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2008/05/05

記憶の収奪

 薩摩が奄美に、所有する文書の提出を命じたのは、侵略から1世紀後のことでした。

 ところで道之島に対する支配は、宝永期に入ると一段と強化された。まず宝永三年(一七〇六)大島代官川上孫左衛門宛ての達書(「大島要文集」)によると、道之島の旧家より所蔵する系図・文書・旧記頬を提出させた。もし持ち合わせながら提出を怠った場合、以後それらの系図・文書類を家の由緒の証拠として認めないという厳しい措置で臨み、また正文・写ともに徴収している。さらには系図・文書類を所持しない者でも由緒や家伝のある場合は、それらを書き付けて提出するように命じている。『鹿児島県史』によると、すでに元禄五年(一六九二)伊地知重張が文書探訪のため徳之島に渡り、同地に残したことを記しているが、それらの徴収された系図・文書塀が伝承されているように記録奉行の手で焼き捨てられたかどうかははっきりしない。しかしいずれにしても道之島の旧家に伝来する史料が少ないことは事実であり、そこに薩摩藩政担当者の道之島に対するひとつの志向をうかがうことはできる。『近世奄美の支配と社会』(松下志朗)

 1世紀経っていたのは、政治的共同体としての琉球と断絶した後も、ユカリッチュ(旧家)が琉球とのつながりを存在根拠にし続けるので、それが薩摩の支配体制と矛盾していると徐々に感じられてきたということかもしれません。

 「正文・写」ともに徴収ということ、また、文書が無くても由緒がある場合は、それを書き付けた上で徴収ということ。これらは琉球とのつながりを断ち切るためになされた支配者の行為だったろう。けれどぼくは、それが記憶の収奪だった点で、奄美に深刻な影響を及ぼしたと思う。琉球とのつながりが見えなくなったということが現在にまで及ぼしている影響ももちろんあります。けれど、その由緒はいくらか遡れば神話世界や政治権力に仮託したフィクションにつながるもので、必ずしも事実の消去を意味しません。むしろ、事実であれフィクションであれ、奄美の島人が自分たちの手で過去を検証し現在と未来を編み直する術をなくしたということが本質的な被害なのだと思えます。

 文書を提出したのはいずれ奄美の富裕層であったでしょう。そういう意味では、文字を持たない衆庶には関係がありません。衆庶は、没収されるものを持ちませんが、その確かな口承の力で島の記憶を途絶えさせることなく伝えていきました。だから、決定的な打撃を受けているわけではありません。口承があれば島は島であり続けられました。

 ただ、当時の富裕層は、島の権力層でもあれば知識層でもありました。彼らが記憶を失ったことで骨抜きにされ、文字としての抵抗を生むこともできなかったのも確かだと思えます。その情けなさの原因は、ひとえに文書の徴収に帰することはできませんが、島の知識層はそれだけ虚弱だったのではないでしょうか。また、徴収する側も、観念的行為の軽視もはなはだしいの実際的武断のお国柄でした。



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