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2008/05/21

「沈黙をこえて」

 沖縄には、やわらかながらも強烈な自己主張がある。貪欲に他者を取り込みながらも、根っこでは「ウチナンチュ」であることを頑として譲らない。そんな強さがある。
 ヤマトと琉球の境界で揺らぎ続け、どちらかになりたくてどちらにもなりきれない奄美は、「ならではの財産」を失いつつあるのではないか。(『それぞれの奄美論・50』

 「元気な沖縄と沈滞する奄美」と書き起こし、「揺らぐ島々」、「うつむく島々」、「他者を待つ島々」と言葉をつないでいるように、東郷さんは奄美の元気のなさを気にかけている。ただ、ぼくたちは東郷さんの心配はよく分かるけれど、「どちらにもなりきれない」ことを、奄美の「ならではの財産」と受け取りたい。

 たとえば、沖縄人がウチナーンチュというとき、すぐさまヤマトゥンチュを対位項として呼び寄せずにはおかないのを痛ましく感じることがある。ときにそれが窮屈さを伴うことがあることも。でも、ぼくたちがアマミンチュというとき、ヤマトゥンチュを呼び寄せることはない。それはアマミンチュの内実が伴っていないから、それ自体が言葉として成熟していないからという弱点を持つのだけれど、それでも、他者をすぐに色分けせずに置くのは、他者への優しさとして表出されているのではないでしょうか。それだって「ならではの財産」、そう言えるように思うのだ。

 でも東郷さんは希望も書いている。

 他者を恃まず、島のことは島自らが決めていかねばならない。そんな時代ではないか。自立のために、島には島なりの豊かな価値があることを、他者の言説を待たず、土着の言葉で誇りを持って語るべき時だ。
 既に胎動は見られている。地域の問題を拾い上げ、自ら考えようと訴えるミニコミ紙の発信が、島社会だけでなく旅の「シマンチュ」社会にまで波紋を及ぼす例もある。また、距離のハンディを超えたインターネットでの発信が、Iターン者の獲得に役割を果たした例もある。
 これらは、いずれも、いまだ小さな草の根の流れだが、現場から発信されるが故の確固たる強さを秘めているかに思われる。
 今後ますます、島からの発信に期待して筆をおきたい。

 東郷さんがこう書いてから8年。ぼくたちは島からの発信の爆発を目の当たりにしている。島外からそれを応援する発信だって現れてくれている。その意味では、東郷さんの期待は応えられつつあるのだ。


「沈黙をこえて」東郷伸一




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