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2008/04/29

粗暴な西郷の転換

 名越左源太と対照的に取り上げられているのは、あの、西郷です。最初、奄美大島に配流された時、島人も困惑するほど、彼は粗暴だったといいます。

『大西郷全集』によると、着島後一カ月ほど経て同志の税所喜三左衛門・大久保正助宛てに出した書状では、島の娘たちを「垢のけしよ(化紅)一寸ばかり、手の甲より先はぐみ(入墨)をつき、あらよふ」とからかい、さらに「誠にけとふ人には込り(困)入り申し侯」と記している。そのことは「当島の体、誠に忍びざる次第に御座候。松前の蝦夷人捌よりはまた甚だしく御座候次第、苦中の苦、実に是程丈けはこれあるまじくと相い考え居り候処、驚き入る次第に御座候」という表現にも、侮蔑の念を端的に露呈している。また同年四月の吉田七郎宛ての書状では「……迚(とて)も居られざる所に御座候。只物数奇はかりにてもこれなく、旁のし申さず(忍びかねる)候儀のみこれあり、込り(困)入り候」と配流先には住みかねるので場所替えして欲しいと音をあげている始末である。また六月には「此のけとふ人の交(まじわり)いかがにも難儀至極。気持も悪しく、唯残生恨むべき儀に御座候」と島民との対応に嫌悪の情を隠さなかった。

 この西郷隆盛の言動は名越左源太と対極にあるものであり、薩摩人の思い上った一般的な対応を示すと考えてよい。『近世奄美の支配と社会』(松下志朗)

 垢の化粧に甲の入墨の毛唐人に困っているとは、西郷も言ってくれるものです。ただ、これを「薩摩人の思い上った一般的な対応」と見なすのは言い過ぎかもしれません。言ってみれば、主たる産業が農業の段階にあり、かつ、被支配者として虐げられたきた者が、自然採取の段階の社会に支配者として直面したときの差別感情の一般というようなものではないでしょうか。ぼくたちは、自然採取の段階を優劣の感情なしに見つめることができるまでに、農業、製造業、サービス業などの段階を踏む必要があったほどです。

 松下さんによれば、そんな粗暴な西郷が転換したのは、島の娘、愛加那との結びつきがあったからだと言います。配流されて二年後、一子をもうけたことを知らせる書状では、「私には頓と島人に成り切」っていると記しているといいます。

 この後、次に徳之島に配流された時には、

 私にも大島え罷り在り候節は、今日ゝと(赦免を)相い待ち居り候故、肝臆も起り、一日が苦しみにこれ有り候処、此の度は徳之島より二度と出申さずと明(諦)め供処、何の苦しみもこれなく、安心なものに御座候。もしや乱に相い成り候はば、其の節は罷り登るべく候えども、平常に候はば、たとえ御赦免を蒙り候ても、滞島相い顧ひ申すべき含みに御座候

 とあり、松下さんはこう続けています。

 たとえ赦免されても道之島に永住する決心であると言っている。西郷をここまで言い切らせたものが何であるかは、必ずしもはっきりしないが、この文面のすぐ後に「迚(とて)も我々位にて補ひ立ち候世上にてこれなく候問、(藩主への)馬鹿らしき忠義立は取り止め申し候」と続けているその心情は、全く藩意識を超克しょうとした反封建的なものであったに違いない。

 ぼくは、西郷に道の島永住を決意させたものは、それこそ愛加那と奄美(琉球弧)の力だと思う。それは、「全く藩意識を超克しょうとした反封建的なもの」というより、愛加那の人としての力と藩意識をはじめあらゆる作為を溶かしてしまう琉球弧の解体力です。

 ぼくは西郷の粗暴な面を取り上げてくさしたいわけではない。島人に侮蔑な視線を浴びせながら転換したところ、あるいは名越左源太は、稀有な理解者だったがあくまで観察者の位相にとどまったのに対し、西郷隆盛は大胆にも島人になりきろうとしたところに西郷ならでは魅力はあるだろう。ぼくは、その転換を好もしく感じるのと同じように、転換を促した奄美・琉球弧の力を誇ってもよいと思うのです。



 

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