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2008/05/31

「これからの奄美を考える」

 南さんは、「これからの奄美を考える」と未来に目をやるのだけれど、ぼくは過去の記述に目を見張る。

 昭和三十年の頃まで、名瀬から少し離れると裸足で遊ぶ子どもを見かけるほどに奄美はきわめて貧しく、親そのものも生活に追われて懸命に生きていた時代であった。私が大高を卒業し鹿児島大学文理学部に進学したのは昭和三十九年のことであった。この頃、時に公衆電話をかけていた下宿の近くのたばこ屋のお婆さんから「奄美はジャングルに覆われ、大人も子どもも半裸で裸足で生活していることであろうに、良く大学に入ってきた」と感心されて大きなショックを受けたこと、またこの頃に教育学部を卒業した先輩が、鹿児島の教育界で離島出身者は人事異動に差別があるので他県の公立学校に就職すると言っていたことなどを、いまだに時に思い出す。(『それぞれの奄美論・50』

 いまでも人事異動の不利があるのか知らない。離島経験が出世の条件だから我慢していくというのは聞いたことがある。けれど、下宿のおばあさんのような誤解はあらかた払拭されている。

 ただ、ぼくが過去の記述に関心がいくのは、知りたいからである。与論のことなら多少は知っている。けれど、大島の高校を出た両親や大島に転校したり勤めたりした親戚から大島のことは聞いているけれど、それ以上の実態を知りたく思うからだ。奄美を肌感覚で知りたい。

 『奄美の島々の楽しみ方』の山川さんから聞いたことがあるのは、喜界島の老婆が、あれだけ方言をしゃべるなと強要されたのに今になってしゃべれと言われたって、もう何もしゃべりたくはない。と話したということだ。正直な気持ちだと思う。この老婆に、それでもしゃべってほしいと言うのではなく、喜界島の一老婆がそう言っていたというそのこと自体を知りたく思う。それは、「これからの奄美を考える」ためのかけがえのない前提になる。


「これからの奄美を考える」南徹弘


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2008/05/30

なぜ、分配方式なのか? 2

 鹿児島県の「ふるさと納税」について、追加の情報が出た。どうやら、ぼくが与論町への納税を希望する場合は、県への分配なしに十割を与論町に納めることができる。だが、異議はある。というか、異議だらけだ。

「ふるさと納税」として納められる寄付の受け付けは、原則として県が窓口となり市町村に六割を分配。「窓口一本化」を踏まえ、市町村独自の寄付呼びかけは控えることを申し合わせた。寄付する側が特定の市町村への納税を希望する場合に限り、県の窓口を通さず各自治体が手続きをすることも確認した。(「南日本新聞」)

 「ふるさと納税」の主旨に照らせばこれは逆でなければならない。寄付する側が市町村を指定するのが「原則」であり、「どことは特定できないが県に納めたい」という希望者が出た場合に「限り」、県にも分配されるというのがことの順番である。個人の意思に任せた制度に対し、県がかぶさってくるのは余計なことだ。

 寄付の取り扱いについて県は、出席者にふるさと納税についての「Q&A」と題した文書を配布。協議会設立の趣旨を「県外在住の本県出身者に、寄付募集を県と市町村が一体となって取り組むもの」と説明した上で、市町村が独自に寄付金を広く募集することについては、「協議会の和を乱すような取り組み」と自粛を求めた。(「南日本新聞」)

 「自粛を求める」などお門違いも甚だしい。自粛をしなければならないのはこの場合、「県」の方である。県としての鹿児島のこの思考は倒錯している。地方分権というが、鹿児島県にとっての地方分権は、鹿児島内での中央集権を進めることを意味するだろうと予測をしてきたが、「ふるさと納税」でもそれが露呈しているのを感じる。県としての鹿児島にとって地方分権とは、国家としての鹿児島を実現する機会として映っているのではないだろうか。幕藩体制における薩摩藩がそうであったように。

 県町村会長を務める井上卓三さつま町長は「協議会に参加しないという選択肢もあったが、市町村で競合すれば混乱をきたすということで足並みをそろえた。自治体にはまだいろいろな意見があるだろうが、まずはこの制度を活用して税収獲得に全力をあげたい」と語った。(「南日本新聞」)

 時代錯誤の権限集中にはいつも、任せれば「混乱をきたす」からという衆愚思想を潜伏させたもっともらしい前振りがついてまわる。この手の理由をぼくは散々聞いてきた。既視感どころではない。県としての鹿児島は何も変わっていない。そのことを再確認するようだ。

大口市の隈本新市長は「地方分権の流れの中で自立のために頑張らないといけない市町村なのに、県が(窓口を一本化し)主導することを前提とした取り組みはどうなのかと疑問はある」と発言。
 伊藤知事が「全国で一番手厚い」と自信を見せるふるさと納税への態勢づくりに対し、総務省市町村税課は「寄付募集について県と市町村が一定のルールをつくって取り組むのは問題ないが、寄付者の意思を制限するようなことがあってはならない」とくぎを刺した。(「南日本新聞」)

 妥当な発言は皆無ではなく市町村首長からひとつでも出ていることにほっとするが、一方の総務省の釘刺しも当然である。県としての鹿児島は、「ふるさと納税」の何たるかを勘違いしている。しかしこの勘違いは彼らに連綿とする錯誤に思えてならない。

◇◆◇

「南日本新聞」
「ふるさと納税 鹿県推進協設立 県庁で総会」

「朝日新聞」
「ふるさと納税で市町村と協議会設立」

協議会長の伊藤祐一郎知事は設立総会で、薩摩藩士が京都や江戸に攻め上がった戊辰戦争にたとえて「私は第2次戊辰戦争と呼んでいる。東京、大阪を中心に寄付を取りに行く意識でやりたい」と話した。その一方で、「混乱を起こしたくない」として、県内のほかの市町村在住者に寄付を呼びかける行為を自粛するよう市町村長らに求めた。

「毎日新聞」
「ふるさと納税:県が窓口、各市町村に配分 全国初 鹿児島で協議会設置」

寄付は「かごしま応援寄付金」と命名。協議会の発足式で伊藤祐一郎知事は、「(ふるさと納税は)第2の戊辰戦争。県外に(寄付を)取りに行こう」と、幕末の薩摩藩さながらに決意表明。「全国一の手厚い体制」と自賛しながら、「いくら集まるか全く分かりません」とも。

 何をたとえるにも明治維新前後をもってする県としての鹿児島の思考回路がよく現れている。寄付を取りに行く戦争? 何を言っているのだろう。行政府の首長の発言がこの体たらくで、恥かしくはないのか。

◇◆◇

 もう参加してしまった後かもしれないが、与論町がこの協議会に加入することに反対したい。

 「なぜ、分配方式なのか?」に書いたが、現行の「ふるさと納税」は、「ふるさと」を離れた個人の想いに依存し、かつその範囲も一割という限定を加えられた「弱い」制度であり、地方市町村の行政にとって根本的な解決をもたらさない。だが、個人の意思を反映できるその一点で、「ふるさと」を離れかつ想いを寄せる者にとって活路となる制度であることに変わりはない。むしろそれこそが生命線である。県がコントロールしようとしたが最後、この納税方式は無効化する。県が個人の気持ちにつけ込んでしゃしゃり出てよい理由など、どこにもないのである。


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「奄美への恋文」

はじめに
 アマミとつぶやいて、ほーつと息を吐いてみる。胸がキュンとなって言葉では表せないような感情の波が押し寄せてくる。くり返し返し。
 やはり、後ろめたい。裸世からアマン世。アマン世から那覇世に変わるときに、奄美、喜界を侵略したのは、琉球王国の私の祖先たちであった。奄美の友人たちの視線が痛い。この歴史のトラウマは止揚されなければならない。
 それでも「アーマンチュ(アマミキョ)」と呼ばれる琉球開闢の神々の原郷に引かれるように、アマミへ通う。一九七九年に、パスポートなしで奄美に渡って以来、何度通っただろうか。もう記憶が追いつかない。道の島ジマよ。
 琉球弧とつぶやいてみる。琉球弧は分断されたままである。鹿児島県と沖縄県に分裂したまま、二十一世紀を迎えつつある。

 隔ての海を結びの海へ
 奄美群島、沖縄群島、宮古群島、八重山群島からなる島ジマを「琉球弧」と再認識し、常に共時的、共空間的に思考し続けるように教えて下さったのは島尾敏雄、ミホ夫妻であった。トートゥガナシ・ウートートゥ。
『それぞれの奄美論・50』

 ドキドキするタイトルだが、「恋文」に「後ろめたい」と書かなくていいのにと思う。約5.5世紀前の王朝権力が行ったことを、現在の一個人の倫理に直結させるのはちょっと短絡だと高良さんも感じるだろうし奄美の人もそれを期待しているわけではないと思う。それは奄美、琉球の関係史のなかで、琉球王朝も当時の国家のご他聞に漏れず、武力で周辺を支配したし、もともと離島権力なのにさらなる離島に圧制で臨んだという思想としての自己批判があれば十分だと思える。もとより、琉球王朝による奄美支配は、薩摩藩の支配のように現在にまで尾を引いてはいない。

 それに「琉球弧」は、政治的共同体の概念ではないから、分断することはできない。琉球弧は分断できない。ただ、奄美と沖縄をつなぐ概念として琉球王国を用いることができないと感じるから、琉球弧をその根拠にしているのは理解できる。

 紙幅がないので、結論を急ごう。二十一世紀の奄美群島の未来は奄美人の手で自決し、自立することだ、という当たり前のことである。しかし、この「自決・自立」という当たり前のことがいかに困難かを私たち琉球弧人は知っている。まず精神の革命から始めなければならない。結婚と離婚の自由を獲得しなければならない。私たちは琉球弧の自決・自立・独立へ向かう。  願わくは、奄美群島が自然と文化を価値観の基軸とした「循環型社会」を創造して、持続的な発展に向かわれんことを。大奄美と大西表こそ琉球弧とヤポネシアの至宝となる時代が来ることを。  そのために、女性たちと、子どもたちの意見が尊重される社会への転換を。そして、奄美群島と沖縄の交流が、ますます盛んになることを。  来る二〇〇九年に薩摩侵略四百年目を迎える琉球弧。分断、分裂の歴史は克服できるのか。この私の恋文が、片思いに終わりませんように。(『それぞれの奄美論・50』

 高良さんの恋文の最後、気持ちを手放しに受け取れるのは、「奄美群島と沖縄の交流が、ますます盛んになること」だ。奄美はメリットがあるところは沖縄との経済共同体を構築していったほうがいい。その上で政治的共同体にまで高めることにメリットがあるのかどうかそもそも可能かどうか、考えていけばいい。「分断、分裂の歴史」の「克服」は、政治的共同体の構築なしにもできるのではないかと思える。

 ただ、高良さんのような「恋文」は沖縄のなかで例外で、よき理解者なのだ。もともと片思いなのは奄美の方だろうから。そのちぐはぐさは高良さんの気負いになっているのだろう。高良さんの想いには感謝したい。


「奄美への恋文」高良勉


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2008/05/29

「『復帰運動』の結束力に学ぶ」

 奄美大島は、沖縄または小笠原諸島ほど戦略的に重要ではなかったために、割合早く返還されたことは確かである。しかし同時に、以上の文書が物語るように、署名運動、復帰運動、断食などに見られる、奄美群島の住民たちと本土にいる奄美大島出身者の結束力や運動力、知恵は、奄美群島の早期返還に欠かせなかった。というよりむしろ、そのことこそが決定的な要因の一つになったと言ってよい。
 奄美の方々は、その歴史を誇るべきであり、そして評価すべきである。同時に今後、振興・経済政策、過疎化対策、観光産業の内容充実化、人材育成、大学の設立など奄美群島が直面している問題に挑戦するとき、「復帰運動」で発揮した結束力、運動力を是非とも活かして欲しいと期待している。(『それぞれの奄美論・50』

 ときに日本への優れた洞察を見せてくれるアメリカだけれど、この文章はそれには当たっていない。奄美が日本復帰になだれ込んだのは、それだけ追い詰められていたからである。経済的にというだけでなく、日本人として追い詰められていた。見かけは「結束力、運動力」でも、内実は顔面蒼白の焦慮というほうが当たっている気がする。

 「奄美大島は、沖縄または小笠原諸島ほど戦略的に重要ではなかった」などと、何事につけ重視されない奄美のよさを生かすには、「結束力、運動力」の強迫からは離れて、ゆったり構えたほうがいいと思う。

 ロバートさんの問題意識を引き受けると、「復帰運動」から学ぶべきものは何だろう。それは、「結束力、運動力」というよりは、奄美として統一的な行動を取った経験値が、その半面あらわにしてしまった、沖縄との別れ、復帰とともに霧散した文化運動などの、自失への内省から得られる何かだ。


「『復帰運動』の結束力に学ぶ」ロバート・D・エルドリッヂ



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2008/05/28

「時代を見張る力と明日を創る力」

 生まれ故郷の名瀬を後にしてからすでに三十年近くの歳月が流れた。その歳月の大半をぼくは高校の教員として過ごして来た。その間教えた生徒はかなりの数になるが、その生徒たちの中でぼくのことを「奄美出身」だと知らないものはない。教室で最初に口にする言葉が「ぼくの故郷は奄美です」だからだ。「出身は鹿児島県です」と言えば言えてしまうものをぼくはそういう言い方をしたことがない。ア・マ・ミ。ぼくの中で、この深い響きを持つ場所のほかに出身地はない。しかしその同じ響きは多くの生徒たちに軽い笑いを与えた。それは「侮蔑」という深刻なものではなく、かといって「羨望」というおめでたいものでもなく、敢えて言うなら「弛み」とでも言えるようなものだ。ア・マ・ミ。そう、確かにこの語の響きはヤマトッチユたちの心を弛ませる。(『それぞれの奄美論・50』

 ぼくも出身を県名では言わず、「ヨロン」と答えてきた口だが、盛岡さんは1952年生まれなので、1960年代生まれを待たずに、それはありえたことを教えてくれる。だから、山下さん、少し安心してほしい。

 ただ、盛岡さんが闊達にこう言い切るのは、盛岡さんが移住した場所が神奈川県と鹿児島を遠く離れていることも寄与していると思う。鹿児島県の内部ならそれはいくらかの物議をかもし出さなければならなかったろうと思う。ぼくも東京に来て、「与論出身」という言葉がそれまで鹿児島では持ってきたどんな含意も付着させないのに解放感が強烈にあったのを覚えている。もっとも、「あそこは外国じゃなかったの?」という別の含意はやってくるのだったが、その含意は気楽なものでむしろ歓迎したくらいだった。

 さて、盛岡さんは「アマミ」という響きが弛みを生んだと書くのだけれど、それはひょっとして盛岡さんの人柄のなせる業ではないかと思わないでもなかった。


「時代を見張る力と明日を創る力」盛岡茂実



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まぎれもなく琉球

 琉球新報の記事から。

町花はハイビスカスで、町木はガジュマルとクロキ。青い海と白い砂浜、そしてサトウキビ畑。紛れもなく沖縄の風景だ。「やんばるは一つ」が合言葉の第18回やんばる駅伝大会で、鹿児島県の与論町を初めて訪れた

 ここ、「紛れもなく琉球弧の風景だ」と書いてくれたらもっとしっくりくる、と思う。もしくは、「まぎれもなく、琉球」。
 「やんばるは一つ」、なんですね。ぼくは先日、これを「やんばるはーつ」と読んでしまった。でも、与論は森じゃないし、やんばる・はーつ(Yanbaru Hearts)も捨てたものじゃないかも。

▼奄美諸島最南端の島だが、辺戸岬まで約25キロと伊平屋島よりも沖縄本島に近い。北山王の三男の築城とされる与論城跡からは沖縄本島がくっきりと、伊平屋島がうっすらと見えた
▼奄美諸島は琉球王国の勢力下にあったが、島津侵攻後、与論以北が薩摩藩に編入された。戦後、沖縄と同様に米軍統治下に置かれ、1953年に本土復帰したが、与論と沖永良部の2島は返還から切り離される動きもあったという
▼伊平屋、伊是名、伊江、与論の4島持ち回りで開かれるやんばる駅伝は、地域間交流と離島活性化が最大の目的だが、大会や懇親会を通じて奄美関係者の沖縄への熱い思いがひしひしと伝わった

 沖永良部と与論の方が語ったんですね、きっと。

▼パナウル王国国王こと南政吾与論町長は「与論と沖永良部は沖縄を親島と考えている」と強調。自然風土だけでなく、言葉や文化、歴史が重なる「ウヤファーフジ(祖先)の島」との思いがある。ちなみにパナは花、ウルはサンゴの意味

 国王。国王はもっと王国出身者の想いと王国の高い発信力を知ってください。ふるさと納税を県頼みしている場合ではない、と思う。

▼県内には奄美出身者も数多い。道州制論議では「沖縄は単独州」との意見が大勢だが、奄美を含めた「琉球道」の議論がもっとあってもいい。(「金口木舌」琉球新報)

 沖縄にとっても奄美は盲点。両者はもっと対話しなきゃ。


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2008/05/27

「出し忘れた宿題」

 その日ぼくは親戚の家へ泊まり、翌日一時間に一台しか通らないバスで井之川から亀津へ向かった。バスのなかでは小学生たちが座席の両端に腰掛けておしゃべりをしていた。「そうじゃないチよ」「いや、あらーんチ」「そーっチか」人にとっては何でもないことだろう。だけどぼくは感動していた。語尾のチ、チ、チ、……。子供たちの会話はまるで小鳥の噛りのようだった。そして「ああっ、ぼくはこんな風にしゃべっていたんだ」と、シマから離れて十五年後に思い知らされた。これだけでも、この旅は大収穫だった。

 後でこれらのことを関根先生に話すと、ワハッハッ、と大笑いをされたが、自分の企みに満足されたのではないか。この旅の後、内なる奄美の大きさに気づいたぼくは、自分を「半オキナワ・半アマミ」と規定して若いアイデンティティーの揺らぎを耐えた覚えがある。つまりチ、チ、チと小鳥の会話をするボンが、戦後沖縄の過酷な情況に出会ったのだから傷つかぬ方がおかしい、と。ただ大収穫の故に先生との約束は果たせなかったが……。(『それぞれの奄美論・50』

 そうそう、と思わず頷く。徳之島もそうなんだ。「ち」、なんだ。こんな奄美つながりの発見は楽しい。「て」が三母音化するので、「ち」と発音される。標準語で話しても残ることが多いので、「ち」だけが耳につくことがある。小鳥のさえずり・・・まさにそうかもしれない。

 徳之島から沖縄に移った鈴木さんは、「半オキナワ・半アマミ」と規定したという。これは、奄美の生は沖縄に移住すれば、「沖縄」に浸透できる部分もあるが解消はされずに「奄美」を残すことを示している。と同時に、残るのが「奄美」であって「徳之島」となっていないのは、鈴木さんの個性か、「沖縄」と同水準の共同性を呼び寄せる意識が「奄美」とさせるのかはここからだけでは分からない。けれど、そういう形がありうるのが分かるだけでも収穫だ。

 「出し忘れた宿題」というタイトルは、関根さんに「紀行文を書け」というお題を出されたまま果たせずにきたが、この文章でそれが果たせるという意味だ。この宿題のおかげで、ぼくは「ち」を思い出し「半オキナワ・半アマミ」を知ることができた。とおとぅ。


「出し忘れた宿題」鈴木次郎


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2008/05/26

なぜ、分配方式なのか?

 ふるさと納税が、分配方式になると聞いてびっくりした。

 ふるさと納税 市町村に6割分配/鹿児島県

 寄付の窓口を県に一本化 鹿児島、ふるさと納税で

 これによると、「県が受け付けた寄付金の分配率を市町村6割、県4割とする方針を明らかにした」という。なぜ、県が登場するのだろう。「事務手続きを効率化し、寄付金を市町村間で奪い合わないため」と説明があるが、奪い合うも何も、ぼくの場合は与論町に納税したいのだから奪い合う余地はない。

 今回のふるさと納税は個人の想いに依存したもので、それ自体、根本的な解決を呼ぶ方策ではない。だが、この方策はそれが制度的な弱さではあるものの、個人の想いでできるという道筋を確保している点にポイントがある。個人の想いに従うという制度的な弱さが、実はこの方式の取り柄だと思える。だから個人の想いが濁るのであれば、コミットする気持ちは削がれる。たとえば、ぼくは与論町に納税したいのであって、それが鹿児島県にも行くのであれば、納税の気持ちはゼロどころかマイナスへ転化してしまうのだ。

 本当の背景は何だろう。この記事だけからはうまくつかめない。ただ、気になるのは、上記の掲載記事とは別に読んだ南日本新聞に、「与論町も『町単独よりも広くアピールできる』とおおむね歓迎の意向だ」と書かれている点だ。現在は町単独のほうがアピール力は強くなる。与論島であればなおさらそのポテンシャルを持っている。なぜ、ここで県依存の発言が出てくるのだろう。

 詳細がつかめないときちんと判断できないが、いまの段階では、鹿児島県のふるさと納税はこの時点で無効化していると思える。少なくともぼくにとってはそうだ。




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「中枢を担うもの」

 奄美に地域実体はあるのか、と問われれば、むろん「あります」と私は即座に答えることはできる。しかし奄美のアイデンティティーは何かと問われれば、「これです」という具体的な実体を提示することができない。奄美という地域性に育てられた島うたや、年中行事や、大島紬などの文化の多様さは、個性としてこれ以上の魅力はないといってもいいほどだが、それはあくまで個性であって奄美を括る概念ではない。

 しかしこんな言い方は、ほんとうはとても乱暴で無神経なのである。立ち止まってよく考えてみれば、私たちの回りには貴重な実体が、それぞれの息づかいで活動しているのが見えてくる。たとえば、「奄美自然の権利訴訟」に代表される、さまざまな環境問題にかかわってきた多くの方や、今まさに渦中にある、産業廃棄物間道にかか
わっている方々、無我利道場の追放運動から生まれた「奄美を考える会」一休会中)、地道な活動をつづけている奄美の自然を考える会の 「きょらじま」、復帰四十周年記念事業の一環として発刊された多種多様な出版物や、女性たちの「いじゅん川」、休刊中の「さねんばな」、奄美瑠璃懸巣之会の「ルリカケス」、詩誌「地点」、瀬戸内の「しまがたれ」、神戸奄美研究会の 「キョラ」などなど。(『それぞれの奄美論・50』

 佐竹さんの繊細な目線に立ち止まる。奄美に実体はあるのか?という大橋さんの問いかけに、佐竹さんは「あります」と答える。奄美の人だったらそう答えたくなるというものだ。ところが、「あります」と言ったものの、共通にくくれる奄美の統一的なイメージがないのに気づくと、あとが続かなくなる。

 でも佐竹さんは、あとが続かなくなるそのところで、それで実は奄美は無いとしてしまったら、大事なものを見失ってしまうのだと言っている。個別具体的に育ちつつあるものこそ大切だし、それが奄美全体で共有できるものに大きく育つかもしれない。佐竹さんはそう視線を促している。それは励みになるものだ。

「中枢を担うもの」佐竹京子


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2008/05/25

「芸能伝承とアイデンティティー」

 事実奄美の人のアイデンティティーは個々のシマにあり、それを超える統合的な「奄美」意識は、薩摩藩の植民地的行政や対本土復帰運動など外からの規定によるところが大きい。第一義的にはシマを基点とする重層性を持っており、シマの祖先は琉球とヤマトの監視の眼をくぐり抜けあるいは抵抗し、ドゥー(自分自身) 勝手を貫いて生き抜いてきたと想像する。そうしたシマ意識やオーラルな伝承を今日まで保持してきたところに、奄美社会の特質があろう。顕著な権力の集中がみられなかった自然発生的な姿なのではないか。(『それぞれの奄美論・50』

 奄美のアイデンティティがなぜ、ここのシマ(島)を超えることはないのか。「顕著な権力の集中がみられなかった自然発生的な姿」だからというのはその通りだと思う。奄美は国家をつくる必然性が無かった。それが個々のシマ(島)を越える奄美というアイデンティティを築くことがなかった根本的な理由だ。そしてそれは劣っているということではない。美質だと思う。

例えば奄美のシマウタでは、裏声のダイナミックな表現や三味線のきめ細かな装飾が特徴的だ。これは沖縄にもヤマトにも無い、ポップ化にもなじみにくい要素なのだ。

 この捉え方も素敵だと思う。ぼくは最近まで、あの裏声を辛さの凝縮としてしか聞くことができなかった。でも、ポップ化にも馴染みにくいその要素は、いうとおり、「沖縄にもヤマトにも無い」ユニーク性だと言うことができる。こんな視点が奄美の地域ブランド発掘にあるといい。


「芸能伝承とアイデンティティー」酒井正子




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やんばる駅伝、与論は6位

 「駅伝大会結果^^」によれば、与論は第6位です。16チーム参加のなか、好成績ですね。

「速報!」

「やんばる駅伝 on 与論」

「やんばる駅伝」

 紹介している記事をたどると、当日の様子がおぼろげに浮かんできます。それにしても与論を4周ですか。目が回りそうです。


「第18回やんばる駅伝競走与論島大会」

 1.国頭村 (白色)
 2.大宜味村(紫色)
 3.東村  (柿色)
 4.宜野座村(茶色)
 5.金武町 (赤色)
 6.恩納村 (青色)
 7.本部町 (黄色)
 8.今帰仁村(水色)
 9.伊江村 (緑色)
10.伊是名村(桃色)
11.伊平屋村(紺色)
12.名護市北(やまぶき色)
13.名護市南(濃ピンク)
14.久志  (ライトブルー)
15.与論町 (黄緑)
16.知名町 (オレンジ文字)

◆追加

「本部V2 やんばる駅伝」

 琉球新報にも載りましたね。優勝は本部町、なんと連続9回だそうな。
 合言葉は「やんばるは一つ」。これ、いいですね。Yanbaru Hearts.



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エラブな夜

 「日本島嶼学会」のイベントで前利さんが上京するとお聞きして、お会いさせもらった。新宿は「琉琴」にて。

 関心事が同じというのはすごいもので、先日、神戸の大橋さんにお会いしたときもそうだったけれど、初対面なのに会った次の瞬間には、その話題に入っていける。道州制になったらエラブもヨロンの人も鹿児島に付くんじゃないか最近大島は元気ないんじゃなないか鹿児島新報が無くなったのは残念薩摩侵略400年の来年はエラブでイベントをしようと思っている、などなど。日ごろの飢えを癒すように、話に聞き入りしゃべらせてももらった。

 気がつけば、宗さん持田さん、ぼく以外は顔なじみの常連の皆さんと輪が広がっていった。大島に大学が必要なんじゃないか奄美はひとつになったほうがいいいいやばらばらのままでいいエラブもひどい開発のされ方をしているエラブの紹介に困るときはヨロンの上というヨロンだって紹介に困るときは沖縄の上と言ったりします・・・。

 とても嬉しかったのは、宗さんが三線を弾きながら歌い、持田さんも声を添えて、沖永良部島の島唄を何曲も聞かせてもらったことだ。歌いっぷりは美事だし与論との親近感も沖永良部らしさも感じることができて、懐かしい想いに浸らせてもらった。

 与論と永良部は近いなぁけれど島はやっぱりそれぞれだなぁ、島はそれぞれだなぁでも与論と永良部は近いんだなぁ。そんなことをしみじみ感じた。そうして雨の新宿を後にしたのは、日付もとっくの前に変わった頃だったけれど、もっとお話したいなぁと思うことしきりだった。



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2008/05/24

「不易流行」

 誘われるように、再び七島灘を越えて南島の住人となっている。独自の光・風・空気に溢れている徳之島。伐採されたキビを積んだトラック、「春一番」 のじゃがいもの出荷に追われる島、「牛なぐさみ」と呼ばれた伝統ある闘牛が薄暮の径を手綱を引かれて通る徳之島は堂々として活力に溢れている。そうした領域の奥に潜む幾多の島の稟質が鮮やかに光放っていることに気づかされた時、表現する言葉を失い、奥深い島に立ち入ることを拒絶されたようで、胸を打つ瞬間を味わう。(『それぞれの奄美論・50』

 このなかでもっとも徳之島らしいのは闘牛だろうか。徳之島といえば、躍動する生命だ。島唄でいえば、ワイド節がそうだと思う。復刻した映画『エラブの海』(「『エラブの海』-奄美アマルガムのエロス化」)では、1960年頃の映像で見せてくれた。そういえば少し前に、小泉純一郎が沖縄を訪問したとき、「ワイド、ワイド」と叫んでいたのは、これのことじゃないか。それから、「夜ネヤ、島ンチュ、リスペクチュッ!! in 東京」では、ハシケンさんがワイド節を披露していたが、あのアレンジはロックだった。そうか、奄美のロックといえば、徳之島なんだ。

 すると、奄美のブルースは奄美大島。奄美のボサノバは沖永良部島、奄美の歌謡曲は与論島。喜界島は、何だろう? そもそも合ってるだろうか。(^^;)


「不易流行」田ノ上淑子




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やんばる駅伝

 今日は、与論島でやんばる駅伝。順調に進行しているでしょうか。
 いまごろ熱戦ですかね。

 どんな便りが届くか。楽しみです。

 第18回やんばる駅伝競走 与論島大会

 「国頭の海よ! いつもありがとう」さんの記事を読んで、そうかと思ったのは、

通常は那覇まで車で100㌔南下して、それから飛行機で122キロ北上して向かわなければならない、国頭村民にとっては「大変近くて大変遠い与論島」なのです。

 そうか。それはよくない。船便、復活させたいですね。
 昔はあったんですよね、きっと。



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2008/05/23

「奄美経済の進むべき道」

 社会的分業は、各々の国または地域が優れた生産資源や技術を利用して比較優位な産業部門に特化することによって、生産力を増加させ、生産資源の節約を可能にし、社会的利益を産み出すといわれている。しかしながら、農業国は工業国に、小国は大国に、発展途上国は先進国に従属させられ、不利益を被ることも多い。植民地のモノカルチュア農業(たとえば、砂糖きびや綿花の単一作物栽培)がその一例である。奄美の経済は果たして、比較優位の産業または生産資源を活用した社会的分業に基礎をおいたものであるといえるであろうか。大島紬や砂糖きびは、かつては比較優位性をもっていたが、時代の変化とともに現在では比較優位性を失ってしまっている。新たな比較優位産業または生産資源を創出しなければ奄美経済は衰退を余儀なくされるであろう。奄美にとって比較優位の産業または生産資源とは何であろうか。それは亜熱帯性の気候風土、狭小・隔海の島峡性、独特の歴史・文化に支えられたものであるだろう。あるいは、新たに外部から導入した産業または生産資源も比較優位性を確保できる可能性は存在する。それは簡単なことではないが、研究開発の必要がある。(『それぞれの奄美論・50』

 「大島紬や砂糖きび」は比較優位性を失っている。それはその通りだ。それはその通りだから皆村さん、もう少し何か具体的に言ってほしい。奄美も被ったモノカルチャー農業の搾取を、「たとえば、砂糖きびや綿花の単一作物栽培」とおすまし顔で通り過ぎてもほしくない気がする。皆村さん、和泊出身だったらなおさらである。

 「必要である」という当為は分かるので、具体的に奄美に触れてほしい。

◇◆◇

 たとえば、奄美ならではの地域ブランドの育成はひとつの方法だと思う。

 島根県の隠岐、中ノ島の「サザエカレー」も、同じ「島発」の地域ブランドで、ぼくはとても参考になった。

 サザエカレーの由来 - ケーススタディとして

 この町は、「コンサルタントを使わない」ことを柱にしていた。とてもいいことだと思う。

 「コンサルタントを使わない」

 与論島では、たとえば、島の情報発信・通販拠点として「ヨロンジマドットコム」が生まれた。

 ヨロンジマドットコム
 (と思ってみたら、ハガキ写真の優秀賞を発表していますね。こういう読者参加型、とてもいいです。)

 こんないい芽を、ネットで一気に共有できるのだから、島の内外で応援して育てていきたいものです。


「奄美経済の進むべき道」皆村武一



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自立まだまだ?

 島唄まれまれ、ならぬ、自立まだまだ。

 奄美の自立「まだまだ」 広域組合が達成度調査

 奄美群島広域事務組合は、奄美の島々について、「分野別自立度評価調査」を整理。「全分野においてまだまだすべきことがある」と分析したという。

 島別に低いものとして挙げられているのは、

▽奄美大島 農業、循環型社会形成
▽喜界島 商工業、観光、空港
▽徳之島 下水道、林業、治山
▽沖永良部島 水産業、商工業
▽与論島 下水道、住宅

 これらの項目そのものは、島の切実さに照らして必要なもののように見える。けれど、何か苛立たしくも思えてくる。

 なぜだろう?と思ってみると、それは、「自立がまだまだ」という表現で言われているからだと思った。ここで言う「自立」とは何だろう。奄美は自立していない。そう言っているわけだ。サブタイトルには、「奄振延長の必要性訴え」とある。

 この辺り、もっと知りたい。



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『荒木栄の歌が聞こえる』

 『荒木栄の歌が聞こえる』という映画があるんですね。

 ドキュメンタリー映画『荒木栄の歌が聞こえる』が完成

 荒木さんは、1960年の三井三池争議のための多くの歌を残した方ですが、1962年、38歳の若さで亡くなられたそうです。その方のドキュメンタリー。

 この映画、

2007年3月、折りしも三池炭鉱が閉山して10年目に撮影を開始。栄が終生を過ごした大牟田はもちろん、北海道・夕張から沖縄・与論島まで日本縦断ロケを敢行。ほぼ一年後の2008年5月に94分の長編ドキュメンタリー映画として完成。

 と、与論島も登場しています。

 この作品の概要を伝えるページを見ていたら、映画のナビゲーター役のhizukiさんは、祖先が与論島の人というではないですか。

 「長編音楽ドキュメンタリー『魂の歌』荒木栄の歌が聞こえる」
 (このページは音楽が流れます)

 hizukiさん。予告編にも登場します。どことなく懐かしいお顔のような・・・。

 予告編

 サイトもあって、ブログもやってらっしゃいます。
 
 ウェブサイト
 HIZUKI OFFICIAL WEBSITE
 ブログ
 Hizuki DIARY

 あ、そういえば、「島唄まれまれ」でも紹介されていましたっけ。
 6月9日与論三世のHIZUKIさんをゲストに

 与論三世なんですね。というか、与論三世という表現がすごいですね。
 6月9日って来月です。行きたいけどなぁ。

 沖縄や奄美に比べて与論島つながりの歌い手さんは少ないようで寂しく思っていたので、嬉しい便りです。応援したいですね。



  

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2008/05/22

「何を残し、何を変えるか」

奄美が沖縄と鹿児島の谷間に位置し、双方の文化の影響を受けて今があるとすれば、それもまた奄美らしさ(個性)といえる。(『それぞれの奄美論・50』

 奄美を探求すると、そうなんだなあと痛感することだ。ぼくはそれを、琉球と大和の二重意識と考えた。与論島が琉球意識をもっとも高くし、奄美大島あるいは喜界島は、大和意識をもっとも高くする。ただし、それぞれが単独で100%を満たすことはなく、加算しても100%に満たない。そういう二重意識だ。

 ぼくたちはこの二重性を「これもあれも」という加算で獲得したのではなく、「これでもないあれでもない」という減算を経て獲得しなければならなかった。それが奄美の困難の背景にあるものである。この困難によって失ったものは大きい。けれど、一方、この困難によって失われなかった島のらしさは強靭だ。それが、双方の影響を受けている「奄美らしさ(個性)」を底で支えているものだ。 


「何を残し、何を変えるか」生島常範



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「尊々我無」は誤用

 「星砂荘・ヨロン島の民宿」さんのおかげで、南日本新聞にゆんぬふとぅば(与論言葉)の記事が出たのを知りました。

 「ユンヌフトゥバ(ヨロン島の方言)」

 菊秀史さんのインタビューが載っているのですが、菊さんといえば『与論の言葉で話そう』を書いて、ゆんぬふとぅば(与論言葉)の復興に力を尽くされている方。「新日本紀行」でしたっけ?あれでも、小学校で教えてらっしゃるところが出ていましたよね。昔と変わらない懐かしい顔つきの子たちが、昔はたどたどしく共通語をしゃべってたものなのに、たどたどしくゆんぬふとぅば(与論言葉)をしゃべっている姿は衝撃的でした。でも衝撃は二重にあって、もうひとつはかつて方言を弾圧した空間で、方言復興の授業が行なわれていることです。そしてこちらのほうが衝撃は強かったです。

 記事には、菊さんの豊富が語られています。

5月20日から公民講座で方言を教える。「一年で会話が出来るようにしたい。その人達が核となって広めてほしい。各家庭で日常語として語られるのが、私の理想です。

 この想いは応援したいですね。

◇◆◇

 ところで、記事にも紹介されていますが、与論の民俗村に行くと、「尊 加那志(トートゥ ガナシ)」の看板が歓迎してくれます。「ありがとうございます」という意味ですね。とおとぅがなしについては、「尊々我無」という当て字を頻繁にみかけますが、これについて、

「自分を無くし相手を尊ぶ、と理解して使われているようだが、これは誤用。間違った言葉が広まるのは残念」

 と菊さんは嘆いてらっしゃるが、ぼくも同感。

 島の人までが、「自分を無くして」などと解説しているのかと思うと哀しくなります。「とおとぅがなし」はもともと祝詞の言葉で、とおとぅは「尊い」、「かなし」は尊称ですから、“尊いお方”、つまり「神様」と言っているのと同じようなものです。「加那志」は、尊称として使われてきたので、漢字表記すれば、「尊 加那志」となるわけです。ぼくも、「尊・様」のようなものだと考えたことがありました。

 「とうとぅがなしは、《尊・様》」

 こう遡ってみれば、「とおとぅがなし」。この言葉を発するときの想いを「自分を無くし相手を尊ぶ」などと解するのは似て非なるものだということが分かります。「尊々我無」では「とおとぅがなし」の生命が宿りません。いっそ、勝手に便乗した焼酎の銘柄名だけに止まるくらいになったほうがいいと思います。



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2008/05/21

「沈黙をこえて」

 沖縄には、やわらかながらも強烈な自己主張がある。貪欲に他者を取り込みながらも、根っこでは「ウチナンチュ」であることを頑として譲らない。そんな強さがある。
 ヤマトと琉球の境界で揺らぎ続け、どちらかになりたくてどちらにもなりきれない奄美は、「ならではの財産」を失いつつあるのではないか。(『それぞれの奄美論・50』

 「元気な沖縄と沈滞する奄美」と書き起こし、「揺らぐ島々」、「うつむく島々」、「他者を待つ島々」と言葉をつないでいるように、東郷さんは奄美の元気のなさを気にかけている。ただ、ぼくたちは東郷さんの心配はよく分かるけれど、「どちらにもなりきれない」ことを、奄美の「ならではの財産」と受け取りたい。

 たとえば、沖縄人がウチナーンチュというとき、すぐさまヤマトゥンチュを対位項として呼び寄せずにはおかないのを痛ましく感じることがある。ときにそれが窮屈さを伴うことがあることも。でも、ぼくたちがアマミンチュというとき、ヤマトゥンチュを呼び寄せることはない。それはアマミンチュの内実が伴っていないから、それ自体が言葉として成熟していないからという弱点を持つのだけれど、それでも、他者をすぐに色分けせずに置くのは、他者への優しさとして表出されているのではないでしょうか。それだって「ならではの財産」、そう言えるように思うのだ。

 でも東郷さんは希望も書いている。

 他者を恃まず、島のことは島自らが決めていかねばならない。そんな時代ではないか。自立のために、島には島なりの豊かな価値があることを、他者の言説を待たず、土着の言葉で誇りを持って語るべき時だ。
 既に胎動は見られている。地域の問題を拾い上げ、自ら考えようと訴えるミニコミ紙の発信が、島社会だけでなく旅の「シマンチュ」社会にまで波紋を及ぼす例もある。また、距離のハンディを超えたインターネットでの発信が、Iターン者の獲得に役割を果たした例もある。
 これらは、いずれも、いまだ小さな草の根の流れだが、現場から発信されるが故の確固たる強さを秘めているかに思われる。
 今後ますます、島からの発信に期待して筆をおきたい。

 東郷さんがこう書いてから8年。ぼくたちは島からの発信の爆発を目の当たりにしている。島外からそれを応援する発信だって現れてくれている。その意味では、東郷さんの期待は応えられつつあるのだ。


「沈黙をこえて」東郷伸一




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2008/05/20

泥染め会議 at あまみんちゅラウンジ

 今日は、山元さんがオーガニックコットンのTシャツを泥染めしたサンプルを見せてもらい、山川さんと泥染め会議なのであった。

 染めの回数の他にも、テーチ木染めの回数によっても色合いが大分変わることが分かった。それ以上に、3回染めの色の深さは奥深くオーガニックコットンに重厚さを加えた感じだった。一度着たら良さが沁みてくる、違いが分かれば着たくなる、そんなTシャツになると思った。

PhotoPhoto_2











(色の比べっこ)


 今日はもうひとつ。泥染め会議を「あまみんちゅラウンジ」でさせてもらった。

 「あまみんちゅラウンジ」

 渋谷のど真ん中なのに予約すればショバ代もタダというありがたいスペースなので、いつか行きたいと思っていた。奄美つながりだし、泥染め会議ならここでするにしくはないと思ったのだったが、やっぱり、奄美資料だらけで、ぼくにはなんとも居心地よかった。

 それに贅沢なことに「あまみんちゅドットコム」の柳沢さん大久保さんが会議に参加してくださり、おかげで着古したお気に入りの服を泥染めで再生するとか、「憧れの泥染め」というコピーとか、U社の黒のTシャツと比べるといいとか、色んなアイデアが出た。モデルさんにもなっていただいた。お似合いである。

Photo_3












 考えてみれば仕事中なのに、果ては奄美談義に付き合っていただき、なんだかくつろいだ渋谷らしくないひと時を過ごさせてもらった。80年代にコーラルホテルで仕事をしていたという清水さんにもお会いできた。ありがとうございますです。奄美もなかなか果報者ではないか、そんな思ったこともないことを感じながらラウンジを後にしたのでした。



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「『幻想』から実体確立へ」

 わたしの旅は鹿児島から始まることが多かった。鹿児島は奄美研究の碩学たちがい蝟集する都市であるため情報収集に便利である。しかし鹿児島の一般市民になんとなく共有されている奄美に対する醒めた視線と無関心の只中にいることに、ヤマトンチエであるわたしでさえも、いたたまれなくなる。最近は、大阪からまず沖縄へ飛ぶことにしている。沖縄には奄美を琉球弧の一員として迎え入れる感性の土壌が存在し、安堵を感じるのである。(『それぞれの奄美論・50』

 東京などから与論に行くのには、鹿児島経由と那覇経由の二つの行き方がある。自由に選んでいいのなら、ぼくは躊躇なく那覇経由にする。鹿児島経由にすると、鹿児島空港にいる時間ですら緊張してしまう。何か、我知らず臨戦態勢に入っている気分になるのだ。もういい加減、ほどこうとするのだが、いまだにできない。那覇経由だと、与論と同じ空気、気温、顔つきという気がして安堵する。そう、この安堵は同じだと思った。

 いや、大橋さんが言いたいのはそのことではない。

 沖縄には「沖縄」という強烈な地域実体がある。奄美は、(琉球=沖縄)と(薩摩=鹿児島)という南北の強力な磁力圏の間にあって常に揺さぶられ、時に激しく翻弄されてきた。その中にあって奄美には「奄美」という地域実体はあるのだろうか。
 歴史的にみれば、奄美の島々が「奄美」であったのは、他者により峻別された場合が多かったのではないか。近代の例では、鹿児島県が(奄美「独立経済」)政策を施行する対象であったり、米軍政府により設立された「奄美群島政府」の区域として、また復帰後は本土との地域格差を是正するために導入された奄振法の適用地域として「奄美」が位置づけられた。これらはすべて奄美は述語的位置に置かれている。つまり他者からの区別を前提とした地域として、また格差を解消するための受け皿としての「奄美」であったように思われる。(復帰運動の際には「奄美大島」「奄美群島」といった表現が復帰運動推進者によって使われていたことが多かったようだ)。

 奄美の島々を巡り、島の文化や民俗、風土に接する時、ここが奄美であるという自覚より、そこにいる島名で接し思考しているほうが、しっくりくる。奄美の人たちは、「奄美」という言葉と概念をどれほど自分の主体に引きつけて、発語しているのだろう。それとも、もともと「奄美」という存在は、鹿児島、沖縄、ヤマトンチュ、そしてヤマトに住む奄美群島出身者などといった他者からのまなざしによって支えられている「幻想」なのだろうか。
 いまや、県境・国境を越えて、経済・文化・情報が地球規模にグローバル化し、中央集権国家が地域社会の細部を傭撤することの困難さを露呈させている時代である。そんな時代だからこそ、奄美の島々とそこに住む人々が「奄美」を自律させ、地域実体を確立させていくことが大切なのはいうまでもないことだ。(『それぞれの奄美論・50』

 「実体としての奄美」を正確に受け止めているか分からないが、ぼくの問題意識に引き寄せれば、「奄美という抽象は可能か」ということになると思う。奄美って何?と聞かれたときに答えられる言葉あるいはイメージ。

 たとえば、ぼくにも与論人(ゆんぬんちゅ)はリアリティがあるけれど、奄美人(あまみんちゅ)となっただけで空虚感を感じてしまう。奄美大島の人を指すという受け止めの方が先にやってくる。

 ぼくはそれに答えるには、まずそれぞれの島が充分に、島を語ること島を表現することが必要だと思う。与論なら与論を語りつくすこと歌いつくすこと。与論という具象が充実して、それが見えてくれば、共通項としての奄美も浮かび上がってくると思える。それはない、ということですら、「ない」という共通項として持つことができるのだから。


「『幻想』から実体確立へ」大橋愛由等



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海亀は与論島が好き?

 「沖永良部ウミガメネットワーク」の記事に触発されて。

 南海日々新聞のウミガメ上陸数の記事が引用されていました。

2007上陸状況

屋久町  1693回
和泊町   295
中種子町  261
西之表市  143
与論町   136
奄美市   122
龍郷町    83
知名町    67
徳之島町   43

 これを、島の周囲のキロ数で割ってみました。「島の海岸1キロ当りの海亀上陸回数」というわけです。
 すると、

1.屋久島   13  回/km
2.沖永良部島  7  
3.与論島    6  
4.徳之島    0.5
5.奄美大島   0.4

 と、こうなりました。

 もちろん、人知れずの未確認の上陸もあるでしょうから、これだけでは何も断言できませんが、与論島にももっと来るといいですね。浦島太郎になりたけりゃ、今なら屋久島行くといい。そんな話になりそうです。

 今年は、260回確認されているとか。ウミガメの上陸回数は、琉球弧の竜宮城状況を測るひとつのバロメーターとしてみることもできますね。沖縄の状況も合わせて見てみたいです。



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2008/05/19

奄美=ヤドカリの地!?

 吉成直樹さんの『琉球民俗の底流』が面白かった。

Photo













 吉成さんがここで取り上げている「ニライカナイ」、「来訪神」、「御獄」、「オナリ神」のテーマ群は、『琉球民俗の底流』と同じ2003年に出された中沢新一さんの『神の発明』と合わせてみると、一気に理解できるところがあり、両書のシンクロに興奮した。

 ぼくは中沢新一が展開した対称性人類学が、琉球弧を理解する上で強力な補助線になると感じて、「対称性人類学から見た琉球弧」として紹介をしようとしたことがある。けれど、「引き裂かれる奄美」という言葉にいい意味で躓いて、以来、奄美にとっての道州制の問題、そして奄美とは何かというテーマに浸かることになり、対称性人類学から見た琉球弧に戻るのはいつになるやらと思ってきたのだが、このテーマが生き生きしているのを、吉成さんの本でまた思い知らされるようだった。

 いつかこの本の考察ともゆっくり対峙したいが、たとえば、「アマミキヨとは何者か」という考察がある。

 ところで、「アマミキョ」とは何者なのだろうか。アマミキョにまつわる伝承には複雑な陰影がある。
 これまでの研究に従えば、太古、沖縄の島々に南下して住みついた人々の故郷が「アマミ」「アマミヤ」であり、その故郷に住む人々が「アマミキョ」ということになる。また、『おもろさうし』のなかでは、「あまみや」「しねりや」という言葉が用いられる場合があるが、さきに掲げた巻十-五一二のほかのオモロでは「大昔」という意味である。しかし、「アマミ」の語義、語源についての定説はない。

 この問いに惹かれるのは、琉球の開発祖神とされるアマミク・シネリクの語源を扱っているからだ。そして同時に、「奄美」という地名の由来に関わっている。

 ところで、中本正智は「アマミキョ」の「ミ」は「土」、「キョ」は「子」と解し、「ミキョ」は「土子」という意味としている。また、アマミキョ・シネリキョの住居と伝承されている玉城村の洞窟、ミントン城(グスク)のミントンもまた「土の殿」、すなわち地下にある殿、と解している(中本、一九九〇(一九八五)、八九五)。これまで展開してきた議論のなかにうまく位置づけて考えられることからも、こうした解釈は正しいと考えるり 特に、ミントンを「土の殿」とする解釈は、新里村にアマミク・シルミクの二神が洞窟(タマガーヤマ)で子孫を生んだとされる伝承があることからも裏づけを得ることができよう(酒井、一九八七、三五~三六)。それが天から降りてくるとされるのはなぜだろうか。

 吉成さんが「これまで展開してきた議論」というのは、ニライ・カナイの語源として「みろや・かなや」という言葉を抽出し、それを「土の屋、日の屋」と仮説した中本さんの説を踏まえ、ニライ・カナイを「土の中」と理解してきたことを指している。

 ぼくがさらに関心を惹かれたのは、このあと、吉成さんがアマンの考察に入るところだ。

 小島瓔禮は、琉球開闢神話を検討するなかで、次の諸点を指摘する。
 第一に、開闢神話にヤドカリが登場するのは八重山の特色であり、開闢の時代を「アマン世」というが、これは「ヤドカリの時代」を意味する。それは、人間がヤドカリから生まれたと考えられていることに由来する。第二に、左手の茎状突起部の入墨の文様をアマン(ヤドカリ)というのは、奄美諸島から八重山諸島にいたるまでみられるが、沖永良部島では、それをアマムといい、祖先がアマムから生まれ、われわれもアマムの子孫だからという伝承がある。第三に、八重山、宮古にはアマミキョ・シネリキョ神話がないが、石垣島には創世神のアマン神(六七頁、石垣島・白保の開闢神話を参照)があり、北部地方との脈絡が保たれている。第四に、琉球列島の神話の構成原理に、一次的に開闢神が天から下るのに対して、二次的な神(原初の人間)は地中から出現するという考えがあった可能性がある(小島、一九八三、二〇六⊥一〇七)。

 琉球列島における開闢神話の基本をなすのは、原初洪水型(はじめに水だけの世界があるとする神話。実際に洪水がおそってきたと語るのは、洪水型と呼ぶ)の兄妹始祖神話である。これは、『記紀神話』のイザナキ・イザナミ神話も同じである。小島瓔禮が、琉球列島の開闢神話の構成原理として、原初の人間が地中から出現したと考えたのは、これまでも繰り返し述べてきたように、「土中からの始祖」神話と「原初洪水型の兄妹始祖」神話が結合した結果である。

 ヤドカリの入墨が琉球列島に広く分布しており、しかも八重山と奄美で、自分たちの祖先がヤドカリから生まれたとする伝承があることを考慮すると、アマミキョ・シネリキョ神話の琉球列島における原型は、土中から出現した原初的な存在であるヤドカリから生まれ、土中から出現した兄妹二神であると考えられる。

 ぼくも、「アマン世」とは「ヤドカリの時代」のことだと思ってきた。琉球弧で見られたアマンの入墨に対して、「自分の祖先だから」とした島人たちの発言があり、またヤドカリを祖先とみなす与那国島の神話も存在する。これらは人間が人間と他の動植物の存在を等価とみなした世界観を反映したものだ。「アマン世」を「ヤドカリの時代」と理解するのは、国家形成以前の世界認識として、またその後も長く琉球弧に残る世界認識として的を射ていると思えるのだ。

 なぜ、ヤドカリを自分たちの祖先と考えられるようになったのか不思議ではある。これは、自分たちの祖先が、ヤドカリが巻貝の殻を移り住むように、洞窟で穴居生活を営み、洞窟を移り住んでいたからではないか、という推測は充分に成立つであろう。

 人間=動植物という原初の世界観の産物と考えれば、「なぜ、ヤドカリを自分たちの祖先と考えられるようになった」のかは、不思議ではない。ぼくはこう思うとき、海に近い珊瑚岩だらけの樹々の下を歩くと、気づけばあちこちに、そう普遍的にと言っていいほど出没するアマン(ヤドカリ)の姿を思い出すのだが、あれを目の当たりにすると、琉球弧の初源の島人が、繁殖する生命の象徴をヤドカリに見たとしても不思議ではない。それは象徴的であればこそ人間身体にも入墨として定着したのだ。

 ところで、ぼくはそこから、「アマン世」と「奄美世」と当て字するのを見ながら、奄美世と書いて「あまんゆ」と読ませているのではなく、奄美とはアマンから来ていると推測することはあった。それは地名の理解につながるのでそんな関心を持ったのである。

 でも、アマミとアマンでは語尾が異なること、また、奄美大島は諸島の人々には、「ウウシマ」と呼ばれていただけで、それを「奄美大島」と「奄美」と付けたのは、文字を持った弥生文化勢力だと思うと、地名の初源からは遠ざかるので、それ以上の追究をせずに、奄美大島の地名は「大島」だけを対象に理解していた。

 ※「奄美の島々、地名の由来」

 ところが、

 こうして、きわめて古い時代から琉球列島に分布し、根深く息づいていた神話を、新たに鉄器、稲作などを持って、北から南下してきた新来の渡来者が、創世神話のなかに取り入れたとしても不思議ではない。そのように考えれば、古くからの神話を持っていた土着の人々と新来の勢力という「被支配者=支配者」関係が生じることになろう。琉球開闢のオモロで、アマミヤ・シネリヤの子孫を生むなというのは、ある意味で当然のことである。実際、琉球王府が編纂した正史の開闢神話のなかに、アマミキョ・シネリキョが子孫を繁栄させたと語られているものがないことは強調してよい。

 「原初洪水型の兄妹始祖」神話は、日本、琉球、インドネシアなどに分布するが、この分布から考えて、琉球列島を北上した可能性がある。また、「土中からの始祖」神話も、同一の伝播ルートであることに疑いようがない。これまでは、あまりに新来の人々に結びつく「天」「海」と、現実に存在する「奄美」という言葉に目を奪われ、その古層にあって母胎となった神話に視線が届かなかったのではなかろうか。そもそも、琉球列島において「海」を「あま」と呼んだ事実を確認することはできるのだろうか。ちなみに、古代朝鮮語の立場から徐延範は、「アマミ」 は「アマ(母)」「ミ(土)」と解し、「母なる土地」の意味にとるべきではないかという。ここでも、「ミ」を「土」と解していることは興味深い。また、「アマミキョ」「シネリキョ」の「アマ」「シネ」の対は、女と男の対ほどの意味であるとする。

 吉成さんが言うように、もともとの神話を南下勢力が支配神話のなかに取り入れたものと理解すると、内発的な言葉として「奄美」を取り上げてよいのではないかと改めて考えた。

 学者としての慎重さからか、吉成さんは明言していないのだが、これまでの文脈からすれば、アマミとは、「ヤドカリの土地」の意味になることを示唆していると思える。そしてそれはとても魅力的な理解にぼくには思える。「大昔」と解するよりも、地勢を地名とする初期原則にも近い。しかもアマという言葉は、吉成さんも挙げているが、「天」「海」「雨」などとつながってその正体をなかなか明かさない謎があり、長く煩わされてきた言葉だけに、溜飲を下げる。

 「アマミキヨとは何者か」ひとつ採ってもここには、琉球弧探険には興味の尽きないテーマが含まれている。それはうなずくものもあれば、オナリ神信仰はそんなに古くないとする頷けない仮説もあり、どちらにしても、ゆっくり辿りたい考察が盛り込まれている。いつかきちんと辿ろうと思う。

◇◆◇

追記(2008/06/02)

 末尾に付けられた「琉球・沖縄関連語彙解説」にはこうあった。

 古代朝鮮語では、アマとシネの対は、女と男ほどの意味の対であり、またアマミは、アマ+ミであり、「母なる土地」という意味に解することができる。

 と、本文中はアマン=ヤドカリの解説に積極的で、アマ=「母なる」解し方は抑制的な紹介にとどめていたのに、末尾に来てあっさりとアマミを「母なる土地」と解されていて肩透かしを喰らった。「母なる土地」、とてもロマンティックだが、これは地名の名づけ方としては大島の地勢から離れ抽象的でまるで現代的な付け方に思える。ぼくはここでは、名称のロマンへ飛ばずに、古代奄美人の世界観にとどまり、アマミ=ヤドカリの地の仮説を追いたいと思う。 



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2008/05/18

「創作・評論・総合、戦後奄美の文学」

また島尾は「奄美群島を果たして文学的に表現し得るか?」の一文で「珍奇さを一先ず排除して普遍的な人間の根本の問題の場所で把握した上で、再び、離島地帯の特異さを組み立て直さなければならない」と言っている。再び雑誌の時代を迎え短歌を中心に歩み続けている奄美の文学にとって今必要なことは内輪ぼめから作品研究へと進むことだろう。印象批評から作品分析または世界の再構築をするということだ。書くという行為は自己をそして他者を切り刻むことに他ならないのだから。書くこと、評論することの営みの持続を。(『それぞれの奄美論・50』

 島尾の言っていることを、前後を足して引用するとこうなる。

もう一度端的に言えば、かつて奄美群島は全国的な広がりをもって文学作品に描かれた経験が少ないかその萌芽は埋没してしまっている。そのために、奄美群島を描こうとする者は、何となく本土と変っているように感じられるその珍奇さを一先ず排除して、普遍的な人間の根本の問題の場所で把握した上で、再び、離島地帯の特異さを組立て直さなければならない。それははなはだ困難なことだ。当分その困難な時期は続くであろう。(島尾敏雄「奄美群島を果たして文学的に表現し得るか?」1956年)

 ここまで足すと島尾の切実さも伝わってくる。困難は続くだろう。島尾がそう言ってから半世紀経つ。この困難は今も続いているだろうか。答えは、イエス・アンド・ノーだ。

 イエス。今もその困難は続いている。奄美に文学はあるのか。ぼくたちはまだ潤沢にあると言いにくい。そればかりか、島の言葉が急速に失われつつあって、文学のある土壌を無くそうともしている。

 ノー。困難を克服した例も出てきた。80年代のワールド・ミュージックのブームのとき、りんけんバンドや坂本龍一のオキナワ・ソングを聞きながら、これと同じものを奄美が生み出すにはもっと時間がかかるだろうと思った。いや奄美は生み出せるだろうかと気がかりだった。元ちとせの登場は、それへの回答だった。しかも、唄の深度は、りんけんバンドよりオキナワ・ソングより深かった。やるじゃない奄美。さすが大島、と思ったのを覚えている。当時、元の出身地近くで、紅白歌合戦の出場祈願の旗があったのには苦笑したけれど、奄美がここまで来たという感慨があった。

 「書くこと、評論することの営みの持続を」。ぼくもその持続が奄美の新しい表現を生み出すと思う。


「創作・評論・総合、戦後奄美の文学」間弘志


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前利潔さんと高良勉さんの2000年の対話

 大橋さんが出された『キョラ05号』は、21世紀を目前にした2000年のものだけれど、刺激的だった。まず、ここで自分以外の自分に出会えて嬉しかった。たとえば、前利潔さんと高良勉さんの対談。

 昔から神戸方面には沖永良部出身者が多く住んでいるので、沖永良部で関西弁は、当たり前なんです。一旦島を出た親兄弟や親戚が関西弁になって島に帰ってくるから、関西弁は日常的な会話に入り込んでいる。けれども、鹿児島弁というのは、学校の先生・警察・県の役人の言葉になるわけ。権力的な関係の上に立っている者がしゃべる言葉が鹿児島弁ということなんです。沖永良部の高校を一八歳で卒業して、二〇歳の成人式の時に島へ帰ってきますよね。そうすると関西に行った同級生は、もう関西弁になっているわけ。ところが鹿児島に行った僕の兄貴なんか、NTTに就職して、もう二〇年ぐらい鹿児島にいるけど、鹿児島弁は喋らない。日本島嶼学会の発起人で、鹿児島県地方自治研究所理事長の皆村武一鹿児島大学教授も、沖永良部高校から鹿児島大学へ行って、そこで先生をしているけど、鹿児島弁を聞いたことはない。鹿児島に行った島出身者は、何十年そこで暮らしていても心理的な抵抗があるらしい。

 与論島では関西弁は当たり前ではないが、鹿児島にいる島の人が鹿児島弁をしゃべらないというのは、かつての自分と同じだと思った。「心理的な抵抗」を感じている島人はやはりいるのだ。こういうことを殊更に書くのは、鹿児島弁を拒否するという心性の共有を積極的に確認したことはないから、記述としての出会いが具体的な事例と同じだからなのだ。

前利 奄美の人たち、……奄美人は、他者と関係づけてしか自己を語れない。谷間という比喩もそうでしょう。鹿児島と関係づけて奄美は谷間だ、沖縄と関係づけて奄美は谷間だということになる。「兄弟島」という表現も、ちょっとどうかと思う。復帰運動の過程で「北部琉球」であることを拒否し、「鹿児島県奄美群島」であることを声高に主張したのは奄美側なんですよ。奄美人は「日本民族」であるという立場から、「琉球民族」であることを拒否したんですよ。そのような歴史的事実を無視して、奄美と沖縄は「兄弟島」というのは無節操だと思いますね。奄美人は奄美の言葉で自己を語ったうえで、自己と他者との関係を築いていけばいいのだが、鹿児島に向き合うと「日本人」あるいは「鹿児島県大島郡」、沖縄に向き合うと「兄弟島」と、ご御都合主義。ここで確立しておかなければならないのは、「兄弟島」という言葉の裏には、奄美人が「琉球民族」の一員であることを認めたくないという気持ちがあることなんですよ。「兄弟島」という言葉には、「日本人」であることを前提に、「琉球民族」の一員であることを拒否したいという気持ちがあると思いますね。「兄弟島」という言葉は、そのことをぼかす意味もある。まずは自分の言葉で奄美を語るべきだと思いますね、奄美人は。

 「谷間」とは、ぼくの言葉でいえば、奄美の被った「二重の疎外」のことだ。「他者と関係づけてしか自己を語れない」ことも、疎外態としてしか自己承認のプロセスを踏めなかったことを意味している。二重の疎外、もっと厳密にいえば、二重の疎外とその隠蔽の強制により、奄美は強度の自己空虚感にさいなまれる。あるいは「二重の疎外とその隠蔽の強制」を奄美は、自己を空虚にすることによって凌いだ。「奄美の人々は、長いあいだ自分たちの島が値打ちのない島だと思いこむことになれてきた」と島尾敏雄が言うのもこのことを指している。日本復帰への総雪崩は、この自己空虚感のすさまじさの裏返しである。総雪崩は、現在からみれば、自失の過程に他ならないが、当事者にとってそれは、琉球とつながりのある奄美を消滅し、「日本人」によって充当することで満たそうとする自己実現の出口に見えたのだった。そしてこう理解するとき、奄美は自身を通じて沖縄を理解する糸口を持つと同時に、沖縄に向ける言葉を手にすることができると思える。

 「鹿児島に向き合うと『日本人』あるいは『鹿児島県大島郡』、沖縄に向き合うと『兄弟島』と、ご御都合主義」という評言は、奄美がその胎内から生んだ自己評価だが、他者の分析を待たずに抉り出せたことに意義があると思う。

前利 僕が公の場で初めて言ったのは、鹿児島テレビが奄美復帰四〇周年(一九九三年)記念として企画した、鹿児島版〝朝まで生テレビ″ともいえる「どうする鹿児島」という番組のなかで午前一時から五時までの生放送でした。出演者の中で復帰後の生まれ(一九六〇年)は僕だけで、他の出演者は復帰前に生まれた人たちや、復帰運動を現役として闘った人たちでしたね。そこで僕は挑発的に奄美復帰時期尚早論を主張したわけ。そうすると他の出演者は、不機嫌な顔するわけよ。復帰運動を美化する世代だからね。ちょっと気まずい雰囲気になって、それ以上議論は進まなかった。僕が言いたかったのは、奄美人としての自己認識を獲得することなく、本土復帰に過剰な期待感、幻想を持ったまま復帰してしまったこと。未だに奄美はその幻想から解き放たれていない。

 沖縄の場合、反復帰論が登場するのは、そういう幻想が壊れていたからでしょう。沖縄の場合でも、本土復帰に対する幻想をもっている人たちは多かったと思いますが、反復帰論という思想も確固として確立されていましたね。「日本人」に対置するかたちで「沖縄人とは何か」という自己認識にかかわる議論があったわけでしょう。奄美にはそれがなかった。そういう意味で、奄美の場合、ちょっと復帰が早すぎた、という気持ちが今でもあるんです。勿論、「奄美人」としての自己認識を獲得できる客観的な、そして主体的な条件があったのかどうかといーう検証も必要なのですが、現在の立場から結果論として言わせてもらえれば、早すぎたという思いが強いですね。

 「復帰時期尚早論」は、奄美が奄美自身を内省するのに格好のテーマだと思えるが、前利さんのこの発言を受けた高良さんは思わぬところから発言を返している。

高良 今の話を聞くとね、僕の頭の中に浮かんでくるのは、なるほど奄美のおかげで、沖縄は反復帰論を形成できたなあという感じを持ちますね。つまりね、反復帰論にはいろんな助走的な要素があるんだけど、思想の系譜から言うと、日本国家とか日本の歴史だとか、あるいは日本民族主義だとか、そういうものを対象化できた世代というのは、奄美が先に復帰したことで、奄美群島ぞいにもたらされた地下の出版物から勉強していこうとしていた。当時沖縄では非合法だった日本共産党の、機関紙「赤旗」なんかも、全部サバニ(刳り船)に乗せて運び込まれたらしいの。情報面で、確実に奄美の恩恵を受けたなあと。それがひとつ。もうひとつは、思想的な意味では奄美が先に復帰してみて、なるほど米軍基地はなくなったかもしれんけど、経済的な貧しさがあった、近代に抱えてきた問題はほとんど片づいてないと。それを見ながらね、いわゆる、日本国にいくら幻想持って復帰してもそれは変わらないよ、ということを奄美を先行例にしながら反復帰論者たちは思想形成やってきた。何もない所から出てきたんでなくてね。あるいは、米軍支配が長く続いただけで出てきたのではないと思っています。

 大橋さんはこの発言を「おもしろい意見ですね」と受けているが、ぼくもとても興味深く感じた。これは、奄美と沖縄が相互理解を深めようとする過程で生まれた発言であり、高良さんの弁には奄美への思いやりから生まれたものでもあるが、こう言われなければ気づかないという意味では、対話による相互理解が深まるとてもいい例になっている。ぼくたちには、こんな対話が必要なのだ。

 この高良さんの発言を受けると、沖縄より早期に復帰した奄美は、日本への幻滅も早期に知り、自身の甘さを知らされると同時に、現在、沖縄が日本に幻滅しているのを理解することができる。そんな言葉を返すこともできると思った。前利潔さんと高良勉さんの2000年の対談は、引き継がれるべき奄美と沖縄の対話である。



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2008/05/17

「シマウタを武器とせよ」

 日頃から、奄美のシマウタは早晩ダメになるのではないか、と心配している。シマウタが全国的な注目を集め、ウタシャが東京や大阪といった大都会に招かれて披露し、奄美では各種のシマウタ大会が催され、ウタシャの若手志望者・予備軍も少なからず輩出している。ようやくシマウタは全国に認知されつつあるかに見えるにもかかわらず、私は心配している。
 心配の核心は、シマウタがヤマトの民謡が歩いたのと同じ道を歩くのではないか、という点である。
 奄美・沖縄の民謡がヤマトの民謡と決定的に違うのは、歌に硯的な力が残っていることである。呪的な、という言い方は誤解を招くかもしれない。単に呪術的という意味ではないからである。
 自然や人事に対して変化を与えようとする力、積極的に働きかけようとする力が歌の中にこめられているという意味である。歌の魂と言ってもいい。

 もっともヤマトの民謡だって昔はそうした力(魂)を持っていたのだが、早くに失われてしまった。ヤマトの民謡がとうに失ったものをまだ保持しているのが奄美・沖縄の民謡、なかんずく奄美のシマウタである。
 だが、ほっておけばヤマトの民謡がたどったと同じ運命をたどることになる。いや、すでにたどりつつある。呪的な力はどんどん失われつつある。その心配が私を捉えて放さないのである。
 行き着くところ、魂の抜けた形だけの民謡、若者から見捨てられ、一部趣味人の翫賞物になりはてた形骸だけのシマウタになってしまうのではないか。(『それぞれの奄美論・50』

 これを読んで、大島の人が同郷の愛着を込めて、ちとせは分かってるのかな、とか、孝介の目は最近、とか心配げに語る理由が分かる気がした。

 歌を歌うことで人々は、自然や人事に対して積極的に働きかけた。雨を降らせるために、あるいは降りやませるために歌を歌った。それを迷信と片付けてはならない。雨が降るか降りやむかは「生き死に」に関わっていた。言葉を換えれば、生きるために歌ったのである。これがシマウタの原点である。

 ぼくも全くそう思う。「後進性」と呼ばれたもののなかにどれだけ貴重なものがあったか。その好例だ。ぼくは、元ちとせの唄には、まだこの自然への働きかけを感じることができる。そして先日の「夜ネヤ、島ンチュ、リスペクチュッ!! in 東京」で、里アンナのわん島に感じたすごさも、このことだと合点がいく。

 ウタをもって武器とせよ! 歌という武器によってのみ、奄美は近代の矛盾と戦うことができるであろう。

 これはいいアジテーションだ。


「シマウタを武器とせよ」松原武実



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2008/05/16

大橋さんと奄美談義

 「幻想としての奄美」をネット上で読んだのがきっかけで、「神戸まろうど通信」のブログを読むようになっていた。神戸から奄美に熱い視線を送ってくれている大橋さんにはいつかぜひお会いしたいと思ってきた。

奄美という言葉自体、奄美に住む人たちにとって、どれほど実感を伴って、わが郷里を表現する言葉として発語されているのだろう。奄美の人間である前に、喜界島の人間であったり、徳之島の人間であるとの自覚の方が先行しているのは、奄美の人たち自身がだれよりも深く感じていることに違いないからだ。

 「幻想としての奄美」にはこうあって、奄美の島人の実感に手を届かせてくれていた。奄美とは大島のことでもなければ、いまだ仮設建築の域を出ない共同性の名称である。それは、構築されなかった政治的共同体の仮称だと言ってもいい。でも、言い換えれば、新しい表情の可能性を持つ魅力的な概念でもあるのだ。

 で、せっかく大阪に仕事で来たのだからと、スケジュールを割いていただいた。三ノ宮の駅で、わたしの名前を大声で呼んでくれた次の瞬間には、もう親しくさせていただいた感じだった。ゆうべの松島さんや藍澤さんもそうだったが、問題意識を共有しているということは昔からの友人のようにさせてくれる。大橋さんもすぐに意見交換させてくれて、またぼくが考えていこうとしていることにアドバイスもいただいた。ありがたいことです。

 読みたいと思っていた『キョラ 05号』も読む機会を得た。奄美の世界が目の前で開けていくようで、視野狭窄のぼくには嬉しい。これをもとに、考えを進めていきたい。それがまた今日のお礼にもなると思う。



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「問われる叡智」

 奄美の人々、などとよそよそしく言うのは止めよう。そう、私たちである。私たちは島のものを粗末に扱い、ヤマトからくるものは良いものであり、真似るべきと考える傾向が強かった。誇りが持てなかったわけである。残さなければならないものまで捨て去り、売り渡してきた。誇りが持てなかったことの証、その最たるものがシマヨモタではないだろうか。遊びの中心がテレビに変わっていくとともに、みるみるシマヨモタが消えていった。「アンマ(おばあちゃん)」や「ジュウ(おじいちゃん)」の意味さえ知らない中学生が大半だと知って唖然とする。博多っ子や浪速っ子が、誇らしげにお国なまりを披露しているのを聞くと、うらやましくて仕方がない。
 言葉をたどる旅は、民族や文化の源流にたどりつく旅であろうが、早晩、その道も閉ざされようとしている。口承が命綱であったわけだけれど。

 シマヨモタを話す最後の世代という自負から、というわけではないが、小説のなかに、私は方言を極力取り入れるようにしている。島の人の情愛のこまやかさや喜怒哀楽の豊かさを伝えたい思いからである。シマヨモタが消えていくということは、島人の感受性の豊かさまで薄れていくことになりはしないか、それが寂しくて、怖い。(『それぞれの奄美論・50』

 「シマヨモタが消えていくということは、島人の感受性の豊かさまで薄れていくこと」にはならない。だから、寂しいのは分かるけれど、怖がることはないと思う。むしろ、「博多っ子や浪速っ子」顔負けの奄美言葉を鍛えればいい。

 けれど、出水沢さんが、シマヨモタにこだわるのには理由がある。それは、それが島の世界に入るための切符だからだ。中途半端ではあってもぼくも、与論言葉(ゆんぬふとぅば)をしゃべることによって開かれる世界があるのを知っている。それは、人間関係を開くということではなく、時間を遡行し空間を拡大してみせることができるということだ。

 島の言葉に耳を澄ます、というか、身体を澄ますと、時間を遡ってはるか昔に同じ言葉を発した島人の気持ちや意図が分かる気がするときがある。島の言葉で島の身体性を掘り下げることで、地名の意味や歌の心が蘇ってくる。それは島の言葉でしか辿りつけない、かつ他では味わえないスリリングな作業だ。


「問われる叡智」出水沢藍子


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大阪の琉球弧語りのゆうべ

 せっかくの大阪に来たのだからと、ゆいまーる琉球の自治の松島さんにお会いしたくて、「沖縄9条物語」に足を運んだ。

 佐渡山豊さんコンサートは、骨太で、プロテスト・ソング、フォーク・ソングのなんたるかを聞かせてもらった。

 野村浩也さんの講演は、「日本人」を「日本国家」に置き換えたらほとんど同意見だと思いながら聞いた。その昔、目覚めたプロレタリアートは目覚めないプロレタリアートに、「きみは知らないうちに資本主義に加担している」と、彼らをプチブルと呼んで批判した。いまの「プチ」語のさきがけである。でも、ナイーブな青年たちは突然、罪悪感を呼び覚まされて自分を責めるようになる。80年代、ポストモダンが流行った頃には、きみは考えているのではない、言わされているのだという言説も大手を振るった。だが、これらはすべて、何も生み出さなかったばかりか、さらに強力な抑圧を生み出したのではなかったのか。そんな過去の歴史を思い出さずにはいられなかった。朗らかに遊んでいる人に対して、歴史に無知であろうが何だろうが、その朗らかさを祝福しこそすれ、きみは無意識の加害者だとして非難する理由はどこにもないと思う。

 もとい。お会いできた松島さんたちとは大阪駅まで戻って、ひととき琉球弧談義。松島さんは口調もお顔も身近なそれで懐かしかった。一緒にお話しさせてもらった隼人の藍澤さんの鹿児島弁のアクセントも懐かしく、また、出身ではないのにアクセントの移ったもう一人の藍澤さんのアクセントはさらに懐かしかった。琉球弧の理解者に出会うと、自分の棘がなでなでされるようで、ありがたいやら嬉しいやらだ。

 おかげで大阪で琉球弧に浸る贅沢な夜になった。その前の講演とコンサートが濃かったかり、話せるのは一時間と線が引かれていたり。それもあったでしょう。でもそれより、松島さんと藍澤さんペアの理解と人柄のおかげ、ぼくはすぐにしゃべり上戸になってしまってました。ありがとうございます。



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2008/05/15

「土着に根ざす」

 昨年(一九九九年)七月に名瀬市で開催された奄美・やんぼる広域圏交流推進協議会設立記念シンポジウム。奄美側から提起された沖縄経済新法適用論に対して、助言者の素数啓沖縄振興開発金融公庫副理事長は、沖縄自由貿易構想を例に「歴史の記憶」を対置した。同構想には、かつて貿易国家として栄えた琉球王国の記憶があるという意味である。
 奄美側にはその言葉の意味を理解できなかったようだ。沖縄経済新法適用論には、どのような「歴史の記憶」があるのか。復帰運動の過程で「北部琉球」であることを拒否し、「鹿児島県奄美群島」であることを声高に主張したのは奄美ではなかったのか。
 昨年一月に名瀬市で開催された日本島嶼学会特別研究会の場でも奄美側から沖縄経済新法適用論が提起されたが、沖縄側と言葉がすれ違っているのを感じた。それも奄美側に「歴史の記憶」が欠落していることに起因している。
 名瀬の皆さんの意見が、奄美を代表する意見であるわけでもないことを指摘しておく。(『それぞれの奄美論・50』

 議論の背景が分からないので正確に把握できているか心もとないが、前利さんが言うのは、「鹿児島県奄美群島」になることを選択したのは自分たちなのに、根拠薄弱に「沖縄経済新法」の適用を言うのは虫がいい。そういうことだろうか。

 この理解の正否は置くとしても、奄美自身が、

復帰運動の過程で「北部琉球」であることを拒否し、「鹿児島県奄美群島」であることを声高に主張したのは奄美ではなかったのか。

 と、問うことは重要だと思える。それなしに沖縄との対話の通路は開けないからである。

 それから、

 名瀬の皆さんの意見が、奄美を代表する意見であるわけでもないことを指摘しておく。

 背景は分からないものの、この指摘は本質的だ。沖縄であれば離島の方は、「名瀬」を「那覇」と置き換えて言うのが想像できる台詞だと思う。

 この指摘は正論だから本質的なのではない。いや正論に違いないのだが、これこそは島の原理だと思う。島人は、島が世界であり宇宙だと知っている。ことに諸島全体で政治的共同体を構築することの無かった奄美であればなおさら実感できることだ。いまでもぼくたちは、「奄美人」という器が充満していないのを知っている。

 前利さんは島の原理を言っている。それが本質的と感じる所以だ。


「土着に根ざす」前利潔




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2008/05/14

大阪の「しまん人」

 今夜は内本町の「しまん人(しまんちゅ)」なのだった。

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 『奄美、もっと知りたい』(神谷裕司)があったので、読みながらオリオンや海ぶとうを味わっていたら、「島の人?」とお店の人。「与論です」と答えると、「そうね、島の人は顔が濃いからすぐ分かっていいね」と返された。

 「与論の人はね、滅多に来ないよ。まあ奄美の人もそうだけどね」と言って笑った。「『与論島慕情』ってあるでしょう。あれは私の友達が歌ってね」と教えてくれて関心した。あの観光ブームのときは、大島からも観光で与論に行く人が多かったそうだ。観光で来るのは本土の人とばかり思っていたから、大島の人も観光したことを聞いて、なんだか嬉しくなった。

 与論の歌は沖縄の音階だよね。徳之島からは違うんだけどね。そうは言われつつ、島の人同士の会話を楽しませてもらった。ゆうべに続き、とおとぅがなしな夜だ。

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「変化の底流を見る眼」

 今日、離島の幸福、不幸論議は、島口の伝承をはじめ郷土教育の肯定的評価につながっている。その郷土教育の中にシマウタ、八月踊りとともに、郷中教育である「山坂達者運動」が、琉球の「エイサー」が入ってくるようになった。

 薩摩の郷中教育の奄美入り?と聞くと、ぼくなどは暗澹たる気分になるのだけれど、でも頭を冷やせば、「エイサー」と「山坂達者」は、琉球と大和の二重意識としての奄美を素直に表現しているのが分かる。と、言い聞かせる。

 近世期、奄美は、薩摩藩による黒糖の専売制で苦しんだという。確かにそうではあった。しかし、この制度も屋久島の平木専売制という仕組みの導入である。屋久島の平木専売での米を奄美から搬送させ、奄美の黒糖専売が実施されると、琉球国頭からの赤米を道之島、屋久島に搬送させる。大坂(大阪)市場では値段がやすいという情報の判断がある。また、中国明・清との貿易ルートの確保の必要性から、薩摩藩は奄美に大和的服装を禁じてきた。そして、琉球を介して情報を取り寄せながら江戸幕府と対応し、大島を薩摩藩公認の密貿易の基地として設定し、軍艦や武器の導入をしようとする構想が幕末に出てくる。これも情報とそれに対する薩摩藩としての対応の機軸であろう。(『それぞれの奄美論・50』) 

 弓削さんの考察を読むと、その背景にあるだろう既存の奄美論の文脈が気になってくる。既存の奄美論の文脈に対置するように、弓削さんは自身の考察を置いているのではないだろうか。

 たとえば、黒糖専売に対して、「屋久島の平木専売」と書くのは、既存の文脈では、他にないあこぎな制度として黒糖専売が語られているからではないか。また、「大和的服装を禁じ」たことを、密貿易基地としての薩摩の構想があったからだという解説は、「禁・大和服装」が差別としてのみ語られている文脈があるからではないか。そう想定すると、弓削さんの言わんとするところが伝わってくる。

 薩摩の方法や構想を知るのはありがたいとして、ぼくはそれが結果的に奄美に何をもたらしたのか、その固有性は何かということが気になるところだ。


「変化の底流を見る眼」弓削政己



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2008/05/13

大阪の「てぃだ」

 大阪に来ています。で、行きたいと思ってた「てぃだ」にお邪魔しました。

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 与論出身のはこやまさんは今日が誕生日だとか。みんなに祝福されてました。

 古仁屋出身の重さんらともお話できました。出張したその足で駆けつけたのであっという間でしたが美味しく懐かしい一時。なにしろはこやまさん、与論島慕情を唄ってくれました。

 それにしても、左隣の方は、「それ何ですか?」「油そーめんです。ソーメン・チャンプルーです」「美味しそうですね、それください」。右隣の方は、「それ何?もらっていい?」とパパイヤ漬けを取り、「これ食べて」と島らっきょうと鶏飯。いやはや。大阪は人懐こくていいですよ、という大阪出身の同僚の言葉はこれかと思いました。

 雨でしたが、てぃだのおかげでぽかぽかの夜です。サーターアンダギーも思わず買いました。(^^)

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「顕ち現れる奄美」

 藤井令一さんの会で会った弓削政己氏も、近世奄美を伝える対馬の宗家文書の所在を追い求めていて、ようやく遭遇することができそうだ、と興奮しながら語っていたことを思い出す。奄美の人々が、奄美を、まるごと知り尽くしたいと願って、着々と成果を挙げている姿に接することができるのは、喜ばしいと言う以上に刺激的だ。九月に奄美に参集した多くの学者・研究者が、自分のテーマとテリトリーと方法を身につけ、せっせと業績を積みあげている姿も、真撃で感動的だが、どこかよそよそしさが感じられるのは、たぶん、研究する主体と研究する対象とが、適度な距離つまりは客観性を保持していて、その研究成果がすらすらと澱みなく発表されるからなのだろう。

 奄美が奄美を知るということは、そういうことではない。森本眞一郎氏が苛立たしそうに語るのも、児玉永伯氏や弓削政己氏が嬉々として語るのも、捉えにくい奄美の位置や歴史像を見出だそうとすることが、彼ら自身のアイデンティティーの確立と無関係ではないからなのである。そうして今、最大の他者・島尾敏雄を失った奄美には、例えば高橋一郎氏や古仁屋に生きる余所者たちがいて、奄美を見、沖縄を見、日本を見据えている。

 奄美からは、沖縄が、日本が、よく見える。北と南の結節点・奄美は、そこから出発し、そこから発信しつづけるであろう。(『それぞれの奄美論・50』

 「奄美が奄美を知るということは、そういうことではない」。ぼくも、そう思う。別に学問がしたいわけではない。
関わらずには生きていられない。そういう感じなのだ。

 ただ、それがアイデンティティの確立かというと、少し違う気もする。ぼくたちのアイデンティティはそれほど自明ではなく、いつも揺れ動いる。それが常態だ。で、その都度、揺らぎの座りの悪さを通じて自己意識を手にし、アイデンティティの手触りを確かめようとしている。そんな気がする。そして、もっと座りのいい形はないのかと、アイデンティティの編み直しを試みている、というか、あがいているのだ。

「顕ち現れる奄美」関根賢司



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2008/05/12

「主体としての奄美」

 「主体としての奄美」というタイトルは、あの昇曙夢の「奄美人の主体」という日奄同祖論を思い出させる。山下さんは奄美論の系譜のなかに自身の論考を位置づけ、そこからの転移を記しているのだ。昇にあっては奄美人の主体が、生粋の日本人であるかいなかが重要なテーマであったのに対し、山下さんは、奄美自身が主体になることが重要になっているわけだ。

揺曳
 しかしながら、南の島々を通り過ぎていった長い時間の積み重ねを一瞥する時、胸に悲しみが満ちあふれてくる。わが国の南方洋上に点在する島々の中で、奄美諸島ほどその存在感を希薄にしてきた島々はない。たとえば、名越左源太編『南島雑読』には、次のような記載がある。

一、此南島雑話は、琉球並諸島の事を些細に書記為申故、他国之人に一切為見候 事禁止いたし候問、其心得第一之事に候。依人借用無用之事。

 薩摩藩は奄美諸島を直接支配地としながら、これを意図的に秘匿の地とした。このことにより奄美諸島は、波荒き南海洋上にその姿を揺曳させる歴史が長かったのである。(『それぞれの奄美論・50』

 山下さんの「悲しみ」の由来を、ぼくは「二重の疎外とその隠蔽」と捉えてきた。そして考えてみれば当たり前なのだが、名越左源太もそれは委細承知の上で記録していたのだ。名越の『南島雑話』は、悲しみの由来をよく教えてくれるだろうか。早く読んでみたい。

 ところで、「揺曳(ようえい)」を辞書で引くと、「ゆらゆらとたなびくこと」とある。奄美のあいまいな存在の輪郭、そのことだ。

ことば
日本語は、日本本土方言と琉球方言に二大区分されている。そして、奄美諸島のことばは、沖縄諸島のことばとともに琉球方言に属している。その境界はトカラ海峡である。これらの琉球方言について、その源流には日本語という祖語があり、そこから分岐したといわれている。このことが「日琉同祖論」の有力な根拠になった。さらには、これらを根拠に日本への同化政策、皇民化教育が大きく推進される起動力となった。日本語と琉球方言の差は鋭く、対話は不可能だったということである。したがって、琉球方言を排斥し、この地域に日本語を標準語とするという政策が推し進められた。それは奄美や沖縄の人々が日本人になるための第二歩である、という不動の認識があったからである。驚くべきことは、この標準語推進策のために、罰として子供たちに掛けさせた「方言札」が、奄美・沖縄で昭和三十年ごろまで使用されていたことである。

 昭和40年代の半ばには「方言札」はもう無かったが、学校内で方言を使った際の指弾は大真面目にあった。その同じ教室が、いまは方言を教える場になっている。ありうべき教育があるとしたら、それは方言を否定することなしに、方言の上に標準語を教えることだった。それができなかったのが近代のまばゆさのせいだという意味では、日本の他の地域と変わらないが、その否定の度合いが根底的であったのが、奄美・沖縄の特徴だった。

 沖縄出身の研究者、比嘉政夫(国立歴史民俗博物館)の回顧に興味深い記載がある。第二次世界大戦末の昭和十九年(一九四四年)、沖縄から鹿児島県姶良郡横川に家族とともに疎開した時、当時八歳の比嘉が一番驚いたのは、学校で先生と生徒が方言で話していることだという(『沖縄からアジアが見える』)。一見、不思議に思えるこの現象は、奄美の方言追放に性急でありながら、自分たちの方言は日本語であるという頑迷な信念が薩摩にあることの証である。奇妙なことにこのような考え方は今も根強く残っている。

 比嘉さんの体験から約30年後、ぼくにも同じような場面があった。鹿児島市の中学校で入学式からほどない頃だったと思う。いかにも地元の不良少年たち10名ほどに突然、ぐるりを取り囲まれたことがあった。理由は単純。ぼくが着けていた制服がいわゆるガクランで、詰襟は高く制服の内側には真っ赤な薔薇の刺繍が施してあった。全くの世間知らずの母が全くの世間知らずの息子に買い与えた結果で、ぼくもその意味するところを全く解していなかった。詰襟が高く、中学になったら突然、首が回らなくなったのが窮屈に思っていたくらいだった。

 取り囲んだ連中にしてみれば、上級生の手前、遠慮しているが、数年後には着けて羽振りをきかそうと今は我慢を決め込んでいるのに、どこのグループに属しているわけでもない輩が着ているのが許せなかったのだろう。

 ぼくはといえば、取り囲まれたこと以上に何を言われているのかさっぱり分からなかったのに驚いた。いわゆる鹿児島弁である。恫喝されているのだが、意味が分からない。おかげで気持ちに余裕ができたが、その堂々たる方言のしゃべりっぷりが強烈だった。確かに、彼らにとって追放の強度は奄美ほどではなかったのだ。

 昨年末、南日本新聞の「記者の日」で同社の記者が、名瀬で会った高校中退した女子生徒の話を報告している。それは、鹿児島の高校で教員に「あなたは、いつまでも鹿児島のことばにならんね。鹿児島の人になろうというつもりがないんだね」と言われ、許せなかったというのだ。この女子生徒のショックは大きく、やがて学校を中退する。女子生徒は話を続けた。鹿児島に鹿児島の文化、ことばがあるように、奄美には奄美の文化、ことばがある。なぜ奄美の人が鹿児島の人にならないといけないのか、と。(鈴木達三 「違いを認めよう」南日本新聞、一九九一・一一・一〇)。ことばは、人々の生活に根差していて、その文化を規定する。文化の「違い」を認めようとせず排除しようとするこのような姿勢は、何もこの教員に限らず、二十世紀末尾の今日、時折、顕在化するのに驚くほかはない。

 同じことを言われたことはないが、ぼくは鹿児島の言葉を拒否した。アクセントすら身に着けないようにプロテクトした。それは知らず知らずのうちに薩摩への対立感情を抱いていたせいもある。けれどもっと根本的に言えば、自分の出身地で出身地の言葉は禁じられてきたのに、いまさら、さらに土着度の強い言葉を身に着けろと言われても白けるしかない。ぼくには、奄美と鹿児島の違いは、方言に対する自由度の違いとして立ち現れたのだったろう。

 出自
 かつて、沖縄の保守派の指導的立場にあって活躍した西銘順治は、「自分がなろうとしてなれなかったのが日本人だった」という名言を残した。奄美・沖縄を日本と対置した時、日本への同化についての適切な評言となっている。人は、誰であれ、その出自を持っている。奄美人の出自は、明確であり、それは自分の「シマ」である。このシマこそが奄美人の生の原点である。奄美の内部からの視点では、シマの個別的特性をみんながよく知っている。そこには独特のことば、唄、踊りなどがある。自分のシマの個性とともに、隣のシマが違うということもよく知っている。多様性の中の個性の許容が、奄美人の生活の前提条件となっているのである。

 「なろうとしてなれなかったのが日本人」という発言をぼくは痛ましく思う。「なろうと思わなくてもなっているのが日本人」と開き直ればよかったのにと思うが、それは現場を共有していない者のたわごとになってしまうだろう。ただ、その強迫はもう終わっていると言ってしまいたい。高橋孝代さんが沖永良部で行ったアンケートで、約93%の島民が「日本人」という意識を持っているのは、そのことを物語っているのではないだろうか(「アマミンチュ(奄美人)が新鮮」)。
 
 そして仮にそうだとして、次に来る課題は何だろうか。
 ぼくは「多様性の中の個性の許容」と抽象的に言わなくていいと思う。ぼくたちにとって、「奄美人」という言葉はまだ抽象的だ。ぼくならユンヌンチュ(与論人)がそうだが、山下さんが言うように、シマの単位に落として始めてリアリティが出てくる。この島人(シマンチュ)の内実を豊かに表現すること。そうしてはじめて「奄美人」の輪郭が浮かび上がるかどうかが分かるに違いない。

 帰属意識
 従来、奄美人ほど、その帰属意識をあいまいにしてきた人々はいない。それは、ある意味では、異郷において奄美の人々が生き抜くための知恵であったと言えよう。奄美の先学の生の軌跡をたどる時、「日本人」であるための必死の努力と精進が目立ち、同時に自分の生まれたシマへの熱烈な愛着と郷愁が認められる。不思議なことに、この分裂した思想と行動は、何の矛盾もなく奄美の先人たちにも、また私たちにも支配的にある。そして、このような考え方は、たとえば自らの故郷・奄美の後進性を異郷(都市)に在って鋭く指摘し、批判することになる。この場合、あくまでも日本本土が標準になっている。また奄美の側でも、薩摩の侵攻と黒糖収奪が反復して語られ、それでわが事足れりとなってしまう。これらはいずれも、奄美の近代化に一片の懐疑さえももたぬ認識と、性急な日本への同化政策がもたらした「ひずみ」と言えるであろう。

 「奄美の先学」との距離を測るように書けば、ぼくには、「『日本人』であるための努力」が不要になっていて、「自分の生まれたシマへの熱烈な愛着と郷愁」がそのまま残っている。また、奄美の「後進性」の原型を劣性とはみなさず豊かさ、可能性として捉えるので、都市立脚による批判という視点はない。まして日本本土という標準も。「薩摩の侵攻と黒糖収奪」にいたっては、最近ブログに書き始めたくらいで今まで語る相手がいなかった。

 山下さんの言う「ひずみ」は、「日本人になる」という努力が自発的意思という見かけからは遠く隔たった自失の過程に他ならないことを教えている。

 以上。山下さんのエッセイには、こちらにも言葉が次々湧いてくる。それだけ山下さんが、奄美の困難を繊細に言葉にしてきたからだと思う。

「主体としての奄美」山下欣一


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2008/05/11

『それぞれの奄美論・50』

 『それぞれの奄美論・50』は面白い。奄美の人、奄美に想いを寄せる人が、奄美を現在、どう考えているのか。それを知るには格好のテキストだ。ぼくはここで、たくさんの共感する考えに出会ったし、またたくさんの異なる感じ方にも出会った。要は、この本を読む間、奄美というテーマに関して、孤独から解放されるようだった。

 何より、50人の声がこだましているのがいい。知らないだけかもしれないけれど、語られないのが奄美という固定観念があったから、語られることそのものが嬉しいのだ。50人の1人目として南海日々新聞の記者、重村さんは、「『奄美21世紀への序奏』。大げさすぎるテーマとタイトルである」と謙遜している。でもそんなことはない。いいじゃない。奄美にも21世紀はあるし、そこに序奏を置くとしたら、島人や島を想う人が語るにしくはない。

『それぞれの奄美論・50―奄美21世紀への序奏』
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 重村さんは、奄美の人々を次のように書き起こしている。

 奄美(の人々)は、鹿児島と沖縄の間にあって、自らの出自を「ぼかし」、その存在を「付録」として扱われてきた、と書いたのは山下欣一鹿児島国際大学教授(名瀬市出身)である。また、作家の島尾敏雄は、奄美の内なる問題として、「本土で自分の出身地を『奄美です』と率直に言えない」と島びとの心理的屈折を挙げている。山下教授は、こうした心情的環境は今も変わらないのではないかと言う。(『それぞれの奄美論・50』

 重村さんに代わって山下さんに言えば、そんなこともないと思う。ほんの一例だけれど、ぼくは本土で出身地を「与論です」と素直に、というか、意地でも言ってきた。鹿児島です、とは一度も言ったことはない。そういうなら「ぼかし」は反転していて、ぼくの場合、「鹿児島県」をぼかしてきた。

 この例は普遍的だとはちっとも思わないが、ぼかしの箇所が、「与論(奄美)」から「鹿児島」に移っていることは、奄美的課題の変容を物語るとともに、課題は充分には解けていないことも同時に物語っていると思う。

 ぼくもまた、50人の声を頼りに、奄美的課題の現在に肉薄してみたい。

◇◆◇

 ほんの少し、わがままを言えば、こうあったらよかったのにと思う点も二つある。
 ひとつは装丁。もっと明るくすればよかったのに。もちろんよく見ると、これは暗い装丁なのではない。ゴー(井戸)のある洞窟を子どもが外へ出るところを洞窟の奥から写したものだから、奄美らしい自然を使い、また光さす場へ出て行こうとする意図も汲み取れるのだが、第一印象は、強烈な白黒で、暗い強烈な世界が展開されているのではないかという印象を持ってしまった。暗重(くらおも)の得意なぼくにしてもなかなか手に取る気にならなかった。これも多くの感じ方かどうかは分からないけれど、ひとつの印象として。

 もうひとつは、もっと若い人の声も聞きたかった。声を寄せた執筆者を生年で分類するとこんな分布になる。

 1920年代  1人
 1930年代  2人
 1940年代 21人
 1950年代 14人
 1960年代  9人
 1970年代  2人

 2001年というタイミングを考えると、80年代にはさすがに無理があるかもしれないが、少なくとも、60~70年代の声をもっと聞きたかった。そこは奄美の現在と未来を担う声に育っていくわけだから。

 けれどこう書きながら内省もやってくる。奄美について語れる年代が60年代以降はいなくなっているということかもしれない、と。それなら、せっかく語られだした奄美は、急速にまた語られなくなることになるだろうか。

 いやいや変な連想はひとまず置くとして、それぞれの奄美論に入ってゆこう。


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「ほこらしゃ」と「あんまぁ」

 中野の奄美料理「ほこらしゃ」と江東区大島の沖縄やんばる料理「あんまぁ」に続けて行ってきた。

 「ほこらしゃ」は、山川さんと奄美カフェ打ち合わせのあとに。お店はカウンター席でこじんまりとしていたけれど、元気一杯だった。誰かが三線を弾きはじめると店内はたちまちみんなで歌うモードになる。ああ、大島は唄う島なんだなぁと痛く感心した。弾けたらいいなあ、歌えたらいいなあとしきりだった。

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 「あんまぁ」は、その名に惹かれて、与論のぱらじ(親戚)のやかと。
 らっきょうの黒糖漬けの甘酸っぱさが懐かしくてたまらず、勢いづいて食べに食べた。飲む方もオリオンのあとは、オリジナルという泡盛「あんまぁ」を飲みに飲んだ。なにしろ、二人で飲んでボトルをお代わりしてしまった。

 料理も酒も美味しかったからだが、会話も弾んだ。
 途中、お店のうば(おば)が、「あんたどこの人?顔が沖縄面(おきなわじら)だけど」と声をかけられ、与論と答えると、与論は行ったことあるよ、と。与論の人が話しているのがなんとなく分かったよ。ここもパピプペポだと思ってびっくりしたよ。「パピプペポ」というのは、方言に、ぱんかた、ぴちゅ、ぷりむぬなど、P音が多いということ。ぼくも、うばが沖縄に電話しているとき、会話がなんとなく聞き取れたので楽しかった。

 やんばる(山原)と与論はやっぱり近いんだと思った。琉球北部の交流圏ですね。

 やかとの話も弾んだ。今回の話題は、『めがね』。やか(兄)は、「空」だと評する。ぼくは沖縄映画の「過剰」さと比較して、「空虚」(奄美映画としての『めがね』)と考えたばかりだけれど、「空」というと、自我や我執の抜けた感じが出ていい。その通りな描かれ方だったから。マンドリンは与論に合うのは発見だった、とか、もっと突っ込んでいえば人は要らないとか、何も自然を邪魔してないとか、なるほどな『めがね』論だった。

 何もないことを描いていることで、これは間違いなく与論映画なのだが、かつ、琉球弧の自然美を損なうことなく描いているとしたら、これは与論映画であると同時に琉球映画でもある。それだとしたら「過剰」イメージの沖縄映画に対して、その肩の力を抜くように、『めがね』を提示することもできるのかもしれない。そんな連想をした。

 同様にいえば、奄美はアイデンティティが不安定だとよく言われる。そういうぼくも、ひとしきり、奄美人とは何か?奄美のアイデンティティとは何かを、このブログで書いている。ところが、その底の方では、いいじゃない、アイデンティティなんてという思いが湧き上がってくるのをいつも感じる。そしてその声がやってくる先は、自分でもあれば、与論でもある。与論でアイデンティティを問えば、いいんじゃない、そんなに考えなくても、わなーわぬでーる、と、言われそうだ。概念化してしまいそうなところで、アイデンティティを溶解する。それは与論原理だ。そうも思った。

 『めがね』議論なんて、そうそうできるものではないから、実に楽しい夜だった。こんな議論をさせてくれる『めがね』にも感謝。



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2008/05/10

「奄美から見た薩摩と琉球」

 『新薩摩学―薩摩・奄美・琉球』

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 弓削政己さんは、2003年、「奄美から見た薩摩と琉球」と題した講演を行っている。これは、1989年の「奄美から視た薩摩支配下の島嶼群」のリフレインのように、その延長線上まっすぐ先に来るものであり、弓削さんの持続する問題意識の確かな手ごたえを感じることができる。「奄美から視た薩摩支配下の島嶼群」では分かりにくかった箇所も切開されていて、新たな知見ももたらしてくれた。

 弓削さんの整理はこうだ。

 まず、薩摩による奄美の「黒糖上納」の仕組みについて。
 薩摩藩の特産品収入の50%は黒糖だが、奄美の黒糖で35%を占め比重は高い。

 1.薩摩藩は、黒糖を買い上げる
 2.買い上げた黒糖を「米」に換算する
 3.黒糖から換算された米から、税金としての米を差し引く
 4.さらに、砂糖きび生産のための「鉄輪車」や必需品購入のための米を差し引く
 (島人の受け取る米)=(生産した黒糖から換算された米)-(税金としての米)-(必需品購入のための米)

 薩摩は必需品を不等価交換したので、高くなっていた。結局、米は「一般の島民、百姓には渡らない」。

 なんとまあの搾取の構造だが、このなかで例外的な存在だったのが、「郷士格」と呼ばれる人々。「郷士格」は薩摩藩における士身分の存在のことで、奄美における士農分離を生み出す仕組みになっている。奄美の郷士格の発生を追うと、

 1番目 1726年 奄美大島の島人 新田開発の功績
 2番目 1752年 喜界島の島人  「唐通事」(通訳)の功績
 3番目 1761年 徳之島の島人  黒糖生産増産の功績

 こうして始まった郷士格への取り立ての結果、約1世紀後には、42家部(世帯を少し大きくした概念)の郷士格が成立している。

 この奄美の郷士格を薩摩はどう見ていたか、奄美の郷士格はどう振る舞ったか。弓削さんは追っている。
 郷士格は、士身分の呼称だが、1728年に薩摩藩は「皆百姓」という達しを出していて、結局は「百姓」だった。だから、月代(さかやき)、つまり武士のように髪を剃りあげず、格好も奄美の服装のまま。刀の所持も許されなかった。

 ところが明治に入り、士農工商がなくなった際、奄美の郷士格は「百姓」だから「平民」の位置付けになるのだが、奄美の郷士格一族は、県に「士族」としての戸籍編入を嘆願し、1880年にそれが認められる。

 近世期の奄美の郷士格は何を演じたのか。
 1852年、奄美大島の郷士格の一族は、1000人で37000人の人口の2.7%。ところが、薩摩藩からの「詰役人」は、「代官が一人と、横目と呼ばれている検察関係の二人と、付役というのが五名」、計8名と足軽集団。奄美大島の黒糖収奪をするにはたった8名では不可能だが、それを可能にしたのが、島役人と郷士格の存在だったというのが弓削さんの分析だ。

 さらに弓削さんは、明治期に奄美大島の島民は多額の借金を抱え込み、それは「鹿児島商人」によるものだと言われてきたが、調べると、借金の63%は確かに鹿児島の商人なのだが、37%は実は島の郷士格からの借金になっている。島の郷士格の利息は、鹿児島の商品の利息が45%なのに対し、30%で低いが(比較したらという意味で、基本的にはどちらもべらぼうに高い)、借金返済ができない場合は土地を取り上げて土地集積を図っている。要するに、ひどいことしたのは、鹿児島商人だけじゃなく、島人なんだよというのが、弓削さんの言いたいところだと思う。

 弓削さんが追求している2つ目のポイントは、「一字姓」のこと。これは、元ちとせや中孝介のように、奄美に多い一字姓はどういう由来で起こったかということだ。

 もともとは、「皆百姓」だから、姓を持つ者はいなかったのだが、郷士格という存在が生まれるようになって、姓を与えることになった。このとき、「奄美は琉球の内」という隠蔽策を薩摩は敷いていたから、名前においても「琉球の内」であることを見せなければならない。沖縄では沖縄の名前の他に、唐名という一字姓の名を持って対応している。そこで、奄美の場合は、直接、唐名に対応するように一字姓にした。

 そういう点から言いますと、藩全体での郷士格の取り立てをしながらも、奄美の直接支配を隠蔽して、東アジアの交易を確保するという政策、意図の中から、東アジア全体に共通する一字姓を選ばせる。このように、奄美を検討する場合の聖の視点として、冊封体制との関係で把握する必要があり、そのことが奄美の表れ方の一つだと思っております。(『新薩摩学―薩摩・奄美・琉球』

 弓削さんは講演のなかでは言及していないが、他の場所での発言などを合わせると、冊封体制への対応が一字姓の根拠という指摘を行うのは、従来、一字姓が薩摩による差別の現われとして説明がなされてきたことへの反論の意を含んでいるのだと思う。

 もうひとつ、弓削さんが追求しているポイントはある。奄美に対し、琉球と薩摩合意のもと、奄美に不利な政策を行うこともあったという点だ。例のひとつにウコンが挙げられている。奄美大島や沖永良部島でもウコンの栽培をしていたのだが、それらが大阪市場へ流れていくと、琉球のウコンの値段が下がる。「そういう中で、王府と鹿児島藩との利害の一致だろうと思いますけれども」、奄美に「ウコン栽培を禁止」させたということ。

◇◆◇

 弓削さんは、この講演で、「こういうことがある」という指摘にとどめて、その背景や、だからこう言えるという仮説に消極的になので、他の場所の発言を合わせて弓削さんの意を汲み取ってみる。

 ・薩摩の黒糖収奪は激しかったが、その収奪を現地で担ったのは、島人出身の郷士格、島役人だった。
 ・一字姓は、薩摩の差別感情のたまものと言われてきたが、実際には冊封体制に対応したものだ。
 ・奄美と琉球との同胞意識がいざというときに出てくるが、実際、琉球は、必ずしも奄美を身内と捉えてきたわけではない。

 「奄美から見た薩摩と琉球」は、奄美復帰50周年を記念して鹿児島で行われているのだが、弓削さんの講演を追ってくると、実際にはこれは、奄美の人向けに語られているように見える。奄美の人に、少し冷静になって物事を見つめよう。そう言っている気がする。

 ぼくたちは弓削さんの資料を丹念にたどり、史実を浮かび上がらせる作業から多くを学ぶことができる。その先で、弓削さんの発言をどう受け止めるか、考えなければならない。

 たとえば、被支配者は支配者から支配の仕方を学ぶ。だから、被支配者が支配者になると、もとの支配者以上に強度の支配をしがちであるということは、よく見られる現象だ。奄美の島役人、郷士格もそのご他聞に漏れない。その情けなさも止む無さも、ぼくたちにとって他人事ではない。それは行政や資本の意思としていまも引き継がれていると言ってもいいくらいだ。

 一字姓について、冊封体制に対応したものという指摘自体が重要だ。それは、二重の疎外の隠蔽の強制の象徴的な例だと分かるからだ。また、琉球が、琉球の利益のために奄美を不利益を優先することがあるのは、政治的共同体としていずれそんなものだと思う。それと、奄美と琉球の島人の感情としての同朋意識は分けて考える必要があると思える。

 ぼくは弓削さんの指摘はごもっとも思うだけなのだが、しかしそれは奄美の既存の歴史観を知らないから言えることで、こうした史実の指摘自体が、まだ貴重な段階にあるのかもしれない。現に、弓削さんはこの講演のあとのパネルディスカッションで「私の考えはまだ市民権を得るという段階まではいっていなくて」と発言している。

 ぼくの問題意識は、奄美の島人の困難の固有性を浮かび上がらせることだ。だから、郷士格の存在にしても、一字姓にしても、政治的共同体としての琉球の振る舞いにしても、奄美の困難がどんな構造を持っているのかを明らかにする点で関心を持つ。

 たとえば、昨年のパネルディスカッションで弓削さんはこう発言している。

奄美の歴史をどう把握するかという点で、学生時代、後輩に「奄美の歴史は鹿児島藩(通称薩摩藩)による砂糖収奪で、大変島民は苦しんだ」と発言したら,弓削さん、大阪出身の学生は、「大坂だって大塩平八郎の乱にみられるように大変だったのよ」と反論された。
 それに対して、何もいえなかったことを覚えている。それは、百姓・町民、いわば「民衆」と把握される人々の収奪される側面という点では、どこの地域でも存在する「収奪された・差別された」という点での「競い合い」では、科学的な歴史認識・意識を獲得できないことを示していると言えよう。これが宿題であった。(「6.30奄美/発表内容」

 ぼくにも同じような場面はあった。ただ、そこから受け取る「宿題」の中身は、弓削さんとは違っている。
 ぼくは、鹿児島の人に言われた。鹿児島も大変だったので奄美は特別じゃない、と。簡単に言ってくれるじゃないのと思ったが、十代のぼくに返す言葉は貧困だった。「同じだった」と言える側面があるのは確かだとしても、そう言えるまでに多くのことが捨象されていて、また思想としての薩摩は自己吟味に晒されることなく延命する度し難い頑迷さが強烈だった。ぼくはそこから、それなら奄美の困難の固有性とは何だろうと考えてきた。それが他愛のないものであれ例を見ないものであれ、固有の構造がつかめれば、その解除ができるだろう。そしてそれとともに、他者に伝え比較可能なものにすることができると思ってきたからだ。そこが、弓削さんの問題意識との分岐点なのかもしれない。



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2008/05/09

『奄美の人と文学』

 この四月に発売された『奄美の人と文学』を読んだ。奄美の現在の文学を読みたいと思ったからだが、ここに収められているのは、2006年が最新で、なかには半世紀前、1954年の作品もあり、ちょっと当てが外れた。しかも、構成は茂山忠茂の四篇の小説と秋元有子の四篇の評論をドッキングさせた変わったつくりになっている。でも、いいじゃないか。奄美の作品に触れることができる。そう思って読んだ。

  『奄美の人と文学』
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 読んでみると、茂山さんの小説作品はイデオロギーの吸引力が強かった。イデオロギーの枠を越えて、あわよくば食い破って読み手を連れ去ってくれる力を感じることができなかった。その分、夢中になりにくかったのは確かだ。ただ、残念ながら作品に没頭することはなかったけれど、茂山さんは徳之島の出身。 

 日が西にしずむころ、やっと仕事を終えると、砂糖小屋にひきあげます。ときはなされた牛たちが、ゆったりと小屋のそばで草を食べています。
 「さた、あちゃしたーめ (砂糖はあしたでいいか)。」
 と、おじさんがわたしにききました。わたしは、あわてて、
 「あい、きゆうむちいき (いいえ、きょう持って帰ります)。」
 「おそくなりだ (おそくなるぞ)。」
 と、おじさんがいいましたが、わたしは待つことにしました。
 『奄美の人と文学』

 こういう方言が加わる箇所は、与論言葉(ゆんぬふとぅば)の延長で分かり、作品世界に自然に入っていくことができる。考えてみれば、これは奄美(琉球弧)出身者ならではの奄美(琉球弧)の作品の楽しみ方かもしれない。そういえば、島尾ミホの『海辺の生と死』で、那覇芝居を楽しむ加計呂麻島(大島?)の島人たちが描かれていたけれど、あれも「言葉が分かる」のを頼みにした楽しみだったわけだ。

 もうひとつ。無理なく入り込めたのは、黒砂糖という、ならではの素材と少年期の普遍性が混ざった場面だった。主人公が、ガキ大将のかつあげのためにやっとの思いで手にした黒砂糖を渡そうとするところ。

 ふところの砂糖はなぜか重く感じられて、わたしは、つよしにそれをわたすのを少しためらいました。わたしは、砂糖のかたまりに手をかけました。砂糖は、わたしの小さな手からはみでるほどの大きなものでした。とくに、紙からはみだした部分の、あのざらざらした生の砂糖のはだざわりが、ずしんと身にしみました。わたしは、しばらくそれをじいっとにぎりしめていました。すると、きのうとゆうべの、あの苦しみが、わたしの頭にあざやかにょみがえり、わたしの胸はきゆうにあっくなってきました。その胸のあっさが、「くつ」とのどもとにつきあがってきたとき、わたしは小さなからだごと、火の玉のようないきおいで、つよしにとびかかっていました。つよしは、ふいをつかれて、その場にしりもちをつきました。きゆうにつよしがこわくなったわたしは、砂糖をほうりなげると、わっと泣きだしてしまいました。

 みんながおどろいて、わたしの顔をのぞきこんでいると、つよしは、なにやらぶつぶついいながら、石をさがしてきて、砂糖をわりにかかりました。まわりの者たちは、泣いているわたしにかまぅのをやめて、つよしのまわりにあつまりました。

 みんなは、つばをのみこみながら、つよしのすることをみていました。つよしは、まずいちばん大きいかけらを日にほうりこみました。そして、小さいかけらを、ひきつれていた子どもたちにわけてやりました。砂糖をもらった子どもたちのほっぺは、じゅんじゅんにふくらんでいきました。

 わたしは、きゅうに軽くなったふところにこぼれている砂糖のつぶを、指先でつまんで口に入れました。涙とあせであましょつぱくなったきみょうな砂糖の味が、口の中にじわじわつとひろがっていきました。
『奄美の人と文学』

 黒砂糖はご馳走だった。そんな感覚はぼくにも残っている。叔父が小さい頃、家の瓶に蓄えてある黒砂糖をこっそり食べ続けて空にしてしまった話を聞いたこともある。1927年生まれの茂山さんの世代にとっては、なおのこと格別だったろう。ガキ大将つよしが黒砂糖をほおばり、他の子たちの頬が順々にふくらむとき、いま食べる黒砂糖ではなくて、子どもの頃ほおばった黒砂糖の味が蘇ってきた。あの頃、黒砂糖はこの世ならざるものをもたらしてくれるように美味しかった。あれにはハーゲンダッツだって敵わない。

 黒砂糖以上に素材として出てくるのは「砂糖車(さたぐんま)」だが、秋元さんも正確に指摘しているように、「砂糖車(さたぐんま)」は茂山さんのキーワードだった。島を離れて長い茂山さんは「砂糖車(さたぐんま)」という風物に、それが原風景であるかのように吸引されていく。その切実さが響いてきた。

◇◆◇

 秋元さんの評論には、「島尾敏雄と田中一村」があった。同時代を奄美に過ごしながら接点の知られていない二人の軌跡を追ったものだ。ぼくも、この二人、大島のどこかで出会わなかったのかと想像したことがあるので、関心を持った。 

 秋元さんは整理している。

 1.人生の途中で起こった障害のため追いつめられたかたちで奄美へ移ってきた。
 2.ほとんど重なる時期に約二十年の歳月を奄美で暮らした。
 3.奄美で暮らすことによってその障害を克服した。すなわち、島尾の場合は妻の心の病を治癒し、一村の場合は奄美の自然と動植物の中に新しい画材を得た。いい換えれば、ともに島の持つ特有のものによって活路を開いたのである。
 4.奄美在住中にそれぞれの創造活動の峰を築いた。
 5.奄美での二人の仕事の結晶が、その後それぞれの分野で全国的な反響を呼んできた。
 6.六十九歳で他界した。
などのことが改めて浮き上がってきたと思う。

 「克服」が二人の道行きを言うのにふさわしい言葉かどうか分からない。けれど、こう整理されてみると、確かに共通点が多いのに気づかされる。で、秋元さんも、「しかし奄美での二人の接点がみつかっていないのは残念である。」と書くのだが、改めて立ち止ってみると、多くの共通点にもかかわらず、二人の共演は考えにくい気がする。二人とも奄美に魅せられている。けれど、魅せられる二人の動機は遠く隔たっていて交点を持たなかったと思える。できれば、その交点の無さをあぶりだす掘り下げがほしかった。


 『奄美の人と文学』を読み、奄美はもっと書かれもっと歌われもっと描かれなければならない、と思った。奄美を掘れ奄美を掘れ、と。それが奄美づくりだ、と。



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2008/05/08

『近世奄美の支配と社会』のあとがきの与論島

 松下さんの『近世奄美の支配と社会』が届いて、この本を買って良かったとすぐに思いました。アマゾン経由だったので立ち読みしてなかったのですが、していればそれが決め手になったいたでしょう。それは「あとがき」ありました。なんとそこには、『近世奄美の支配と社会』の本文の中では、ご他聞に漏れず滅多に登場することのない与論島のことが、書かれてあったのです。

 奄美の海と空は美しい。深夜沖合いに停船した本船から艀に乗り移って与論島に上陸したことがある。一九六一年のことである。月のない夜空は半天宝石箱をひっくりかえしたように星だらけで手を伸ばせば届きそうな感じだった。私は夜空にそうするかわりに、艀のともで波に掌を浸した。へさきでは海中の夜光虫が二つに割れて金色のしぶきをあげる、たとえようもない情景であった。

翌朝島内に二軒しかない平屋の旅館で目覚めたとき、私は愕然とした。波に浮き沈みするのではないかと思われるくらいの薄い島空間しかない草茸の平屋が点々とへばりついている。私には前夜の美しい情景が夢のように思われた。塩っからい飲み水と粘り気のない御飯、それに具の入っていない味噌汁と四、五センチくらいの小魚二、三匹という食事が二週間続いた。上陸した翌日より私は台風に閉じ込められたのである。私は心中自分の不運と、島の生活に対する行政の怠慢とを呪ったが、同時に自己嫌悪の念をおさえることができなかった。私は旅行者である、二週間ほどで島を退散して奄美の一番賑やかな名瀬市に戻り、また平穏な高校教師の生活を送る身である、その事実が言いようのない恥ずかしさを覚えさせた。
『近世奄美の支配と社会』松下志朗

 ぼくが生まれる少し前の光景です。「草茸の平屋」がぽつぽつとある島の眺めを松下さんが描いてくれたことに感謝します。記述に登場することが稀な島だから、貴重な描写です。それに思うのだけれど、松下さんは自己嫌悪に陥る必要など何もない。島には島の生活がありそれは奄美の大都市、名瀬と落差があるにしても、一個人が倫理的に受け止める必要などないことです。それより、こうして記述することが、どれだけ島に寄与するか分かりません。

 「あとがき」の与論島は、『近世奄美の支配と社会』の付録のようなものです。松下さんは付録として与論島をつけてくれたわけです。ところで奄美を「付録」と見なす視線からすれば、与論島は付録中の付録です。その付録中の付録が、本の付録のなかで「奄美の海と空は美しい」という奄美美(あまみび)の引き合いとして引かれるとき、本のなかでの付録的扱いが吹き飛ぶくらい与論島が輝くのを感じます。付録って捨てたものじゃない。そう、松下さんは思わせてくれます。というか、付録って捨てられないですよね。

二週間の間、私は島内を歩き廻あり、郷土史家の増尾国恵氏を訪ねた。なかば朽ちはてようとしている陋屋から、ひとり暮しの老人があらわれ、熟をこめて与論島の歴史を物語られる。私はその島口を理解できないまま呆然としていた。

 その後、私が入手した増尾国恵著述『与論島郷土史』に、増尾氏の履歴書が付されている。それによると、増尾氏は明治十六年二月に生まれ、明治三十四年尋常小学校補習科を卒業後、戸長役場の小便に任用されたのを皮切りに、明治三十六年より同三十九年までの軍隊生活の時期を除き、あとは生涯与論島から外へ出られることはなかった。そして村会議員・農業調査員などを歴任されて、島の発展のために尽されている。『与論島郷土史』は、そのような実務の合間に乏しい資料を渉猟されての著述である。「わが与論島同胞が歴史上多くの貴重なものを有しながら、全然それを知らうともしない無関心な態度に鑑みて多数同胞の認識を高めることに努め、一方過去において薩藩や商人に圧迫された悲惨の思ひから潜在意識にまでなってゐた暗い心理から島民を解放して、明るい希望の生活に向け直した由来を闡明にした」と序文で述べられているが、それが狭い島内でどのように読まれるか覚悟しての言葉であろう。(『近世奄美の支配と社会』松下志朗

 増尾国恵著の『与論島郷土史』は大切な資料です。けれど、そこに昇曙夢の「奄美人の主体」をそのまま引いて、何がなんでも天孫族と自分たちを結び付けようとしているのを見ると、同じ島の出身者としては、厳しい目にならざるをえないところがあります。でも松下さんの描写が増尾さんを彷彿とさせてくれて、この老人の孤独に思い至り、自分の態度を反省しました。

 ここでは高校の講師である松下さんを前に、話し相手ができたとばかりに、与論言葉(ゆんぬふとぅば)だろうが何だろうが、構わず必死になって語りかける増尾さんの姿が浮かび上がってきます。これも、松下さんが書いてくれなければ、ぼくたちは手にすることのできなかった島の歴史のひとこまなのです。

 「与論で自分たちのルーツを考える人なんていないですよ。変り者だと思われます」と、与論島の郷土研究家に言われたことがあります。松下さんが増尾さんの記述に見つけた「全然それを知らうともしない無関心な態度」は今も変わらないのだと思います。けれどそれは是非を言うべきではない島人の原像としてあるものです。

 この手のことは、たまたま関心を持った者が記述し語り継いでいくしかありません。それが聞く者にとって魅力的であれば、無関心な心も開かれるはずです。それは関心を持った人のやり甲斐ではないでしょうか。『近世奄美の支配と社会』を読み、ぼくは近世期奄美への関心を喚起されました。松下さんに感謝する所以です。



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西泊喜則さんの『心の響き』

 たまたまブログに出会ったのですが、与那国島の西泊喜則さんが『心の響き』というアルバムを出しています。

 ★ファーストアルバム紹介(心の響き)

 ファーストアルバムなんですね。

 あれ、と思ったのは、11曲目と13曲目。

 11.与論献奉
 13.ヒヤルガヘイ ゆんぬ

 と、2曲は、与論つながりの作品です。嬉しいじゃないですか。

 西泊さん、与論にいらしたことがあるんでしょうね。お顔も馴染みのある顔つきといいましょうか。(^^)



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2008/05/07

徳之島の抵抗力

 このような惨憺たる状況のなかで、文化十三年(一八一六)母間騒動が起こった。
 井之川噯の母間村百姓は隣村の轟木村に二〇五石ほどの土地を入作にして耕作しており、その出米賦課について、同年五月強訴に及んだのが騒動の発端である。そこで仮屋の詰役は首謀者である旧掟役の喜玖山を一室に監禁したところ、母間村の百姓六三〇人余が六月九日鉄砲・竹槍・魚突などで武装して、喜玖山のとじこめられた「格護所」を打ちこわし、村へ連れ帰ったのである。そして喜玖山と菩佐知・喜久澄そのほか一二人が板附船に乗りこんで十日夜出帆し、鹿児島の藩庁へ訴え出たが、いずれも入牢させられている。そうして惣横目富屋に鹿児島への出頭を命じ事の次第を説明させているが、富屋は首尾よくその勤めを果し褒賞をうけた上で帰島している。

 この騒動は、結局文政二年(一八一九)、母間村から無手形で鹿児島に渡海した一二人のうち、喜玖盛・富里その他四人の者が許されて帰島し、富奥は鹿児島で病死して、残り五人が文政三年七島へ遠島処分となることで決着をみた。文政二年夏には、文化十三年(一八一六)の越訴の際事情聴取のために呼び出された宙屋が上国与人として鹿児島へ渡っており、その富屋あたりの工作もなされたのかもしれないが、藩庁としては寛大な措置をとっている。おそらく厳罰に処することは、徳之島に騒動を一段と激化させることを怖れたからでもあろうか。
『近世奄美の支配と社会』(松下志朗)

 「惨憺たる状況」というのは、母間騒動の2年前の台風がすさまじく、「死者八人、死牛馬三疋、流失家屋一七九軒、倒壊家屋七八六軒、流失・破損の操船・板附船三三艘」という被害を生じたこと。しかもそれだけでなく、次の年には疱瘡が流行して、「島民九六七ニ人が羅病し、そのうち一八九一人が死亡した」災害を指しています。書き写すだけでもため息が出てきますが、これだけの規模ならまるで島の滅亡のように感じてもおかしくなかったはずです。騒動は、その次の年に起こったのでした。

 この母間騒動の記述を読むと、徳之島はさすがだなあと思う。闘っている。そんな言葉が似合うのは奄美のなかでも徳之島が一番ではないでしょうか。他の島が闘っていないわけではありませんが、闘う姿が文字通りそれとして想起できるのが徳之島です。

 同胞を監禁場所から連れ帰り、そのまま出奔し七島灘を越え薩摩の藩庁に訴えるあたりは、闘う姿そのものです。ただ、藩庁に訴える行為の素朴さ、人の良さは、グラデーションなしに奄美の共通性ではないかと思えます。

 徳之島の原動力は何だろう。こう問うてみると、松山光秀さんの言葉を思い出します。徳之島の2つの特徴を追認して、松山さんは書いています。
 

 まず最初に示されたポイントが、スリ鉢の底に沈澱するような古い文化のたまり場としての特徴であり、次に示されているのが、南からすごい勢いで押し寄せてきた琉球文化と、北から同じように南下してきたヤマト(日本本土)文化をしっかりと両手で受け止め、生のままでは上陸させることのなかった徳之島文化のしたたかさについてである。特に私は後者に触発された。言葉をかえていえば、徳之島は南の文化と北の文化の流れの接点をなしているということであるが、この相反する南と北の力は互いにぶつかり合って渦をつくり、それがそのままスリ鉢の深い底に沈澱していったのではなかろうか。
『徳之島の民俗〈1〉シマのこころ』(松山光秀)

 「南からすごい勢いで押し寄せてきた琉球文化と、北から同じように南下してきたヤマト(日本本土)文化をしっかりと両手で受け止め、生のままでは上陸させることのなかった徳之島文化のしたたかさ」という箇所に徳之島らしさは現れています。ここでの文脈に置き換えれば、徳之島は、大島のように北の文化の強力の前に南の文化が屈することもなく、また与論のように北の文化の波が希薄だったわけでもなく、南と北が拮抗しあった。そういうポジションが徳之島だった。この、拮抗に、徳之島の原動力はあるのかもしれません。

 母間騒動から約半世紀後、犬田布騒動が起こります。これは拷問を受けた島人を救出すべく島の150人が起こした暴動です。徳之島の抵抗力は脈々としていました。



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2008/05/06

奄美映画としての『めがね』

空虚と過剰

 映画『めがね』を奄美映画として受け取ることはできるだろうか。無論、この映画は奄美映画として企図されているわけではない。監督の荻上直子もそんなこと思いもしていないだろう。『めがね』は与論映画だと言うことはできる。けれどこれとて荻上がそう呼んでいるのではなく、観る側の批評の自由としてそう言うに過ぎない。むしろ作者は、調べようと思えば、舞台は与論島だと分かるが、積極的にそのことを語らないようにしていた。それでもこれが与論映画だと言えるのは、与論島の自然にある意味で全面的に依拠した作品だったことが挙げられるが、それ以上に、与論らしい事物はほとんど使われていないにもかかわらず、与論らしさが滲んだ作品だった。ぼくたちはそうであればこそ、この映画を与論映画と位置づけてみたくなるのだ。

 ただ、ぼくがここで考えたいのは、この映画は与論映画だとして、それだけでなくその延長に、『めがね』を奄美映画として受け取ることはできないかということだ。それはつまり、『めがね』で描かれていた与論らしさを、奄美らしさとして敷衍することもできるのではないかという問題意識である。

 与論らしさを奄美らしさにつなげるのは、「空虚」だ。たとえば、『めがね』では主人公が、観光地を探そうとすると、宿の主は、質問に戸惑った後、ここにはそんなものはありませんよ、と答える。ここは、何もない場所なのだ。もちろん与論島は島自体が観光地として謳われているし、観光する場所もないわけではない。ただ、映画のなかでは、何もない場所として設定されるのだが、結果的にはそれが与論らしさとして与論を知る者には受け取られた。「空虚」を媒介にして『めがね』は与論とつながるのである。

 そして、「空虚」という言葉はある意味で、奄美らしさを表現してきた。「付録」や「ぼかし」(山下欣一)は、奄美を言い当てるのに欠かせないキーワードだったが、この先に奄美が怖れたのは要するに「空虚」ではないかということだった。「自分を無価値のように感じてきた」と島尾敏雄は島人の心理を代弁したが、ここでいう「無価値」が、奄美の怖れを雄弁に物語っている。何もないということ。だが仮にきわめてネガティブな文脈でしか語られたことがなくても、近世以降、そして近代以降には顕著に、「空虚」は奄美らしさの謂いになってきたのである。ぼくたちにはそれを逆手に取る自由だってあるのだ。また、「この世界のどこかにある南の海辺」という設定は、与論もそうだが、「付録」や「ぼかし」として非在化してきた奄美にこそふさわしいのではないだろうか。

 このことは一方で、沖縄映画と比べると、ポジションがより明瞭になるかもしれない。ぼくたちは沖縄映画と言った途端、そこにトロピカルやリゾートや方言やアメリカや基地や戦争や平和といった夥しいイメージや言葉が喚起されるのに気づく。そしてそれは、奄美映画と言ったときに、その言葉が新鮮でありこそすれ、そこから想起されるイメージが何もないのとは対照的というか対極的である。沖縄映画には持て余すほどに「過剰」なイメージがあるとすれば、「空虚」は奄美映画の持ち分なのである。

メタフィクション

 多くを見聞していないのだけれど、奄美映画としての『めがね』を考えるときに参照するのは、たとえば高嶺剛監督の映画『ウンタマギルー』だ。『ウンタマギルー』も、映画を製作するに当たって、沖縄映画にまつわる過剰なイメージを前提としているし、荻上が奄美映画という言葉を想起することもなかっただろうのとは全く逆に、高嶺は過剰な沖縄イメージを強く自覚している。むしろ、その過剰なイメージをどう処理するのかに応えること自体が映画の意味になっているくらいである。

 思い出せば、映画『ウンタマギルー』では、アメリカ、基地、復帰問題、三線、砂糖きび、泡盛、キジムナー、方言といった沖縄的事象がふんだんに盛り込まれていた。過剰なイメージを映画の素材にしているのである。しかし、その素材はどう扱われているかといえば、たとえばキジムナーは、樹木の精霊であるという描かれ方は由緒正しいのだが、大人の男性として登場するあたり、どちらかといえば、子どものほうが合っているので違和感を持つように、これが事実であるという出し方をしていない。方言は琉球の方言なのだが、実際に使われていた以上に、台詞を全て方言化しているのが感じられる。もっとも、耳を澄ますようにしなくても、麻薬のように淫豚草が出てきたり、アメリカの高等弁務官が豚と血液交換をしたり、ウンタマギルーは空を飛ぶところになるとさすがにこれはフィクションだと分かるし、これはフィクションだとあらかじめ分かることのほうが多い。けれど、事実と架空をないまぜにして、というより、事実として受け止められているかもしれない事象を使いながら架空化していくことによって、現実なのか架空なのかがよく分からなくなってくる。現実の重力場を失っていない架空というか、ぼくたちはフィクションだと思いながらも、ではどこまでが現実かを言い当てようとすると覚束ない。そんな映像なのだ。

 映画『めがね』には、使うにしても闘うにしても、その前提となるようなイメージは何もない。では、荻上は、島の自然と事物を淡々と描いたかといえばそうではない。肌理の細やかな真っ白い砂浜と汀に寄せるさざ波と潮風と砂糖きび畑などは、島の自然に全面的に依拠していたが、携帯電話が通じなかったり、メルシー体操という架空の体操を踊ったり、物々交換をしていたりと、事実ではない要素が盛り込まれていた(もっとも島の習慣としての物々交換はあるけれど)。

 映画『めがね』でも架空化という手続きを踏むのだが、それはこんな場所があったらいいという観る者の願望に添って編み上げられていた。一方、映画『ウンタマギルー』では、観る者は居心地悪く、不安になるように架空化が施されていた。『ウンタマギルー』が「過剰」を架空化して不安にさせるとすれば、『めがね』は「空虚」を架空化して願望を喚起させていた。

「たそがれ」と「オキナワン・チルダイ」

 そのような手続きを踏むことによって作者が描きたかったものは何か。それは、映画『ウンタマギルー』では、琉球の聖なるけだるさ、オキナワン・チルダイだった。オキナワン・チルダイは、柔道の巴投げが、挑みかかる相手の力と体重をこちらの力に換えるように、沖縄に抱く観る者の過剰な先入観の力をむしろ借りて、その信憑を現実か架空か分からないところへ宙吊りにして不安定化した上で、すっと、これがオキナワなのだよと全く思いもしないイメージを差し出してくる。それは言ってみれば、運玉森の地霊のもと、人間と動物、植物の境が無くなり、それらが同一化する世界だ。そこでは、豚は人間であり、親方はニライカナイの神からヤンバルクイナになることを命じられたり、キジムナーと語らうことはできたりする。ぼくたちは過剰なイメージが架空化され映画世界にのめりこむところで、“チルダイ”、けだるさのイメージを手渡されるのだ。

 映画『めがね』で、『ウンタマギルー』のオキナワン・チルダイのような主題に当たるものは、「たそがれ」だった。さざ波や潮風や夕陽などの自然の時間の流れとシンクロすることで人が空間に溶け込むことだった。あるいはその憧れや予感の前に佇むことだった。『ウンタマギルー』が自然と分離しない時間を描こうとしていたとすれば、『めがね』は自然と分離しない空間を描こうとしていた、と言えるのかもしれない。ただ、荻上は架空のあらまほしき世界を描こうとしたのではない。与論島から感受されるものを描こうとすれば、携帯電話が通じないなど、空虚をさらに空虚化するように架空化して、自然とシンクロしやすくさせたのだと思える。

ただの人

 映画『ウンタマギルー』は「過剰」を前提にしている。だから、方言も過剰に使われるし、沖縄の俳優も現れて、現実と架空を弄んでいる。一方の『めがね』は、「空虚」が前提だから、それを徹底するように、方言は登場しない。子どもたち以外、島の人もほとんど登場しない。本土の著名な俳優さんだけが登場する。

 こんなコントラストを両映画は描くのだが、「オキナワン・チルダイ」と「たそがれ」はどこかで接点を持っている。「たそがれ」は「チルダイ」を感受するための状態であるというような関係が両者にはある。それは一通りには、『ウンタマギルー』は高嶺剛という沖縄の出身者が内在的に沖縄を描こうとしているのに対し、『めがね』は旅行者の荻上直子が、旅で感受した与論(奄美)を描こうとしたという差である。

 ただ、その差は初期条件のようなもので、両映画の響きはどこかでシンクロする気がするのだ。映画『ウンタマギルー』は、オキナワン・チルダイこそは沖縄であると言っている。映画のラスト、ウンタマギルーは頭に矢を刺されたままイノー(礁湖)を彷徨うように、沖縄(人)はオキナワン・チルダイを無くし苦悩している姿が描かれるけれど、それこそは沖縄を沖縄たらしめてきたというイメージはしっかり伝わってくる。

 ところでオキナワン・チルダイとは、動物と植物と人間、精霊が等価であるような世界だ。それなら、そこでいう沖縄とは何だろう。そこまでいけば、実はそれは普遍的な概念で、沖縄は固有の差異を主張するよりは人類的な母胎に溶けてしまう。そこで仮に沖縄人とは何かとアイデンティティを問おうとすれば、むしろ、いや何者でもない。ただの人なのだという回答がやってくる気がする。

 止まったような時間のなかで、携帯も通じず、ということは、自分が役割のなかに固定化されることもなく、やがて自然と同一化する『めがね』の世界も、同じような場所にあるのではないだろうか。そこで、アイデンティティを問おうとしても、そんなことはいいじゃないですか、と登場人物に返されそうである。ここでも、人は、ただの人です、と答えるのではないだろうか。

 過剰と空虚。沖縄と奄美はこのように対極的なのだが、こうしたコントラストのなかで与論映画としての『めがね』を位置づけてみると、「空虚」、何もなさを媒介に、人をただの人に誘うという意味で、それは奄美も同じである。ここからぼくたちは、『めがね』を奄美映画として位置づけることもできるのではないだろうか。

 旅人が描いた奄美映画である『めがね』を頼りに、では奄美人として奄美人とは何かを問うてみよう。すると、琉球がやってくれば琉球人になる、もうそうではないと言われればそうではないとみなす、日本人になれと言われれば日本人になる。それはただの人という基底がありありとあるからできるのだ。そう奄美人は答えるのではないだろうか。



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2008/05/05

記憶の収奪

 薩摩が奄美に、所有する文書の提出を命じたのは、侵略から1世紀後のことでした。

 ところで道之島に対する支配は、宝永期に入ると一段と強化された。まず宝永三年(一七〇六)大島代官川上孫左衛門宛ての達書(「大島要文集」)によると、道之島の旧家より所蔵する系図・文書・旧記頬を提出させた。もし持ち合わせながら提出を怠った場合、以後それらの系図・文書類を家の由緒の証拠として認めないという厳しい措置で臨み、また正文・写ともに徴収している。さらには系図・文書類を所持しない者でも由緒や家伝のある場合は、それらを書き付けて提出するように命じている。『鹿児島県史』によると、すでに元禄五年(一六九二)伊地知重張が文書探訪のため徳之島に渡り、同地に残したことを記しているが、それらの徴収された系図・文書塀が伝承されているように記録奉行の手で焼き捨てられたかどうかははっきりしない。しかしいずれにしても道之島の旧家に伝来する史料が少ないことは事実であり、そこに薩摩藩政担当者の道之島に対するひとつの志向をうかがうことはできる。『近世奄美の支配と社会』(松下志朗)

 1世紀経っていたのは、政治的共同体としての琉球と断絶した後も、ユカリッチュ(旧家)が琉球とのつながりを存在根拠にし続けるので、それが薩摩の支配体制と矛盾していると徐々に感じられてきたということかもしれません。

 「正文・写」ともに徴収ということ、また、文書が無くても由緒がある場合は、それを書き付けた上で徴収ということ。これらは琉球とのつながりを断ち切るためになされた支配者の行為だったろう。けれどぼくは、それが記憶の収奪だった点で、奄美に深刻な影響を及ぼしたと思う。琉球とのつながりが見えなくなったということが現在にまで及ぼしている影響ももちろんあります。けれど、その由緒はいくらか遡れば神話世界や政治権力に仮託したフィクションにつながるもので、必ずしも事実の消去を意味しません。むしろ、事実であれフィクションであれ、奄美の島人が自分たちの手で過去を検証し現在と未来を編み直する術をなくしたということが本質的な被害なのだと思えます。

 文書を提出したのはいずれ奄美の富裕層であったでしょう。そういう意味では、文字を持たない衆庶には関係がありません。衆庶は、没収されるものを持ちませんが、その確かな口承の力で島の記憶を途絶えさせることなく伝えていきました。だから、決定的な打撃を受けているわけではありません。口承があれば島は島であり続けられました。

 ただ、当時の富裕層は、島の権力層でもあれば知識層でもありました。彼らが記憶を失ったことで骨抜きにされ、文字としての抵抗を生むこともできなかったのも確かだと思えます。その情けなさの原因は、ひとえに文書の徴収に帰することはできませんが、島の知識層はそれだけ虚弱だったのではないでしょうか。また、徴収する側も、観念的行為の軽視もはなはだしいの実際的武断のお国柄でした。



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2008/05/04

イューガマ・ヒット

 どうにも島の味が恋しくて、ゆうべは久しぶりに「よろんの里」へお邪魔した。
 パンダマとイューガマ(スク)とナービラとダッチョウ、と、有泉。

 パンダマの色合いは、こんな感じ。

 パンダマ

 マスターの中山やかと、ガソリン税、与論高校存続、海中に眠る戦時中の戦闘機のこととか、むぬがったいだった。気兼ねなく、与論言葉(ゆんぬふとぅば)で与論のことを話せるのはいいものです。

◇◆◇

 今日は息子の試合観戦。
 息子は最終回、一塁に走者を置いて代打で登場。彼らしく足で稼いで内野安打。走者を二塁へ進めて、自分も生きて、役割は果たしてました。ちっちゃいけどしっかり。ゆうべ食べたイューガマ(スク)みたい。

 ほっとしたです。

Sou_3


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奄美、琉球の相互扶助

 松下さんは、宮城栄昌の考察を引いて、奄美が凶作のときに、薩摩だけでなく琉球にも「米」を頼った事例を挙げています。

Photo_2



















 この表によれば、徳之島、沖永良部島が薩摩だけでなく、琉球からも「米」を借り入れたことが分かります。わが与論も天明1年、1781年に340石を借りています。徳之島、永良部もそうですが、与論の名前を見つけると、借金の話なので、背景の凶作などの苦難を思うのですが、不謹慎にもちょっと嬉しい気もしてきます。琉球とのつながりを感じられるからということもありますが、それ以上に、滅多に歴史に登場することのない島だからこそ、島名を認めると与論島の存在を感じることができるからかもしれません。

 これらの凶作に直面して貯えらしい貯えもない道之島では、救米の借り入れで急場を凌ぐしかなかった。地理的な条件からのみでなく、「本琉球と道之島との共同体的な歴史関係」に基づいて、琉球からの救米借り入れが常套化してくるという。『道之島代官記集成』などの記事によって、宮城栄昌は救米の事例を表14のように掲げている。それらの救米の個々の事例については、ここでは立ち入らないが、ただし琉球側が道之島からの救米の要請に接して、どのような対処をしていたか、簡単に検討しておこう。

「琉球雑記」(京都大学文学部蔵) によると、道之島の島民が飢饉に際して飯米の借用を申し入れてきた場合、這之島の島民を見殺しにすることはできないし、また琉球人が道之島へ漂着した場合飯米などを調達してもらっていることもあるので、貸し出すことにしているとしている。そして琉球へ直接返済して欲しいのだけれども、道之島は琉球支配下にはなく、督促するにも海路を隔てていて困難であるので、薩摩藩において琉球出物と相殺するようにして欲しいと願い出ている。(『近世奄美の支配と社会』松下志朗

 この箇所は、「奄美から視た薩摩支配下の島嶼群」のなかで、弓削政己さんも説明していたのでよく分かります。

 ※「漂着・飢饉時の借米機構」


 琉球と道之島との緊密な関係は、飢饉のような非常時のみではなく、中国からの冊封便来琉のときにもみられた。享保四年(一七一九)をはじめとして宝暦六年(一七五六)、寛政十二年(一八〇〇)、文化五年(一八〇八)、天保九年(一八三八)、慶応二年(一八六六)に徳之島・沖永良部島より調物が進覧されている。慶長の琉球侵攻以来琉球王朝の支配下からはずされているにもかかわらず、道之島を琉球三十六場内の島と対外的に宣揚している以上、中国の冊封使の前では体面を取り繕ろう必要もあったのであろう。

 いずれにしても歴史的に深いつながりをもち、地理的にも近く、しかも薩摩藩への交通において琉球と道之島は互いに協力しあうところがあって、道之島の琉球に対する思慕の念は深いものがあったと考えられる。それは逆に薩摩藩に対しての異和感として投影され、薩摩藩の収奪が激しくなるにしたがって憎悪へと変化するものであったろう。道之島において、薩摩藩内では数少ない農民の抵抗が度々記録されるゆえんでもある。(『近世奄美の支配と社会』松下志朗

 ここで改めて、弓削さんの考察を思い出せば、松下さんの考察とは少し違っています。対立しているというのではありません。対立しているわけではないですが、両者には温度差があります。「薩摩藩への交通において琉球と道之島は互いに協力しあうところがあって、道之島の琉球に対する思慕の念は深いものがあったと考えられる」と、松下さんは奄美の琉球への思慕の強さを指摘するのですが、確か弓削さんはそこで、琉球はどうだったのかと問い、制度以上の振る舞いは無かったと解していました。弓削さんは冷や水を浴びせようというのではない。そうではなく、史実としての距離感をできるだけ正確に測りたい。そんな欲求をそこに感じたのでした。そしてそれは大切な営為に思えます。

 ぼくは、奄美と琉球は、島人の相互の交流は相互扶助的であったが、政治的共同体としての琉球は制度以上の振る舞いはできなかった、と理解すればいいと考えます。




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2008/05/03

収奪の槌音

 このような琉球王朝による寛文期の砂糖生産の増加は、当然薩摩藩の承知するところとなり、その利潤の大きさは財政難に苦しむ藩政担当者の食指を動かすに充分であった。地理的に近い道之島が新しい相貌で藩政担当者の念頭に浮かび上ってくるまでに時間はそうかからなかった筈である。『近世奄美の支配と社会』(松下志朗)

 ときは17世紀後半。奄美にとって収奪の槌音は南からやってきた。
 ここでの松下さんの筆致は迫力があり、不気味な空気を漂わせています。今につながる奄美の宿命の予兆です。

◇◆◇
 
 ただ、今回、松下さんの考察を読み、黒砂糖の生産開始は、薩摩の強制ではなく、琉球の内発的な行為であったことを確認すると、かすかな安堵感がやってきました。いままで与論島の砂糖きび畑を眺めるとき、ともすると薩摩に収奪された貧困と圧制の象徴を目にしているという思いにかられることもあったのですが、改めて思えば、琉球の黒糖生産に薩摩が付け込んだのか、そもそも薩摩が強制したのかでは、受け止め方が違ってきます。琉球の島人が作り始めたものなら、あくまで自分たちのものという眼差しを持つこともできるわけです。

 砂糖きび栽培は、その粗放さゆえに文化を育てないと言われることもありますが、それでも、そこに自分たちの文化の土壌はあります。TV番組「ちゅらさん」で、小浜島の砂糖きび畑の道を「シュガーロード」と呼んだとき、ぼくは貧困と圧制の象徴をポップに置き換えたことに驚きましたが、砂糖きびはそもそも琉球の島人が内発的に始めたことだと思えば、呼び名を変える根拠と権利はあると思えてきます。

 砂糖きびは、いまも島の経済の柱であるとともに問題でもあり続けているわけですが、砂糖きびとともに培われてきたものは何だったのでしょう。砂糖きび文化。いつか取り組みたいテーマです。



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2008/05/02

さいさいさい

 さいさいさい、さいむちくー、
 ぬでぃあしばー。

 な、気分なんだけど、さいはなし。外は雨。
 ゆんぬの唄かと一瞬、思うけど、これはたしかエラブの唄。

 さいさいさい、さいむちくー、
 ぬでぃあしばー。

 この次は何だっけ?



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奄美直接支配、隠蔽の意図

 1609年、琉球侵攻後、1613年、大島奉行設置、1623年には「大嶋置目条々」を発布、年貢徴収法や大型船(楷船)の建造禁止、薩摩藩への貢納の方針を示します。そして、1624年、奄美は薩摩藩の「御蔵入」、直轄地となります。

 しかし、薩摩は直接支配にしたにも関わらず、「琉球道之島」と対外的には表明します。それは江戸時代を通じて変更されることはありませんでした。

 このような施策を着々と講じながらも薩摩藩は幕府に対して「琉球道之島」として、その行政区画を設定し、それは江戸時代を通じて変更されることはなかった。実質的には薩摩藩の蔵人地でありながら、表向きは琉球王朝支配地として押し通したのである。そのような状況は慶長期末・元和期の道之島の歴史的事情に由来すると考え られる。(『近世奄美の支配と社会』松下志朗

 なぜそうしたのか。松下さんはここで、面白い仮説を提出しています。

 ここで敢て大胆な推定をするならば、薩摩藩政担当者にとって、道之島は当初唐船着岸貿易の市場として意識されていたのではないか。「薩州唐物来由考」によれば、元和二年(一六一六)ごろ、江戸幕府は唐船との貿易は長崎で行なうよう命じたにもかかわらず、中国側の嘆願の形をとった薩摩藩の訴えにより、その禁止令を撤回したという。また同年八月の芝家蔵「船切手」は積荷として「船釘六百三拾四斤」等を記しているが(『名瀬市史』上巻)、それは「楷船」(交易船)建造用であろうという。このような中国との直接貿易に対する薩摩藩の執心は、奄美諸島を表向き(幕府に対し)琉球に附属せしめて、唐船着岸による交易の場所として設定しようとするものであり、その思惑が奄美諸島を琉球から行政的に分離しながらも直ちに蔵入地にしなかった理由ではなかろうか。

 明(中国)と貿易の窓口を持っているのは琉球。だから、対明貿易を維持するには琉球は琉球でなければならない。奄美が対明貿易の窓口になるのも、奄美が琉球だからである。もともと琉球侵攻したのは、対明貿易が目当てだったくらいだ。そこでもっと考えると、その利益をより得るためには、奄美を表向き琉球のまま直接支配し、貿易拠点にしてしまえばいい。そういうことだろうか。

 松下さんは、貿易拠点としての構想があったから、すぐに「蔵入地」にしなかったのではないだろうかと考えています。この仮説は、その後支持されているのかどうかを知りませんが、素直な仮説に思えます。松下さんは続けます。

行政区域は異なるが、種子島への唐船漂来の状況をみると、鎖国が完成する寛永十六年(一六三九)以降でも移しいものがあり、寛永二十年(一六四三)には「唐船しばしば漂来し、事煩わしき故を以って、官に検便を請う」(『種子鳴家譜』六)としている。それは寛永十一年(一六三四)薩摩藩着岸の唐船貿易を禁止されて、唐船を長崎へ護送することの煩わしさがあり、また経費増加に音をあげての請願だったのであろう。以上のことは、鎖国完成以前の慶長・元和期において、南島着岸の唐船貿易の盛行を示唆するものである。

中国南部との地理的近さからも、学事をふくめての人々の交流からみても、唐船が道之島に数多く漂来し交易を盛んに行なったことは充分肯定できることであろう。薩摩藩はそのような交易市場として、奄美諸島を処遇することを模索していたのではなかろうか。そのような交易利潤をも含めて道之島高四万三二五七石余が籾高によって設定されたものと考えられる。そして「琉球道之島」という表現に藩政担当者の志向がよく表現されているように思われる。(『近世奄美の支配と社会』松下志朗

 奄美の対明貿易拠点は、正確には、「唐船着岸貿易」の拠点ということでした。これは、奄美に着眼した唐船との貿易という意味だと受け取れます。そういえば、弓削さんも「奄美から視た薩摩支配下の島嶼群」(「漂着・飢饉時の借米機構」)で漂着の多さに注目していましたが、それは、琉球弧の島々の船が琉球弧のどこかの島に漂着するというだけでなく、唐船が漂着することも含まれていました。奄美には唐船が漂着することが多い。そんな実態に着目して「唐船着岸貿易」は構想されたのかもしれません。


 昨年、『しまぬゆ』を読んだときにも感じたことですが、松下さんにこうした仮説を構想させる薩摩は、このとき国家への欲望を宿していたと思います(「侵略の根拠」)。

 琉球王国というまがりなりにもの国家に対して支配者として振る舞い、奄美を直接支配するもそれを幕府、明(中国)という両国家に対して隠蔽するという振る舞いは、自らを暗に国家と擬していることを意味しているのではないでしょうか。薩摩の琉球侵攻は、藩財政の建て直しと対明貿易の利益確保を根拠にすると言われますが、ぼくたちはそこに、その意図を破って奔流する国家への欲望を見るのです。


追記
 松下さんは、奄美の唐船着岸貿易の交易市場化を、幕府の鎖国令によって諦めたのではないかとしています。



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2008/05/01

粟粥の呪力

 昨年出版された『しまぬゆ』は、薩摩の侵略に際し、沖永良部の島人が「大量の粟粥を炊き、もうもうと湯気の立ち上る鍋を渚から村口まで並べて」待ったが、島津軍はそれを食料にしてしまい、以来、その地が「馬鹿島尻」と呼ばれた伝承を取り上げて、「伝承のような事実はなかったろう」と結論していましたが、ぼくはそれは事実と見なして構わないものであり、沖永良部は闘わなかったのではなく闘ったのだと書いたことがありました。

 ※「沖永良部の抵抗」

 松下さんによれば、同様のことは徳之島でもあったことが分かります。

尚真時代の神女組織の確立は政教の分離をはかり、宗教に対する政治の優位化を目的としたものだというが、その神女組織自体が(中略)政治に密着しており、根神・ノロ・聞得大君などの神女は「おなり神」の霊力を通じて、根人・按司・国王などの政治を補佐する存在であったともいう。琉球王朝の政治の世界でもそうであるから、まして奄美の島々の場合呪術の力が支配的であっても不思議ではない。

大山麟五郎によると、奄美の場合栗の穀霊による悪霊払いの呪術が信じられていたのだという。「琉球入記」で徳之島掟兄弟の兄が「家ごとに粥をたざらかし、大和人の膝を火傷させるために坂や道に流せ」と命じた粟粥は、そのような霊力をもつものであった。名瀬間切の伊津部村にある拝山はうしろの尾根に堀切があり、それは敵を直接防禦するたあのものというより、ノロが粟粥を注ぐ儀式を行なった所であって、悪霊が部落に侵入するのを防ぐものだったという。このような栗の穀霊に対するアニミズムは、中尾佐助が照葉樹林の農耕文化を分類した第四段階、すなわち雑穀栽培の開始以来、島の人たちをとらえていたものであろう。焼畑の灰の中から芽をふき出してくる菜に対して古代人が畏怖の念をもつことは別に奄美だけのことではなかったが、農耕文化の発達が充分でない南の島々で、「按司世」までそのような素朴なアニミズムが生き続けていても当然であろう。(『近世奄美の支配と社会』松下志朗

 松下さんは控えめに、「素朴なアニミズムが生き続けていても当然であろう」としているけれど、ぼくは、それこそは奄美(琉球弧)が長く保存した世界観だと思っています。雨よ降れと念じれば雨が降るという雨乞いの世界観は、人間と自然の関係の原型のひとつを示すものでありますが、劣った世界観ということでは全くないので、「農耕文化の発達が充分でない」とへりくだって言う必要はないことです。この、人間と自然の関係の原型を保存した世界への侵入と支配は、薩摩の琉球侵略の特徴であり、薩摩にとっては奄美を植民地化するのに好都合な条件に見えたかもしれません。

 松下さんは、島津の沖永良部侵攻についても触れています。

「琉球入記」は、その後の沖永良部島侵攻の経過を次のように記している。すなわ薩摩藩の琉球侵攻ち、沖永良部島に船団を進めたところ、荒波や夥しい岩瀬のために陸地に近寄るすべもなかった。一方沖永良部島の世の主は、それをみて、もはや軍船が攻め寄せることもあるまい、もし陸地に近寄れば船は悉く難破するから、直に郵覇の方へ向かうだろうと評定していたところ、丁度大潮が満ちてきて岩瀬の上を浪が越すようになり、薩軍の船団もそれに乗じてなだれこみ、そこで沖永良部島の世の主は僧を達して降伏したという。

それに対して大将樺山が「一戦にも及ばず、馬鹿者共よ」と言ったので、その後、その所を馬鹿尻というようになったのだという。この樺山の三一日はおそらく薩軍の将兵みなが一様に抱いた感懐かもしれない。武力の優越が全ての価値基準である封建社会の薩軍将兵にとって、奄美の風土が異国的に美しければ美しいほどに、その島々の集落や生活が侮蔑の対象となったのであろう。一方「琉球渡海日々記」は、三月二十四日「えらふの島崎に日の入る時分こちと御かゝり成られ候」と簡潔に記しているのみである。(『近世奄美の支配と社会』松下志朗

 松下さんは、「奄美の風土が異国的に美しければ美しいほどに」と奄美への愛情を下敷きに書いてくれていますが、ぼくは、樺山が「一戦にも及ばず、馬鹿者共よ」と言ったのなら、馬鹿という人が馬鹿なんです、と返そうと思う。



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ふるさと納税、成立

 突然でびっくりしましたが、ふるさと納税が成立しましたね。

ふるさと納税:地方税法改正案が衆院本会議の再可決で成立
ふるさと納税は、居住地以外の都道府県や市町村に5000円を超えて寄付した場合、住民税を1割を限度に控除する仕組み。

 この情報だけでは分からないことも多いのですが、

・「寄付」として行うということ。
・それに対して住民税の1割を上限に控除するので、住民税の1割が寄付者多数の寄付額になると考えられる。

 でしょうか。

 そうだとして、仮に住民税を20万円と想定して、与論出身者あるいは与論信奉者1万人が住民税1割分を寄付したとすると、

 20万円×1割×1万人=2億円

 になります。

 与論町の予算は、35億円(平成18年度)なので、予算の約6%の収入が加わることになります。もし、1万人が10万人だったら、20億円で、予算規模の金額まで膨らみます。

 架空の計算なので、数字遊びになりかねませんが、「住民税1割」という限度はあるものの、新しい寄与の形ができたのは嬉しいです。


 ※「与論の税金徴収率とふるさと納税」



 

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