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2008/04/06

琉球弧を舞台にした大和の仕業

 去年の2007年、谷川健一が『甦る海上の道・日本と琉球』で、11~12世紀の奄美諸島は琉球弧の先進地域であったこと、そして、琉球王朝を誕生させたのは九州から南下した武装勢力であって琉球社会の内発的発展によるものではないという仮説を読んだとき、ふたつのことを思いました。

 ひとつは、近年著しい考古学的成果によって奄美諸島、特に北奄美が自信を持つことはいいことだということです。ただ、それを「先進地」であることに過度に依存してほしくないな、とも。奄美はもともと「先進地」ではないという言われようで苦しんできた土地です。それが「先進地」と言われることによって今度は逆の自失に陥ってほしくないと思います。仮に、その「先進地」という根拠で沖縄に目線を向けるようなことがあれば、目も当てられなくなります。

 ぼくが自信というのは、「先進地」であるということとは少し違います。奄美が奄美を語る言葉を持てるようになること自体、奄美が奄美を掘り下げられる材料を持つことが、奄美の自信につながるだろうと思うからです。

 奄美大島にほど近い喜界島には台地の上に城久と呼ばれる集落があり、そこの遺跡から大量の石鍋の破片やカムィヤキ土器、または青磁や白磁などが出土したことはすでに述べた通りである。それと奄美大島のヤコウガイ、徳之島のカムィヤキ土器などを合せて考えると、太宰府や薩摩の豪族による南島経営の最前線、あるいは博多商人や宋商の南島交易の尖端拠点として、城久遺跡はきわめて重要な位置を占めていたことが見えてくる。

 これらからすれば、十一、十二世紀の奄美諸島は、琉球弧の中で最も早くから開けた地域であったことは明らかである。これまで琉球王国にとって奄美諸島はその周辺部分と見なす考えが一般的であった。第一尚氏の統一王国以後はそうであったことは確かであるが、それ以前、つまりグスク時代の黎明期においては奄美のはうが沖縄本島よりもはるかに先進地帯であったことを喜界島の城久遺跡は如実に物語っている。(『甦る海上の道・日本と琉球』)

 もうひとつ、琉球社会は内発的に琉球王国を作ったのではないということについて、やっぱりなと思わざるをえませんでした。島人としての実感に照らして、島から受ける世界感受にのっとれば、琉球弧は内在的には国家をつくる必然性を持っていないと思えてならなかったので、合点がいく気がするのです。

 谷川健一の『甦る海上の道・日本と琉球』は、奄美諸島の生産地と交易手としての役割と琉球王国建設の担い手が非琉球勢力であることを指摘したことにより、二重に沖縄中心の琉球観を相対化しています。それはひいては、琉球王国を根拠にした琉球州という構想に対しても、同様の相対化の眼差しを投げかけずにはおきません。

 また琉球に統一王朝が誕生するきっかけとなったのは、私見によれば、九州から南下した武装勢力であった。折口信夫は名和氏の残党としているが、その公算はきわめて大きい。いずれにしても、琉球社会は、みずからの内発的発展によって三山統一にいたり、琉球王国を開花させた、という従来からある説に組することはできない。日本からの影響の大きさを痛感せざるをえない。

 しかし、その根底には縄文時代以来の自然の「海上の道」があった。この海の道は、日本列島と琉球弧のあいだの往来の道であった。その道を「物への欲望」を担い、「心の渇望」を抱いた人々が南北にとだえることなく往き来した。そこにはまぎれもなく相互の親和力があった。ここにして思うのは、幾千年このかたの「海上の道」をかけ橋としてつづいてきた日本本土と琉球の縁のふかさ、血の濃さである。その歴史的意義をあらためて甦らせることをささやかな使命として仕事に区切りをつけることにする。(『甦る海上の道・日本と琉球』)

 琉球王国を沖縄のアイデンティティの中核に据える観方があります。また、奄美のなかには、琉球の奄美支配を薩摩の奄美支配と同様の被害とする観方もあります。ぼくは両方ともに異論を持ちますが、谷川健一の作品を踏まえると、別の視点もやってきます。奄美諸島北部に拠点を作ったのは大和勢力であり、11~12世紀の奄美を「先進地」にしたのも大和勢力であり、琉球王朝をつくったのも大和勢力であり、したがって、琉球が奄美に再三攻め入ったのは、南の大和勢力が北の大和勢力を討ちにいったことになります。つまり、これすべて琉球弧を舞台にした大和の仕業と見る観方です。

 谷川はここで、「日本本土と琉球の縁のふかさ、血の濃さ」に想いを馳せるのですが、ぼくはその予定調和の前に、琉球弧の独自性、普遍性は、奄美の先進性でもなく琉球王国の存立でもなく、国家未然の世界観にあり、それを掘り下げることが先決である気がします。ぼくは別に琉球弧だけを無垢にしておきたいわけではありません。ただ、「日本本土と琉球」にあいまいな同一性を認める前に、琉球弧の果たした役割はまだまだ明らかにされていないことが多いと思うのです。



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コメント

先島諸島から北海道まで、海上の道の連なる蜿蜒たるさまこそ日本列島であり、諸州を挙る島国の在り様ではないかと
眺め眺めしています

 沖縄本島南部の琉球国、北九州や畿内の邪馬台国ないしは
奈良・平安の大和国家、中部地域の桃山文化を経て関東平野
の江戸文化から今様の東京スタイルにいたるまで、偶々人々
の集まりやすい地形、地勢というただだっぴろさのある地理的条件と黒潮と親潮の自然条件に育まれて生きて来たという
その範囲のアイデンティティーをつらつらおもんみるにつけ
それぞれに成り行き任せのようにも思われながらも培われた
ものの有為さをあらためて感じ入ることが多いような・・・

 そんな気がする小島の磯の香が漂ってきます
いつものように友人の家を訪れたとき、二誕生ばかりだった
子がいつになく興奮して玄関で迎えて「あー・・・ら・・・
ば・・・」と訳の分からない言葉を目の色変えて訴えかけて
くるのにどう応対していいのか戸惑っていると「そうだよね
、吃驚したからね」とその意味を話してくれたことがあった
「赤いランプが落ちてバーンと割れたのでびっくり驚いた」
と昨日の出来事を告げようと必死だったのである
「あらばー・・・」の意味が分かってからのしばらくの間は
真剣に二歳児との会話を繰り返し繰り返ししたものである
いまでは初老というか熟年の紳士ではあるが、その頃のこと
は親同士の話であって本人は聴かされるだけでよくは憶えて
いないようである。

 そんな昔のことを思い出しながら、MBLでの福留選手の
活躍が「偶然だよ」と歓喜の思いで褒められているのがまた
受けとめる者の気持ち次第なのかというのも面白い。

 琉球組踊が曽我兄弟的仇討ち物語であり、与論の十五夜踊りの演しものが狂言「末広かり」であることがさもありなん
であって真似て学んでそのまえにそれを超えた先達の業がある与論の島の奥深さに興味が湧くばかりである。

投稿: Hirobou | 2008/04/06 22:25

Hirobouさん

「あらばー」、伝わってよかったですね。
二歳児にとっては世界はもっとつながっていてぼくたちとはまるで違うように見えているのでしょうね。

与論などは、人類の幼児期を長く保った地域なんじゃないかなと思ったりします。

投稿: 喜山 | 2008/04/07 08:56

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