琉球でもない薩摩でもない。だが、琉球にもなれ薩摩にもなれ。
薩摩の直轄支配であり、かつ「琉球国の内」の奄美への隠蔽政策は、複雑なものとしてあらわれたのである。とともに、その複雑さは一層徹底される。そのことは、特に異国船漂着や奄凄・琉球間の船への対処にみられる。
そう弓削さんは解説しています。
1.1696年
「琉球へ漂着・破損の唐船は直接清へ送還するよう」にという清からの要請が、琉球、薩摩藩、幕府を通して許可される。そしてそれは、「奄美へ漂着した唐船は従前、長崎送りとなっていたが、以後、琉球から清へ送還するように」という指示となって現れる。
これはどういう意味でしょう。薩摩としては、奄美が薩摩の直轄領であり、琉球も支配しているということは隠蔽しなければならない。そこで、奄美に唐船が漂着した場合、薩摩との関係を隠し、琉球の一部であることを示すために、一度、琉球へ送ってから清へ送る手順を踏んだと理解すればいいのでしょう。
2.1742年
長崎帰りの唐船が大島の大和浜へ漂着。この場合、前述の規定に従えば、この唐船は琉球経由で清へ送還することになります。事実、そうなるわけですが、弓削さんは、
・この船は奄美、琉球、清へと送還された。そのやり取りは奄美島役人と琉球役人とではなく、大島代官・琉球在番の薩摩役人同士でなされ、藩への報告は大島代官からもなされるという手順を踏み、
・琉球送還の薩摩船は「宝島船」とした。
という2点を指摘しています。
つまり、唐船の送還手順の段取りは薩摩が行い、船も薩摩の船を用いて、ここに奄美、琉球はことの主体としては登場していません。にもかかわらず、隠蔽のために、船は薩摩船ではなく「宝島船」と称したわけです。
厳密には分からないところがりますが、明らかに琉球船とは異なる船体と人員について、「宝島」という吐喇列島に着想源を置いた架空の国家あるいは集団を仮構して、その名のもとに薩摩を意味したということだと受け止めてみます。
3.1768年
人数一五人乗組の大島船が前年一〇月、喜界島から帰島の時、宮古島へ漂著したので、二月に大島船を宰領して那覇に行く途中唐へ淳着した。唐では、船は琉球船の形と変わっているので不審をかったので、諸書付けを焼捨て、大島人の所持する京銭を海中へ沈め、武具は隠し首尾よくすんだということによる。
こんどは、奄美の船が唐へ漂着した場合も、琉球として振る舞うことを強いられていた例として考えることができます。奄美は、中国に対して琉球として振る舞う、つまり二重の疎外が無いかのようにしなければならなかったのです。
ところで、ここで弓削さんはこう付言しています。
ここで指摘しなければならないことは、船に対する対応についても、琉球は、奄美を清へ「琉球国」だと述べる。しかし琉球での奄美船への対応は、薩摩藩の政策のもとで日本他領の船の対処と同一であった。
ここで、弓削さんは薩摩支配後の奄美と琉球の関係の感触をつかもうとしているのだと思う。琉球は、奄美を「琉球国」だと言うけれど、それは奄美を琉球の内部にあることを意味しておらず、奄美船については、他領の船と同等の扱いであったことから、薩摩の支配下にある琉球として奄美を疎外したのだということを指摘しているのだと受け止めることができます。
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薩摩は清との関係で、奄美を「琉球道之島」とるすために徹底した隠蔽政策を採ってきたが、幕末に欧米諸国の艦船が、奄美・琉球に寄港するという新しい状況なで、崩れてきたといいます。
一八四四年(弘化元)、フランス艦隊アルクメール号が那覇へ入港し、琉球へ通商・貿易・布教の三項目を要求。四六年にはフランス艦隊三艘が来て、再度要求。その内のヴィクトリユーズ号が逼天に停泊した。同年にはイギリス人宣教師ベッテルハイムがくる。このような状況下、薩摩藩は運天に商館を建て、そこで琉球・フランス貿易を計画した。四七年二月、新在番奉行の倉山作太夫らは運天周辺を調査した。このような動きの中で、四六年のフランス艦隊に対し琉球王府は「三島(喜界・大島・徳之島)並びに輿論島・沖永良部島・与路・請・加計呂麻八力島は当分トカラ島支配である」とし、奄美では薩摩藩のことを「異人共」へ「トカラ島」と答えることとなった。
正確な理由を推し量ることができないのですが、薩摩は西欧との貿易を試みるために、沖縄本島北部にある本部の運天港に拠点を設けようとします。そのとき、奄美を琉球として擬態させるのではなく、こんどは「トカラ列島」支配に擬態させます。あくまで薩摩支配であることは隠蔽するわけですが、こんどは琉球ではなくトカラとなったわけです。
これまでのように、清の船が奄美に漂着したり、奄美が清へ漂着したときのように、奄美と清が対する場合、奄美は琉球として振る舞うことを強いられたわけですが、西欧との貿易で薩摩が実際に登場しなければならなくなったとき、それでも薩摩が琉球内で登場することを避けようとすれば、薩摩ではない顔をしなければならない。そこで持ち出されたのが「トカラ」だったのかもしれません。
トカラは確か、薩摩の琉球侵攻の際には、七島灘を越える船頭として動員されたはずです。そして、薩摩の隠蔽政策のなかで、「宝島」だったり「トカラ」だったりという現れ方で、奄美・琉球に関わったことになります。ぼくは時代に翻弄されたトカラと奄美・琉球の宿命について想いを馳せないわけにいかない気持ちになります。
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ところで、ここでは、奄美はもっぱら琉球として振る舞う例が挙げられているわけですが、前利潔さんは、その逆、薩摩として振る舞わされる場面もあった例を挙げています。
薩摩支配の隠蔽政策は、徹底されていた。一七九〇年、沖永良部島民が朝鮮に漂着。船内に大日本年代記や寛永通宝があったことから、朝鮮の役人は<倭人>ではないかと疑うが、島民たちは「琉球国中山王」の支配下の者であると主張し、寛永通宝も琉球の銭であると言い張った。つまり、<琉球人(非倭人)>であると主張したのである。(『朝鮮王朝実録』)
<薩摩人>になることもあった。一七七三年、中国の寧波に漂着した薩摩船に、沖永良部島民二人が水主として乗りこんでいた。島民たちは月代をさせられ、「登世村」「嶋森」という名も「村右衛門」「嶋右衛門」というように、<薩摩人>として中国側に対応させられていた。薩摩の船であることが明白なときは、<非琉球人>になったのである。(『薩州人唐国漂流記』)
(「時評2006 10月」「琉球新報」前利潔)
薩摩船に乗り組んでいた場合、奄美は薩摩として振る舞わなければならなかったという例です。
二重の疎外とその存在の隠蔽と。ということは、二重の疎外を受けつつ、隠蔽のなかでは、疎外された当の者に変身することも求められたということを意味しています。奇妙なことに、この二つの場面では、一見、二重の疎外は解消され、一方で奄美人は、過去とのつながりを回復した琉球人になり、一方では、獲得すべき未来としての薩摩人になったかのように見えます。ではその場に出くわした彼ら奄美人は、琉球人として懐かしく振る舞い、薩摩人おしては晴れがましく振る舞ったでしょうか。
いや、グロテスクな冗談はよそう。だいたい、そう振る舞わなければならない時とは、隠蔽がばれてはいけない当の中国に対しているのだから、奄美人にとっては命がけの場面であったに違いありません。しかもその前に、二重の疎外で、もともと否定されているものになるという行為は、演じることによってしかなしえない変身です。薩摩人を新たに演じるというだけではない、もともとそれであったはずの琉球人ですら演じるものに転化してしまったわけです。
お前はAではない、Bでもない。だが、ある場面ではAになれ、別の場面ではBになれ。こういうあり方は自己存在を消去して演じることによってしか成り立たせられないでしょう。ぼくたちはここで、奄美の島人が自己喪失者としてあり、島尾敏雄が奄美の人は長い間、自分を無価値のように感じてきたということの具体的な理由に触れかけているのではないでしょうか。
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