« 『近世奄美の支配と社会』のあとがきの与論島 | トップページ | 「奄美から見た薩摩と琉球」 »

2008/05/09

『奄美の人と文学』

 この四月に発売された『奄美の人と文学』を読んだ。奄美の現在の文学を読みたいと思ったからだが、ここに収められているのは、2006年が最新で、なかには半世紀前、1954年の作品もあり、ちょっと当てが外れた。しかも、構成は茂山忠茂の四篇の小説と秋元有子の四篇の評論をドッキングさせた変わったつくりになっている。でも、いいじゃないか。奄美の作品に触れることができる。そう思って読んだ。

  『奄美の人と文学』
Photo_3












 読んでみると、茂山さんの小説作品はイデオロギーの吸引力が強かった。イデオロギーの枠を越えて、あわよくば食い破って読み手を連れ去ってくれる力を感じることができなかった。その分、夢中になりにくかったのは確かだ。ただ、残念ながら作品に没頭することはなかったけれど、茂山さんは徳之島の出身。 

 日が西にしずむころ、やっと仕事を終えると、砂糖小屋にひきあげます。ときはなされた牛たちが、ゆったりと小屋のそばで草を食べています。
 「さた、あちゃしたーめ (砂糖はあしたでいいか)。」
 と、おじさんがわたしにききました。わたしは、あわてて、
 「あい、きゆうむちいき (いいえ、きょう持って帰ります)。」
 「おそくなりだ (おそくなるぞ)。」
 と、おじさんがいいましたが、わたしは待つことにしました。
 『奄美の人と文学』

 こういう方言が加わる箇所は、与論言葉(ゆんぬふとぅば)の延長で分かり、作品世界に自然に入っていくことができる。考えてみれば、これは奄美(琉球弧)出身者ならではの奄美(琉球弧)の作品の楽しみ方かもしれない。そういえば、島尾ミホの『海辺の生と死』で、那覇芝居を楽しむ加計呂麻島(大島?)の島人たちが描かれていたけれど、あれも「言葉が分かる」のを頼みにした楽しみだったわけだ。

 もうひとつ。無理なく入り込めたのは、黒砂糖という、ならではの素材と少年期の普遍性が混ざった場面だった。主人公が、ガキ大将のかつあげのためにやっとの思いで手にした黒砂糖を渡そうとするところ。

 ふところの砂糖はなぜか重く感じられて、わたしは、つよしにそれをわたすのを少しためらいました。わたしは、砂糖のかたまりに手をかけました。砂糖は、わたしの小さな手からはみでるほどの大きなものでした。とくに、紙からはみだした部分の、あのざらざらした生の砂糖のはだざわりが、ずしんと身にしみました。わたしは、しばらくそれをじいっとにぎりしめていました。すると、きのうとゆうべの、あの苦しみが、わたしの頭にあざやかにょみがえり、わたしの胸はきゆうにあっくなってきました。その胸のあっさが、「くつ」とのどもとにつきあがってきたとき、わたしは小さなからだごと、火の玉のようないきおいで、つよしにとびかかっていました。つよしは、ふいをつかれて、その場にしりもちをつきました。きゆうにつよしがこわくなったわたしは、砂糖をほうりなげると、わっと泣きだしてしまいました。

 みんながおどろいて、わたしの顔をのぞきこんでいると、つよしは、なにやらぶつぶついいながら、石をさがしてきて、砂糖をわりにかかりました。まわりの者たちは、泣いているわたしにかまぅのをやめて、つよしのまわりにあつまりました。

 みんなは、つばをのみこみながら、つよしのすることをみていました。つよしは、まずいちばん大きいかけらを日にほうりこみました。そして、小さいかけらを、ひきつれていた子どもたちにわけてやりました。砂糖をもらった子どもたちのほっぺは、じゅんじゅんにふくらんでいきました。

 わたしは、きゅうに軽くなったふところにこぼれている砂糖のつぶを、指先でつまんで口に入れました。涙とあせであましょつぱくなったきみょうな砂糖の味が、口の中にじわじわつとひろがっていきました。
『奄美の人と文学』

 黒砂糖はご馳走だった。そんな感覚はぼくにも残っている。叔父が小さい頃、家の瓶に蓄えてある黒砂糖をこっそり食べ続けて空にしてしまった話を聞いたこともある。1927年生まれの茂山さんの世代にとっては、なおのこと格別だったろう。ガキ大将つよしが黒砂糖をほおばり、他の子たちの頬が順々にふくらむとき、いま食べる黒砂糖ではなくて、子どもの頃ほおばった黒砂糖の味が蘇ってきた。あの頃、黒砂糖はこの世ならざるものをもたらしてくれるように美味しかった。あれにはハーゲンダッツだって敵わない。

 黒砂糖以上に素材として出てくるのは「砂糖車(さたぐんま)」だが、秋元さんも正確に指摘しているように、「砂糖車(さたぐんま)」は茂山さんのキーワードだった。島を離れて長い茂山さんは「砂糖車(さたぐんま)」という風物に、それが原風景であるかのように吸引されていく。その切実さが響いてきた。

◇◆◇

 秋元さんの評論には、「島尾敏雄と田中一村」があった。同時代を奄美に過ごしながら接点の知られていない二人の軌跡を追ったものだ。ぼくも、この二人、大島のどこかで出会わなかったのかと想像したことがあるので、関心を持った。 

 秋元さんは整理している。

 1.人生の途中で起こった障害のため追いつめられたかたちで奄美へ移ってきた。
 2.ほとんど重なる時期に約二十年の歳月を奄美で暮らした。
 3.奄美で暮らすことによってその障害を克服した。すなわち、島尾の場合は妻の心の病を治癒し、一村の場合は奄美の自然と動植物の中に新しい画材を得た。いい換えれば、ともに島の持つ特有のものによって活路を開いたのである。
 4.奄美在住中にそれぞれの創造活動の峰を築いた。
 5.奄美での二人の仕事の結晶が、その後それぞれの分野で全国的な反響を呼んできた。
 6.六十九歳で他界した。
などのことが改めて浮き上がってきたと思う。

 「克服」が二人の道行きを言うのにふさわしい言葉かどうか分からない。けれど、こう整理されてみると、確かに共通点が多いのに気づかされる。で、秋元さんも、「しかし奄美での二人の接点がみつかっていないのは残念である。」と書くのだが、改めて立ち止ってみると、多くの共通点にもかかわらず、二人の共演は考えにくい気がする。二人とも奄美に魅せられている。けれど、魅せられる二人の動機は遠く隔たっていて交点を持たなかったと思える。できれば、その交点の無さをあぶりだす掘り下げがほしかった。


 『奄美の人と文学』を読み、奄美はもっと書かれもっと歌われもっと描かれなければならない、と思った。奄美を掘れ奄美を掘れ、と。それが奄美づくりだ、と。



|

« 『近世奄美の支配と社会』のあとがきの与論島 | トップページ | 「奄美から見た薩摩と琉球」 »

コメント

 クオリアさん

 奄美のこと興味津々ですが・・・
与論では、今日のことは「きゅう」ではなく「しゅう」
ですよね

 昨日は・・・?  「きのう?」ですか?
明日は「アッチャー」、明後日は「アサティ」ですが
今日が「シュウ」、ユンヌ言葉は意味深長です

 やまと言葉での今日(きょう)は、「けふ」と書かれ
ていて、蝶々(ちょうちょう)は「てふてふ」でした
クオリアさんと会話が成り立っていないようでスーワー
です

 がしが、アッチャーやアッチャーの風が吹く・・・
裕ちゃんの唄はいいでした。今もいいですよね。

投稿: サッちゃん | 2008/05/10 02:20

サッちゃんさん

沖縄とウチナー、キバリとチバリとか、「チ」と「キ」が対応している例は思い出しやすいですが、今日とシュウのように、「キ」と「シ」が対応している例はすぐに浮かんでこないですね。

シュウならではの理由がありそうですね。

スクはイューガマ、ユタはヤブ。与論独特の言い回しは可愛げがあります。

投稿: 喜山 | 2008/05/12 08:47

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 『奄美の人と文学』:

« 『近世奄美の支配と社会』のあとがきの与論島 | トップページ | 「奄美から見た薩摩と琉球」 »