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2008/05/12

「主体としての奄美」

 「主体としての奄美」というタイトルは、あの昇曙夢の「奄美人の主体」という日奄同祖論を思い出させる。山下さんは奄美論の系譜のなかに自身の論考を位置づけ、そこからの転移を記しているのだ。昇にあっては奄美人の主体が、生粋の日本人であるかいなかが重要なテーマであったのに対し、山下さんは、奄美自身が主体になることが重要になっているわけだ。

揺曳
 しかしながら、南の島々を通り過ぎていった長い時間の積み重ねを一瞥する時、胸に悲しみが満ちあふれてくる。わが国の南方洋上に点在する島々の中で、奄美諸島ほどその存在感を希薄にしてきた島々はない。たとえば、名越左源太編『南島雑読』には、次のような記載がある。

一、此南島雑話は、琉球並諸島の事を些細に書記為申故、他国之人に一切為見候 事禁止いたし候問、其心得第一之事に候。依人借用無用之事。

 薩摩藩は奄美諸島を直接支配地としながら、これを意図的に秘匿の地とした。このことにより奄美諸島は、波荒き南海洋上にその姿を揺曳させる歴史が長かったのである。(『それぞれの奄美論・50』

 山下さんの「悲しみ」の由来を、ぼくは「二重の疎外とその隠蔽」と捉えてきた。そして考えてみれば当たり前なのだが、名越左源太もそれは委細承知の上で記録していたのだ。名越の『南島雑話』は、悲しみの由来をよく教えてくれるだろうか。早く読んでみたい。

 ところで、「揺曳(ようえい)」を辞書で引くと、「ゆらゆらとたなびくこと」とある。奄美のあいまいな存在の輪郭、そのことだ。

ことば
日本語は、日本本土方言と琉球方言に二大区分されている。そして、奄美諸島のことばは、沖縄諸島のことばとともに琉球方言に属している。その境界はトカラ海峡である。これらの琉球方言について、その源流には日本語という祖語があり、そこから分岐したといわれている。このことが「日琉同祖論」の有力な根拠になった。さらには、これらを根拠に日本への同化政策、皇民化教育が大きく推進される起動力となった。日本語と琉球方言の差は鋭く、対話は不可能だったということである。したがって、琉球方言を排斥し、この地域に日本語を標準語とするという政策が推し進められた。それは奄美や沖縄の人々が日本人になるための第二歩である、という不動の認識があったからである。驚くべきことは、この標準語推進策のために、罰として子供たちに掛けさせた「方言札」が、奄美・沖縄で昭和三十年ごろまで使用されていたことである。

 昭和40年代の半ばには「方言札」はもう無かったが、学校内で方言を使った際の指弾は大真面目にあった。その同じ教室が、いまは方言を教える場になっている。ありうべき教育があるとしたら、それは方言を否定することなしに、方言の上に標準語を教えることだった。それができなかったのが近代のまばゆさのせいだという意味では、日本の他の地域と変わらないが、その否定の度合いが根底的であったのが、奄美・沖縄の特徴だった。

 沖縄出身の研究者、比嘉政夫(国立歴史民俗博物館)の回顧に興味深い記載がある。第二次世界大戦末の昭和十九年(一九四四年)、沖縄から鹿児島県姶良郡横川に家族とともに疎開した時、当時八歳の比嘉が一番驚いたのは、学校で先生と生徒が方言で話していることだという(『沖縄からアジアが見える』)。一見、不思議に思えるこの現象は、奄美の方言追放に性急でありながら、自分たちの方言は日本語であるという頑迷な信念が薩摩にあることの証である。奇妙なことにこのような考え方は今も根強く残っている。

 比嘉さんの体験から約30年後、ぼくにも同じような場面があった。鹿児島市の中学校で入学式からほどない頃だったと思う。いかにも地元の不良少年たち10名ほどに突然、ぐるりを取り囲まれたことがあった。理由は単純。ぼくが着けていた制服がいわゆるガクランで、詰襟は高く制服の内側には真っ赤な薔薇の刺繍が施してあった。全くの世間知らずの母が全くの世間知らずの息子に買い与えた結果で、ぼくもその意味するところを全く解していなかった。詰襟が高く、中学になったら突然、首が回らなくなったのが窮屈に思っていたくらいだった。

 取り囲んだ連中にしてみれば、上級生の手前、遠慮しているが、数年後には着けて羽振りをきかそうと今は我慢を決め込んでいるのに、どこのグループに属しているわけでもない輩が着ているのが許せなかったのだろう。

 ぼくはといえば、取り囲まれたこと以上に何を言われているのかさっぱり分からなかったのに驚いた。いわゆる鹿児島弁である。恫喝されているのだが、意味が分からない。おかげで気持ちに余裕ができたが、その堂々たる方言のしゃべりっぷりが強烈だった。確かに、彼らにとって追放の強度は奄美ほどではなかったのだ。

 昨年末、南日本新聞の「記者の日」で同社の記者が、名瀬で会った高校中退した女子生徒の話を報告している。それは、鹿児島の高校で教員に「あなたは、いつまでも鹿児島のことばにならんね。鹿児島の人になろうというつもりがないんだね」と言われ、許せなかったというのだ。この女子生徒のショックは大きく、やがて学校を中退する。女子生徒は話を続けた。鹿児島に鹿児島の文化、ことばがあるように、奄美には奄美の文化、ことばがある。なぜ奄美の人が鹿児島の人にならないといけないのか、と。(鈴木達三 「違いを認めよう」南日本新聞、一九九一・一一・一〇)。ことばは、人々の生活に根差していて、その文化を規定する。文化の「違い」を認めようとせず排除しようとするこのような姿勢は、何もこの教員に限らず、二十世紀末尾の今日、時折、顕在化するのに驚くほかはない。

 同じことを言われたことはないが、ぼくは鹿児島の言葉を拒否した。アクセントすら身に着けないようにプロテクトした。それは知らず知らずのうちに薩摩への対立感情を抱いていたせいもある。けれどもっと根本的に言えば、自分の出身地で出身地の言葉は禁じられてきたのに、いまさら、さらに土着度の強い言葉を身に着けろと言われても白けるしかない。ぼくには、奄美と鹿児島の違いは、方言に対する自由度の違いとして立ち現れたのだったろう。

 出自
 かつて、沖縄の保守派の指導的立場にあって活躍した西銘順治は、「自分がなろうとしてなれなかったのが日本人だった」という名言を残した。奄美・沖縄を日本と対置した時、日本への同化についての適切な評言となっている。人は、誰であれ、その出自を持っている。奄美人の出自は、明確であり、それは自分の「シマ」である。このシマこそが奄美人の生の原点である。奄美の内部からの視点では、シマの個別的特性をみんながよく知っている。そこには独特のことば、唄、踊りなどがある。自分のシマの個性とともに、隣のシマが違うということもよく知っている。多様性の中の個性の許容が、奄美人の生活の前提条件となっているのである。

 「なろうとしてなれなかったのが日本人」という発言をぼくは痛ましく思う。「なろうと思わなくてもなっているのが日本人」と開き直ればよかったのにと思うが、それは現場を共有していない者のたわごとになってしまうだろう。ただ、その強迫はもう終わっていると言ってしまいたい。高橋孝代さんが沖永良部で行ったアンケートで、約93%の島民が「日本人」という意識を持っているのは、そのことを物語っているのではないだろうか(「アマミンチュ(奄美人)が新鮮」)。
 
 そして仮にそうだとして、次に来る課題は何だろうか。
 ぼくは「多様性の中の個性の許容」と抽象的に言わなくていいと思う。ぼくたちにとって、「奄美人」という言葉はまだ抽象的だ。ぼくならユンヌンチュ(与論人)がそうだが、山下さんが言うように、シマの単位に落として始めてリアリティが出てくる。この島人(シマンチュ)の内実を豊かに表現すること。そうしてはじめて「奄美人」の輪郭が浮かび上がるかどうかが分かるに違いない。

 帰属意識
 従来、奄美人ほど、その帰属意識をあいまいにしてきた人々はいない。それは、ある意味では、異郷において奄美の人々が生き抜くための知恵であったと言えよう。奄美の先学の生の軌跡をたどる時、「日本人」であるための必死の努力と精進が目立ち、同時に自分の生まれたシマへの熱烈な愛着と郷愁が認められる。不思議なことに、この分裂した思想と行動は、何の矛盾もなく奄美の先人たちにも、また私たちにも支配的にある。そして、このような考え方は、たとえば自らの故郷・奄美の後進性を異郷(都市)に在って鋭く指摘し、批判することになる。この場合、あくまでも日本本土が標準になっている。また奄美の側でも、薩摩の侵攻と黒糖収奪が反復して語られ、それでわが事足れりとなってしまう。これらはいずれも、奄美の近代化に一片の懐疑さえももたぬ認識と、性急な日本への同化政策がもたらした「ひずみ」と言えるであろう。

 「奄美の先学」との距離を測るように書けば、ぼくには、「『日本人』であるための努力」が不要になっていて、「自分の生まれたシマへの熱烈な愛着と郷愁」がそのまま残っている。また、奄美の「後進性」の原型を劣性とはみなさず豊かさ、可能性として捉えるので、都市立脚による批判という視点はない。まして日本本土という標準も。「薩摩の侵攻と黒糖収奪」にいたっては、最近ブログに書き始めたくらいで今まで語る相手がいなかった。

 山下さんの言う「ひずみ」は、「日本人になる」という努力が自発的意思という見かけからは遠く隔たった自失の過程に他ならないことを教えている。

 以上。山下さんのエッセイには、こちらにも言葉が次々湧いてくる。それだけ山下さんが、奄美の困難を繊細に言葉にしてきたからだと思う。

「主体としての奄美」山下欣一


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コメント

 クオリアさん

 ヤンバル北部と知名との駅伝大会の参加チームの名を
思い浮かべながら、もう18回ですね 感慨無量です
無量大数です 音楽会もですが、これまでもそうですしこれからもその関係は続くでしょうね

 言語としての日本語の祖語はユンヌ言葉(フトゥバ)です
三母音から五母音に言葉が偏移する過程で、正統な日本言葉を残しているのは与論の言葉だけです
極論ですが、ユンヌフトゥバがヤマトゥ言葉です
ガシュクトゥヌガと云われると・・・時間はかかりますが、それはそうです

 奄美とは?トカラ・・・十島村?七島か三島から与論

の島まで、加計呂島、請島・・・原子力を導入しようか迷った村・・・いろいろですよね

 勝か負けるかのどちらかという切磋琢磨はいいんです
が、勝者の論理で敗者を抹消しつくしてしまうのではなくてその過程を大切にしたいものです

 がし、がしでーる、ゆむなよ、ゆでぃやならぬ・・・
うり、うりでーしが・・・ウリャ ヌーゲーラ です

ユンヌに生まれたわけではないし、住んでいるわけでもないのに、ウヤエーフジの島がなぜにこうまで気にかかるのか・・・われながら・・(?)です
勝手ですが、ふるさとの島という支えが心にあるだけでいいですね

 何よりも与論の島自体が類まれな島なんです
そういうことだと思います

投稿: サッちゃん | 2008/05/13 01:22

サッちゃんさん

全く同感です。ぼくも育った年数は少ないですが、なぜこうまで気にかかるのか?です。

たしかに、自分の支えですね。

駅伝。今年は与論でしますよね? 山原、永良部、与論が揃うと、落ち着きいいですね。(^^)

投稿: 喜山 | 2008/05/13 09:10

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