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2008/05/14

「変化の底流を見る眼」

 今日、離島の幸福、不幸論議は、島口の伝承をはじめ郷土教育の肯定的評価につながっている。その郷土教育の中にシマウタ、八月踊りとともに、郷中教育である「山坂達者運動」が、琉球の「エイサー」が入ってくるようになった。

 薩摩の郷中教育の奄美入り?と聞くと、ぼくなどは暗澹たる気分になるのだけれど、でも頭を冷やせば、「エイサー」と「山坂達者」は、琉球と大和の二重意識としての奄美を素直に表現しているのが分かる。と、言い聞かせる。

 近世期、奄美は、薩摩藩による黒糖の専売制で苦しんだという。確かにそうではあった。しかし、この制度も屋久島の平木専売制という仕組みの導入である。屋久島の平木専売での米を奄美から搬送させ、奄美の黒糖専売が実施されると、琉球国頭からの赤米を道之島、屋久島に搬送させる。大坂(大阪)市場では値段がやすいという情報の判断がある。また、中国明・清との貿易ルートの確保の必要性から、薩摩藩は奄美に大和的服装を禁じてきた。そして、琉球を介して情報を取り寄せながら江戸幕府と対応し、大島を薩摩藩公認の密貿易の基地として設定し、軍艦や武器の導入をしようとする構想が幕末に出てくる。これも情報とそれに対する薩摩藩としての対応の機軸であろう。(『それぞれの奄美論・50』) 

 弓削さんの考察を読むと、その背景にあるだろう既存の奄美論の文脈が気になってくる。既存の奄美論の文脈に対置するように、弓削さんは自身の考察を置いているのではないだろうか。

 たとえば、黒糖専売に対して、「屋久島の平木専売」と書くのは、既存の文脈では、他にないあこぎな制度として黒糖専売が語られているからではないか。また、「大和的服装を禁じ」たことを、密貿易基地としての薩摩の構想があったからだという解説は、「禁・大和服装」が差別としてのみ語られている文脈があるからではないか。そう想定すると、弓削さんの言わんとするところが伝わってくる。

 薩摩の方法や構想を知るのはありがたいとして、ぼくはそれが結果的に奄美に何をもたらしたのか、その固有性は何かということが気になるところだ。


「変化の底流を見る眼」弓削政己



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