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2008/05/17

「シマウタを武器とせよ」

 日頃から、奄美のシマウタは早晩ダメになるのではないか、と心配している。シマウタが全国的な注目を集め、ウタシャが東京や大阪といった大都会に招かれて披露し、奄美では各種のシマウタ大会が催され、ウタシャの若手志望者・予備軍も少なからず輩出している。ようやくシマウタは全国に認知されつつあるかに見えるにもかかわらず、私は心配している。
 心配の核心は、シマウタがヤマトの民謡が歩いたのと同じ道を歩くのではないか、という点である。
 奄美・沖縄の民謡がヤマトの民謡と決定的に違うのは、歌に硯的な力が残っていることである。呪的な、という言い方は誤解を招くかもしれない。単に呪術的という意味ではないからである。
 自然や人事に対して変化を与えようとする力、積極的に働きかけようとする力が歌の中にこめられているという意味である。歌の魂と言ってもいい。

 もっともヤマトの民謡だって昔はそうした力(魂)を持っていたのだが、早くに失われてしまった。ヤマトの民謡がとうに失ったものをまだ保持しているのが奄美・沖縄の民謡、なかんずく奄美のシマウタである。
 だが、ほっておけばヤマトの民謡がたどったと同じ運命をたどることになる。いや、すでにたどりつつある。呪的な力はどんどん失われつつある。その心配が私を捉えて放さないのである。
 行き着くところ、魂の抜けた形だけの民謡、若者から見捨てられ、一部趣味人の翫賞物になりはてた形骸だけのシマウタになってしまうのではないか。(『それぞれの奄美論・50』

 これを読んで、大島の人が同郷の愛着を込めて、ちとせは分かってるのかな、とか、孝介の目は最近、とか心配げに語る理由が分かる気がした。

 歌を歌うことで人々は、自然や人事に対して積極的に働きかけた。雨を降らせるために、あるいは降りやませるために歌を歌った。それを迷信と片付けてはならない。雨が降るか降りやむかは「生き死に」に関わっていた。言葉を換えれば、生きるために歌ったのである。これがシマウタの原点である。

 ぼくも全くそう思う。「後進性」と呼ばれたもののなかにどれだけ貴重なものがあったか。その好例だ。ぼくは、元ちとせの唄には、まだこの自然への働きかけを感じることができる。そして先日の「夜ネヤ、島ンチュ、リスペクチュッ!! in 東京」で、里アンナのわん島に感じたすごさも、このことだと合点がいく。

 ウタをもって武器とせよ! 歌という武器によってのみ、奄美は近代の矛盾と戦うことができるであろう。

 これはいいアジテーションだ。


「シマウタを武器とせよ」松原武実



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