「琉球を離れ吾に内附せしは内證のこと」
奄美の困難を「二重の疎外」と捉え、そこから、奄美を「琉球と大和の二重意識」として掴み直しました。けれどこれでもまだ奄美を充分に掬い上げているとは言えないでしょう。まだまだほどけないものを感じます。
ここで、弓削政己さんの「奄美から視た薩摩支配下の島嶼群」という考察を手がかりに、奄美の「二重の疎外」の構造をもう少し掘り下げてみたい。残念ながらぼくの知識では、弓削さんの考察を充分に理解するのは難しいのですが、やってみます。
さて、薩摩藩が直轄支配した近世奄美は、どういう位置づけを持った支配形態であったのか。このことについて、一八七四年(明治七)に汾陽光達は『租税問答』で次のように指摘する。
間て日、右判物の趣(註、奄美の高が琉球高とされていること)を以ては道之島は中山王領地の筋なり、然れば慶長より琉球を離れ吾に内附せしは内證のことなるや、
答て日、然り、内地(註、薩摩藩)の附属と云うこと、別段御届になりたる覚へなし、故に代々の判物骨替ることなく拾二万三千七百石余なり、道之鳥人今に至り容貌を改めざるも是が為なるべし、琉球へ封王便渡来は中山国第一の大礼なり、此時には道の島より鶏、玉子、豚、薪の類を米にて調納する遺例ありて五島皆然り、島の大小に因て其品多寡ありとぞ、此時も外には何も交際あることなしと琉人より聞けり。
薩摩は幕府から一六三四年(寛永二)奄美の高を含めて琉球国高として領知されている。
ここで明らかなように、薩摩の直轄地でありながら琉球国の内という奄美の支配形態は、別言すれば、「琉球に似せた直轄地」として、いわば擬態的直轄支配の島嶼である。(弓削政己「奄美から視た薩摩支配下の島嶼群」1989年)
奄美の収穫高が、琉球高とされていることからすると、「道之島」は中山王の領地になるのが筋だが、そうなっていないということは、慶長から琉球を離れて薩摩に付属しているのは内証のことか? 答え言うに、「そう、薩摩藩の付属である」。
こういう意味だと思う。これを指して、弓削さんは、奄美の支配形態を「擬態的直轄支配」と名づけています。薩摩による琉球侵攻によって奄美は、薩摩の直接統治下に入る。実はそれだけではなく、表向き、奄美は琉球王国下にあるように見せて、直接統治を隠していたということです。
ぼくたちの文脈からいえば、弓削さんの言う「擬態的直轄支配」は、奄美は二重の疎外を強いられていたというだけではなく、外に対して二重の疎外は存在していないかのように振舞うことも強いられたと言うことができます。
改めて、奄美は途方もない関係を強いられていたのが分かります。いじめられた上で、いじめられていることを誰にも言うなと口止めされているようなものですね。
つづく
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