「尊々我無」は誤用
「星砂荘・ヨロン島の民宿」さんのおかげで、南日本新聞にゆんぬふとぅば(与論言葉)の記事が出たのを知りました。
菊秀史さんのインタビューが載っているのですが、菊さんといえば『与論の言葉で話そう』を書いて、ゆんぬふとぅば(与論言葉)の復興に力を尽くされている方。「新日本紀行」でしたっけ?あれでも、小学校で教えてらっしゃるところが出ていましたよね。昔と変わらない懐かしい顔つきの子たちが、昔はたどたどしく共通語をしゃべってたものなのに、たどたどしくゆんぬふとぅば(与論言葉)をしゃべっている姿は衝撃的でした。でも衝撃は二重にあって、もうひとつはかつて方言を弾圧した空間で、方言復興の授業が行なわれていることです。そしてこちらのほうが衝撃は強かったです。
記事には、菊さんの豊富が語られています。
5月20日から公民講座で方言を教える。「一年で会話が出来るようにしたい。その人達が核となって広めてほしい。各家庭で日常語として語られるのが、私の理想です。
この想いは応援したいですね。
◇◆◇
ところで、記事にも紹介されていますが、与論の民俗村に行くと、「尊 加那志(トートゥ ガナシ)」の看板が歓迎してくれます。「ありがとうございます」という意味ですね。とおとぅがなしについては、「尊々我無」という当て字を頻繁にみかけますが、これについて、
「自分を無くし相手を尊ぶ、と理解して使われているようだが、これは誤用。間違った言葉が広まるのは残念」
と菊さんは嘆いてらっしゃるが、ぼくも同感。
島の人までが、「自分を無くして」などと解説しているのかと思うと哀しくなります。「とおとぅがなし」はもともと祝詞の言葉で、とおとぅは「尊い」、「かなし」は尊称ですから、“尊いお方”、つまり「神様」と言っているのと同じようなものです。「加那志」は、尊称として使われてきたので、漢字表記すれば、「尊 加那志」となるわけです。ぼくも、「尊・様」のようなものだと考えたことがありました。
こう遡ってみれば、「とおとぅがなし」。この言葉を発するときの想いを「自分を無くし相手を尊ぶ」などと解するのは似て非なるものだということが分かります。「尊々我無」では「とおとぅがなし」の生命が宿りません。いっそ、勝手に便乗した焼酎の銘柄名だけに止まるくらいになったほうがいいと思います。
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コメント
クオリアさん
このHPにまたまたですが、お邪魔虫です
我無だけでなく、尊も誤用かと思います
だいたいでも100年ほど前、1900年
つまり19世紀あたりまで読み書きを知らないのが
日本の全国で当たり前の時代に、尊の文字を簡単に
使うことなどありえないはずです
「とお」は、十(とお)です
十一は、「とお」と「てぃーち」です
ひらがなも書けない、読めないのに「尊」などとは
日本中のだれも知るはずはありません
ニャー トオーは、もう十分です、結構です・・
トウトゥドウ マニュ、トォウトゥドウ ヤカ
ありがとうは、蟻が10匹の謎々ですよね
トウトゥドウ ウジャンカ、・・云うでしょう?
お世話になったら、「トウトゥ」しかないはずです
親先祖にも、トウトゥという言葉は最高ですよね
かなしは、愛する人がなくなったときの思いの最高
の心の表現ではないかと思います
かなしは、愛しい人への思い、「かなし」ではないか
と・・・云えると思います
シュウヤ(今日は)、「トウ」(法事)トゥデーク
トゥの「トウ」は「悼」のはずです
ミッシュークは、「密集く」でたくさん、いっぱい
のことで、ミッシューク トォウトゥ ガナシ(カナ
シ)は、どなたに対しても感謝の思いを表現するため
の言葉だと云えば、味気なくなるのでしょうか
十分な思いを伝える意味の深い言葉だと思います
好きでないのが、サタグチ(砂糖のような口ぶり)
なので 素直に考えたいものです
云いかえると、"Simple is best"でしょうか
「お世話になりました。ありがとうございます。」
「トウトゥガナシ」で表現できるユンヌ言葉の奥の深
さに仰天しています。
ワードゥッチュイムイデークトゥ タンディドーカ
デービュークトゥ
投稿: サッちゃん | 2008/05/23 01:33
サッちゃんさん
そもそもは漢字を当てること自体、とても新しい事態ですよね。
「がなし」は、「愛し」「哀し」などの日本語になっていったように思います。「とおとぅ」は「尊い」の日本語になったと勝手に考えましたが、あてずっぽうなので調べてみます。
ぼくは、祝詞という信仰の純化された言葉を、日常もっとも多く使うだろう「ありがとう」の言葉にしたところに、与論の人らしさを感じています。
投稿: 喜山 | 2008/05/23 08:50