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2008/05/16

「問われる叡智」

 奄美の人々、などとよそよそしく言うのは止めよう。そう、私たちである。私たちは島のものを粗末に扱い、ヤマトからくるものは良いものであり、真似るべきと考える傾向が強かった。誇りが持てなかったわけである。残さなければならないものまで捨て去り、売り渡してきた。誇りが持てなかったことの証、その最たるものがシマヨモタではないだろうか。遊びの中心がテレビに変わっていくとともに、みるみるシマヨモタが消えていった。「アンマ(おばあちゃん)」や「ジュウ(おじいちゃん)」の意味さえ知らない中学生が大半だと知って唖然とする。博多っ子や浪速っ子が、誇らしげにお国なまりを披露しているのを聞くと、うらやましくて仕方がない。
 言葉をたどる旅は、民族や文化の源流にたどりつく旅であろうが、早晩、その道も閉ざされようとしている。口承が命綱であったわけだけれど。

 シマヨモタを話す最後の世代という自負から、というわけではないが、小説のなかに、私は方言を極力取り入れるようにしている。島の人の情愛のこまやかさや喜怒哀楽の豊かさを伝えたい思いからである。シマヨモタが消えていくということは、島人の感受性の豊かさまで薄れていくことになりはしないか、それが寂しくて、怖い。(『それぞれの奄美論・50』

 「シマヨモタが消えていくということは、島人の感受性の豊かさまで薄れていくこと」にはならない。だから、寂しいのは分かるけれど、怖がることはないと思う。むしろ、「博多っ子や浪速っ子」顔負けの奄美言葉を鍛えればいい。

 けれど、出水沢さんが、シマヨモタにこだわるのには理由がある。それは、それが島の世界に入るための切符だからだ。中途半端ではあってもぼくも、与論言葉(ゆんぬふとぅば)をしゃべることによって開かれる世界があるのを知っている。それは、人間関係を開くということではなく、時間を遡行し空間を拡大してみせることができるということだ。

 島の言葉に耳を澄ます、というか、身体を澄ますと、時間を遡ってはるか昔に同じ言葉を発した島人の気持ちや意図が分かる気がするときがある。島の言葉で島の身体性を掘り下げることで、地名の意味や歌の心が蘇ってくる。それは島の言葉でしか辿りつけない、かつ他では味わえないスリリングな作業だ。


「問われる叡智」出水沢藍子


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