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2008/05/04

奄美、琉球の相互扶助

 松下さんは、宮城栄昌の考察を引いて、奄美が凶作のときに、薩摩だけでなく琉球にも「米」を頼った事例を挙げています。

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 この表によれば、徳之島、沖永良部島が薩摩だけでなく、琉球からも「米」を借り入れたことが分かります。わが与論も天明1年、1781年に340石を借りています。徳之島、永良部もそうですが、与論の名前を見つけると、借金の話なので、背景の凶作などの苦難を思うのですが、不謹慎にもちょっと嬉しい気もしてきます。琉球とのつながりを感じられるからということもありますが、それ以上に、滅多に歴史に登場することのない島だからこそ、島名を認めると与論島の存在を感じることができるからかもしれません。

 これらの凶作に直面して貯えらしい貯えもない道之島では、救米の借り入れで急場を凌ぐしかなかった。地理的な条件からのみでなく、「本琉球と道之島との共同体的な歴史関係」に基づいて、琉球からの救米借り入れが常套化してくるという。『道之島代官記集成』などの記事によって、宮城栄昌は救米の事例を表14のように掲げている。それらの救米の個々の事例については、ここでは立ち入らないが、ただし琉球側が道之島からの救米の要請に接して、どのような対処をしていたか、簡単に検討しておこう。

「琉球雑記」(京都大学文学部蔵) によると、道之島の島民が飢饉に際して飯米の借用を申し入れてきた場合、這之島の島民を見殺しにすることはできないし、また琉球人が道之島へ漂着した場合飯米などを調達してもらっていることもあるので、貸し出すことにしているとしている。そして琉球へ直接返済して欲しいのだけれども、道之島は琉球支配下にはなく、督促するにも海路を隔てていて困難であるので、薩摩藩において琉球出物と相殺するようにして欲しいと願い出ている。(『近世奄美の支配と社会』松下志朗

 この箇所は、「奄美から視た薩摩支配下の島嶼群」のなかで、弓削政己さんも説明していたのでよく分かります。

 ※「漂着・飢饉時の借米機構」


 琉球と道之島との緊密な関係は、飢饉のような非常時のみではなく、中国からの冊封便来琉のときにもみられた。享保四年(一七一九)をはじめとして宝暦六年(一七五六)、寛政十二年(一八〇〇)、文化五年(一八〇八)、天保九年(一八三八)、慶応二年(一八六六)に徳之島・沖永良部島より調物が進覧されている。慶長の琉球侵攻以来琉球王朝の支配下からはずされているにもかかわらず、道之島を琉球三十六場内の島と対外的に宣揚している以上、中国の冊封使の前では体面を取り繕ろう必要もあったのであろう。

 いずれにしても歴史的に深いつながりをもち、地理的にも近く、しかも薩摩藩への交通において琉球と道之島は互いに協力しあうところがあって、道之島の琉球に対する思慕の念は深いものがあったと考えられる。それは逆に薩摩藩に対しての異和感として投影され、薩摩藩の収奪が激しくなるにしたがって憎悪へと変化するものであったろう。道之島において、薩摩藩内では数少ない農民の抵抗が度々記録されるゆえんでもある。(『近世奄美の支配と社会』松下志朗

 ここで改めて、弓削さんの考察を思い出せば、松下さんの考察とは少し違っています。対立しているというのではありません。対立しているわけではないですが、両者には温度差があります。「薩摩藩への交通において琉球と道之島は互いに協力しあうところがあって、道之島の琉球に対する思慕の念は深いものがあったと考えられる」と、松下さんは奄美の琉球への思慕の強さを指摘するのですが、確か弓削さんはそこで、琉球はどうだったのかと問い、制度以上の振る舞いは無かったと解していました。弓削さんは冷や水を浴びせようというのではない。そうではなく、史実としての距離感をできるだけ正確に測りたい。そんな欲求をそこに感じたのでした。そしてそれは大切な営為に思えます。

 ぼくは、奄美と琉球は、島人の相互の交流は相互扶助的であったが、政治的共同体としての琉球は制度以上の振る舞いはできなかった、と理解すればいいと考えます。




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