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2008/05/11

「ほこらしゃ」と「あんまぁ」

 中野の奄美料理「ほこらしゃ」と江東区大島の沖縄やんばる料理「あんまぁ」に続けて行ってきた。

 「ほこらしゃ」は、山川さんと奄美カフェ打ち合わせのあとに。お店はカウンター席でこじんまりとしていたけれど、元気一杯だった。誰かが三線を弾きはじめると店内はたちまちみんなで歌うモードになる。ああ、大島は唄う島なんだなぁと痛く感心した。弾けたらいいなあ、歌えたらいいなあとしきりだった。

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 「あんまぁ」は、その名に惹かれて、与論のぱらじ(親戚)のやかと。
 らっきょうの黒糖漬けの甘酸っぱさが懐かしくてたまらず、勢いづいて食べに食べた。飲む方もオリオンのあとは、オリジナルという泡盛「あんまぁ」を飲みに飲んだ。なにしろ、二人で飲んでボトルをお代わりしてしまった。

 料理も酒も美味しかったからだが、会話も弾んだ。
 途中、お店のうば(おば)が、「あんたどこの人?顔が沖縄面(おきなわじら)だけど」と声をかけられ、与論と答えると、与論は行ったことあるよ、と。与論の人が話しているのがなんとなく分かったよ。ここもパピプペポだと思ってびっくりしたよ。「パピプペポ」というのは、方言に、ぱんかた、ぴちゅ、ぷりむぬなど、P音が多いということ。ぼくも、うばが沖縄に電話しているとき、会話がなんとなく聞き取れたので楽しかった。

 やんばる(山原)と与論はやっぱり近いんだと思った。琉球北部の交流圏ですね。

 やかとの話も弾んだ。今回の話題は、『めがね』。やか(兄)は、「空」だと評する。ぼくは沖縄映画の「過剰」さと比較して、「空虚」(奄美映画としての『めがね』)と考えたばかりだけれど、「空」というと、自我や我執の抜けた感じが出ていい。その通りな描かれ方だったから。マンドリンは与論に合うのは発見だった、とか、もっと突っ込んでいえば人は要らないとか、何も自然を邪魔してないとか、なるほどな『めがね』論だった。

 何もないことを描いていることで、これは間違いなく与論映画なのだが、かつ、琉球弧の自然美を損なうことなく描いているとしたら、これは与論映画であると同時に琉球映画でもある。それだとしたら「過剰」イメージの沖縄映画に対して、その肩の力を抜くように、『めがね』を提示することもできるのかもしれない。そんな連想をした。

 同様にいえば、奄美はアイデンティティが不安定だとよく言われる。そういうぼくも、ひとしきり、奄美人とは何か?奄美のアイデンティティとは何かを、このブログで書いている。ところが、その底の方では、いいじゃない、アイデンティティなんてという思いが湧き上がってくるのをいつも感じる。そしてその声がやってくる先は、自分でもあれば、与論でもある。与論でアイデンティティを問えば、いいんじゃない、そんなに考えなくても、わなーわぬでーる、と、言われそうだ。概念化してしまいそうなところで、アイデンティティを溶解する。それは与論原理だ。そうも思った。

 『めがね』議論なんて、そうそうできるものではないから、実に楽しい夜だった。こんな議論をさせてくれる『めがね』にも感謝。



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コメント

僕も大好きな「ほこらしゃ」と「あんまぁ」ですよ♪
「あんまぁ」のおばとうじも気さくな方で大好きです!
おばの高笑い最高です!聴けましたかぁ?(笑)

投稿: 奄圓 | 2008/05/14 14:06

奄圓さん

高笑い、聞けましたよ。料理が与論と似ていて懐かしかったです。

大阪の奄美の店も二軒、行ってきました。こんどお話ししますね。

投稿: 喜山 | 2008/05/16 09:51

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