体的な一歩を踏み出 すことができる。

 このように奄美が暮らしのなかに鍛えてきた思考が、今こうして私たちの可能性へと力を与えてくれる。そして島峡地域社会としての多様な奄美の島々のありようが、その細部に宿す暮らしの多様に重層する知が、私たちを挑発する。
 奄美の苛立ちとは、近代とその変化に目が奪われ、こうした奄美の知をどこかに見過ごしてきたのではなかったかという疑心暗鬼によるものだとも言い換えていい。だから自信を持って改めて断言しよう。
 二十一世紀の奄美、それは語られない言葉に耳澄ませながら、暮らしのなかに培った多様に重層する知の遺産を活用する時の到来なのだと。(『それぞれの奄美論・50』

 これは抽象的な言い回しに躓かなければ、共感できる。与論にはハブがいないので実感を込めにくいところはあるが、ハブを違うものと見なすのではなく、ハブと人間を同じと見なす視線。もともと奄美が持っていたこの視線が、奄美の未来の可能性なのだ。言い方は逆に聞こえるかもしれないが、そういうことだ。

 ぼくもそう思う。21世紀、奄美はその視線を回復させているだろうか。


「奄美 21世紀の可能性」高橋一郎


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仙台涼風

 仙台に着きました。
 日差しは強いものの、気持ちのいい風が吹いています。

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 滞在時間は短いですが、胸いっぱい仙台の空気を吸ってきます。



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2008/06/27

奄美にとって1609年とは何か

 29日のパネルディスカッション用のレジュメです。メモなので舌足らず、あしからず。

◇◆◇

“失語の民”- なぜこれほど失語しているのか?
1609年 - 失語、自失の起点

1.二重の疎外

<大和ではない、琉球でもない>
・「地勢と自然と文化の同一性から<琉球>を向けば政治的共同性が異なると疎外され、
政治的共同性の同一性から<大和>を向けば地勢と自然と文化が異なると疎外される。」
・出自を明かさない。さもなければ、「奄美は沖縄?」と聞かれると「鹿児島県」と主張する。あるいは「奄美は鹿児島?」と聞かれると「文化は琉球」と主張する。失語でなければ主張という自認の形をとらざるをえない。この幅。

2.その隠蔽

<大和ではない、琉球でもない。だが、大和にもなれ、琉球にもなれ>
・自己を消去することによってしか対応できない。
・「日本人」という脱出口への総雪崩。「方言撲滅運動」、「日本復帰運動」。
・島尾敏雄の「奄美の人々は、長いあいだ自分たちの島が値打ちのない島だと思いこむことになれてきた」という言葉の意味。

「二重の疎外とその隠蔽」を解くには。
関係から生まれたものは関係で解くしかない。<薩摩>と<沖縄>の二者との対話。

対<薩摩>
植民地化
・砂糖島としての収奪
・二重の疎外とその隠蔽の強要
薩摩の思想への繰り込みの要請

「ふるさと納税窓口一本化」 ・終わらない植民地発想
「アイヌ先住民族認定」 ・単一民族幻想の終わり


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2008/06/26

いらっしゃいませ!

 今日、とある出版社を尋ねると、
 なんと入口に、
 楽しい字が踊っているではないですか。

Welcome
















 びっくりして思わず、前を素通りしてしまった。
 でも確かにここが入口と分かり、中へ。

 で、楽しい話をさせてもらった。

 お会いするのはまだ二度目というのに、
 営業で行った場だったのに、
 こんな風に迎えていただき恐縮してしまった。

 いだうぁーちたばーり。

 声が聞こえてくるようだった。
 でもここは与論ではなく、東京のど真ん中。

 嬉しいですね。こんなこともあるんですね。

 ありがとうございますです。



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1609年との糸電話

 29日のパネルディスカッションのテーマで、「アイヌ・奄美・沖縄―まつろわぬ民たちの系譜」と投げかけに対して応答した千字の挨拶文です。

◇◆◇

1609年との糸電話-「まつろわぬ民の系譜」と投げかけられて

 来年は何の年かと聞かれたら、「皆既日食」と奄美の多くの人は答えるのではないだろうか。日食の舞台となる喜界島や奄美大島の若い世代では特にそうだろう。ぼくは、来年を「皆既日食」と答える事態をまずは歓迎したいと思う。これがもし「皆既日食」ではなく「1609年」を真っ先に想起するとしたら、それは奄美の不幸が永続化していることを意味するだろうからである。1609年より皆既日食。それだけ奄美は豊かになった。

 ただ、それで話は終わらない。ひょっとしたら「1609年より皆既日食」を想起するのではなく、「1609年」を想起できないのが実態かもしれない。もしそうならそれは1609年が過去になりつつあるという以上に、1609年のことが伝えられていないからだ。というのも奄美では、1609年より1600年の方がよく知られている。前者が奄美史で後者が日本史だからだ。なぜ、身近な奄美史より日本史の方が詳しいのか。それは、奄美の島人が奄美自身を捨てることによって困難を克服しようとしてきたからに他ならない。想起される皆既日食と想起されない1609年。このことはつまり、奄美の困難への対処法が完遂されつつあることを意味しているのである。

 だが言うまでもなく、自己喪失は克服とは似ても似つかない。だから奄美の自失という事態にはまつろわぬがよいのだ。実のところ奄美の島人はこれまでまつろわぬ民であり続けてきたわけではなく、奄美という存在がまつろわぬ可能性を保持してきたというのが正確だ。この意味で奄美の自失はその可能性の消滅を意味しており、ぼくたちはせめてここでは、まつろわぬ民でありたいと思う。

 そこで奄美の自己喪失の源を尋ねれば、すぐに1609年に突き当たるだろう。1609年こそは、奄美の自失の起点である。そしてそう認めるとき、1609年と今との間にピンと糸電話が張られる。糸電話に耳を澄ませば、今でも当時の島人の声が聞こえてくるようだ。ぼくたちはこのとき奄美の四百年を深呼吸する。しかしそれは何と贅沢なことだろう。1600年のことは知識としてしか反芻できないが、1609年のことは、今につながることとしてありありと感じることができる。

 ここでぼくたちは、四百年の深呼吸を頼りに、奄美を捨てるのではなく、かばいながら克服する方へ選択し直さなければならない。そのためにはまず、奄美が受けた困難の固有の構造が明らかにされなければならないのである。




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2008/06/25

「民俗文化、その記述をめぐって」

 既刊の記述内容から読みとれる目的として、茅葺き屋根の頃の、消えつつある暮らしの記録、あるいは伝承世界の再構築に主眼がおかれていることはわかるのだが、危惧感を覚える。
 こうしたことを、市町村誌に共通する記述の理想として今後も持ち続けたならば、十年単位の間隔で改訂版の刊行が遵良く繰り誉れたとしても、民俗文化の記述は衰弱化するであろう。古き奄美の暮らしを記そうとすればするほど、伝承と経験から記述を進めている民俗文化の情報量は圧倒的に制限されてくることは想像に難くない。

 極端に言いかえてみよう。既刊の市町村誌の記述は、いわば百年近く前の暮らしを再現した記述が中心である。では、百年後(=〇〇年)に再び二百年前の暮らしを追い求めて記述するのか、その百年後(つまり現在)は記述されなくてもよいのか、と間いたいのである。
 既刊の記述を全面否定して異論を唱えているわけではない。これまでの記述目的に加えて、現在を意識した民俗の動態を見つめる眼差しを望んでいるのである。「伝統」的な事象の古形を求めつづけ、郷愁やルーツ論に資する記述のみが、民俗文化の記述の全てではなかろう。(『それぞれの奄美論・50』

 町さんの文章を読んで、奄美も都市化したのだなとつくづく思った。現在の市町村誌が民俗学的視点に貫かれているのに対し、町さんは変化する街を記述する風俗学の視点の必要性を訴えている。ぼくはふいを突かれるように、奄美風俗学の必要性を考える前に、風俗学へのニーズが浮上する奄美の都市化という事態に目を見張る。

 奄美がその豊富な民俗を記述し終わらないうちに、変化を記述する風俗の視線が要請されてきた。要は民俗が瀕死に追い詰められているということだ。沖縄、特に那覇はその世界を既に走っている。彼らの風俗の記述から学ぶこと真似てはいけないこと、そんな配慮が奄美にも既に必要なのかもしれない。元ちとせや中孝介が、表現として「還る」という課題を既に持っているように。


「民俗文化、その記述をめぐって」町健次郎


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2008/06/24

与論と食堂マサイ

 沖永良部の前利さんに教えてもらいました。ビッグコミックオリジナルに与論ネタが出ていると。
 
 見れば、「玄米せんせいの弁当箱」。

 知らない漫画である。もっとも知っている漫画は数少ないのだが。

「食堂マサイ・・・」
「アフリカ料理のお店ですか?」
「マサイは“おいしい”っていう意味の与論語だよ。」

 なんて会話です。

 場所はどこか分からない。けれど、「まさい」という与論言葉といい、「あかさき」さんという登場人物といい、荒唐無稽ではない。どこかで取材をしたのかもしれない。ひょっとして、どこかにマサイ食堂は実在するのだろうか。

 どんな展開になるか、ちょっと楽しみです。



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「復帰運動の語り継ぎ及び奄振のあり方」

 現在の「奄美を問う」ためには、以上のような歴史をふまえたうえで、米軍政下での民族運動としての「親米的」島ぐるみの復帰運動を起点にして、考えを構築することが大切である。この連載の五月二十四日付けでロバート・D・エルドリッヂさんが指摘するように、復帰運動が「奄美群島の早期返還」の決定的な要因の一つであったことを、私たちは今一度認識しておかなければならない。さらに奄美大島日本復帰協議会(復協)議長・泉芳朗というヒューマニスティックな指導者のもとで、群島民が心を一つにして「日本復帰」を闘いとった運動を奄美歴史上の金字塔として、私たちはこれを最大限に評価し、語り継いでいくことが大切である。(『それぞれの奄美論・50』

 ぼくは、いま大切なのは復帰運動を「最大限に評価」することではなく、「充分に内省」することではないか。貧困や孤立感から復帰に雪崩れ込んだのはやむを得なかったとしても、「群島民が心を一つ」にしたことが、本当に主体的な意思だったのかどうか、「心を一つ」にしたこと以上に、「心」の中身を吟味するのだ。そのほうが、奄美にとって得られるものはずっと豊かだと思う。

 ところで二十一世紀は、奄美群島にとって経済的な自立(自律)が課題になる。直接占領の償いとして始まった補助金政策「奄振事業」は、二〇〇三年(平成十五年)度で五十年を迎える。五年の時限立法である特別措置法が改正を繰り返し、奄美群島十四市町村へ一兆五千億円を超える多額の投資がなされることになる。現在では社会資本(道路・港・空港など)が整備され、農業振興の一環として農業基盤整備も充実してきている。しかし、数字計測の「所得水準」のモノサシでは、本土との格差は依然として続いている。今後はこの現状を「格差是正」として単眼的に捉えることなく、自然を含めた資源の豊かさ・奄美文化の豊かさ・生活習慣の豊かさ・地域共同体の豊かさなどを総合的に捉える複眼的思考が大切である。そして、これらの「豊かさ」を活用する起業家を育てる奄振事業が必要になってくる。そのためには十四市町村がこれまでの「上意下達」から「分権と参加」の住民主体の自治体へと意識を転換することである。地域政策の主体は地域住民であるからだ。

 奄振は延長が満場一致で可決されたという。「NPO法人ゆいまーる琉球の自治」の松島さんは、「開発行政によっては島は自立しない」(「奄振の延長が満場一致で決議された」)と問題提起している。「奄美の家日記」の圓山さんは、「ハード面だけでなく、是非ソフト面にも」と提案している。奄振の予算は300億くらいだろうか。奄美の人口は約15万人(正確な数値ではありません)だとしたら、2万円/人ということだ。いっそこの2万円を一人ひとりに提供。その使い方は島人みんなで決めるとしてはどうだろうか。しかしその前に、「奄美群島振興開発特別措置法」の主体がなぜ「県」なのかが分からない。奄美はこの主体を「県」から取り戻してはどうだろうか。


「復帰運動の語り継ぎ及び奄振のあり方」西村富明


 

 

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2008/06/23

「奄美に暮らす」

加計呂麻バスツアー
 今年八月、明治生まれの母が逝った。長期の在宅介護だったので、十月のある日、友人たちが「お疲れさま」と、バスツアーをプレゼントしてくれた。加計呂麻を訪ねて、諸鈍シバヤを見るという日帰りのツアーだった。
 二十年ほど前、諸鈍シバヤを見に行ったことがあったが、久しぶりの加計呂麻だった。以前より諸鈍のデイゴの木がやせ細った感がしたが、諸鈍シバヤは変わっていなかった。演目も装束もカビディラも。単純で素朴なものほど、昔の古い型が残されているように思う。伝承を考えると子どもたちの参加は嬉しかった。
 加計呂麻までの遠い道程も、島のことをよく勉強しているバスガイドの案内で、時間のすぎるのが早かった。島に住む人に、島のことをよく知ってもらいたいと企画したということを聞いて、私たちは感激した。(『それぞれの奄美論・50』

 このエッセイのタイトルは、「奄美で暮らす」。これからも島人が奄美で暮らすための条件は何だろう。最低限言えるのは、自活できる産業を内在化することだ。

 現状のまま開発を続けていったら開発する余地が無くなった時点で住めなくなる。開発する理由が、「自然では食えない」、「珊瑚礁では食えない」ということだとしたら、「自然で食える」、「珊瑚礁で食える」という状況を作り出す必要がある。そして確かに奄美の可能性ある資源は、森と珊瑚礁だと思える。

・島の訪問者への治癒力を維持するだけの珊瑚礁と森を確保する。
・本土の資本で事業を行わない。
・集客と交流に最大限、インターネットを活用する。
・島を開発しない第三次、第四次産業を育成する。
・島の特産物をもとにした地域ブランドを数多くつくる。

 拙いけれどこんな発想をしていると、ぼくは「産む島・帰る島・逝く島」はどうだろうとまた思い出すのでした。

「奄美で暮らす」泉和子


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2008/06/22

鶏小屋のある出版社-南方新社

 南方新社の向原さんにお会いした。奄美と薩摩の「民衆と和解」(「消された薩摩の歴史から」『それぞれの奄美論』)に共感して、お話したいと思ったからだ。なし崩し的な民衆和解も民衆和解への射程のない批判も望むところではない。けれど、そんな細い糸を縫うような主張に出会えることはなかなかない。

 ごめんください。訪ねたぼくが最初に案内されたのはなんと鶏小屋。出来立てでしかもお手製。鶏はクローバーもよく食べるのだという。向原さんが差し出すと、我先にとついばんでいた。思うに数千あると言われる出版社のなかでも鶏小屋併設なのは、南方新社だけではないだろうか。半農半出版、いや「半」の比重があるわけではないだろうけれど、理念として半農半出版を掲げているような鶏小屋の佇まいがよかった。

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 南方新社の社内は、奄美関連本満載(当たり前だが)で、図書館として使いたいくらいだった。けれど、その圧倒感が他人事みたいに向原さんは、『奄美ほこらしゃ』(和眞一郎)、『シマ ヌ ジュウリ』(藤井つゆ)、『かごしま西田橋』(木原安妹子)など、重要な本を紹介しながら、飲み物を出してくれたのだが、それがもう「島美人」なのであった。

 それからしばし奄美談義。で、慌ててバス停へ走り、天文館を通るバスに乗り奄美、沖縄の人が多く住むという易居町の居酒屋で、奄美ゆかりの方たちと飲んだ。美味しかったし楽しかった。自分が積極的に求めてこなかっただけで、問題意識を共有できる方はいるんだ、と、そんな当たり前のことを再確認するようだった。

 考えてみると、ぼくの奄美の知識はその半分近くを南方新社に拠っているのではないだろうか。そしてその比重はますます高くなりつつある。これはぼくの好みというのではなく、奄美本を尋ねれば必然的にそうなる。南方新社が無かったら現在の奄美論はどうなっていただろうと思うと慄然とする。大きな仕事は深刻そうな表情ではなく飄々たる人柄に担われている。それはすごいことだ。

 鹿児島弁を女性がゆっくりしゃべるとメロディのように聞こえるときがある。似た感じは京都の女性が京都弁をしゃべるときにも思う。向原さんの口調は両者が融合していて、鹿児島弁と京都弁を行きつ戻りつしながら、人をゆったりさせる音色を放つので居心地よかった。ありがとうございます。


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「『てげてげ』の先にあるもの」

 与論島に通い詰めているジャーナリスト、吉岡忍さんが『路上のおとぎ話』という本の中で、焼酎の杯をみんなで回して飲み干す「与論献奉」について触れ、「人生、投げたっていいんだよなあ」という気持ちを抱いたことを書いている。まさしく、これだ、という感じだ。吉岡さんが書くように、これは「投げやり」ということとは全く違って、人生に対する、本土でのこわばった、凝り固まった感覚から解き放たれる思い、ということなのだ。「良いてげてげ」の極致と言えるかもしれない。
 さて、新世紀である。新世紀の奄美。ここはやはり、「てげてげ」を良い方向に伸ばしてほしい。よそ者の私としては、そう願うばかりである。大げさに聞こえるかもしれないが、どうにもこうにも動きが取れなくなってきた日本の政治・経済・社会のシステムを揺り動かすには、「てげてげ」しかないのではないか。「てげてげ」は、こわれやすい(フラジャイル)、いわば「揺らぎ」の状態である。だからこそ、その延長線上にあるであろうものに私は期待する。(『それぞれの奄美論・50』

 こう書かれると、「与論献奉」も悪いもんじゃないと思ってしまいそうになる。
 でも、「人生、投げたっていいんだよなあ」という感覚は分かる、と思う。唐牛健太郎もそんな気分で与論島に滞在したろうか。それは隠者の心持ちに似ている。

 この気分はぼくたちのなかにもあると思う。それが、「人生に対する」「こわばった、凝り固まった感覚」を相対化させてもくれるし、それが本土での生き難さのもとになったりもする。

 でもフラジャイルではあろうが、なかなかどうして、しぶとくもあるたくましさもあると思う。


「『てげてげ』の先にあるもの」神谷裕司



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父の一年祭

 二十人以上集まるなんて今は滅多にないですよ。帰り際、神主さんがおっしゃった。多い少ないは分からなかった。あまり負担はかけられないからと、鹿児島に来れる父のぱらじに声をかけさせてもらった結果だった。

 父が逝って一年経とうとしているのだが、つい先日、百日祭を行ったようにしか思えない。集った人もその時一緒だったのだからなおさらそうだ。万事においてこだわりがなく控えめな人だったが逝くときもそうだったので、いるといないの区別があまりつかない。長い隠れんぼに興じてなかなかみつけてくれないと待っているんじゃないか。父の姉妹のあんにゃーたーを案内しているとそんな気がしてきた。いるような気がする。うじゃたーも口々にそう話していた。

 これが偲ぶということこれが供養ということ。そう言ってしまえばその通りなのだけれど、父がいないのに父をよく知る人たちとむぬがったいしながら思うのは、寂しいからだということだ。父がいないのがさびしいから集う機会を作っているのではないか。さびしいから親しい人が集まって話すことにしているのではないか。こう思うのはぼくの年齢のせいではなく、ぼくが今まで、寂しいという思いの切実さに気づかない出来損ないだったからという気がしてくる。

 どうしてあなたはそんなに与論か好きなの? 従姉のあんにゃーに尋ねられてあれこれ答えるものの、とどのつまり好きというより、このまま遠くにいて島を失ってしまうのが寂しいからじゃないか。最近奄美にこだわっているのも、忘れられた土地のまま奄美が失われてしまうのが寂しいからじゃないか。ブログに書くのなんか、その最たるものだと、そんな気がしてくる。先日、喜界島の方が、島に戻ると二三日で飽きるが、飛行機で羽田が見えると、ああまたここかとため息が出てくると話していたが、ぼくもいまそんな味気なさのなかでこれを書いている。

 久しぶりに会った姪たち。上の子が人見知りの激しい下の子の髪を結んであげていた。こんな場面こそかけがえない。というよりこんな場面こそ作ってあげなきゃいけない。それ以上のことってないのかもしれない。そう思った。

Mei_2











 一年祭。父だったらこういう時なんと言うだろう。最近よくそんなふうに考える。父の書斎から、比嘉康雄の『日本人の魂の原郷 沖縄久高島』、エリザベス キューブラー・ロスの『死ぬ瞬間―死とその過程について』、『死、それは成長の最終段階―続 死ぬ瞬間』、酒井正子の『奄美・沖縄 哭きうたの民族誌』を拝借してきた。



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2008/06/21

「奄美との出会い」

 油をしいたような海面に、船ばたにぶつかる椎の音と水の流れる音だけが聞こえた。
 少女は標準語を使わなかった。ときたま思い出したように短く私に話しかけてきたが、純粋の方言であったから、私にはほとんど理解不能の言葉であった。私は大阪弁丸出しであった。少女はまた私の大阪弁が理解できないというふうであった。
 目的の釣り場所は集落の近くにあった。伯父は舟の上でヤドカリを殻ごと叩きつぶし、釣り針に引っかけると釣り糸を小石にぐるぐる巻きにして船ばたから海中に放り込んだ。
 海面を、桶に取り付けたガラスを通してのぞき込むと、透明な水の底に色とりどりの魚がちいさく群れているのが見える。小石はくるくるまわりながら魚の群れをめがけて落ちていく。魚と触れあうころを見計らったように小石が釣り糸から離れていくと、周囲の魚が興味をみせて寄り集まってくる。魚が釣り針のヤドカリをついばむタ イミングにあわせて伯父は釣り上げる。
 伯父はつぎつぎと釣り上げた。魚がえさに食いつくのを見ながら釣るのだから、こんな簡単なことはないと思った。(『それぞれの奄美論・50』

 澤さんによれば、昭和39、1964年、加計呂麻島へ向かうときの光景だ。
 釣りは魚との対話だとすれば、琉球弧での対話は釣り糸を通じて存在を確かめるものではなく、魚はそこに見えるから魚の口元と直接、話しているようなものだ。

 ここでは魚との対話より人間同士の対話のほうが難しいもののように見えている。澤さんは、1964年からの歳月のうちに、「あのゆたかで美しかった白浜が、やせ細った、うすっぺらなものになってしまった。海岸沿いに棲む魚は激減した。」と、加計呂麻島の海を嘆くのだが、ひょっとしたら、「やせ細った、うすっぺらなものになってしまった」のは海以上に方言だったかもしれない。そしてそっちのほうが自然より取り戻すのは難しいかもしれない。

 そこで言わなくてはならない。リメンバー・アマミ、奄美を思い出せ。それが新しい世紀の合言葉だ。

「奄美との出会い」澤佳男


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2008/06/20

「周縁こそ最先端」

 ところで、こうした奄美の民俗伝承は枚挙に暇がない。年取りの晩にウァンフヌィ(豚骨料理)を食べる食習俗は、ラオス北部のモン族の正月前に豚を殺し、豚骨料理を食べないと年を越せないとする習俗につながる。また、カネサル(旧暦十月の頃の庚申の且に牛や豚、山羊、鶏などの家畜を殺して食べ、その骨を集落の入り口や出口に張った縄に掛けてシマガタメ(集落強化)をする。こうした習俗も、ラオス北部のアカ族が陸稲播種前に牛・豚・鶏などの家畜を殺して集落内を清浄化するミシヨロの祭りやカム族が村の中に病人が出たときに家畜を供犠する祭りなどの防災儀礼につながる。
 少数民族とのつながりは、精神文化のみに止まらない。日本列島では奄美にしかないと言ってよいチヂン(楔締め太鼓)は、ほとんどヤオ族とその支族しか持っていない。藍染めと餅、浮き織り、焼酎造り、瓜食、芋食、離れ二つ家、ティルと挙げれば際限がない。
 もはや、日本はおろか、琉球文化の中にさえ収まらない奄美を認識せざるを得ない。一つでない日本、一つでない沖縄、ましてや一つでない奄美までをもえぐり出す、しなやかで深みを持った奄美の民俗の力が予感される。奄美の目による東南アジアの少数民族の文化への眼差しは、そのまま「内なる奄美」の自己確認を深め、「外なる奄美人」すなわち「多様な奄美」の発見への逆照射となることは間違いない。そこには「日本文化の故郷」という呪縛から解放された奄美の自立への道が見える。(『それぞれの奄美論・50』
   90年代に日琉同祖論と柳田國男は批判に晒されたというが、その批判の一系譜がこれだと思える。たしかに奄美がいつも「日本文化の故郷」と見なされるのは息苦しいに違いない。ぼくも、与論には古い日本が残っているとあまり強調されると、ここは日本じゃなくてよと半畳を入れたくなるときがあるというものだ。

 しかしここにあるのは「点」の論理ではないだろうか。少数民族と比較する限り、このような共通性は、奄美とどこかだけではなく、それこそ大和朝廷勢力とどこかともすぐに見つかるに違いない。だが、その「点」に着目するだけでは面にならないし流線を描かない。日本人から離れることはできるかもしれないが、奄美人とは誰かを見いだすことも難しいのではないか。

 「日本文化の故郷」への嫌悪は分からなくはないが、その呪縛を解くのは、「点」の発見による日本文化からの逸脱ではなく、奄美文化の時間性の遡行により日本文化を豊かにすることあるいは解体することではないだろうか。

「周縁こそ最先端」川野和昭


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2008/06/19

「情報量八面の限界性」

これまで、南海日日と大島の両紙は、互いに競い合って紙面を充実し、住民の知る権利に応えてきた。しかし、その競争も、購読料、一月一八三五円、一七五〇円という現実的な制約の中で、白紙のカラーをきわだった違いとして紙面に反映させることは難しかったように思える。何にもまして、喜界島、与論島に常駐の記者が同様にいないことは地元紙として致命的であり、地元紙と全国紙の二紙購読を経済的に負担できない一般的購読者にとって、紙面八面の情報量は少なすぎる。
 企業の統合合併が世界的な規模で行われている。ディズニー文化が示すように、資本は力であり文化でもある。そんな時代だからこそ、奄美が奄美で在り続けるために、地元紙により力強い発信力を期待する。

 新世紀の社会的要請に、地元紙二紙はどう応えていくのだろう。広告・購読料金の問題や奄美全体の購読者数の問題もあり、それを現在の二紙体制で実現するのは、極めて困難に思える。それならば思いきって両紙が現在の取材力を維持したまま統合し、一たす一を三として機能強化と紙面の充実をはかることは非現実的なことであろうか。

 社会の健全な発展には健全で力強いジャーナリズムが不可欠である。地元紙がもっと多岐・多彩・多様な記事や論評を多数である六割の読者に伝えること。そしてその六割がもっと広く高い視点から奄美と世界を見つめること。時間はかかるが、そこからしか奄美の二十一世紀は始まり得ないであろう。(『それぞれの奄美論・50』

 奄美の21世紀は、ネットの市民ジャーナリズムから始まる、としたらどうだろうか。
 市民が記者でありネットを通じてリアルタイムに島つながりの出来事を投稿する。メディアとしての新聞社は、ネットのニュースのエッセンスを集約して紙として配布する。その際、採用された記事の市民に対していくばくかの報酬を支払う。いくばくかでいい。紙面の記事は、ネットのブログやホームページのURLにリンクして、より詳細を知りたい場合や議論をしたい場合はネットで行う。メディアとしての新聞社の役割はネットのニュースの抽出と編集になる。もちろん新聞社の記者自身もプロの市民ジャーナリストとしてネットにニュースを配信している。

 新聞社は取材力を維持するのではなく、ある部分を市民に委託し編集力を維持するのだ。どうだろう。


「情報量八面の限界性」得本拓


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2008/06/18

Hizukiさんの「与論小唄」

 与論の民の末裔のHizukiさんの歌う「与論小唄」です。聞いてください。
 時間のない方は、38分頃から聞くとちょうど頃合いです。いちゃりゅんどー。

 Hizukiさんの番組を聞いて見てください
 
 与論の唄者が登場してほしい。それはぼくなど切なる願いなので、与論にゆかりを持つHizukiさんが、透明感ある声で歌ってくれるのはとても嬉しいことです。

 Hizukiさんは、映画『荒木栄の歌が聞こえる』でナビゲーションも務めています。そういえば、与論の印象を「空と海が近い」と応えていました。これからの活躍を心から応援したいですね。



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「島唄アレンジの現場にて」

 ある夜、孝介が、文紀とイジチに伴われて「かずみ」(島唄と烏料理の店)を出てきた。二十歳の若手ウタシャのホープ孝介。今や、二年上の康男と並び、島唄スター。三人は、近くの喫茶店「樹乃」でテーブルを囲む。ヨーロッパから来たクラシック音楽と、アフリカからアメリカへ入って完成したジャズと、島唄とが出会っている! それも奄美で。この三人の、この場は、この「国境撤廃」は、世界の音楽史の必然的方向性の縮図で、ここで起こっていることは世界で起こっていることだ、と力説するィジチ。強調の相の手を入れる文紀。二枚のCDアレンジの限界を共通して越えるには、クラシック・ポピュラー・島唄と三つの畑にまたがれるウタシャとの共演が必要だった。孝介は最適だった。孝介も新しい可能性への挑戦に一致してきた。音楽に国境はあるけれど、超越することも撤廃することもできるのだと力説するイジチ。そして、可能な限り忠実に踏襲するべき「伝統」と日々生まれ変わる「革新」とはひとつのものだと力説するイジチ。でも、自分が喜び生きる島の音だから、それを愛し、奏でるのは、自然な生活の行為なのだと結論するイジチ。さらに、ヤマトの人に安易に触れられたくない「島の想い」を私だって持ってるのよ、とイジチ。静かな興奮が三人を包んでいる。(『それぞれの奄美論・50』

 ここにいう孝介は中孝介のことだ。元ちとせ以降の奄美の島唄はみんなが知っていて、かつみんなが歌えるという水準を獲取した。それは奄美の表現にとって初めてのことだった。いやひょっとしたらヤコウガイの流行以来のことかもしれなかった。いやもっと遡れば、三母音を本州島に流行させて以来かもしれなかった。

 けれど奄美にとって相当困難な達成を果たしたということは、いままでには無かった課題を引き受けるということでもある。それは、帰れるかどうか、ということだ。仕事が忙しく奄美になかなか帰れなくなるという意味ではない。表現として帰れるかどうか、ということだ。自分の本来的な表現の場を保てるかどうかということだ。

 吉本隆明に教わってきたことだが、資本主義は往く(行く)道は助けてくれる。つまり良い表現をすればそれをさら大きな場で提供できるように助けてくれる。それは否定すべきことではない。課題はその次に来る。つまり、資本主義は往く(行く)道は助けてくれるけど、還る(帰る)道は助けてくれない。そして往く(行く)道に歩みを進めた者にとって還る(帰る)ことは難しくなる。だから、往き(行き)っぱなしで還れ(帰れ)なくなってしまう表現者が多い。自分にとっての本来の表現の場所、還る(帰る)場所は自分で確保しなければならないのだ。

 奄美の表現も、それを課題にする段階に入った。奄美大島のあの森の呪力を失わない、そういう場所を、往く(行く)道でのある達成を果たした表現者には期待したい。


「島唄アレンジの現場にて」伊地知元子




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2008/06/17

「奄美の黒い輝き」

 奄美の黒糖焼酎文化は上流社会のものであった。しかし、それを支えたのは庶民の焼酎文化であった。『南島雑話』によれば、「椎の実、蘇鉄、栗、麦、甘藷、桑実…」など様々な奄美の植物から焼酎が造られ、庶民の飲料となっている。
 奄美が長寿の蓬莱島であるのは、焼酎の楽しみが一つにあったからであろう(奄美全体では九十歳以上の高齢者は千五百七十人)。今年九月の敬老祝賀会会場、名瀬市の奄美文化センターは、五百人の皆さんで賑わったと報じられていた。日本一の長寿本郷かまとさん (伊仙町出身、鹿児島市在住)は、先月百十三回日の誕生日を迎えられた。サトウキビ栽培に携わりながら、四男三女を育てられたという。本郷さんの大好物は黒砂糖、晩酌にさかずき一、二杯の焼酎を飲むこともあるとか。もちろん島唄と手拍子の踊りもお得意である。
 奄美はこれからも生命を育む黒い輝きを増していくにちがいない。黒豚(島豚)、クロマグロ、クロウサギ、泥染、黒酢、黒麹…などなど、奄美の魅力は尽きない。(『それぞれの奄美論・50』

 与論島を起点に「色」を発想すると、何といっても与論ブルーがあり、砂浜の白がある。そしてそれに、ガジュマルの緑や花の赤や土の赤などの原色が続く。代表的なのは、なんといっても「蒼」だと思う。「黒豚(島豚)、クロマグロ、クロウサギ、泥染、黒酢、黒麹」という黒の系列はぼくには驚きだ。けれどよく考えてみると、確かに、黒砂糖しかり、泥染めしかり。そしてここに挙げられていないものでいえば、あの夜の闇らしい闇も、黒だ。

 黒としての奄美。これは奄美の地域ブランドづくりにはヒントになる。
 この着眼は、原口さんが、分析的な視点で奄美を捉えて得られた発見だ。だが一方、ぼくは原口さんの文章は、他の「それぞれの奄美論」者には感じない違和感も惹起せずにはおかなかった。それはなぜだろう。

 その違和感は、エッセイの冒頭からやってくる。

 奄美の魅力を問われれば、私は一番に黒糖焼酎を挙げたい。理由は芳醇いだけでなく、その甘い香りが奄美の世界に誘ってくれるからである。黒糖焼酎は奄美の歴史が長年にわたって育んできた黒潮文化に違いないと思う。
 そもそも酒は百薬の長といわれ、適量なら長寿の薬である。その原料である黒糖が奄美では「生き薬」といわれ、もともと江戸時代薬種問屋が扱う貴重な薬なのだから、黒糖焼酎が養生の妙薬でないはずがない。この奄美の宝ともいうべき黒糖焼酎の起源は謎とされているが、早くても黒糖生産が軌道に乗った元禄年間(十八世紀末)以降であることは間違いない。黒糖以外の原料(粟などの雑穀、椎の実や米など)なら、奄美の焼酎づくりの歴史は古く、すでに藩政時代には、奄美は藩からその生産地に指定されるほどであった。

 ぼくはまず、「軌道に乗った」という表現に躓く。軌道に乗ったってあんた、それは誰が誰に言う言葉だろう。原口さんの書いている18世紀末とは、薩摩藩による黒糖の買い入れが開始されたと想定される時期であり、そうとしたら、「軌道に乗った」というのは薩摩藩が言う台詞なのだ。

 元和九年(一六二三年)、藩は新しい征服地である大島に統括の方針を示したが、その中に「諸百姓、なるべき程しやうちう(焼酎)を作り相納むべき事」とある。藩は奄美の農民に「しやうちう」すなわち泡盛の製造を命じたのである。このときすでに奄美には焼酎製造の高い技術があったと見られる。藩が焼酎を責納品の一つにしたのは、日本では焼酎が高価な舶来品として珍重されたからである。島津氏は室町時代から舶来の焼酎を将軍家などへの贈り物にしていた。応永十七年 二四一〇年)、上洛した第七代島津元久は、将軍足利義持に「南蛮酒と沙糖」十壷を引出物としている。

 ぼくはすぐまた躓く。こんどは、「征服地」という言葉だ。薩摩にとっての征服地である奄美。躓くのは「軌道に乗った」と同じように、「征服地」が薩摩からの視点で書かれていることに由来しているだろう。けれどそれだけではない。もっと躓くのは、「征服地」と書く筆致が、もう済んだこととして書かれていることだと思う。それはひとつには、奄美の魅力を「黒」として見いだす分析的な視点が加担している。その分析的な視点は、奄美から距離を持つことによって生まれるものだが、その距離感は、ここに書かれた時代の奄美を、本土近世期を書くのと同じような、過去の歴史として書く態度を生んでいる。その距離感が「征服地」という言葉を選ばせるのだ。

 江戸時代、琉球では、白砂糖の生産は普及していないので、砂糖とは黒砂糖である。とすれば、砂糖焼酎は黒糖焼酎以外には考えられない。鶏飯など奄美における薩摩役人への接待文化の高さを考えるとき、江戸時代に黒糖焼酎があったとしても決して不思議ではない。
 奄美が焼酎の生産地であったことを示す別の史料がある。悪名高い黒糖専売制下に適用された黒糖と諸物品との交換表である(「砂糖惣買入に付品値段の党」、一八三〇年)。この中で、鍋一丸が代糖二〇〇斤、焼酎甑一つが二〇〇斤、酒一升が二五斤、茶家一つが五斤と決められている。これらの品目は鹿児島から奄美へ送られるものであるが、焼酎甑は、黒糖生産に欠かせない鍋と並んで諸晶中縮緬に次ぐ高い債がついている。交換表には焼酎がなく、酒があることから、気温の高い奄美では清酒は造られていなかったことがわかる。ただし、みりん酒や神酒は造られていた。

 ぼくの違和感は次第に憤りへと傾いてゆく。「接待文化の高さ」って何だ? 「悪名高い黒糖専売制」って何だ?
 どちらが「高い」のもその通りだろう。だが、ここで苛立ちを催さずにおかないのは、歴史をあまりにおすまし顔で通り過ぎているからだと思う。そんな昔のことをと、人は原口さんは言うだろうか。だが、昔のことではない。4世紀前のことであったとしても、現在までその痛みは続いていると感じられていることだ。痛みは続いている。その横を、ここは昔、征服されて悪名高い制度が敷かれたところです、とまるでバスガイドさんのように案内されて通過してゆく。原口さんの書きっぷりは、現場が現場であり続けているのにすでにガイドさんをしているようなものだ。ぼくにはそう感じられる。

 幕末の一八五〇年代、名瀬で暮らした流人の名越左源太が著した 『南島雑話』は奄美研究のバイブルと言われるほど大島の風物を洩らさず記しているが、なぜか「黒糖焼酎」の製法については記述がない。わずかに「留汁焼酎とて砂糖黍を活したる焼酎に入ることあり、至て結構なり」と記してあるにすぎない。左源太は在島中に島津斉彬が藩主となったため、流人の身から大島の地理調査役を命じられている。従って左源太は大島の上流社会との交流を深めたと思われる。幕末大島においては、「家稼業一番な、ま東や前織衆、うりが二番な、ま住佐応恕衆、大和浜三能安衆」と唄にまではやされた諸鈍の林前織、住用の住佐応怒、大和浜の太三能安の三大富豪(衆達)が互いに饗応しあったが、最後の番の家では、もはや前の二家で饗応の限りを尽くしたので、焼酎で風呂をわかして歓待した、という逸話が残っている。こうした逸話が生まれる背景には、上流階級では泡盛や黒糖焼酎が愛飲されていたことが考えられる。

 「上流階級」って誰のことだよ。そう毒づきたくもなってくる。この距離感は何だろう。ほっかむり。
 原口さんの記述に躓くのは、過ぎ行かない薩摩藩支配時代を過去の歴史として済ましていることから来る。けれど実のことろこの苛立ちは、原口さんがそうと知ってて知らぬ顔で過ぎようとしている、そのほっかむりに由来しているのではないだろうか。
 奄美に黒を見いだす、その分析的視点と同じ遠い距離から原口さんは奄美の歴史を視る。けれど、ここには他の「それぞれの奄美論」者にはある近い距離からの視点が欠けている。原口さんはそれがここに欠けていることを知っているのだ。このほっかむりは、『鹿児島県の歴史』で奄美の歴史に知らぬ振りするのと同じ構造に思える。


「奄美の黒い輝き」原口泉


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2008/06/16

仙台でアイヌ・奄美・沖縄のパネルディスカッション

 6月29日、仙台にて、「アイヌ・奄美・沖縄-まつろわぬ民たちの系譜」というテーマでパネルディスカッションが行われます。

 CULTURAL TYPHOON 2008 in SENDAI

<6/29 13:00~15:30>

まつろわぬ民たちの系譜
RE-collection of Occupied Memories

アイヌ・奄美・沖縄――まつろわぬ民たちの系譜〈記憶の更新/再構築〉
Ainu, Amami, Okinawa: RE-collection of Occupied Memories

司会/chair:大橋愛由等

 日本本土からみれば、「周縁」にあたるアイヌ、奄美、沖縄。これらの地域は、永く日本/ヤマトにまつろわぬ地域・国家として対置してきたが、近代化(国民国家の誕生)と共に「日本国」の一部となり、徹底した同化政策によって「日本人」という単一民族幻想が定着するまでにいたった。しかし今、この幻想の捉え直しが、進んでいる。アイヌ民族を先住民であると認める国会決議が採択され、アイヌ政策の見直しへの希求が内外から高まっている。奄美・沖縄では、来年(2009年)が島津軍の琉球侵略(1609年)からちょうど400年にあたることをキッカケに、薩摩・ヤマト・米国に絡め取られてきた来し方を総括しようという動きが活発化している。こうした動きは、各民族・地域住民の歴史を呼び覚まし〈記憶の更新〉、あらたに未来に向けて自らの立ち位置を確認していく〈記憶の再構築〉という動きに他ならない。今回のセッションは東北という同じくまつろわぬ場から発信することを噛みしめながら進めていきたい。

 仙台にいらっしゃる方、時間がありましたらぜひ覗いてみてください。

 あまみんちゅドットコムでも紹介されています。

 仙台でアイヌ・奄美・沖縄のパネルディスカッション



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「人と人のとの交流-歌と踊りの場」

 島の歌と踊りは、島に住む人どうしの関係を深め、鳥人の心を島へと引き寄せてきただけではない。島の外部の人との交流をも促してきた。ほんの一例だが、先日ハワイに住む友人と一緒に、笠利町催仁の八月踊りに出かけた。シバサシの前夜、ハワイからの珍客を歓迎して開かれた宴では、独特のシマ料理もさることながら、「朝花」にはじまる歌三味線やカラオケで夜中まで楽しんだ。そしてシバサシの二日間は、太鼓を習いたいという彼女の希望がすんなり受け入れられて、遠方からの来客に太鼓を打たせては冗談をとばし、笑いながらも時には真剣に打ち方や踊り方を教えていた。踊り終わった夜には、今度は彼女の方がハワイの民謡を歌い、ハワイの踊りを披露した。すると居合わせた人たちは皆、見よう見まねでハワイの踊りを踊り出す。真剣に練習しているかと思うとおかしな格好をわざとしては笑い、笑いこけたかと思うといつのまにか真剣に踊っていた。佐仁の人たちは日頃自分たちの歌や踊りに親しんでいるだけあって、よその歌や踊りに対する興味も絶大だ。これまでも、よそから来客がある度に自分たちの歌や踊りで歓迎し、また来客の歌や踊りを楽しんで、多くの人と友情を育んできた。そこには、よその人に親切にしなければいけないとか、接待しなければいけないとかいうような、堅苦しい雰囲気は全くない。来客とともに自分たちも心から歌や締りを楽しんでいる。そういう心の交流が可能なのは、日常雑事を忘れさせてくれる歌や踊りを媒介にするからこそであろう。またこういった無礼講的な機会でも、居合わせた人に対する心使いや目上の人に対する礼儀を、彼等は決して怠ることがない。それでいて歌や踊りに対しては誰もが隔てなく平等な立場で望むことができる。こういった歌と踊りの機会こそが、外部の人を受け入れ、よそからの文化を吸収する貴重な機会だったのではないだろうか。

 奄美の歌のレパートリーの中には大和からの曲もあり、沖縄と共通の歌詞もある。そういった歌の移動をもたらしたのも、まずは歌と踊りをつうじての人と人との心の交流の機会があったからであろう。長年「よそもの」でありながら温かく迎えられてきた一人として、奄美の歌と踊りに感謝するとともに、生活とともにある奄美の歌のパワーがこれからも続いてほしいものだと願っている。(『それぞれの奄美論・50』

 これはいいエッセイだ。だから長文だけれど引用した。そうか、「歌と踊り」か。奄美や沖縄がどんな状況になっても失わなかったもの。それは、歌と踊りだ。方言を撲滅に追いやっても歌の中の言葉までは撲滅できなかった。島唄のコンサートでは、「行きんにゃ加那」を、意味も分からずに歌ってきたと、若き唄者は語っていた。

 奄美と沖縄の困難を底の方で支えてくれたのは、「歌と踊り」だった。「歌と踊り」があったから、奄美と沖縄は生きてこれた。実にその通りなのではないだろうか。


「人と人のとの交流-歌と踊りの場」中原 ゆかり




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2008/06/15

「本当の日本人」

 「これで、八年間の苦悩は一変して、今日、この日の我々は、本当の日本人になったのであります。一九五三年十二月二十五日、「復帰の父」泉芳朗は祖国復帰祝賀会で奄美の群民に叫んだ。

 「今日からわたしたちは日本人です」。1953年に奄美が、1972年には沖縄がそう言った。ここでは国家への所属が、日本人であることの保証として受け止められている。日本人が当然であった人たちに比べ、非日本人を経験した奄美・沖縄は、日本人に憧れ、日本人を保証した日本に期待した。その期待が過大であった分だけ、失望が今の奄美、沖縄に影を落としている。だが、ぼくたちに必要なのは失望ではなく、ぼくたちが奄美・沖縄自身を見失ってきたことへの内省ではないのか。

それぞれの暮らしの視点から、それぞれの奄美、沖縄(琉球)、鹿児島(大和)の虚々実々を微細にふわけして、対等にむきあい、あらたな関係を結びなおしたい。歴史は必然である。原点のシマへ。 (『それぞれの奄美論・50』

 対等な関係を築いていくために、奄美は、沖縄と鹿児島それぞれへの対話を必要としている。一方は、別離のあとの再会の言葉をもって、一方は脱被支配、脱支配のための言葉をもって。


「本当の日本人」森本眞一郎



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あんまぁで与論話

 最近、与論話に飢えている。盛窪さんはチヌマンダイを再開させていないし、ぼくもすぐに行けるわけではない。島の話を聞きたい、したい。

 それだから、「奄美の家」で与論20年通いの勝司さんのお話が聞けるのは嬉しかった。勝司さん、なにしろ携帯の待ち受け画面がなんと茶花海岸の夕陽である。それをみせてもらうだけで、いちゃれるというもの。

 で、昨日は同姓のやかと、やんばる料理あんまぁで与論話。なにしろ、ぱらじで昔のお隣のよしみ。与論のなかでも宇和寺というかなりローカルなスポットの話で盛り上がれる。盛り上がるといっても二人でひっそりとするだけ。それがいい。小さな声で与論話。

 隣では、男二人が三線で沖縄民謡の練習。安里屋ユンタ、島育ち、ちんぬくじゅーしー・・どういうわけだが、ぼくたちがリクエストしたいような曲たちのオンパレードで、何とも言えない気分に。

 小さい頃、宇和寺で与論の空気を吸っていたあの頃が最高だったね、あのときに全部、味わってたんだよね、あのときの経験があるから、統計的論理に対して、そうでもないけどと言えるんだよね、昔の宇和寺を復活させたいね、与論で会いたいね、長男は不自由だね、などととりとめもなく話し続けた。途中から店内は、サッカーの対タイ戦で盛り上がっていたしぼくたちも2点のゴールを目撃できたが、それはあくまで脇役。メインはあくまで与論話。やかの専門は心療内科。その核に与論の論理が埋め込まれているなんていいじゃない、と思える。それってすごいことだ。いつか、与論に寄与できるといいね。などと思いつつ。

 あんまぁの懐かしい味に舌鼓しながら、泡盛のボトルを空けた楽しく憩える夜だった。

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2008/06/14

「ニ〇〇〇年七月のある夜」

 今夜は風もなく月も暗い、夜間の灯火採集にはかなり良い条件だ。ここ数年、この時期にはこの場所を主に夜間調査をしている。昨年やそれ以前の同月同日に飛来した虫たちを思い出し、今夜集まりそうな顔ぶれを想像しながらの準備は楽しい。日没の少し前に発電機を始動、すぐに水銀灯のランプがうっすらと桃色に輝きやがて特有のまばゆい照明に変わる。隣にセットしたブラックライトもスクリーンに反射して蛍光色を発している。数多く来る蛾のための毒瓶もチェック、三角紙も大丈夫、これで良し。

 虫好きでなくてもわくわくする気分が伝わってくる。ぼくも蛍光灯に集まってきたカナブンや蛾や、天井を張っているヤモリを思い出す。

 でも、島の現状を考察しながら、前田さんは書く。

 何十年か経た後、この場所でナイターをしてみたいものだ。蘇った森の種々のムシたちの飛来に驚喜できるだろうか、それとももっと何もいなくなってしまっているだろうか。もし、そうなっているようなら人間も快適には生きていないだろうなー。アレコレ思ううち、夜も大分更けてきた。今夜も面白い訪問者は来そうにない。そろそろ店じまいにしようか。

 ところで奄美大島で記載されている昆虫は約二千五百種。未記載種はそれ以上いると推定されている。島の生態系にかかわりのない生物はいないとするならば、この生態系の鎖を絶つことは自分の首を絞めること、子孫を繊やすことにつながる。そうだとは思いませんか。(『それぞれの奄美論・50』

 これが書かれてから8年経っている。あれから事態が変化しているという声は聞こえない。奄美の虫たちは元気だろうか。

 8年前との違いがあるとしたら、いまはブログで多くの人が、奄美や島々の便りを伝えてくれることだ。たとえば、「みどりの島・奄美」では、奄美の植物たちの今の姿、豊かな姿を伝えてくれる。美しさを捉えること、記録すること、そしてこうしてブログで伝えること。ぼくはこんな営みも、島の自然を守る力になっていると思う。想いを寄せる人たちが島の自然の実情を知っているということはそれだけでも力だと思う。


「ニ〇〇〇年七月のある夜」前田 芳之



 

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2008/06/13

奄美とは珊瑚礁である

 珊瑚礁は海でもあれば陸でもある。
 珊瑚礁は海であり、珊瑚と魚たちを育む。
 珊瑚礁は陸であり、海の畑として幸を提供する。
 珊瑚礁は、海でもあれば陸でもあることによって、海と陸とをやわらかにつなぐ。

 奄美は琉球でもあれば大和でもある。
 奄美は琉球であり、人類の初源の世界観を今に伝える。
 奄美は大和であり、大和の歴史を縁の下で支えた。
 奄美は、琉球でもあれば大和でもあることによって、琉球と大和の交流拠点を担ってきた。

 奄美には珊瑚礁がある。
 奄美の島人は、その珊瑚礁を見つめながらそのあり方に学び、
 珊瑚礁として生きてきた。
 奄美とは珊瑚礁である。



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2008/06/12

「南島の文学」

 島尾敏雄の加計呂麻島を舞台にした小説に「島の果て」がある。
  トエは薔薇の中に住んでいたと言ってもよかったのです。(略)ここカゲロウ島では薔薇の花が年がら年中咲きました。
 と始まる、幻想的で美しい物語というスタイルである。

 この箇所の幻想と美は、「薔薇」が覆うイメージの他に、加計呂麻島を「カゲロウ島」と表現したことで強化されている。見ようと思えば、加計呂麻島のはかなさだけでなく、奄美のはかなさも二重に映し出されている。

 浦田さんはここから、「南島の自然」、「生活と歌の調和」、「生活苦」、「激情の歴史」、「苦い自嘲」などの南島の文学のテーマを辿っている。

 それに南島の亜熱帯性気候は四季の移り変わりもそれほどはっきりと区別がつきません。水稲も二期作で、正月に童の花や朝顔の花が咲いたりします。ただ真夏の容赦のない厳しさだけが、年の経巡りを夏毎にはっきりと思い知らせてくれます。しかしまた夏の夜は海の方から小止みなく潮風が吹き、空気が冴えて、月夜にはその光fで島全体がふかい青色につつまれ、星もあかるく輝きを増してくるので、人々は月の浜辺にさまよい出たり、星空を仰ぐことが多くなり、人間と自然がひとつに溶けあえる季節でもあります。(『海辺の生と死』

 ぼくはそれに加えて、ここにある「人間と自然がひとつに溶けあえる」ことも南島の文学の源泉ではないかと思っている。そんな文学の登場を期待したい。

「南島の文学」浦田義和



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奄美の家の輪

 ゆうべは、水戸の物産展を終えて戻ってきた泥染めの山元職人「奄美の家」で合流した。「奄美の泥遊び」の山川さんとソプラノ歌手の萩原さんと山元姉さんとで、泥Tプロジェクトを進めている久米さんを囲んだのだが、そもそもは職人が泥Tのサンプル納品のその場で久米さんを飲みに誘って実現した場。ぼくにはできない、愛されキャラならではの芸当だった。

 水戸のお客さんは農家の方が多く、泥染め?泥ならまわりに一杯ある、それがどうした的な反応で泥Tの何たるかを伝えるのが難しかったという職人の話を皮切りに、山川さんや萩原さんやぼくは、かわるがわる、久米さんに大島紬や奄美のことをああだこうだ、伝えようと熱心だった。

 ところが奄美つながりは面白い。三線を持った唄者がいつの間にか二人も輪の中に加わっていた。一人は加計呂麻島出身の徳原さんで、もうお一人は、星川さんなのだが、この方、千葉の方でここ数年、奄美の島唄にはまって三線を練習中。しかも、奄美にはまだ行ったことがないというのだ。ありがたい方である。

 こうなるともう奄美談義は終了、場は唄のかけあいに。若き唄者、徳原さんの三線と唄を中心に、職人も声や太鼓を合わせ、みんなも歌い、萩原さんまで歌ってくれ、盛り上がり、なんとも贅沢な場になった。よく知られた沖縄歌謡になると、久米さんも、ぼくも知っていると最後まで付き合ってくださった。

 いやよかった。久米さんは「こんな世界があるなら子どもはぐれようがないですね」とおっしゃっていたが、分かる気がした。酒は中学から飲むものです、なんていう話と一緒だったので、おかしかったが。思えばぼくも、だんだん奄美の島唄に馴染んできた。これまでは、なんて哀しいとばかり感じてきたが、それは入口の印象であって、その奥には与論と変わらない島のあたたかい世界があるのが分かってきた。これは嬉しい体感だ。いつかこの輪を、ぼくの子どもたちにも味わわせたいなと思った。

 ぼくにとってはもうひとつ嬉しい出会いがあって、なんと与論島に二十年も通ってらっしゃるという勝司さんにお会いできた。南海荘を拠点に島をめぐっているそうだ。聞けば、東京から船で48時間かけて行くコースも何度もされているそうだが、空路のときもいちばん高くつくサンゴ祭りの時に行くそう。と、いうことは茶花の海岸に一緒にいたこともあるわけで、懐かしい話をひとしきりできた。島に想いを寄せてくださる方の話が聞けるのは嬉しい。また、奄美の家でお会いしたいものだ。

 広がる奄美の輪、な夜。締めくくりは徳原さん、星川さんとホームで別れる場面で、ぼくたちを見送る彼らを見て、「島の子はああやって見送ってくれるんだよねえ」としみじみと山川さんがおっしゃって、ジンと来た。いい夜だった。


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2008/06/11

「沖縄から奄美の芸能をみる」

 奄美の踊りが初体験だったので、「沖縄の音楽や芸能を考える時に、常に奄美との比較の視点を忘れないことが私の基本的態度となった」と語るのは、久万田さんだ。

 奄美の島々には太鼓踊りが広まっている。名称は八月踊り(奄美大島、喜界島)、夏目踊り、浜踊り(徳之島)などと様々だが、いずれも男女が輪になり歌を掛け合いながら太鼓を叩き踊るという点が共通する芸能である(以下、八月踊りと総称)。さらに、沖永良部島の遊び踊りや沖縄本島全域に分布する集団太鼓舞踊ウシデーク(白太鼓)も女性だけで踊るという点は異なるが、円陣の太鼓踊りであること、(琉歌形式)の歌詞が数多く歌われること、踊りが旋律とは別のリズム周期を持っていること、などの点が共通する芸能である。このように奄美の八月踊りと沖縄のウシデークは大きな視点からは共通性をもつが、男女で踊るか女性のみで踊るかというような維かな視点では異なっている。ではこの異質性はいったいどれほど時間的に遡れるのだろうか。(『それぞれの奄美論・50』

 異質さを時間性の問いとして立てる久万田さんの視点は共感できる。ここには、異質性のみでなく、共通性を同時に見ようとする視線が働いている。 

 私は、この違いの発生は、古琉球期に沖縄本島を中心としてノロを頂点としたムラの女性による祭祀体系が確立し、それが北部琉球文化圏全域に広められた時期と、何らかの点で関係があると推定する。それは沖縄における聞得大君制度の確立や、シヌグ・海神祭などの祭りの編成とも密接に関わるだろう。強引に言うと、北奄美にはノロ祭祀は伝わったが、男女の八月踊りは女性の踊りに変わらずに残った。そして奄美の八月踊りも沖縄のウシデークも、その後の時間の中で独自の展開を積み重ねてゆくわけである。

 男女ともに踊る八月踊りと女性だけが踊るウシデークは、どちらが古いかということはすぐには決められない。けれど、女性だけが参加するのが琉球王朝のノロ体制と関連があるのではないかとする仮説はその通りだと思える。シニグの男性とウンジャミの女性は、高神と来訪神の分離以後の形態を想定できるし、それは男女混合の舞踊との新旧の比較をすぐにはできなにしても、精霊のみの世界からは新しいと言うことができる。

 つぎに、時代をぐっと現代に引き戻して、奄美と沖縄の異質性について考えてみたい。沖縄では戦後、沖縄の民族的アイデンティティーを表現する文化運動が盛り上がった。その一つは沖縄を代表する民俗芸能エイサーである。もともと旧盆の踊りだったエイサーは、一九五六年からコザ市(現沖縄市)で始まったエイサーコンクールを足掛かりに、米軍占領下の沖縄の民族性を強力に主張する芸能として発展した。太鼓を数多く導入し、衣装も新たに統一し、戦後の新民謡(創作民謡)も伴奏曲として取り入れ、単純な輸踊りから隊列を組む複雑なマスゲームへと芸能を変化させた。こうしてエイサーは、不特定多数の観衆にアピールする芸能として戦後大きく発展したのである。

 日本復帰前に沖縄とは何かを問い続けた結晶のひとつがエイサーだが、そのエイサーが、喜納昌吉の尽力で一足も二足も早く日本復帰をした奄美の、与論や沖永良部に伝わったとき、いままでなかったのが不思議なくらい身体に響き、自然に受容されていった。それは異質性が簡単に溶解する場面なのかもしれない。

 もう一つは一九七〇年代以降の沖縄ポップの台頭である。沖縄ポップとは、沖縄の民族的アイデンティティーを主張するポピュラー音楽で、《ハイサイおじさん》を携えて一九七七年に全国デビューした喜納昌吉がその出発点といえる。彼の沖縄オリジナリティーに満ちた音楽は大きな注目を集め、一九八〇年代以降の日本のワールドミュージックの先駆けともなった。喜納に続き、知名定男、りんけんバンド、ネーネーズ、ディアマンテス、パーシャクラブなど、八〇-九〇年代以降、多くの沖縄ポップの担い手が続々と登場した。

 70年代の喜納昌吉と80年代のりんけんバンドは、同じく沖縄発の音楽表現であったとしても、その質を異にしていた。喜納昌吉の「はいさいおじさん」は、沖縄のローカリズムがローカリズムとして受けたのだが、りんけんバンドの音楽は、ローカリズムをポップとして昇華した力を持っていた。りんけんバンドの音楽はワールド・ミュージックとは言えるが、ハイサイおじさんはワールド・ミュージックとは言いにくい。そんな差がここにはあり、その段階を踏んで世界性を獲得したのが沖縄音楽の蓄積だった。

 このように沖縄では戦後、エイサーや沖縄ポップを通じて、沖縄らしさを対外的に積極的に表現する文化運動が展開した。もちろん奄美においても、民謡(シマウタ)はレコードやコンクールを通じて洗練され舞台芸能化が進行した。八月踊りも都市型生活様式の浸透による変化に晒されている。しかし、そうした変化の波にあって、沖縄で生じたほどの現代的展開はおこっていないように見える。沖縄ポップに対抗する奄美ポップというものも、兆しはあるがいまだ大きく開花してはいない。この違いは、人口の規模の問題なのか、政治経済の線引きの問題なのか、あるいは「奄美」という統合イデンティティー確立の困難さゆえの問題なのか。これらは深くて取り組みがいのある課題である。

 開花が遅れるのは、人口も経済も政治も奄美アイデンティティも、どれも影響している。けれど、この遅延は、元ちとせのように、ローカリズムの深度を保ったまま世界性を獲得する力となって表出されたと思う。それは、喜納のローカリズムより深く、りんけんバンドが出そうとしても出せない深さだった。

 八月踊りを例にとれば、前述のように沖縄のエイサーとは比較にならないほどの深い時間性を秘めている。それが現代の奄美で、なおパフォーマンスとしての輝きを持ち続けている。これは実は琉球列島の中でも希有なことである。このことの意味は奄美の将来を考える上で計り知れないほど大きい。奄美の未来について、どのような想像力を働かせられるかという問いは、実は奄美の文化というものをどれだけ過去に遡って想像できるかという問いと等しいのである。

 この久万田さんの視点はとても共感できる。時間性を遡行したとき、奄美文化は強烈な光を放つだろう。これは大きな励ましでもある。


「沖縄から奄美の芸能をみる」 久保田普



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ふるさと納税は県のものではない

 「ふるさと納税」について南海日々新聞に投書したのですが、その一部が昨日の記事に引用されました(群島れぽーと」)。引用以外の部分を明示するため、ぼくの投書の全文を挙げておきます。

◇◆◇

 ふるさと納税について、鹿児島県は「窓口を一本化」し、「寄付先の市町村が特定されている場合は当該自治体に六割を分配し、県が四割を受け取る」という報道があり、驚いた。わたしは与論島出身なので、与論町にふるさと納税を使いたいと思ってきた。ところがこの方針によると、四割は県で六割が与論町に分配されることになる。驚かないわけにいかない。なぜ、ここで県が出てくるのだろう。わたしの場合、四割「県」ならばふるさと納税を使う気持ちはゼロになる。わたしの意思の行き先は与論町であって県ではない。

 ところで約二週間後の報道で、わたしが与論町に寄付したい場合、県に分配する必要はないという当然のことを知った。しかしそこには、「寄付する側が特定の市町村への納税を希望する場合に限り、県の窓口を通さず各自治体が手続きをすることも確認した」とあり、ますます疑問は膨らむ。ふるさと納税の主旨に照らせばこれは逆でなければならない。寄付する側が市町村か県を指定するのが「原則」であり、協議会の方式でやってほしいという希望者が出た場合に「限り」、これに則るのがことの順番である。個人の意思に任せた制度に対し、県がかぶさってくるのは余計なことだ。

 さらに、「市町村が独自に寄付金を広く募集することについては、『協議会の和を乱すような取り組み』と自粛を求めた」というが、「自粛を求める」などお門違いも甚だしい。自粛をしなければならないのはこの場合、「県」の方である。各市町村がそれぞれの工夫でふるさと納税への取り組みを公表し賛同者を募るのが本来である。県はその市町村を支援するならともかく、窓口一本化の名目のもとに、まず「県」を通せというのは倒錯している。県への権限集中、県の窓口化が地方分権ではない。

 現行の「ふるさと納税」は、「ふるさと」への個人の想いに依存し、かつその範囲も住民税の一割という限定を加えられた「弱い」制度であり、市町村の行政にとって根本的な解決をもたらさない。だが、個人の意思を反映できるその一点で、「ふるさと」を離れあるいは想いを寄せる者にとって活路となる制度であることに変わりはない。むしろそれこそが生命線である。県がコントロールしようとしたが最後、この納税方式は無効化する。県が個人の気持ちにつけ込んでしゃしゃり出てよい理由など、どこにもないのである。

 わたしの関わりで言えば、与論町が協議会に加入するのは反対である。県紙は「与論町も『町単独よりも広くアピールできる』とおおむね歓迎の意向だ」と伝えるが、各市町村がふるさと納税への取り組みをそれぞれに試行錯誤しなかったら自治力はつかない。県への依存は、各市町村の自治力育成を妨げる。各市町村が発案し、それぞれの呼びかけによって、たとえば「奄美ふるさと基金」をつくり、奄美間相互扶助の受け皿を選択肢の一つとして作るなら意味があるし、わたしならそうしたい。しかも、航空機とインターネットの交通の時代である。ここでは、「鹿児島」よりも「与論」の方がアピール力において上回るということはありうる。それはそう望み実行するだけのことだ。島外の出身者、島に想いを持つ者の力を巻き込むのである。ふるさと納税はそのひとつの機会に他ならない。


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2008/06/10

「鏡としての風景」

 珊瑚礁の海に典型的な奄美の「原風景」と「消波ブロックとコンクリートの壁」などの奄美の「現風景」との距離を起点に別府さんは考えている。

 カメラで「手つかずの自然」という理想を追うとき、油断するとたちまち不粋な人工物が映りこんでしまう。慎重に選んだはずの遠景でも、再生すると削り取られた赤い山肌やコンクリートの法面が画面を台無しにしているなど、現実は見たくない風景が充満している。車のあまり通わない農道・林道まで舗装が行き届き、海辺の集落では巨大な漁港とコンクリート護岸が威容を誇っている。(私の知る限り、瀬戸内町義徳が大島では貴重な例外。広大な砂浜と集落の境界をなすアダン林が相を波風から護っている。また、同町油井の、潮の干満に応じて上下する小規模な浮き桟橋は「自然にやさしく」、もつと各地で導入されていたらと悔やまれる)。中央的手法「奄振」にょる列島改造はピークは過ぎたとはいえいまだ進行中である。こうしたインフラ整備により農業、林業、漁業がどれだけ振興し、若者の職場が確保され、過疎がくい止められただろうか。(『それぞれの奄美論・50』

 撮影素人のぼくも与論を撮ろうとすると、自然に人工物を避けて撮ろうとしている。すると撮る範囲がかなり限定されるのに困ったりする。そのうちありのままの与論を受け容れてないのではないかと反省したりして。この「原」風景と「現」風景の距離はどう縮めていけばいいのだろうか。

新世紀、私たちは魅力ある風景を創造できるだろうか。

 別府さんは別の応え方をしている。現風景を原風景に近づける。そういうのではなく、魅力ある風景をつくるということ。これは元気の出る提言ではないだろうか。



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2008/06/09

「歩み続ける奄美考古学」

 国指定の宇宿貝塚をはじめ、宇宿小学校構内遺跡、宇宿高又遺跡、長浜金久遺跡、マツノト遺跡など笠利町東海岸を中心にかなりの遺跡が発見され、発掘調査が行われている。もちろんその成果のもと笠利町以外でもここ数年来大きな発見が相次いでいる。龍郷町手広遺跡、ウフタ遺跡、名瀬市ではグスクの分布調査や小湊フワカネク遺跡。住用村グスク分布、サモト遺跡、そして類須恵器などの発見も大きい。宇検村は遺跡分布調査、そして日本中から注目された倉木崎海底遺跡の成果が大きい。瀬戸内町嘉徳遺跡などは奄美の土器編年の基礎資料にもなっている。もちろん徳之島、沖永良部島、与論島、喜界島などもある。

 ゆっくりと確実な一歩ではあるがこのように大きな成果を上げつつある。これは地元研究家たちだけによるものではなく沖縄、九州本土、大和の方々の力をかりて進められているのが現状である。奄美考古学はこのように多くの研究者や大学の調査の成朱に基礎をおくものだが、この先は奄美のものたち自らがすべてを担当せねばならない。それは本土や沖縄に対比して判断するのではなく、奄美の成果を持って従来の所見を前進させてはじめて正しい視点が得られるものと考える。

 間もなく二十一世紀を迎える。雑踏から逃がれ、一日、森の中に我が身を置いて、奄美考古学にまつわることをいろいろ空想し、回顧してみた。奄美考古学は、もうすでに第二ラウンドに入っているということだ。(『それぞれの奄美論・50』

 与論のように奄美のなかで触れられるか触れられないかのボーダーラインにいると、「徳之島、沖永良部島、与論島、喜界島など」と一瞥されるだけでも嬉しいものだ。「本土や沖縄に対比して判断するのではなく、奄美の成果を持って従来の所見を前進させてはじめて正しい視点が得られる」という立言もいい。そうこなくっちゃ、である。

 でも何より、「一日、森の中に我が身を置いて」。これがいちばんの贅沢だと思う。


「歩み続ける奄美考古学」中山清美



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2008/06/08

ぼくたちは先住民族だろうか

 日本がアイヌを先住民族と認めたという先日のニュースが大きな出来事に思えてくる。

 アイヌは先住民族

 「日本は単一民族国家」と政治家などが口にするたびに、なぜそんな幻想がいまだにまかり通るのか、ため息をつかざるをえないできた。やっと風通しがよくなると思えて気分がいい。

 それに、このニュースが決して他人事ではないと直観されてくる。それはアイヌに対するぼくたちのシンパシーからもやってくる。

 いま、ぼくたちは先住民族だろうか、とそう問うてみる。
 この場合の、ぼくたちとは、琉球人のことだ。

 琉球人は先住民族だろうか。

 こういえば、琉球弧のなかでは、そんな言挙げはしなでくれという声も聞こえてきそうだ。せっかく日本人と自他ともに見なしてくれているのに、ここで「先住民族」と主張しようものなら、また非日本人というレッテルを貼られるのではないか。そんな恐れを抱くのだ。これは、琉球弧全体より、奄美に絞ったらなおさらそうかもしれない。

 もしこんな声があるとして、ぼくはもう怖れる必要はない、と伝えたい。アイヌが先住民族であることを国家が認めたということは、日本の単一民族幻想が崩壊することを意味している。すると、大和だけではなく、もともと多くの種族の集まりが日本人を構成しているのであるという共通理解が育ってゆくだろう。そこでは、琉球人が日本人か否かという問いそのものの基盤が崩れてゆくはずだ。

 ぼくはこの恐れとは別に、琉球人は先住民族かと問うとき、アイヌのように問えるかどうか分からない気がする。それはアイヌの人々以上に大和との交流が大きく、もともとその混合として存在しているように思えるからだ。たとえば、ぼくの身体を種族の濃度で分解できるとしたら、(アイヌ、琉球、大和)=(1、7、2)などのように高琉球濃度の多層身体となるのではないだろうか。すると、自分を先住民族と主張する基盤はあるのだろうか。そんな疑問に囚われるのだ。

 ところで先日、『アイヌの世界―ヤイユーカラの森から』を読んでいたら、「先住民」についての定義が出ていた。

 「先住民」について、国連は次のように定義しています。(先住民とは、別の地域から異文化、異なった民族的起源を有する人々がやってきて、地元住民を支配、定住その他の手段によって庄倒し、彼らの人口を減少させ、被支配的な立場、もしくは植民地的な状況へ追い込んでしまった時代に、現在の居住地域かその一部地域に生活していた人々の現存する子孫たちのことである。……)

 翻訳文がとても分かりにくいのだが、学的にではなく幾分、現象的に捉えれば、琉球弧はここにいう先住民族に該当するのが分かる。また別段、先住民族という言い方に拠らなくても、この観点で問わなければならないことはある。

 それは、薩摩による奄美・沖縄の植民地化であり、日米による沖縄の基地化だ。
 こう辿ると、アイヌの先住民族を自分たちの課題として受け取ることができるように思える。




 

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『あの戦争から遠く離れて』

 泣きっぱなしで読んだ。営業の途中のマクドナルドやドトールコーヒーでぼんろぼんろと涙がこぼれてきた。いい物語というのではない。これは事実だ。ここには人間の人間らしい感情や振る舞いがあり、それが素直に相手にも伝わる関係のなかで、愛情豊かな人間の姿がくっきりと浮かび上がってくる。その人間のありように、心動かされた。

 その中身はといえば、城戸幹として生まれた子が、孫玉福として中国に生き、そして再び城戸幹として生き直す、その半生が描かれている。こう書けば、ぼくたちは「中国残留孤児」のことを思い出すだろう。城戸さんは確かに中国に残留した日本人だった。けれど、城戸さんが帰国したのは、厚生省が「中国残留孤児」の捜索に動いた1981年以降のことではなく、それより以前、しかも日中国交回復より前の1970年のことなのだ。

 どうしてそれができたのだろう。その解答がこの作品から伝わってくる大きなもののひとつで、それは城戸さんの名前そのもので幹のようにしっかりした太い確固とした意思、日本へ帰る、両親や家族に会いたいという意思だ。誰よりも早くしかも独力で帰国を果たしたという点だけを採っても城戸さんの意思が並外れたものであることを教えている。

 しかし城戸さんは家庭的にいづらかったというのではない。むしろ養母はこれ以上にない慈愛で城戸さんを孫玉福として育てている。ここにある母子像は、いまのぼくたちがどう逆立ちしても届きそうにない愛情の交感がある。それなら、それでも城戸さんを帰国へと駆り立てたのは何だろう。それは、国家としての中国の中での日本人の生き難さが影を落としている。城戸さんは高校生のときに履歴書への記載を「漢民族」から「日本民族」へと改める。そしてそのことが深刻な尾を引き、二度、大学受験に失敗する。しかもこの失敗は、試験の失敗ではなく、「日本民族」が障害になったのだ。

 それなら城戸さんは、いやその時は自分の日本名すら知らない孫玉福は、なぜ「漢民族」改め「日本民族」としたのだろう。ここに、このノン・フィクションとしての作品の小さな謎がある。
 
 そのころ高校では「交心運動」が盛んになった。「交心」とは、「腹の底を打ち明ける」という意味で、

「中国共産党に心を捧げ、自分について何もかも打ち明ける」

 というものだった。この交心運動では、党や毛沢東に対する忠誠を語り合うのだが、相互批判の討論は次第に激しさを増し互いの猜疑心を呼ぶ。そんな背景のなかで、孫玉福は日本人としてののしりを受ける。

 玉福が衝撃を受けたのは日本鬼子という言葉を浴びせられたからだけではなかった仲の良い友達以外は、玉福が日本人であるということを誰も知らないはずだった。ところが、あまり話をしたこともない宋さえも玉福が日本人だということを知っていた。すでに同級生の大半が、玉福が日本人であるということを知っているのかもしれない。盛んに交心運動が繰り広げられているいま、いつ日本人だということを理由に共産党に忠実ではないと訴えられるかわからない。そう思うと衝撃は恐怖へと変わった。
 玉福は、自分が日本人であることを自ら申告する以外の方法はないと思った。それもできるだけ早い時期に。まずは自分の履歴書に記載している民族を、「漢民族」から「日本民族」に変更する修正申告書を高校に提出した。そして同じものを共産党の青年団支部にも提出した。ちょうどこのとき、大学受験の願書提出の時期と重なっていたため、願書にも国籍は「中国」、民族を「日本民族」と記入して提出した。とにかく無我夢中だった。

 討論が相互批判へと変わりつるしあげに近い状況すら想定されるのは当時の中国の社会状況だが、そこで、「漢民族」のままにせずに「日本民族」と書くことへと促されたのは、城戸さんの個性だという気がする。日本人ということが広く知られ、そのことを理由に反体制の烙印を押されることを恐れても、「漢民族」のしておくことで、自分の忠誠の証を立てておこうとする態度もあるだろう。そしてむしろ、無難に乗り切ろうとしたらそうするのではないだろうか。「漢民族」改め「日本民族」という書き換えは、孫玉福を思い遣る教師たちからはなぜそんなことをするという叱責を呼ぶように、反体制を名乗るような行為として受け止められかねないものだったが、城戸さんにとっては「交心」の証だったのだ。

 しかしこの行為が、国家としての中国にいる日本人としての生き難さを生み、孫玉福を帰国へと駆り立てることになった。孫玉福さんは数百通の手紙を日本へ送り、24時間当局に監視されている気配におびえながら折れずに、中国にいながらついに帰国を果たす。

 『あの戦争から遠く離れて』ある場所にいて、そんなぼくたちが戦争のことを受け取る道筋のひとつを、この作品から受け取ることができるのではないだろうか。それは、たった一人しかいない生の道筋であれ、その人が主人公の物語は語られる価値があるということも教えてくれている。

『あの戦争から遠く離れて―私につながる歴史をたどる旅』

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◇◆◇

 この作品を語る上では欠かせないひとつの特徴がある。ある胸を打つ人生を送った人物の伝記を書く場合、何らかの契機を持った第三者が、何かに惹きつけられるように取材を繰り返し、その果てに伝記を書き上げるのが定型だと思う。ところが、この作品の主人公である城戸幹の伝記を書いているのは、城戸久枝さんという名の娘さんだ。これは、娘が父のことを書いた作品なのだ。

 子が親のことを書く。ふつうそれは難しいと感じられる。特に、親に「偉大」という世評が付きそうな場合、その記述は親自慢になりかねないし、子も知らず知らずに偉大な親像に傾斜していくのを免れない。けれど、『あの戦争から遠く離れて』はそういう作品ではない。これは城戸久枝さんがペンネームを使い作品を世に出したとしたら、子が書いているとは誰も思い至らないだろう。

 下手をすれば読者が鼻白むことになりかねない展開にこの作品がなっていないのは、父の半生を父自身が語るわけでなく身近な類型も無かったため、子にとっても父の半生が謎だった。そしてそこに謎があるということは、娘の城戸さんが自分の存在を確かめようとするときに謎を持つというとに他ならない。つまり、娘の城戸さんは、自分が解かなくてはならない固有の問いを持ってしまったのだ。

 私には、父の人生を知ることが必要だった。日本人でありながら「残留孤児の子」であり、残留孤児や二世、三世からは「ただの日本人」に見えるという「日本生まれの残留孤児二世」。そんな、どちらでもありながらどちらでもない私の「存在」(アイデンティティ)が、そうすることを求めていた。まるで居場所のないイソップ童話のこうもりのような自分は、どこからやってきたのか-を確かめるために。

 こうして城戸さんは父の物語を自分の存在を確かめるためのテーマとして受け取り、取材をはじめる。それは切実なだけに徹底していて、中国に留学し中国語を覚え、父を知る人たちから父のエピソードを中国語で聞き、父が恐怖を覚えた日本人への罵りにも出会いもしている。ここに費やした時間は10年にもなるという。城戸さんの問題意識は自分のアイデンティティに関わるがゆえに、「中国残留孤児」問題にも及ぶ。

 山本さんの心の奥底には、「なぜ自分の親は迎えに来てくれなかったのか……」という深い悲しみが沈殿しているようだった。「国に棄てられた」として裁判で闘う残留孤児たちのなかでも、父のように親と生き別れた人には、国に対する怒りとは別の思いも存在しているのではないかということに、そのとき私は初めて気づいた。彼らは、裁判で国の責任を問いながら、その向こうに、「なぜ自分は中国に残されたのか」という、自分を中国に残した産みの親に対する無言の問いを発しているのではないか。父の眼差しを通して父の人生を追ってきた私には、そう思われてならなかった。

 私は、日本からの返事を待ちながら、ただひたすらに日本宛の手紙を書き続けていたころの父を思った。父もまた、身元が判明するまでは、「なぜ両親が探してくれないのか……自分は棄てられたのではないのか」という悲しみを抱えながら、中国で生きていた。ある日、酩酊した父が振り絞るような声でそのときの心境を語ってくれたことがある。昔のことを思い出しながら父は時々絶句していた。父の胸の内には、自分を中国に残した両親に対するさまざまな思いが去来しているようだった。

 しかし、父や山本さんのその問いは、直接は誰にぶつけることもできず、裁判でも決して答えを得ることのできない、やるせない、行き場のない問いである。彼らは、一生その問いを抱えたまま生きていく-。

 中国残留から帰国を果たした日本人が国に対して挙げている声の向こう側に、城戸さんはもうひとつの問いを見つける。

「なぜ自分は中国に残されたのか」
     それは国に対して向けられているのではない。いや国の責任を問う声には違いないのだが、本質的には、親への問いを含んでいるのではないかと城戸さんは思う。

 このところは作品中、もっとも城戸さんの自己問答が掘り下げられた箇所であり、この問いの前に立ち止まらずにはいられない。けれどそれは、「彼らは、一生その問いを抱えたまま生きていく」として不遇な彼らへの思いやりだけではない。その向こうに、誰かが誰かを見捨てるということなら、それはぼくたちの日常のなかに潜んでいることなのだ。ぼくたちは、彼らの声からそうした内省を受け取ることができるし、この内省は彼らに手渡すことができるものかもしれない。そんな普遍的な課題として受け取ったときはじめて、ぼくたちは彼らと心を通じ合わせる手がかりを掴むのではないだろうか。

 この作品を書いた城戸さんはすごい親孝行をしたと思った。こんなこと、誰にできるわけでもない。親と子が向き合うという現在の社会のテーマに対しても、この作品は投げかけるものを持っている。

 その上で少し付言すると、ぼくは父の半生を辿った前半を折り返して、娘が父の足跡を辿った軌跡であるこの作品の後半は不要ではないかと思った。いや不要というか、別の作品に思えた。ここは、長いあとがきとして添えればよかったのではないだろうか。映画のDVDのよういえば、作品と肩を並べるほどの力あるメイキング映像として作品についている、というようなポジションで。父のことを娘が描くという例のない構成であれば、「私につながる歴史をたどる旅」である娘の物語を後半にする理由は分かるけれど、ぼくは別々の作品のように受け取るしかなかった。それはこの作品の小さな弱点に思える。

◇◆◇

 『あの戦争から遠く離れて』に惹きつけられるのは、城戸さんの「どちらでもありながらどちらでもない私の『存在』」自問が、「琉球でもあり大和でもありながら、琉球でも大和でもない」という奄美的な課題と似ている側面を持つからだ。

 私は、中国で中国人の反日一辺倒の態度に遭遇したとき、それを決して受け入れることはできなかった。しかし、帰国後の日本で、同様に一方的な決めつけから日本人が強く中国を非難する場面では、しばしば中国を擁護する立場に立っていた。それもまた偽ることのできない私の感情だった。「嫌中」でも「親中」でもなく、もちろん「反日でもない。中国で中国人に育てられた父を持ち、生身の中国人を人より少し身近に感じられる環境にいたからだろうか、単純な二項対立を超えて、私の気持ちはいつも中国と日本の間で宙に浮いていた。
   たとえば城戸さんのこんな述懐は思い当たる節が多いと、ぼくたちは感じるのではないだろうか。大和人と沖縄人と置き換えてみてもいい。どちらをどちらに置き換えるということではなく、そうした二項対立の狭間で宙吊りにされることが似ている。

 それだから「中国残留孤児」の言葉にも彼女は敏感に反応する。

 「私たち残留孤児は中国では『日本鬼子』と呼ばれていじめられました。そして日本に帰ってきてからも、日本人なのに日本語も話せず、『中国人』と言われています。それでは私たちはいったい何人なのでしょうか? どうか、私たちの願いを聞いてください。よろしくお願いします」
 彼の言葉に私は胸が締めつけられるような思いだった。どうにか彼の切実な訴えを正確に秘書に伝えようとしたが、日本語に訳す私の声は弱々しく震えていた。
 デモ行進のときの彼らの姿がフラッシュバックした。彼らの胸のなかにはさまざまな思いが積もり積もっている。しかし日本語のできない彼らは社会のなかで自分の思いを表現する手段がない。そんな彼らがいったん中国語で話す機会を得ると、その思いがとめどなくあふれ出てくる。会ってみればわかると言った大久保さんの真意がわかったような気がした。

 ぼくはこの件りを読んだときに、日本人と言ってもらうために、自分たちの言葉を抹殺してでも共通語を習得しようとした奄美人の姿がだぶってみえる。と同時に、もうひとつのことも思った。ぼくは、沖縄を見放してそそくさと日本復帰し、奄美の言葉を自ら消滅の憂き目に追いやってきた来し方を悔しく感じてきたし、昇曙夢が唱える日奄同祖論を情けなく思ってきた。けれど、ここにある「中国残留孤児」の言葉を経ると、ぼくはそんな自分の態度を少し反省している。

 ぼくの両親やその上の世代が死に物狂いで共通語の習得に励んだ結果、ぼくたちは不自由なく共通語を操ることができている。それがなんぼのものだということも含めて、そのおかげでぼくたちは現在の生活を享受できている。その短時間で成し遂げたことは紛れもなく奄美の島人の努力の成果だ。ぼくはそこで自分たちの言葉を失ったことを残念に思い指弾するというのではなく、何も自分たちの言葉を否定することはなかったという反省に立って、自分たちの言葉を見直しつくることが自分に課せられたテーマだと思えばいい。そんな風に感じた。それは、この本がもたらしてくれたぼくの態度変更だった。


付記
 ぼくの母と祖父母も満州へ行き、引き揚げてきた人たちだ。この本が他人事ではないような気がした所以だ。そしてこの本には一度だけ奄美大島という言葉が出てくる。そんな小さな縁も感じた。


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「古奄美の典型カムィヤキ」

 薩摩藩に侵略される以前の奄美を「古奄美」と呼んで、古奄美にこそ本来の奄美があると、郷原さんは主張する。

 すでに滅び去った何百年も前のことを、いまさら調べて何になるか、と批判する人もいるかも知れない。調査なんて何の利益ももたらさぬ捨て金だと。……しかし、そんな批判者だって、薩摩藩が奄美を侵略してその後に何をしたかということには、ふつふつと煮えたぎる怒りを抱いてるであろう。薩摩藩が奄美から奪ったものは何だったのか、それを知らずに奄美の未来を語れるであろうか。奪われたものこそ、奄美の本当のゆたかさだったはずだ。私は奄美の未来は「古奄美」のなかにヒントがあると思う。
 カムィヤキの人たちは、ここを最果ての島とは、間違っても思っていなかった。世界の中心と思っていた。そうでなければ、カムィヤキに生産基地をつくらなかっただろう。流通基地もつくらなかっただろう。カムィヤキから世界へ、世界からカムィヤキへ。すべてはそのように動いていた。自然にそうなったのではない。ここが中心なのだという意識を持った人たちが、営々としてつくりあげたのである。つまり《船》というのは、ここが世界の中心という概念の象徴なのだ。
 薩摩藩は奄美を侵略したとき、まず「船を造るな」と布告したという。古奄美はこれによって崩壊し、今なお崩壊したままである。奄美の人が奄美の船を造り、奄美から自由に船を動かす。そうすれば奄美から積み出さねばならぬ特産物も生まれる。この発想こそが、何百年と奄美に覆い被さる薩摩を取り払う原点だと思う。
 カムィヤキのゆたかな自由都市の姿を徹底的に調べあげる、その全体を完全に知り、これが本来の奄美なのだと、心のなかの薩摩藩に突きつける。それから現在の県や国や世界に突きつける。こういう風に突きつけるものがなかったならば、現状のみじめさを売りに銭をもらう発想しか湧かない。私は奄美が好きだ。本当に好きなのだ。(『それぞれの奄美論・50』

 「執筆者紹介」を見ると、郷原さんは鹿屋市の出身。奄美に縁のある方なのだろうか。鹿児島の方からこんなラブコールを受けることは滅多にない。ぼくは古奄美が奄美の本来とは必ずしも思っていない。なんというか、「本来」という言葉で奄美を探そうとすることはあまりないと言えばいいだろうか。けれど、滅多にないラブコール、素直に受けたい気持ちになる。

 「船を造るな」は、確かに薩摩が奄美の自由を奪った象徴的なひとつだ。郷原さんの志を共有するように言えば、奄美が薩摩の所業によって受けた困難を、その固有性を明らかにして、薩摩の思想にも届くように突きつけること、伝えること。それが、奄美の「船」を回復することだと思っている。


「古奄美の典型カムィヤキ」郷原茂樹



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2008/06/07

「知られざる奄美諸島の歴史」

 琉球弧地域をめぐる従前の歴史学研究は、琉球王国論に収斂される潮流が強く、奄美諸島や先島諸島は独立国家が育んだ社会文化の地方展開を知るための補助資料として対象化されてきた。そうした沖縄本島中心史観とでも言うべき歴史理解は、国家誕生以前から沖縄本島が歴史舞台の主役で在り続けてきたような錯覚さえ生み出しはじめている。沖縄側における考古学や歴史学の専門家たちが、そうした視点で奄美諸島と先島諸島を見ている限り、当該地域で発見的考古学や発見的歴史学を進めることは難しいであろう(もちろん考古学的発見や歴史学的発見はあるだろうが)。

 奄美諸島の歴史を顧みれば、琉球王国統治、薩摩藩統治、アメリカ軍政府統治など、外部から統治される歴史が繰り返されてきた。しかし、奄美諸島が利益を生み出す地域であるからこそ、利権獲得のために統治されていたという側面を認識するべきである。屈辱の歴史へ冷静に対峙して、検証を重ねる作業の中から、奄美諸島を振興発展させる本質的課題が見出だせるのではないか。

 来るべき新世紀は、琉球王国論が終焉をむかえる時である。新しい琉球史は、奄美諸島と先島諸島から記述されるであろう。奄美諸島の逆襲がいよいよはじまる。(『それぞれの奄美論・50』

 「すみやかに沖縄の逆襲が行われんことを」。

 たしかこれはりんけんバンドが、80年代に使ったキャッチコピーだ。ぼくは胸のすく思いでこのコピーを見た。逆襲の相手は、日本あるいは大和だったろう。このときの沖縄文化の奔流をぼくも楽しんだ。琉球弧の一人としての孤独感が解放されるようだった。ただ、そんな中で、沖縄の文化が琉球王国を根拠にするとき、とてもがっかりした。『琉球の風』の描かれ方にしても同じだった。琉球の誇るべきは琉球王国ではない。そんな想いだった。

 沖縄本島中心史観としての琉球王国論は終焉したほうがいい。そこに奄美諸島の逆襲が欠かせないのは、八重山の逆襲が欠かせないのと同じだと思う。

 「奄美諸島の逆襲」。これは気持ちのいいフレーズだ。ぼくは思想としての薩摩への「奄美諸島の逆襲」が行われるべきだと考えている。


「知られざる奄美諸島の歴史」高梨修


 

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六月の空に 2

 梅雨入りなのによく晴れた。

 大きくなった少年は、外れた紐を結びなおして走り始め、

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 トップでバトンを渡して、

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 トップでVサインを決めた。

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 整理運動もしっかりと。

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 今年もおつかれさま。うん、ハッスルぶりがよかったよ。

「六月の空に」




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アイヌは先住民族

 アイヌは先住民族。

 そう、日本国家は認めたのですね。
 琉球弧にとってもインパクトのあるニュースです。

 「アイヌは先住民族」と認定…官房長官談話
 
 琉球弧はこのメッセージをどう受け取るのか。ぼくたちの課題です。



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2008/06/06

「方言というタイムマシン」

 与論島を離れて初めて生活した名瀬の地は、私にかなり大きなカルチャーショックを与えました。ハゲーから始まりイャキャ(君)、ワキャ(俺、私)、おまけに葬式の泣き声にも似た島唄(塩遺長浜節でした)。日々沖縄民謡を聴いて育った私にとって、島唄のサンシン(三線)の音色は驚きそのものでした。裏声で歌うあの哀れさは、幼少の頃聞いた葬式の泣き語り(老婆が亡骸を抱きながら語りかける)に似て葬送の場面を思い起こしました。
 日没から始まる公園での八月踊りの太鼓と口笛は今でも脳裏にこだまし奄美大島の大切な思い出の一つとなっています。ともあれ音楽、言葉、習慣の違い、そして何よりも恐ろしい毒蛇ハブが生息している奄美大島は私にとってはまさに異境の地でした。

 大棚から四時間ほど歩き峠を越えやっと名音に辿り着き、ボンボン船で名瀬に帰った思い出。革で行けない集落があることや大島本島の広さを思い知らされ、小さな与論島に生まれた私にとっては驚きの連続でした。友人の父が繰船するくりぶねで阿室に渡った思い出は忘れることはできません。大島高校卒業後だいぶ年月が経った頃、地元新聞を読みながら苦笑してしまいました。その新聞は阿室に道路が開通したことを報じていたからです。その時まで、阿室はてっきり離れ小島と思っていたからです。(『それぞれの奄美論・50』

 おそらくは1970年頃のエピソードだと思うが、ここには、ゆんぬんちゅ(与論人)にとっての奄美大島への最初の印象が正直に語られている。ううしま(大島)と呼ばれる大きさと、琉球音階に馴染んだ身体には哀しみに満ちたように響く島唄に、驚きを隠せない。これだけでも奄美の振幅の大きさが分かる。

 方言とは、自然と人間のコミュニケーションの中で醸し出され、イメージされ、創られたタイムマシーンではないかと思っています。方言は決して古いものではなく過去にも未来にも一瞬にして飛び立ち、夢と希望と冒険旅行のできるまさにハイテクマシーンと思っています。それとも、過去や未来と通信できる究極のインターネットかな? そして、精神的自主独立の指針が埋め込まれた、生きる知恵の結晶のような気がします。

 分かる気がする。たとえば、「ゆんぬ」という方言は島人が島に上陸したときからあった言葉に違いない。ぼくたちは、ゆんぬというだけでその意味を正確にわからなくても、当時の島人と同じ何かを共有することができる。また、わぬ(わたし)という方言は、もっと古く島人が与論に訪れる遥か以前の島人の祖先と同じ何かを共有する、あるいは共有とまでいかなくても、そこにつながるものを感じるように、時間を遡行することができる。そこには、言葉の意味もさることながら、それを発する発声のときの身体の動きの同一性を通じて、島のこと、島人のことが理解できる気がしてくる。それは方言のたまらない魅力だと思う。


「方言というタイムマシン」岡部康三




 

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2008/06/05

「やんばるから奄美を視る」

 「栄光の大琉球王国」なぞに私はほとんど興味がない。首里士族たちに「枯木山原(荒涼としたやんぼる)」「見るかたやねらん、海と山と(海と山以外には見るものもない)」とさげすまれたやんぼるの自然と人びとが織りなす暮らし、海と山に抱かれ、コツコツとたゆまぬ努力を積み重ねながら人びとが紡いできた歴史をこそ知りたいと思う。
 クサティムイ(腰当森=ムラの背後の森)からこんこんと湧き出る泉、暮らしを支えたイノー(サンゴ礁の内海)と深い山々。海や山の神々に感謝し、ムラ建ての祖先に祈りを捧げる中から、おのずと形作られてきたシマの成り立ち、祭りのかたち。琉球王府の権力から遠かったがゆえに残されてきたものがあるのではないか。王府の支 配体系としてのノロ制度以前のシマの信仰は…・・・と私の興味は尽きない。

 沖縄から奄美を視るようになって、権力を持たなかった奄美は幸いであると思うようになった。権力を持たなかった、持ちえなかった不幸を奄美はずっと嘆いてきたように思う。それゆえに過酷な歴史を歩まされてきたことは確かだが、それゆえに失われなかったもの、失うわけにいかなかったものもあるのではないか。そして、その中にこそ二十一世紀を照らす光がある。しがみつくべき「過去の栄光」はないほうがいい。(『それぞれの奄美論・50』

 「『栄光の大琉球王国』なぞに私はほとんど興味がない」。胸がすく。しかもこれは沖縄から発せられたものなのだ。

 「権力を持たなかった奄美は幸いである」という立言は、ぼくもそう思う。それゆえ多大な困難を被ってきたが、それゆえ失っていないものがいまもありありとしている。

かつてそうであったように、島々を人びとが自由に行き交い、奄美とやんばるがお互いを照らしあい、ともに二十一世紀の光とならんことを!

 こう声かけられるのは嬉しい。こういう声のあることを忘れないでいよう。


「やんばるから奄美を視る」浦島悦子


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皆既日食をトカラと奄美の関係を深める機会に

 来年は?と聞かれれば、1609年から400年とすぐに連想してしまうのだけれど、そんな反応は少数で、奄美にとってはむしろ皆既日食の年なんだろう。

 奄美市:来年の皆既日食、実行委設立 受け入れ態勢やイベント開催を協議(毎日jp)

 奄美市(どうも耳慣れない。名瀬市と呼びたいものです)も実行委員会を設立、とあります。

日本では1963年の北海道以来、46年ぶりの皆既日食は、種子島南部からトカラ列島、奄美大島、喜界島が観測ポイント。

 外側を向けば、皆既日食は、「奄美」を伝えるいいめぐり合わせです。でもせっかくの機会。内側では、トカラと奄美の関係を深める契機になればいいと思う。

 2009年、奄美にとって大切な年ですね。




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2008/06/04

「消された薩摩の歴史から」

 薩摩の思想として奄美と薩摩の関係をほぐす解答の言葉に出会うことは滅多にない。ぼくが知っているのは、与論高校に赴任した山之内さんの次の言葉だけだった。

 第一は、かの宝暦治水事件を新たに奄美群島からの視線から立体化することである。黒糖収奪が強化された一因に、宝暦治水による藩財政悪化があったことは容易い想像される。木曽三川に倒れた薩摩義士を顕彰するのは良い。だが、同時に、藩財政再建の人柱となった奄美群島の人々の無念も救済されなければならない。
 義士の鎮魂と島民の鎮魂を同時に行う慰霊祭など呉越同舟ではないか、という批判はあるだろうが、歴史における悲劇の連鎖、差別の再生産という視座は、宝暦治水事件に複雑な陰影を与えるのである。(『南日本新聞』)

 「マイノリティーの視線を」

 ここに解答はあると思う。奄美の二重の疎外とその隠蔽を解除する言葉だ。実のところ、解答を想像すること自体は難しくない。けれどこう書いた山之内さんが「呉越同舟」という批判をすぐに想定するように、解答を提出することそのものが困難に見えている。それは解答はあるのにそこに至る道筋が見えていないからだと思う。

 ところで嬉しいことに、『それぞれの奄美論・50』で、もうひとつ、解答の言葉に出会うことができる。

 今、鹿児島で出版社を経営しながら、隣り合う薩摩と奄美の関係をどう解きほぐすことができるのかが、一つのテーマになっている。かつて海でつながり珍しい産物の交易を通して友好的な関係を築いてきたはずの両者である。それが、いつしか歴史の中で絡まり、ねじれてしまった。
 両者の関係の修復は、互いの歴史を知り、ねじれた部分に光を当てるところからしか始まらない。
 ここで一人の歴史研究者に注目せざるを得ない。中村明蔵・鹿児島国際大学教授である。かつて、奄美の人々と友好的な関係を築いていたであろう薩摩の民衆・隼人に焦点を当てている。
 隼人の受難は、まず七二〇年のそれが象徴的である。大伴旅人に率いられた万余の天皇の軍隊がこの地に攻め入り、千四百人余の首と捕虜を朝廷に持ち帰ったのである。二年数カ月の抵抗もむなしく、隼人は征服された。薩摩の大地では、家々に火がつけられ子どもが逃げ惑う、阿鼻叫喚の地獄絵図が繰り広げられたに違いない。

 そして次の支配者は、島津・関東武士団であった。鎌倉期に島津家とその家臣団が、関東から大量に乗り込んできて、民衆・隼人を支配する。七百年続いたその過酷な民衆支配は、まさに農奴的支配といっても過言ではなかった。「八公二民」の税、家族や集落さえ分断した「門割制度」……。
 一六〇九年、奄美に攻め入った薩摩の軍勢も、以降の薩摩役人たちも、元をただせばこの島津・関東武士団だった。奄美の人々が黒糖地獄に喘いでいた頃、薩摩民衆も苛斂誅求の収奪下に置かれていたのである。
 このような消し去られた薩摩の歴史にふれるとき、薩摩と奄美の新しい関係が透けて見えてくるのは私だけだろうか。

 いま、薩摩と奄美の問には、さながら民族的対立が潜んでいるような気がする。給与の水増しと、出世への開門という取引条件で、島の警察、学校、県行政の出先機関に転勤してきた現代薩摩役人。ときとして見られる、その居丈高で投げやりな対応が嫌悪感を増幅させているのかもしれない。士族の子孫であるとは限らないこれらの人々の意識も、明治期に起きた平民の士族への同化・上昇現象の名残であろう。
 来る二〇〇九年、島津侵攻四百年に際しても、口先だけならともかく、真の和解がはかられるとは考えにくい。しかしそうだとしても、権力関係とは無縁な人々の相互の歴史に対する想像力が、いつしか関係の改善を実現するのだと思う。
 そのとき、「権力的支配関係から民衆の和解へ」という一つの視点が、重きをなしてくると思う。(『それぞれの奄美論・50』

 薩摩の支配者と民衆を分離し、薩摩の思想自体の批判を可能にするとき、「奄美の人々が黒糖地獄に喘いでいた頃、薩摩民衆も苛斂誅求の収奪下に置かれていたのである」という言葉は説得力を持つ。薩摩の思想は無批判のまま、ひどい目に合ったのは同じだったという開き直りを聞くことはあっても、支配者と民衆を分離する視点がかの地から聞こえてくるのはほとんどない。だから、この視点自体が貴重なのだ。

 解答の言葉を言える向原さんは、徳之島で「ヤマトモン」と言われ、鹿児島では「シマ」と言われた経験を持っている。

 今から三十数年前、鹿児島県本土から徳之島伊仙小学校に転校した。高校教師だった父の転勤にともなってのことである。
 赤土と亜熱帯の木々、草花。本土からの転校生も、南の島の物珍しい風景と、小さな教室にとけ込むのに、そう時間はかからなかった。インガム(クワガタムシ)を探し、シイやムベといった木の実を採り、自分でこしらえた粗末な道具で海に漁りにいったりした。教室は、収穫を自慢しあう場であり、次の行事の作戦基地でもあった。  単調な毎日でありながら、自然の輝きに包まれていたように思う。そんな子どもも、しばしば厄介な場面に遭遇した。
 「ヤマトモン」「ヤマトモン」
 大人や、年長の子どもたちから発せられ、交わされていくこの言葉には、必ず棘が含まれていた。「ヤマトモンには気を許すな。信用するな」と。
 その都度、キラキラした自然の世界から引き剥がされ、暗いむき出しの棘にさらされることになった。その棟が、薩摩と奄美という歴史的な社会関係に由来することを、やがて子ども心に知る。

 伊仙小を卒業した私は、本土の中学校に入学した。今度は、もう一つの棘を浴びせられることになる。
 「シマ」 「シマ」
 こそこそと囁かれる言葉に「シマの何が悪い」と、心の内で反発しながら、無性に悲しくなったのを思い出す。島の人たちの防衛的な言葉とは裏腹の侮蔑的なその言い回しの中に、どす黒い醜さが藩み出ていた。そのような人たちと同類であることが、ただ悲しかったのだ。

 両者の痛みを知るという経験から、向原さんは「民衆の和解」という問題意識を掴み取ったのだと思う。ぼくも賛成だ。ぼくは向原さんの「消された薩摩の歴史から」を読み、薩摩と奄美の関係をほぐす問題意識の担い手に思い当たった。向原さんが、「ヤマトモン」と「シマ」の両方の言葉を浴びたように、それは二重の疎外を一身に引き受けた者に訪れるテーマなのだ。


「消された薩摩の歴史から」向原祥隆



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2008/06/03

泥Tサンプル納品

 今日は山川さんと、久米Tシャツ屋さんに、泥染めTシャツのサンプル品を納品に行きました。

 久米繊維工業株式会社

 山元職人が精魂込めたオーガニック・コットン版とQUALISMA版それぞれについて、1回、2回、3回と染めたTシャツを山川さんが持参。見ていただいた。

 あまみんちゅラウンジでみなさんに見てもらったときと同様、人気は断然、QUALISMAよりオーガニックコットン版へ。QUALISMA版は、平板な感じがして、久米さん曰く、「使い古しのタオル」のような風合いが出てしまうのだった。

 面白かったのは、1、2、3回染めのTシャツの評価。職人の心意気からいえば、泥染めのなかの泥染めは3回染めのことをいう。ところが、Tシャツの専門家は、ひと目で泥染めと分かり格好いいのは1回染めで、これいいじゃんと話は弾む。面白い展開。3回染めはといえば、ここまでむらなく完璧に染まるのか、逆にいえば、ここまで完璧だと、もうTシャツじゃないのかもしれない、と。なるほど、です。

 そんなこんなで無事、納品完了。商品化へまた一歩、近づくことができました。

 かつて、本物のビールといえば苦いビールのことでした。ビールといえば苦いのが当たり前でそれが本物の証だったわけです。ところが、いま当時の苦いビールは、ただの苦いビールです。一部の愛好者には本物であることに変わりありませんが、多くの人の共感を得ることはできません。いまの「本物」は、程よい苦味のビールを指します。ということは、苦味のチューニングが、ビールの商品づくりに重要なテーマになるわけです。

 泥染め商品も同じ課題に向き合っているんですね。これはすこぶるマーケティング的なテーマで掘り下げ甲斐のあるところです。



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「島嶼生態系の一員として」

 -奄美の森の匂いだ。  金作原を案内した時、屋久島に何年間も通い続けている女性が言った。「森の匂い」という言葉に、ハッとした。屋久島の森の匂いとは明らかに違うと言う。赤土や染み透る水、固有の植生や放出物、濃密な空間を寧っ風、諸々の自然物が創出する香りが、森の匂いとなるのだろう。奄美の自然を体験するのに形式はない。まさに五感をフル動員して、頭でなく毛穴で感じ取るほうが面白い。人間が文明の発達と共に置き忘れてきたヒトとしての野生が呼び覚まされる。奄美の森は、まさに野生を体感するのに最適の舞台装置だ。(『それぞれの奄美論・50』

 与論なら、「与論の潮の香りだ」と言うところだ。
 いや、自分で対比させるように書いておかしいが、要はうらやましい。「森の匂い」を堪能できる奄美大島が。いつも、「あまみ便りblog」の森レポートを見ながら、いつもそう思う。森という「野生の体感装置」だ。

 早朝のフィールドワークは欠かさない奄美の森だが、回数を重ねるほどに新たな発見があり、興味の尽きることはない。何万年もかけた進化と創造、止むことのない循環過程にある生きた自然は、我々人間のはかり知れない領域と不可思議に満ちている。これらは我々の心を癒し、豊かにしてくれるだけの存在ではない。生物学や医学など自然科学の対象であり、文学や芸術の素材であり、暮らしの基盤であり、これからの奄美を考えるうえで、無数のキーワードを内包している。

 「無数のキーワード」に惹かれる。無数のキーワードを内包する場としての森、ということだ。「奄美の森」はどんなキーワードを送ってくれるのか。楽しみにしたい。

◇◆◇

 ところが一方、奄美の森の伐採が進んでいるのも知った。

 「山のケンムンどこへ行く@奄美」

 amami-yamaさんのレポートと画像、動画で、森の実情を知り、見ることができる。知る、見るだけでは奄美の森の豊かさを保つことにはつながらないかもしれないが、考える起点を持つことができる。足場になる。

「島嶼生態系の一員として」高美喜男



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2008/06/02

「語り継ぐことから始まるもの」

 「アリガタサマリョータ(ありがとうございます)」
 奄美で、初めて覚えたことばです。いつまでこの言葉が生き続けるでしょう。この言葉が記録上にしか姿を現さなくなる日はもうそこに来ているのでしょうか。
 今から六年前、一九九五年三月、初めて奄美大島を訪れました。目的は、「方言禁止」が奄美大島でも行われていたかどうかを調査することでした。沖縄については文献からある程度はわかりましたが、同じ琉球列島に属する奄美に関しては、資料が得られませんでした。ならば、行って開いてみよう。
 それ以後、奄美大島をはじめとする奄美群島を回る調査の旅が始まりました。(『それぞれの奄美論・50』

 方言禁止の調査を行なったのが1995年と聞くと、第一印象はいくらなんでもテーマが古すぎるのではないかと思ってしまった。つまり、過去の問題を追っているのではないかと。ただ、沖縄には文献があるけれど奄美にはないというのは、いかにも奄美的課題がここにも貌を出しているのが分かる。

 私にとって方言禁止を追いかけることは、とりもなおさず、明治以来、近代化に向かって突き進んだ日本という国の歩みを知ることであり、その中で生き抜いてきた奄美の人々の苦労やエネルギーを知ることでもありました。そして、それと同時に島の人々の優しさに触れ、人間としての自分を振り返る日々でもありました。今、これまで調査を続けて来られたのは、ひとえに島の人々の優しさに支えられてきたからだという思いを強くしています。正直なところを言えば、調査の興味もさることながら、初めて島に来た何の予備知識もない人間に、こんなにも優しく、親切に教えて下さるものかという驚きと感謝の念、それが私に調査を続けさせたと言ってもいいと思います。成果をまとめなければ申し訳が立たない。それほど島は優しかったのです。

 この国の歩みや「奄美の人々の苦労やエネルギー」を知るために方言禁止のテーマを追いかける問題意識は真っ当なものに思える。島の人の優しさは美質としてあるものだけれど、西村さんの想いも通じた結果ではないだろうか。

 今、かつての方言禁止は、全く過去の出来事のように人々の記憶から消えていこうとしています。調査をしていて一番驚いたのは、「小学生の時、学校で方言を禁止されたことがありますか」という問いに、奄美のどの島でも、ほとんどの人が「ある」と答えたことでした。六十代以上の人はいうまでもなく、三十代の人からもすぐさま「あった、あった」と、答えが返ってきました。「島では当たり前だったからね」。この当たり前が、早くは明治後期から近くは昭和五十年頃まで、八十年近くも続いて来たのです。質問に対して考えることなく、すぐ「あった」と答えられるというのも、それだけ印象深い出来事だったからでしょう。しかし、今の高校生までの子供たちでこの当たり前を知っている子がどのくらいいるのでしょう。

 なるほど、記憶を辿るというなら、1995年の調査は間に合ったということだ。約80年続いたことを知ると、この運動が強度だけではなく時間としてもすさまじかったのが分かる。

 今、二十一世紀に向かって島が変わって行こうとするこの時期に、ぜひ島の人々の昔の体験を若い世代に語ってほしい。島グチで受け継がれて来た生活の知恵を、方言禁止を経験したことを、「ありがとう」が「アリガタサマリョータ」や「オボラーダレン」(徳之島)「ミヘディロ」(沖永良部島)「トートガナシ」(与論島)という言葉で飛び交っていた時代のことを、若い世代に語ってほしい。それを通して、生きる楽しさや悲しさ、強さ、助け合う優しさを教えてあげてほしいと思います。(『それぞれの奄美論・50』

 ぼくはここで西村さんの文章を奄美理解のヒントに受け取ってみたくなった。

 「アリガタサマリョータ」 奄美大島
 「オボラーダレン」    徳之島
 「ミヘディロ」       沖永良部島
 「トートガナシ」      与論島

 それぞれまったく異なって見えるところが、島は世界、島は宇宙の独自性を教えている。ただ、ここには奥行きがあって、つながりを見出すことはできるはずなのだ。

 「アリガタサマリョータ」は、薩摩(大和)言葉を消化しているのが分かる。大島は、奄美のなかで大和消化の度合いが高い。ただ、大島にも「トートゥガナシ」はあって、神様に祈るときの祝詞で使われるはずだ。というか、与論でもそれはそうで、祝詞の言葉が「ありがとうございます」の意に転化したのが与論ケースだ。与論では、「神様」を「ありがとうございます」として日常的に使っているということだ。徳之島の「オボラーダレン」はぼくには分からない。「ミヘディロ」は、沖縄の「ニフェーデービル」に近しい。沖縄の「ありがとうございます」は、「二拝させていただきます」の意だと思う。それと同じで、「ミヘディロ」は「三拝させていただきます」の意味ではないかと思う。こうして奥行きを辿ると、一見違って見える言葉どうしに、琉球弧のつながりが見出せて楽しい。


「語り継ぐことから始まるもの」西村浩子


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サンゴ増殖実験。ここはどこ?

三井造船と九州大学が与論島で電着技術を使ったサンゴの増殖実験を開始したというニュースは読んでましたが、画像を見ると迫力が違います。

Photo_2













FujiSankei Business i. 2008/6/2

ドーム型電着構造物だそうな。

電着技術を使って、「サンゴの幼生の着床基盤」にするというもの。

珊瑚の再生が珊瑚のいない与論島を舞台に繰り広げられたら嬉しいもの。
今後に期待したい。

ところで、この海はどこだろう?




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2008/06/01

「天与の遺産」

 暗い気分でこの原稿を書いていた夜(五月二十三且、NHK衛星テレビが「21世紀に残したい日本の風景」を放映していて、たまたまそれが(九州・沖縄編)。ベスト3は①沖縄のサンゴ硬の海②阿蘇山③桜島、だった。ゲストの高見知佳が、祖母の島である奄美大島(笠利町川上)を、自分のベストに挙げていた。どんなクスリよりも田舎とおばあちゃんの笑顔がクスリ、と言ったひとことが胸に沁みた。(『それぞれの奄美論・50』

 うん、たしかに胸に沁みる。いい台詞だ。
 「どんなクスリよりも田舎とおばあちゃんの笑顔がクスリ」という言葉は、そうありたい関係を見せてくれていて奄美に関係なく共感できる。でも、この高見知佳の発言は奄美の人にとっては別の意味でも嬉しいのではないだろうか。それは、メディアを通じて、この世には奄美という場所があるということ、奄美が存在しているということを伝える言葉にもなっているからだ。奄美の島人にはきっとそんな喜びもあったろうとぼくは思っている。

 中村さんは暗い気持ちでこの原稿を書いたというが、ぼくは嬉しいエピソードを知ることができた。感謝である。


「天与の遺産」中村喬次



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