« 2008年3月 | トップページ | 2008年5月 »

2008/04/30

島津軍、乱暴狼藉の規制

 松下さんによれば、島津軍は、琉球侵攻に当り、規律を守るよう軍律を発布しています。

 前にも述べたように、島津家久・同義弘・同義久は連署して「琉球渡海之軍衆法度之条々」一三ヵ条の軍律を発布したが、それは軍団の指揮命令系統を明確にして規律を守ること、とくに喧嘩口論や鉄砲のめくら打ち、島々の百姓などに対する乱暴狼籍や堂宮尊、経・書籍などの取り扱いなどを規制しており、ただでさえ粗暴なところのある軍団の綱規粛正を図ったものであった。このことは藩政担当者の単なる杷菱にとどまるものではなかった。たとえば種子嶋の領主久時は家臣数十人を琉球侵攻に参加させたが、そのうち家臣六郎右衛門を琉球における所業を理由に放逐しており、その後その子孫にも領主への面謁を許さないことを遺言している(「徳子嶋家譜」四)。その所業の内容については記事が簡潔なために知ることができないが、琉球での軍規違反であろう。また、市来家元が記すところでも、首里城内には混乱をおそれてか「大将分の御大衆」ばかりが入城して、その出入りの検査については厳格を極めたとしている。『近世奄美の支配と社会』(松下志朗)

 以前、16世紀末の薩摩で、武門の子弟に向けられた「二才咄格式定目」を読み、定目成立の背景には、ささいなことで諍いや喧嘩に及ぶ武門の青年たちの実態が控えていると考えてきました。

 「二才咄格式条目」とは何か
 <こわばり>としての薩摩の思想

 これを踏まえれば、「喧嘩口論や鉄砲のめくら打ち、島々の百姓などに対する乱暴狼籍や堂宮尊、経・書籍などの取り扱いなど」の規制をなぜ改めて行なわなければならないのか、頷ける気がします。特に、「武人的知謀」の長州、「理論的武断」の土佐、「文弱的知謀」の肥前に対し、「実際的武断」と呼ばれたように観念的行為を軽視する薩摩の武門であれば、軍律は必須で要請されたのかもしれません。

 侵攻について、ぼくたちはともすると武門の粗暴さのまま無規律に破壊の限りを尽くしたのではないかと想像しがちなので、ここでは侵攻時に軍律が発布されたことを押さえておきたいと思います。



| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/04/29

粗暴な西郷の転換

 名越左源太と対照的に取り上げられているのは、あの、西郷です。最初、奄美大島に配流された時、島人も困惑するほど、彼は粗暴だったといいます。

『大西郷全集』によると、着島後一カ月ほど経て同志の税所喜三左衛門・大久保正助宛てに出した書状では、島の娘たちを「垢のけしよ(化紅)一寸ばかり、手の甲より先はぐみ(入墨)をつき、あらよふ」とからかい、さらに「誠にけとふ人には込り(困)入り申し侯」と記している。そのことは「当島の体、誠に忍びざる次第に御座候。松前の蝦夷人捌よりはまた甚だしく御座候次第、苦中の苦、実に是程丈けはこれあるまじくと相い考え居り候処、驚き入る次第に御座候」という表現にも、侮蔑の念を端的に露呈している。また同年四月の吉田七郎宛ての書状では「……迚(とて)も居られざる所に御座候。只物数奇はかりにてもこれなく、旁のし申さず(忍びかねる)候儀のみこれあり、込り(困)入り候」と配流先には住みかねるので場所替えして欲しいと音をあげている始末である。また六月には「此のけとふ人の交(まじわり)いかがにも難儀至極。気持も悪しく、唯残生恨むべき儀に御座候」と島民との対応に嫌悪の情を隠さなかった。

 この西郷隆盛の言動は名越左源太と対極にあるものであり、薩摩人の思い上った一般的な対応を示すと考えてよい。『近世奄美の支配と社会』(松下志朗)

 垢の化粧に甲の入墨の毛唐人に困っているとは、西郷も言ってくれるものです。ただ、これを「薩摩人の思い上った一般的な対応」と見なすのは言い過ぎかもしれません。言ってみれば、主たる産業が農業の段階にあり、かつ、被支配者として虐げられたきた者が、自然採取の段階の社会に支配者として直面したときの差別感情の一般というようなものではないでしょうか。ぼくたちは、自然採取の段階を優劣の感情なしに見つめることができるまでに、農業、製造業、サービス業などの段階を踏む必要があったほどです。

 松下さんによれば、そんな粗暴な西郷が転換したのは、島の娘、愛加那との結びつきがあったからだと言います。配流されて二年後、一子をもうけたことを知らせる書状では、「私には頓と島人に成り切」っていると記しているといいます。

 この後、次に徳之島に配流された時には、

 私にも大島え罷り在り候節は、今日ゝと(赦免を)相い待ち居り候故、肝臆も起り、一日が苦しみにこれ有り候処、此の度は徳之島より二度と出申さずと明(諦)め供処、何の苦しみもこれなく、安心なものに御座候。もしや乱に相い成り候はば、其の節は罷り登るべく候えども、平常に候はば、たとえ御赦免を蒙り候ても、滞島相い顧ひ申すべき含みに御座候

 とあり、松下さんはこう続けています。

 たとえ赦免されても道之島に永住する決心であると言っている。西郷をここまで言い切らせたものが何であるかは、必ずしもはっきりしないが、この文面のすぐ後に「迚(とて)も我々位にて補ひ立ち候世上にてこれなく候問、(藩主への)馬鹿らしき忠義立は取り止め申し候」と続けているその心情は、全く藩意識を超克しょうとした反封建的なものであったに違いない。

 ぼくは、西郷に道の島永住を決意させたものは、それこそ愛加那と奄美(琉球弧)の力だと思う。それは、「全く藩意識を超克しょうとした反封建的なもの」というより、愛加那の人としての力と藩意識をはじめあらゆる作為を溶かしてしまう琉球弧の解体力です。

 ぼくは西郷の粗暴な面を取り上げてくさしたいわけではない。島人に侮蔑な視線を浴びせながら転換したところ、あるいは名越左源太は、稀有な理解者だったがあくまで観察者の位相にとどまったのに対し、西郷隆盛は大胆にも島人になりきろうとしたところに西郷ならでは魅力はあるだろう。ぼくは、その転換を好もしく感じるのと同じように、転換を促した奄美・琉球弧の力を誇ってもよいと思うのです。



 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/04/28

薩摩の奄美理解者-名越左源太

 弓削政己さんの「奄美から視た薩摩支配下の島嶼群」を辿って、奄美の二重の疎外は、それだけではなく、二重の疎外の隠蔽も強いられていたことを知りました。ここで二重の疎外により引かれる境界は、隠蔽により透明化されます。これに対応するには、奄美の島人が自身を透明化するしかありません。それはつまり、島人が自身の存在価値を空虚化することを意味するはずでした。事実、そうであったのですが、弓削さんの考察からはそれだけではない側面も見えてきました。透明化された境界には、無数の穴がありそれが浸透圧を発生させるみたいに、大島と徳之島のような内部と大島と屋久島、沖永良部島と沖縄のような奄美外部との間に物資の行き交いが生まれました。そこに、二重の疎外を越えて呼吸しようとする島人の抵抗を感じることができます。

 ぼくはもう少し詳しく二重の疎外下にある奄美の実態に迫ろうと思います。頼りにするのは、松下志朗さんの『近世奄美の支配と社会』です。

『近世奄美の支配と社会』(松下志朗)

Photo_8










 薩摩支配下後期の奄美(大島)の実態は、ある人物のおかげで記述と絵の両方で知ることができます。流人として奄美大島に滞在した名越左源太(なごやさげんた)です。

 名越左源太は『遠島録』をみると、詐虚な人柄であったことが知られる。五月八日小宿村藤由気宅を借りるときも三畳問の小部屋を希望し、藤由気の好意で一軒家を明け渡されたことを気にして「拙者壱人には別して広過ぎ候」と記しているくらいである。『遠島録』によれば、いろいろな人物がその蟄居先を訪れているが、その中でも村人たちとの交歓は情こまやかなものがあって、近辺の者が野菜や魚などを手土産に気楽に立ち寄っている様子が生々と描写されている。たとえばハブに喰いつかれた老人の様子が痛々しかったので、菊池を贈ったところ、早速お返しに刻み煙草をもらい、「皆少しの事に別して悦び申し候」、「村中の著共、追々見舞申し候て、一銃叮嚀の向に御座候。別して仕合せに御座候」と記していることなどにも、その有様がよくうかがえる。

 名越左源太の日々の生活は、陣監経の読経と村人との交歓にほとんど明け暮れしているが、なかでも藤由気の養子、嘉美行は左源太の居所に入り浸りだった。すでに五月十六日には「碁より寡美行へ大島言葉を習ひ申し候」と記されているが、連日連夜のように咄相手として左源太を訪ねており、七月に入ると「嘉美行と両人にて事物共見申し候」とか「暮過より嘉美行へ算術を習ひ申し供」といった記事が毎日のように記されていて、茅英行に手習を教えたり算術を教えられたりの日日であった。嘉美行に代表されるような村人たちとの交歓は、八月踊にもよくあらわされている。

 八月踊の酒宴に村人たちから再三招かれて、それを断りきれずにやや当惑しながらも招待に応じている人の良い左源太の姿が『遠島録』の記事から浮かび上ってくる。一日中雨に濡れながら踊り抜く島民の「元気強さ」について驚嘆しているが、そのような異質な文化や生活に対する率直さは、左源太をして珍しい貴重な記録を残さしあることとなる。彼の大島における見聞は「南島雑話しとして、歴史学・民俗学・動植物学などについての多くの知識を私たちに残してくれたが、それは叙述の客観性のみではなく、その淡々とした記述の背後に先述したような村人たちとの交歓があり、彼の村人たちへの温い眼差しは、深い感動をよぷものがある。
『近世奄美の支配と社会』(松下志朗)

 その名越の人柄は、こんな綱引きの絵にも現れている気がします。

 「綱引きの絵」

 「異質な文化や生活に対する率直さ」が松下さんの言うとおりなら、世が世なだけに、かつ、その後、制度的な根拠を無くしても続く奄美蔑視の慣性の強度を鑑みると、名越の態度は稀有に思えます。名越は薩摩支配下南島における、他に例のない理解者だったのではないでしょうか。

◇◆◇

 ところで、名越左源太のことを知るなら、bizaさんの「幕末奄美遠島生活」が最高です。「大島遠島録」や「南島雑話」を追って現代語訳してくれているのですが、なんといっても名越を「左源太さん」と呼んで親しんでいる姿勢に、ほっとさせられるのです。これも名越左源太の人徳になせる業でしょうか。追っかけは一世紀半経ってもできる。そんなことを教わる気がします。

 「幕末奄美遠島生活」



| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008/04/27

「奄美から視た薩摩支配下の島嶼群」のむすび

 雑誌「新沖縄文学」の1989年の企画、「奄美から見た沖縄」の特集に寄せた論考、「奄美から視た薩摩支配下の島嶼群」の終わりに、弓削さんは書いています。

むすび

 接近できたか否か心許ないが、奄美からみて奄美とその島嶼群はどういう関係であったかという問題意識で接近してみた。

 希少であろう文献に当たり史実に基づいて実態を浮かび上がらせようとする弓削さんの態度に好感を持ちます。しかし、弓削さんにとって所定の文章量はあまりに少なかったに違いありません。予備知識の心もとないぼくには分からない点も多くありました。実際にお目にかかれる時があれば、直に質問させていただきたいと思っています。

 一つは、薩摩の直轄地でかつ琉球国の奄美は、幕府・薩摩・琉球・東アジアという関係での琉球への隠蔽政策も、複雑なあらわれ方をするということ。たとえ、架空の国、度佳噺をうきだたせる目的だとしても、容貌は大和めかず、また幕末は対外関係の変化であるかも知れないが逆に非琉球化を要求される。琉球の押えという位置で政治的には非琉球化、逆に生活においては非大和化、対外的には琉球化という点で複雑である。

 薩摩はまず奄美に対し二重の疎外を強い、かつそれだけでなく、その隠蔽をも強いたということです。ここにいう「複雑」さは、二重の疎外とその隠蔽として構造化することができます。そして、被支配形態としての奄美の困難の固有性もそこにあります。

 二つには、時期や契機は課題だが、先行する平木貢納の屋久島と奄美の砂糖貢納とその米の一定の供給が、薩摩船を媒介として、琉球も含めた各島嶼群間の組合せ・仕組みを薩摩藩は、作り上げてきたということ。その点では、「歴史的一体性を前提においた」のか、各島嶼群の特徴を把超して、薩摩藩は統治したということになろう。

 ぼくたちはここで、薩摩支配を同型で持った地域としての屋久島を見いだします。おそらく、弓削さんの考察のなかでも、ここは力点を起きたいポイントに違いありません。奄美の被った施策は、こと奄美に限らず、屋久島に原型を持つものだったということだからです。それは少なくとも、被支配地域としての奄美を相対化させてくれます。

 三つは、薩摩が作り上げてきた奄美の機構の中で、それを突破しょうという動きも含みながら一定の活発な交易に従事したこと。幕末、砂糖専売制の強化が逆に砂糖樽という分業を生み出し、それがまた藩にとって砂糖生産をおろそかにするということなのか。

 二重の疎外とその隠蔽により、奄美には硬直した境界が引かれたようにも思えますが、その一方で、奄美島嶼間の浸透圧を遮ることはできず、相互扶助のような行き交いが島々の間でなされたのでした。そのことを知ることができたのはとても嬉しいことです。当時の島人の生きようとする姿を垣間見れる気がするからです。

 このような歴史を辿った奄美の対琉球意識とはどのようなものであったか。一八九四年(明治二七)から九八年(明治三一)まで大島島司をした笹森儀助「大嶋々政方針」には、「秘」とされた記述がある。

「古老会スレハ神ノ世ノ支配ヲ望ムト云フ。其意ヲ推窮スレハ元琉球藩属タルノ時ヲ指ス。慶長十四年鹿児島ノ制御ヲ受ケシ以来、今日二至ルモ神ノ世ノ政徳ヲ忘ル、能バスト云フテ老人流沸スルニ至ル。然トモ決シテ内地人手語ルヲ禁スト。鳴呼嶋政ノ大方針夫レ神世政事ナルカナ」と。

 他方、一九一〇年(明治四三)八月「採集」の、「東恩納寛惇史料ノート」(沖縄県立図書館)には、次のことが記されている。

「大島人は琉球人を軽侮す。大島人は琉球の支配の下こ有りし事を知れり。然れども彼等は其記憶を忘れん事を希望せり。」

 これらの意識が、歴史と「近代化」の中で成立したのだろうか。(弓削政己「奄美から視た薩摩支配下の島嶼群」1989年)

 ここで弓削さんは、奄美と沖縄の関係づけを急ぎすぎているように思えます。琉球が奄美に相互扶助的な態度で臨んだけれど、薩摩の強いた制度を越えることが無いというのは、当然ではないでしょうか。ぼくならばここは、政治的共同体としては薩摩の強いた制度に則って行動したが、現実的な島人相互の場面では相互扶助的に振る舞ったと言うところです。

 にもかかわらず奄美が、ある場合琉球を蔑視するような態度になるのは、支配者の態度の転化だと、ぼくは思います。あまりにきつい思いを強いられながら、それが半永続化してしまうものなら、もともと薩摩に属するものとして自らを見なしたいという、無理もない欲求があると思います。復帰をめぐって日本人に総雪崩れを打つ下地はここに出来上がっています。だから、対流意識は、それを問う前に奄美への対自意識を明確にすることが大切だというのは、現在にも通じる課題ではないでしょうか。




| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/04/26

砂糖樽が足りない

 黒砂糖を作るということは、黒砂糖を入れる樽も必要になります。砂糖樽(さただる)、です。(こんな感じで、こんな風に運んでいたようです↓出典:『近世奄美の支配と社会』松下志朗)

Photo_2

Photo_6














 薩摩による擬態支配下の奄美の歴史を、黒砂糖生産量を上げる過程だと捉えれば、それは言い換えると、砂糖樽の需要が増大した時代でもあったわけです。勢い、砂糖樽は不足していきます。

 弓削さんの「奄美から視た薩摩支配下の島嶼群」によれば、砂糖樽の不足分は薩摩藩が売ったとあります。人に黒砂糖生産を強制しておいて、砂糖樽は買えというのはなんとも厚かましい理屈ですが、その上、島毎に樽の値段が違っていたそうです。たとえば、喜界島は奄美大島より高かったのです。

 するとここに、価格差(やきっと交易のしやすさも手伝ったと思いますが)を理由に、喜界島の島人は奄美大島から砂糖樽を購入しようとし、奄美大島では、砂糖樽製造を請け負おうとする気運が生まれます。

 それを見た代官が役人に言います。

 渡遠方の儀、喜界島用分の樽木を銘々手当り次第に外の間切から請け負っていることについて、暇なときに働いて代米を受け取ることは特にためになるとの考えが聞こえるけれども、そうするだけの暇があったら作職(砂糖黍)に振り向けた方が、なお為になる。心得違いがないように、他の間切より請け負うことはやめること。かつ時節も厭わず漁に志し、または商売に熱心で他の間切へ行くものもいる。これらは第一作職の手入れをしない基であるので、役人どもは取締りをするように。よんどころない用事で他間切へ行かなければならない場合は、理由を役人は聞いて、日限をきって銘々1名札を渡して行かせること。

 また、同時期と推察するが、住用間切でも、喜界島用の樽木・尺の請負、材木を伐採し商売していることは、農閑期の時はいいが、諸作手入れの時に当座の利欲に迷い、このようなことは良くない。食糧の唐芋も不足し、諸手入れも届きかね、年々困ってくることはわかりきったことであるので一切やめることと布達された。(弓削政己「奄美から視た薩摩支配下の島嶼群」1989年)

 教訓的な物言いに苦笑してしまいますど、要は砂糖樽づくりにいそしまないで、黒砂糖づくりにいそしむようにと「指導」するような事態が生まれていたのです。弓削さんはこれを、「薩摩藩役人が黙過できないような『分業』の動きを奄美島民が、進めたのではなかろうか」と考察しています。

 ここからは、支配の形態とは別に、奄美の島間交流によって生きようとする島人たちの姿が浮かび上がってきて嬉しくなります。



| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/04/25

小さな奄美の地船-疎外の強化と絶えない交流

 「大島置目之條々」(1623年)、「大島御規模帳」(1728年)には「楷船は作らないこと」という規定があったと言います。「楷船」は、「江戸時代、島津氏の支配下に入った琉球国が毎年薩摩藩へ米・砂糖などの貢納物を送るために派遣した官船」(「大辞林」)のことで、とどのつまりは、奄美は大型船は作るなということでした。

 このことにより奄美の島人は自らの大型船で交易することができなくなったのですが、ここでの文脈から言えば、それは疎外の強化に他なりません。

 弓削さんは、漂着船の大きさを各資料から引用しています。

 2名乗りクリ船1艘
 3名乗り2艘(1艘は帆柱船)
 5名乗り2反帆4反帆船各1艘
 6名乗り1艘
 7名乗り3反帆5反帆船各1艘
10名乗り2艘(『宮古島在番記』(1706年~1867年)
13名乗り3反帆船(「琉球史料」)
15名乗り(『平良市史』)

 また、『大島私考』によると、1804年の大島の船は、

上屋がある3枚帆船8艘
板付船280艘
長さ1丈余の丸木をえぐったクリ船205艘

 で、いずれ小さな地船であったことが分ります。

 こうした状況は規定を強いた薩摩にとっても公用への支障があったようで、1774年の与論島役人の文書には、「山原船を借用することが、しばしばある」と、書かれているそうです。

 大型船を山原から借りるという構図は、山原(やんばる)への親近感の由来のひとつを知ることができて嬉しくなりますが、大型でなくても船をつくる材木をどこから調達していたのか。弓削さんは、『南島誌各島村法』から挙げています。

奄美大島
・建築材は自ら深山に入りて採り、米・麦で交易をするのは甚だまれである。
・馬は運搬用で、島民は毎年喜界島から買う。
・富豪の者は鹿児島、屋久島から良材を買う。

喜界島
・山林が乏しく、築造の材木は鹿児島・大島から買う。

徳之島
・大島と同じで自ら山林に入りて採り、敢えて米・麦と交易しない。
・手々相、山村には、製塩して交易を職業とするもの為り。

沖永良部島
・山林に乏しく築造の材は琉球国頭に求め、麦・粟で易する。
・製塩に暇がないときは、皆鹿児島に迎給する。

与論島
・山林はなく、薪は皆蘇鉄・アダン葉を使う。
・塩は絶えて産せず、皆琉球国山原に仰ぐ。

 ここでも、わが与論の山原(やんばる)依存が分ります。弓削さんも注目したのでしょう。こう書いています。

 沖永良部・与論と琉球山原との結び付き、喜界と大島の相互交易と鹿児島との関係、徳之島は製塩を売るということが、特徴的なものとして把握できる。沖永良部・与論と琉球の関係は、一八〇五年(文化二)の島役人の申し立ての中で、「薩摩役人、島役人、百姓までも、居宅・農具・諸木・たいまつなど皆山原で買い求める」というほどである。
 琉球も、一七五四年(宝暦四)の記録には「与論島・沖永良部島の者、木・竹 の買用で来着したら、承け届けて相対商売を許可し、帰りに荷物を改める」という。

 こうした記述を追うと、二重の疎外で境界が引かれ、かつ大型船建造を禁じられるという境界の強化にも関わらず、近しい島同士のつながりは必然的に絶えることなく続いていたのが分ります。ぼくも少しほっとします。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/04/24

漂着・飢饉時の借米機構

 18世紀末の『琉球館文書』に書かれた、漂着借米(他島に漂着したために借りる米のことだと思う)の返済方法を、弓削さんは挙げています。

1.以前は薩摩船頭・道之島のものが漂着して借米を渡す時、薩摩への上納米から「引合」っていた。

 これは、どこかの島へ漂着した奄美の島人に米を貸す場合、薩摩への年貢から出していたということだと思う。

2.1772年、薩摩藩は川上弥五太夫取り次ぎで、自分用事できたものに対し、借米を「出物米の内より相渡す」ことはいかがと思うので、今後、御用の者・格別なわけがある者は拝借させ、「島人ども自分用事につき罷渡り候面々」は拝借させないようにといってきた。

 「自分用事」とはいわゆる私事のことだろう。自分の都合で来た者に年貢から渡すのはよろしくないので、公用でない場合は、米を貸さないようにと言ってきたのだと思う。

3.以後、御用できた者には従来通り出物から渡す。それ以外の「薩摩船頭・水主・道之島の者共」が在番所を経て申し出る借米は、鹿児島の「琉球館」へ納めるという証文を受け取って借米させた。(在番所を経由はするが、その決済は琉球・奄美の直接決済ということになる。)

 「琉球館」とは、「薩摩に置かれた琉球王府の代表である在番親方等が詰める施設」のことだと言います。公用で来た以外の者には、琉球の責任で返済する証書を取った上で貸したということに思えます。

4.ところが返済はうまくいかず、遠海であるので催促もできず、それ故、琉球への未返済が米・粟で五百石余となっている。

 漂着した奄美の島人が琉球館経由で借りた米を返済できずに溜まっているということだろうか。

5.したがって、この滞納分を薩摩への上納米と相殺することを願い、かつ、以後は自分用事の者の借米も、以前のように上納米から渡すことを願っている。

 奄美の滞納分を、薩摩への年貢から差し引いてほしい。かつ、私事で借りる米も以前同様に年貢から渡してほしい。そういうことだと思う。

6.琉球の者が薩摩へ漂着して藩から借米したら、鹿児島の琉球館へ上納を命じられている(ということは、藩へ確実に返済されるということか)こともあるので、願を開いてほしい。

 弓削さんによると、琉球の願いが達せられたかどうかは不明です。ただ、「漂着船が際限なく、その一方、借米返済が首尾よく行かない実情を前提に、薩・琉が自らのリスクは回避しよう」としていたということを指摘しています。

 また、徳之島が飢饉にあえいだ1777年に、こんなやりとりがあったそうです。

 徳之島が、度重なる台風や塩害で飢饉になったとき、代官経由で島役人が那覇へ赴き、薩摩の在番役人に島の実情を話す。薩摩の役人は、琉球へ相談しないわけにいう反応。しかしそれ以後、薩摩の役人からは琉球へ問い合わせたからいずれ連絡があるだろうと言われたものの、音沙汰がないので、島役人から願書を書いたら、琉球から返答があった。両先島が凶作で八重山では流行病で死人がだいぶ出たので余裕がない、と。そういう事情なので、徳之島へは「二百石」ほど渡すという返事。それではあまりに僅かだからとその後もいくらかの交渉をした結果、「三百石」を徳之島へ卸すことになったという。

 弓削さんはこう考察しています。この琉球の対応は、飢饉での負担義務はないということにはならない。飢饉時についても拝借・返済の仕組みが出来上がっていたのだろう。自分都合で米を借りに来た奄美の島人に対して、薩摩が米を貸すなと言っても琉球は、それはできないという対応をしたのは、奄美との歴史的な一体感があったのかもしれない。けれど、一体感はあったとしても、琉球側の対応は、「藩の政策のもとで薩摩藩領土としての対応であったといえよう」。

 この考察を読むと、琉球を含めた、薩摩-奄美-琉球での貸借と返済の仕組みを説明するのと一緒に、琉球の採った態度が奄美にとってどういうものであったのか、それを敏感に察知しようとしている弓削さんの息遣いを感じます。そして弓削さんは思うのです。琉球は、制度以上の態度をとれたわけではなかった、と。

 ぼくは弓削さんの気持ちを察しながらも、琉球の制度的な対応はともかく、実際的な交流は絶えていなかったことに気持ちが和みます。



| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/04/23

報道ステーションで与論島

 偶然て面白いですね。あんまーと電話で話しをしていたら、TVは与論島を映すじゃありませんか。

サンゴ再生プロジェクトに密着

世界中の海で今、白化現象によるサンゴの大量死が問題となっている。サンゴに栄養分を与える“褐虫藻(かっちゅうそう)”と呼ばれる藻類が、海水温の上昇によって放出。白い骨格がむき出しになり、その状態が長く続けばサンゴ自身が死んで瓦礫となってしまうのだ。サンゴは二酸化炭素を吸収する力を持つため、死滅していくことは地球温暖化への悪循環を引き起こすことになる。こうした現状を救おうと、鹿児島・奄美諸島の最南端に位置する与論島では、“電着技術”を用いたサンゴの再生プロジェクトが始まった!世界中で危機に瀕するサンゴを救う第一歩となるか!?(「報道ステーション」)

 ぼくは茶花小学校の校庭や子ども達の貌が何より懐かしかったし嬉しかったですが、あんまーは鉄工所の方を懐かしそうに話していました。

 「電着技術」がどのくらい有効なのか、ぼくにはさっぱり分かりませんが、フバマも登場して、それだけでも心和むシーンでした。

 与論は相変わらずきれいです。珊瑚再生の深刻な場面には違いありませんが、いい映像でした。



| | コメント (2) | トラックバック (0)

米の島間流通

 屋久島では平木を薩摩へ上納して、島民は「生活必需品を藩の換算率で支給されるというシステム」が成り立っていました。奄美も同様のシステムで、屋久島の平木の代わりに「砂糖」がその任を担います。

 弓削さんが整理しているところによれば、砂糖買入制の変遷は、

大島、喜界、徳之島
1722~1777年 第一次定式買入制(定額買上制)
1787~1830年 第一次惣買入制
1830~1872年 第二次惣買入制

沖永良部島
1853年~     惣御買入制

与論島
1858年~     惣御買入制

 と島によって異なっています。

 そして、

藩は、毎年諸蔵、諸所の必要な米の数量を八月二〇日期限を決めて申し出させて、諸払数量を決めている。

 と申告制になってましたが、

問題は、この米、すなわち、「屋久島御続米」「大島御続米」「道之嶋御続米」「砂糖代米」、または役人への扶持米は、すべて鹿児島から運ばれているのではない。

 のだそうで、奄美・琉球間の流通でもまかなっていたそうです。

 ・沖永良部島→徳之島
 ・奄美大島→屋久島
 ・琉球→奄美大島、屋久島

 というように、薩摩-屋久島、奄美、琉球の各島のみで行っているのではなく、そのサブシステムのように、島間の流通によっても賄っていたということです。

 弓削さんはこんなエピソードを引いています。薩摩が、琉球製の米、「琉米」は大阪で値段が下がるので、奄美大島向けの米として使うようにと琉球に言う。琉球は、前から奄美大島向けの米は国頭から積み渡しているから構わないと返事したということ。

 ぼくは理由はともあれたったこれだけのエピソードでも、奄美、琉球の島々での交流のあったことを思うと、ほっとしてきます。

 また、琉球は、「出物総」(年貢皆済)の期限を8月から12月に延ばしてほしいと要望したこともあったようです。それというのも、那覇を出航しても、奄美大島や屋久島で米を下ろして滞在すると期限を守れないことがあり、しかもそうなると「利米」(米としての利子だと思う)を上納しなければならないから、というものです。

 弓削さんは整理しています。

1.薩摩への貢納期限が間に合わず、「利米」の負担が生ずる。
2.国頭米を積むため、出船が遅く、風で船が大島から再度琉球へ戻右場合も生じ、そのため運送中の欠損補顛分の「欠米」を差し足すことがある。
3.大島卸米用の囲い米は、琉球農民の夫役増にもなる。
4.薩摩商人にとっては、琉球が大島砂糖代米に不足が生じたときそれを立て替え、琉球に十割増しでの返済を要求したりするなど、琉球には負担となること。

 ここでは、薩摩が、「薩摩-各島」の一極集中ではなく、加えて、「島-島」の多極的な経済システムを組むことによって循環の合理性を求めたことと、同時に、利潤発生源を作ったという両方の側面があったことを注記します。



| | コメント (0) | トラックバック (0)

chabang

 久しぶりにGoogleEarthを覗いたら、与論島に chabang の地名が。
 これ、「茶花」ですね。

 「茶花」が「chabang」。誰がどこから引用して付けているのか分かりませんが、「茶番」?(^^;) もしくは「ジパング」という表音と似ていて面白いですね。

Chabang_2


Kakeroma2008






















 これは、同縮尺の加計呂麻島。与論の小ささ、加計呂麻の大きさがよく分かるというもの。
 
 与論が加計呂麻島のように鮮明になるとどう見えるか。楽しみですね。



| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/04/22

琉球でもない薩摩でもない。だが、琉球にもなれ薩摩にもなれ。

 薩摩の直轄支配であり、かつ「琉球国の内」の奄美への隠蔽政策は、複雑なものとしてあらわれたのである。とともに、その複雑さは一層徹底される。そのことは、特に異国船漂着や奄凄・琉球間の船への対処にみられる。

 そう弓削さんは解説しています。

1.1696年

 「琉球へ漂着・破損の唐船は直接清へ送還するよう」にという清からの要請が、琉球、薩摩藩、幕府を通して許可される。そしてそれは、「奄美へ漂着した唐船は従前、長崎送りとなっていたが、以後、琉球から清へ送還するように」という指示となって現れる。

 これはどういう意味でしょう。薩摩としては、奄美が薩摩の直轄領であり、琉球も支配しているということは隠蔽しなければならない。そこで、奄美に唐船が漂着した場合、薩摩との関係を隠し、琉球の一部であることを示すために、一度、琉球へ送ってから清へ送る手順を踏んだと理解すればいいのでしょう。

2.1742年

 長崎帰りの唐船が大島の大和浜へ漂着。この場合、前述の規定に従えば、この唐船は琉球経由で清へ送還することになります。事実、そうなるわけですが、弓削さんは、

・この船は奄美、琉球、清へと送還された。そのやり取りは奄美島役人と琉球役人とではなく、大島代官・琉球在番の薩摩役人同士でなされ、藩への報告は大島代官からもなされるという手順を踏み、
・琉球送還の薩摩船は「宝島船」とした。

という2点を指摘しています。

 つまり、唐船の送還手順の段取りは薩摩が行い、船も薩摩の船を用いて、ここに奄美、琉球はことの主体としては登場していません。にもかかわらず、隠蔽のために、船は薩摩船ではなく「宝島船」と称したわけです。

 厳密には分からないところがりますが、明らかに琉球船とは異なる船体と人員について、「宝島」という吐喇列島に着想源を置いた架空の国家あるいは集団を仮構して、その名のもとに薩摩を意味したということだと受け止めてみます。

3.1768年

 人数一五人乗組の大島船が前年一〇月、喜界島から帰島の時、宮古島へ漂著したので、二月に大島船を宰領して那覇に行く途中唐へ淳着した。唐では、船は琉球船の形と変わっているので不審をかったので、諸書付けを焼捨て、大島人の所持する京銭を海中へ沈め、武具は隠し首尾よくすんだということによる。

 こんどは、奄美の船が唐へ漂着した場合も、琉球として振る舞うことを強いられていた例として考えることができます。奄美は、中国に対して琉球として振る舞う、つまり二重の疎外が無いかのようにしなければならなかったのです。

 ところで、ここで弓削さんはこう付言しています。

ここで指摘しなければならないことは、船に対する対応についても、琉球は、奄美を清へ「琉球国」だと述べる。しかし琉球での奄美船への対応は、薩摩藩の政策のもとで日本他領の船の対処と同一であった。

 ここで、弓削さんは薩摩支配後の奄美と琉球の関係の感触をつかもうとしているのだと思う。琉球は、奄美を「琉球国」だと言うけれど、それは奄美を琉球の内部にあることを意味しておらず、奄美船については、他領の船と同等の扱いであったことから、薩摩の支配下にある琉球として奄美を疎外したのだということを指摘しているのだと受け止めることができます。

◇◆◇

 薩摩は清との関係で、奄美を「琉球道之島」とるすために徹底した隠蔽政策を採ってきたが、幕末に欧米諸国の艦船が、奄美・琉球に寄港するという新しい状況なで、崩れてきたといいます。

 一八四四年(弘化元)、フランス艦隊アルクメール号が那覇へ入港し、琉球へ通商・貿易・布教の三項目を要求。四六年にはフランス艦隊三艘が来て、再度要求。その内のヴィクトリユーズ号が逼天に停泊した。同年にはイギリス人宣教師ベッテルハイムがくる。このような状況下、薩摩藩は運天に商館を建て、そこで琉球・フランス貿易を計画した。四七年二月、新在番奉行の倉山作太夫らは運天周辺を調査した。

 このような動きの中で、四六年のフランス艦隊に対し琉球王府は「三島(喜界・大島・徳之島)並びに輿論島・沖永良部島・与路・請・加計呂麻八力島は当分トカラ島支配である」とし、奄美では薩摩藩のことを「異人共」へ「トカラ島」と答えることとなった。

 正確な理由を推し量ることができないのですが、薩摩は西欧との貿易を試みるために、沖縄本島北部にある本部の運天港に拠点を設けようとします。そのとき、奄美を琉球として擬態させるのではなく、こんどは「トカラ列島」支配に擬態させます。あくまで薩摩支配であることは隠蔽するわけですが、こんどは琉球ではなくトカラとなったわけです。

 これまでのように、清の船が奄美に漂着したり、奄美が清へ漂着したときのように、奄美と清が対する場合、奄美は琉球として振る舞うことを強いられたわけですが、西欧との貿易で薩摩が実際に登場しなければならなくなったとき、それでも薩摩が琉球内で登場することを避けようとすれば、薩摩ではない顔をしなければならない。そこで持ち出されたのが「トカラ」だったのかもしれません。

 トカラは確か、薩摩の琉球侵攻の際には、七島灘を越える船頭として動員されたはずです。そして、薩摩の隠蔽政策のなかで、「宝島」だったり「トカラ」だったりという現れ方で、奄美・琉球に関わったことになります。ぼくは時代に翻弄されたトカラと奄美・琉球の宿命について想いを馳せないわけにいかない気持ちになります。

◇◆◇

 ところで、ここでは、奄美はもっぱら琉球として振る舞う例が挙げられているわけですが、前利潔さんは、その逆、薩摩として振る舞わされる場面もあった例を挙げています。

 薩摩支配の隠蔽政策は、徹底されていた。一七九〇年、沖永良部島民が朝鮮に漂着。船内に大日本年代記や寛永通宝があったことから、朝鮮の役人は<倭人>ではないかと疑うが、島民たちは「琉球国中山王」の支配下の者であると主張し、寛永通宝も琉球の銭であると言い張った。つまり、<琉球人(非倭人)>であると主張したのである。(『朝鮮王朝実録』)

 <薩摩人>になることもあった。一七七三年、中国の寧波に漂着した薩摩船に、沖永良部島民二人が水主として乗りこんでいた。島民たちは月代をさせられ、「登世村」「嶋森」という名も「村右衛門」「嶋右衛門」というように、<薩摩人>として中国側に対応させられていた。薩摩の船であることが明白なときは、<非琉球人>になったのである。(『薩州人唐国漂流記』)
(「時評2006 10月」「琉球新報」前利潔)

 薩摩船に乗り組んでいた場合、奄美は薩摩として振る舞わなければならなかったという例です。

 二重の疎外とその存在の隠蔽と。ということは、二重の疎外を受けつつ、隠蔽のなかでは、疎外された当の者に変身することも求められたということを意味しています。奇妙なことに、この二つの場面では、一見、二重の疎外は解消され、一方で奄美人は、過去とのつながりを回復した琉球人になり、一方では、獲得すべき未来としての薩摩人になったかのように見えます。ではその場に出くわした彼ら奄美人は、琉球人として懐かしく振る舞い、薩摩人おしては晴れがましく振る舞ったでしょうか。

 いや、グロテスクな冗談はよそう。だいたい、そう振る舞わなければならない時とは、隠蔽がばれてはいけない当の中国に対しているのだから、奄美人にとっては命がけの場面であったに違いありません。しかもその前に、二重の疎外で、もともと否定されているものになるという行為は、演じることによってしかなしえない変身です。薩摩人を新たに演じるというだけではない、もともとそれであったはずの琉球人ですら演じるものに転化してしまったわけです。

 お前はAではない、Bでもない。だが、ある場面ではAになれ、別の場面ではBになれ。こういうあり方は自己存在を消去して演じることによってしか成り立たせられないでしょう。ぼくたちはここで、奄美の島人が自己喪失者としてあり、島尾敏雄が奄美の人は長い間、自分を無価値のように感じてきたということの具体的な理由に触れかけているのではないでしょうか。



| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/04/21

「琉球国の内」の奄美

 「琉球国の内」という擬態は、奄美にどういう問題をもたらしたか。弓削さんは、航路、対琉球、対薩摩の観点から整理しています。まず、航路について。

1.琉球上下船の難破、漂着、滞留時の船や船頭・水主などの保全
2.藩へ上納する「仕上せ船」が期日どおり到着するような手だてと監視
3.唐物、抜荷の禁止と監視
4.薩摩役人など諸役人と共に「琉球人」を特定して彼らへ酒・酢・醤油を百姓が出すことの禁止
(「大島規模帳」)

 これらの項目は航路のマネジメントという感じですが、弓削さんは屋久島と比較して、「奄美は琉球・薩摩藩間の安定した交通ルートの確保、監視の役割を担わされている」と指摘しています。

 対琉球との関係ではどうでしょう。

1.以前から布達されていた「島中の者」が本琉球へ行き、琉球位階制の一つである鉢巻をもらうことの禁止
2.島津侵略以後は菅平百姓であり、家柄を申し立てることは「無用」であるという身分編成が理由ではあるが、本琉球支配の家柄を今もって申し上げることは「遠慮」すべきであること

 これは社会構成として琉球との断絶を意味していますが、二重の疎外のうち、「地勢と自然と文化の同一性の親和感から沖縄を向けば政治的共同性が異なると無視され」(「二重の疎外の力学」)という疎外の側面をなぞるものです。ただ、鉢巻や家柄は、厳密に言えば政治的共同性が異なるというだけでなく、文化的な交流も絶たれることを意味していました。

 対薩摩の関係はどうでしょう。

1.島中の者どもは日本人のごとく髪を刺して売買のために他出しないこと
2.薩摩役人の代官・附役・運賃船に至るまで島人を鹿児島へ召し連れることの禁止
3.島人どもの容鉢・名は今までどおりにすること、日本人の名をつけることはやめること、剃刀禁止

 ここには、政治共同体の傘下にあるとはいえ、植民地的な状態に置くことの具体的な中身を見ることができます。これは、二重の疎外のうちの「政治的共同性の同一性から薩摩に顔を向ければ地勢と自然と文化により差別される」の側面を物語ります。(「二重の疎外の力学」

 琉球との政治的な関係を絶たれながら、大和となることを禁ずる。もし、薩摩藩の直轄領が新しい時代の運命であるなら、琉球は過去、薩摩は未来を意味することになったでしょう。ところが、二重の疎外の疎外たる所以は、過去を絶たれ未来も絶たれることのなかにあったということです。そのなかで、薩摩-琉球の航路のマネジメント、主体として行き交うことのない航路の監視員であり続けることを強いられたのでした。



| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/04/20

「琉球を離れ吾に内附せしは内證のこと」

 奄美の困難を「二重の疎外」と捉え、そこから、奄美を「琉球と大和の二重意識」として掴み直しました。けれどこれでもまだ奄美を充分に掬い上げているとは言えないでしょう。まだまだほどけないものを感じます。

 ここで、弓削政己さんの「奄美から視た薩摩支配下の島嶼群」という考察を手がかりに、奄美の「二重の疎外」の構造をもう少し掘り下げてみたい。残念ながらぼくの知識では、弓削さんの考察を充分に理解するのは難しいのですが、やってみます。

 さて、薩摩藩が直轄支配した近世奄美は、どういう位置づけを持った支配形態であったのか。このことについて、一八七四年(明治七)に汾陽光達は『租税問答』で次のように指摘する。
 間て日、右判物の趣(註、奄美の高が琉球高とされていること)を以ては道之島は中山王領地の筋なり、然れば慶長より琉球を離れ吾に内附せしは内證のことなるや、

  答て日、然り、内地(註、薩摩藩)の附属と云うこと、別段御届になりたる覚へなし、故に代々の判物骨替ることなく拾二万三千七百石余なり、道之鳥人今に至り容貌を改めざるも是が為なるべし、琉球へ封王便渡来は中山国第一の大礼なり、此時には道の島より鶏、玉子、豚、薪の類を米にて調納する遺例ありて五島皆然り、島の大小に因て其品多寡ありとぞ、此時も外には何も交際あることなしと琉人より聞けり。

 薩摩は幕府から一六三四年(寛永二)奄美の高を含めて琉球国高として領知されている。

 ここで明らかなように、薩摩の直轄地でありながら琉球国の内という奄美の支配形態は、別言すれば、「琉球に似せた直轄地」として、いわば擬態的直轄支配の島嶼である。(弓削政己「奄美から視た薩摩支配下の島嶼群」1989年)

 奄美の収穫高が、琉球高とされていることからすると、「道之島」は中山王の領地になるのが筋だが、そうなっていないということは、慶長から琉球を離れて薩摩に付属しているのは内証のことか? 答え言うに、「そう、薩摩藩の付属である」。

 こういう意味だと思う。これを指して、弓削さんは、奄美の支配形態を「擬態的直轄支配」と名づけています。薩摩による琉球侵攻によって奄美は、薩摩の直接統治下に入る。実はそれだけではなく、表向き、奄美は琉球王国下にあるように見せて、直接統治を隠していたということです。

 ぼくたちの文脈からいえば、弓削さんの言う「擬態的直轄支配」は、奄美は二重の疎外を強いられていたというだけではなく、外に対して二重の疎外は存在していないかのように振舞うことも強いられたと言うことができます。

 改めて、奄美は途方もない関係を強いられていたのが分かります。いじめられた上で、いじめられていることを誰にも言うなと口止めされているようなものですね。

 つづく



| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/04/19

「奄美人の主体」の解体へ

 昇曙夢の『大奄美史』はまだ読んだことはありません。でも本人が『大奄美史』の「内容を省略した廉価本」として出した『奄美の島々・文化と民俗』は、幸いなことに父が遺してくれた蔵書のなかにあり、読むことができました。

 昇曙夢といえば、「日奄同祖論」を思い浮かべますが、その基本的な考えは、第二章第二節、「奄美人の主体」で開陳されています。

    二、奄美人の主体

 人類学者や考古学者の研究によれば、日本民族は単一の種族のみから成立っているのでなく、固有日本人を中心として、それにいくつかの先住民族の血液が混合されているとのことである。かって無人島であった日本に最初に渡って来たのが、現在北海道の一部に追込められているアイヌであった。アイヌは白哲人種の一つであって、いつとも知れぬ太古に西アジアから東進してシベリアの東端に辿り着き、今から三、四千年前に一部は間宮海峡を渡って日本に入り、一部は朝鮮海峡を経て本州全土に拡がり、南は九州の薩摩にまで延び、更に遠く奄美大島や沖縄まで移住したのである。アイヌの外に南洋方面からインドネシアンが海潮に乗って渡来したが、この種族は九州に渡る途中沖縄や奄美大島にも立寄ったので、その落ちこぼれがこれらの島々にも残っている筈である。

 しかしこれらの種族は決して日本民族の基本をなしているのではない。日本民族の主体をなしているものは、古代において支那の歴史に東胡と呼ばれていた大民族である。これは清洲やシベリアに占拠していて、古代支那を絶えず脅かしていた旬奴と同じ系統のものだと言われている。この種族の日本に渡来したのが、すなわち原日本人または固有日本人という学術名で呼ばれているも…のである。彼等の一部はアイヌとほぼ同じ時期に、やはり間宮海峡を渡って出雲を中心に植民し、最後に最もおくれて、朝鮮半島から対馬海峡を渡って九州に上陸し、日向地方を中心に勢力を張ったのがいわゆる天孫民族であろうと言われている。中でもこの天孫民族が最も優秀な智力と武力とを有する種族であって、その一部がわかれて遠く南の島々に渡ったのが奄美人や琉球人の主体であり、またその祖先である。

 勿論奄美人の体質中に先住民族、特にアイヌの血を多少共混じていることは争われないが、しかしこれはひとり奄美人ばかりでなく、アイヌを等しく先住民として有する日本人全体についても言われることで、奄美人や琉球人のみに限ったことではない。わが国人類学の泰斗坪井正五郎博士は言っている-

 「我等日本種族の中には少なくともアイヌ・馬来・朝鮮の分子があり、この三大分子の混じて組合わされたものがすなわち日本種族である。アイヌの分子は鬚髯多く、容貌アイヌに革似し、東北地方及び西南地方に比較的多く、朝鮮分子は主として顔細長く、蜃多からず、九州北部より日本海方面に多く、マレイの分子は頬骨高く、鬚髯また少なく、近畿・四国・九州地方の太平洋岸に比較的多い。ただ爰に注意すべきは、その温種別合いに二分八分、三分七分等の割合いはあろうが、直ちに或る特定の人を指してアイヌなり、マレイなりと断定することは誤である云々。」
 

 いずれにしても奄美人の主体が固有日本人であり、特に最後に渡釆した天孫民族の子孫であり、その一支族であることは間違いなく、これについては明治廿七年沖縄に出張して、種々の方面から琉球を研究した帝大講師チャンバレン氏も言っている -

 「彼等(日本人と琉球・奄美人)の祖先は昔て共同の根元地に住んでいたが、紀元前三世紀の頃大移動を企て、対馬を経過して九州に上陸し、その大部分は道を東北に取り、行く行く先住民を征服して大和地方に定住するに至った。その間に南方に彷径しっつあった小部分の者は、恐らく或る大事件のために逃れて海に浮び遂に琉球諸島に定任したのであろう。これは地理上の位置に於ても伝説の類似に於ても、又は言語の比較に於ても容易に立証することが出来る。」

 その他体質人類学、言語学、民俗学、血清学の上からも、また手掌理紋や古人骨や石器の研究からも、日本民族と南島民族の同根同族であることが明らかに立証されているが、ここでは省略することにした。(昇曙夢『奄美の島々・文化と民俗』1965年)

 「日奄同祖論」は、伊波普猷の「日琉同祖論」を下敷きにしているでしょう。「日琉同祖論」が、琉球人は日本民族と祖先を同じくすると主張しているとするなら、「日奄同祖論」は同じように、奄美人は日本民族と祖先を同じくすると主張するものでした。

 いまでは学問の世界では「日琉同祖論」は批判つくされているそうですが、その延長に「日奄同祖論」を批判したいのではありません。「日琉同祖論」も「日奄同祖論」も、それ自体は当たらずとも遠からずと思って済ませてきました。ぼくはそれより、「日奄同祖論」が奄美で持った意味のほうに関心を持ちます。

 昇の「奄美人の主体」を読むと、随分と差別的な内容で戦前の国家主義の環境下にあって書かれたものではないかと想像しますが、そうではなく、この本が出版されたのは昭和三十三年、1958年です。1958年といえば、戦後であることはもちろんのこと、復帰して5年gが経過しています。昇は「奄美大島日本復帰対策全国委員会」の会長も努めていました。つまり、「奄美人の主体」は、復帰運動の思想的なバックボーンとして作用し、復帰後にも昇のなかで生きたということです。

 ぼくはそのことに驚き、躓きます。戦前の国家主義の名の下に展開されたかのような思想が、戦後の復帰運動に機能したということなのですから。本土は戦後でも、奄美はこのときまだ戦時下にあったという見方もできますが、国家主義的な思想が復帰運動のバネになったということは、奄美のこれからを考える上で立ち止まって考え直してみる価値があると思います。ぼくたちがいるのは、復帰と地続きの世界に他ならないからです。

◇◆◇

 昇の言う日本民族は、単一ではなく、先住民族の存在があり、それとの交流のなかで培われたものだとしているのが特徴です。決して単一民族であると強弁しているわけではありません。しかしその代わりに、日本人のなかには「固有日本人」があり、それが日本人の主体をなしていると言います。そして、奄美人の主体も「固有日本人」に他ならない。それが昇の「日奄同祖論」の骨格です。

 現在もぼくたちがいる復帰後の世界で、その復帰の思想的バックボーンをなしたのが、この「奄美人の主体」という考えであったなら、ぼくたちが奄美の未来を構想するときに、まず乗り越えていかなければならないものもここにあると思います。ただ、それは難しいことはではなく、種族間に優劣を持ち込むのは誤りである、と指摘すれば済むと思えます。

 だいたい「落ちこぼれ」と言われると、顔立ちからいってぼくもその「落ちこぼれ」のひとりと思ってしまいます。それに、昇さんの顔だって、

Photo_3













言うところの「おちこぼれ」系、奄美の非主体の側の顔立ちですよ、と言いたくなります。これは意地悪ですが、昇さんが主張している蔑視の意地悪へのささやかなお返しです。

 自分の血のなかには、優性と劣性が混じっているという自己認識はきついものであるに違いありません。こんな自己認識は、自己嫌悪、自己侮蔑を招かずにおきません。そして、この自己嫌悪、自己侮蔑は容易に他者への嫌悪、侮蔑に転化して表出されるでしょう。

 ところで、奄美をめぐる言説を辿ってゆくと、「違う」という主張が多いのに気づきます。曰く。奄美と沖縄は違う。北奄美と南奄美は違う。いや同じ島の中だってシマごとに違う。その厳密な差異の説明を学びながら、ふと、こんなに似ている者同士、どうしてこう、「違う違う」とばかり、差異を強調するのだろう、と不思議になることがあります。

 奄美が自己形成過程にあるからと理解すればいいでしょうか。それなら、自己形成過程においても、自己嫌悪、自己侮蔑的な自己認識はないほうがいいに決まってますから、昇の「奄美人の主体」を過去のものとすることは大切な作業であるに違いありません。

 日本人も琉球人も奄美人もアイヌ人も優劣の差はありません。そもそも日本民族という概念が、国家としての日本を前提にしたもので、だから日本国家を成立させた政治勢力の種族が、優勢であるかのような仮象を生むというに過ぎないでしょう。素朴にいって、「先住民を征服」するのを「優秀」と見なすのには頷くことはできません。

 ぼくたちは、奄美人はどんな人々から成り立って、どんな世界観を築いてきたのか。それを、種族間を等価と見なしながら、奄美人とは何者か、奄美とは何かを明らかにしていくことが、「奄美人の主体」の向こう側へ行くことだと考えることができます。



| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008/04/18

体験泥染めインバウンド法

 山元さんは、奄美大島で泥染め体験を企画しています。その告知媒体がこれ。先日の「夜ネヤ、島ンチュ、リスペクチュッ!! in 東京」の会場にも置いてありました。

Dt1_2

Dt2

















 葉書き大の厚紙の両面を使ってアピール。ぱっと見、返信用葉書きになっていてそれで申し込むのかなと思いきやさに非ずで、携帯で申し込むというもの。

 「お越しになられる前にお電話下さい。」

 なんて案内がいい。これが葉書きだったら、それこそ、旅行の日程にしっかり組み込んだ上で予約しなければならない。それが、「お越しになる前に」なのだから、ちょっと時間が空いたらとか、気が向いたらとか、のお気軽感覚で申し込めます。しかも、「お越しになる前」ってどのくらい前なのか、注釈がないのもいい。結局、いつでもいいよと言ってるようなものです。

 思わず笑ったのが「雨降りでもOK!」という注釈。これ、何か違いますね。ふつうたとえば、何かのイベントがあるとして、そこに「ラフな格好でもOK!」とあるとしたら、スーツ姿が多くなると思われる場だけれど、そんなことはない、ラフでいいですよ、というような、ハードルを下げる文脈で使います。

 それを「雨降りでもOK!」と言うのは、申し込む方からすればハードルが上がってます(苦笑)。いや、旅の途中、雨が降るなんてことはよくあること、それでキャンセルになるのは残念なもの、と、そんな配慮からすると、参加のハードルを下げていることになります。でも第一印象、「雨降りでもOK!」は、雨でも来いよ、ずぶぬれでやろうぜと誘っているようで楽しい。

 「思い出とおみやげを一緒に」。ほんとう、そんな企画です。

 「これで、どのくらい申し込みある?」
 「あ、結構ありますよ」

 結構あるってどのくらいかは分からない(苦笑)。けれど、<チラシto携帯>のインバウンド法は、手軽で親密感があって、いいですね。



| | コメント (4) | トラックバック (0)

2008/04/17

琉球と大和の二重意識

 奄美とは何か。そのことをずっと考えてきました。

 ぼくは、奄美の困難を、二重の疎外と考えてきましたが、それは薩摩の琉球侵攻以降に始まったものではなく、大和朝廷勢力の南下の折に胚胎され、薩摩の琉球侵攻以降に完成したと捉え直しました。

 二重の疎外は、現在も奄美の困難として生きていると思えますが、いま、困難をそれによって生きる奄美人の所与の条件だと見なしてみます。そう見なすと、奄美とは琉球と大和との交流拠点であると素描することができます。

 大和が南下したとき、琉球弧のなかでその交流拠点となったのはどこよりも奄美でした。交流は局所的であったり断続的であったりのゆるやかなものでした。ついで王国としての琉球が北上したときに、交流は希薄化したかもしれません。しかし、それは薩摩藩の琉球侵攻以降にさらに本格化しました。これらの交流は、特に薩摩としての大和が覆いかぶさった期間、激しい痛みを伴うものでしたが、奄美の島人はその美質を失わず、よく生きてきました。

 いまも、琉球か大和か、それが問われる場面では、奄美はどちらにするのか、まるで二者択一の選択肢として現れるので、そのアイデンティティは浮遊せざるをえません。その浮遊感は、自信の無さに結びついたり、優しさとして表出されたりしてきました。また、奄美は大和であるという主張も、奄美は琉球であるという主張も生んできました。これは、共同観念に成長していない以上、他者の見なしに対する反論という形を取らざるをえませんでした。

 奄美とは何か。それは、琉球と大和の二重意識のことです。

 奄美は、亜熱帯ヤポネシアの北部地域に位置し、高島から低島への幅と、森から珊瑚礁までの幅を持っています。そしてその幅は、中南部琉球弧へと反復されます。そして、この振幅のグラデーションは、意識のなかでは、琉球と大和の二重意識のグラデーションとして表出されてきました。この二重意識は、大和にもない琉球にもない奄美固有のスタイルをなしています。

 奄美は、この二重意識を基盤に、琉球と大和の交流拠点を担ってきたのです。




| | コメント (4) | トラックバック (0)

2008/04/16

沖縄アイデンティティ0%超50%以下地帯

 昨年、奄美とは何かと問うてみて、ひとまず「真珠とガラパゴス」と書きました。ただこれは、高島から低島まで、森から珊瑚礁までの自然の幅を表現したもので、本質的な答えにはなりません。これをひと言で言おうとすれば、たとえば、北部亜熱帯ヤポネシアなどと言うこともできるわけですが、これもことの本質を言い当てていることにはなりません。

 むしろ、奄美とは何かという問いに本質的に答えようとすると、自然環境に拠ってしまうところに、らしさが現れています。なぜなのか。それは、問いに本質的に答えるための内在的な素材が希薄だからです。触れるべき内在性が不足しているということ。そしてそれは、奄美が文化的な蓄積を育む環境に無かったことが最大の理由だと考えます。生産物の収奪と古文書の没収は、奄美が、自分たちの歴史を足がかりにしながら新しい何かを付加していく力を著しく損ねたと思うのです。

 奄美とは何か。それに答えるには、答えるための材料に乏しい。そうであるなら、その結果、奄美人はどんな意識構造を持っているのか。そういう問い方をしてみます。

 奄美人のアイデンティティの信憑のひとつの形は、

 奄美は沖縄ではない

 という形をしています。けれど、それだけでは収まらず、この信憑はその反動のように、

 奄美は沖縄である

 という逆の信憑も生んでいます。

 と、ここまでくると、これを「奄美」という表現でくくるのは抽象的になってしまうので、もう個別の具体的な島名で表現するのが妥当に思えてきます。

 たとえばそれは、

 奄美大島は沖縄ではない
 与論島は沖縄である

 という形をしています。

 もちろんこうしても、奄美大島人の全体が、「奄美大島は沖縄ではない」と考えるわけではないし、与論島人の全体が「与論島は沖縄である」と見なしているわけでもありません。

 するとむしろ、

 奄美は、沖縄から鹿児島までである

 と、これまた幅で言うしかないことになります。
 この幅はアイデンティティを捉えたものですが、それなのに「奄美は沖縄と鹿児島の間にある」という地理的な表現と同一になるところ、ここでも奄美らしい落ちに出くわします。

 ところでここで言う沖縄とは県としての沖縄というより、琉球と言っても構わない文化圏としてのそれを指していると捉えて、沖縄アイデンティティといえば、奄美とは、沖縄アイデンティティ0%超50%以下地帯と言うことができます。

 (奄美アイデンティティ)  0%<(沖縄アイデンティティ)≦50%

 0%以上ではない、0%超。奄美は、沖縄アイデンティティが潰える場所ではないから。もうひとつ。50%以下は、50未満ではない。半分以上、沖縄アイデンティティであるという信憑もあるからです。

 この表現もまた奄美の本質的な表現にはなりえませんが、ひとつの補助線として引いておきます。




 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/04/15

山之口獏の「会話」のつづき

 奄美のアイデンティティを考えると、山之口獏の詩「会話」を思い出します。

  会  話

お国は? と女が言った
さて、僕の国はどこなんだか、とにかく僕は煙草に火をつけるんだが、刺青と蛇皮線などの聯想を染めて、図案のやうな風俗をしてゐるあの僕の国か!
ずつとむかふ

ずつとむかふとは? と女が言った
それはずつとむかふ、日本列島の南端の一寸手前なんだが、頭上に豚をのせる女がゐるとか素足で歩くとかいふやうな、憂鬱な方角を習慣してゐるあの僕の国か!
南方

南方とは? と女が言った
南方は南方、濃藍の海に住んでゐるあの常夏の地帯、龍舌蘭と梯梧と阿且とパパイヤなどの植物達が、白い季節を被って寄り添うてゐるんだが、あれは日本人ではないとか日本語ほ通じるかなどゝ談し合ひながら、世間の既成概念達が寄留するあの僕の国か!

亜熱帯

アネッタイ! と女は言った
亜熱帯なんだが、僕の女よ、眼の前に見える亜熱帯が見えないのか! この僕のやうに、日本語の通じる日本人が、即ち亜熱帯に生れた僕らなんだと僕はおもふんだが、酋長だの土人だの唐手だの泡盛だのゝ同義語でも眺めるかのやうに、世間の偏見連が眺めるあの僕の国か!
赤道直下のあの近所
(山之口獏「会話」1938年)

 よく知られている詩「会話」は、好奇心と蔑視の餌食になりたくないために、出自を隠す沖縄人のアイデンティティのありかをよく物語っています。山之口によれば、この詩の発端にはこんなエピソードが控えていました。

 ゴンドラではこんなことがあった。ある役人(ゴンドラの常連)が、沖縄へ出張したが、帰って来てのみやげ話を、ゴンドラでした。「酋長の家に招かれてバナナだのパパイヤだの、泡盛だのを御馳走になって大変な歓待を受けた」というふうな話し方なのである。
 ゴンドラの女将さんはもちろんのこと、ぼくの恋人であるその娘も、そして沖縄人であるぼくも、それをきいているのである。女将さんや娘は、珍しそうに、目を輝やかせて沖縄の話をきいているのであるが、困るのは詩人のぼくなのであった。ぼくにはそのころの詩で「会話」というのがある。(「ぼくの半生紀」『山之口獏』所収)

 これは昭和11年、1938年頃の話です。当時の山之口は「僕の女」にすら言えないというほど、アイデンティティに悩んでいました。そしてその後もこの型のエピソードは再生産され続けます。ぼくも、随分ゆるやかになったとはいえ、鹿児島に転校したとき、同級生に「あそこは何語を話しているの?」という悪意のない質問を受けたものです。近代期南島の島人はこれと似た場面にどこかで出くわし、同じような、あいまいな答えをした心当たりがきっとあるのではないでしょうか。

 そのことを糾弾しようというのではありません。こんなエピソードは、自分の加害の立場になるときがありうる内省なしには、正当に言及できないと思います。ぼくもどこかで誰かに我知らず逆の立場を演じたことがないとは言い切れない気がします。

 ぼくは、この「会話」という詩にあるシンパシーを感じてきました。それというのも、ぼくも、「お国は?」と聞かれて、「ずっと南」とか「亜熱帯」とか「沖縄の方」とかあいまいな言い方を繰り返していたことがあるからです。

 でも理由は、山之口のように、「沖縄」と名指されたくなかったからではありません。与論が「鹿児島」であると見なされたくなかったからです。「あそこ鹿児島なの?知らなかった」という認識されるくらいなら、「沖縄」的であるという行政上の所属は誤解だけれど、文化的には正解のまま漠然とした理解でいてくれたほうが、アイデンティティの居場所を見いだしやすいのです。それだから、後年、与論がリゾート地として脚光を浴びたのに乗じて「ヨロン」と記号化されるや外国の島と見なされたり、昨年の映画『めがね』で、「どこかにある南の島」と住所不明のように扱われたりすることに、むしろ心地よい座りのよさを覚えてきました。

 しかも、山之口のように「沖縄」が表面化されるのを恐れることはなく、「与論」は明示したい強調したいポイントでした。ぼくの場合、与論が所属する場をめぐって、山之口の「会話」が反芻されたわけです。もちろんそれは、「与論」に対する本土からの視線がリゾート地への憧れ含みになっていたから表明できたということに過ぎず、構造としては、「会話」の続きであることに変わりないと思えます。「会話」の悩みを引きずっているわけです。

 ところでこの感じ方は与論一般ではないでしょう。ぼくの弟たちは与論生まれですが、こうしたこだわりは理解できないはずです。理解できないというより、こうしたこだわりのきっかけが彼らには訪れなかったでしょう。だから、ぼくも弟たちにぼくの感じ方が妥当であると主張することもありません。

 それに奄美一般からすれば、ことは逆で、むしろ奄美は鹿児島であることを強調するほうに傾いているのかもしれません。ぼくが、与論は沖縄と漠然と見なされることを期待したとすれば、その漠然とした理解に楔を打ち込むように、奄美は沖縄ではない、鹿児島であるという主張が成り立つわけです。これは人々の漠然とした理解を誤解として退けるために、珍しく自己主張する必要がありました。

 この、奄美は鹿児島であるという主張と、奄美は鹿児島ではないとする見なしは、考えてみれば、奄美の二重の疎外が生み出すアイデンティティの二重性です。大和と沖縄に引き裂かれるという構造が存在する限り、アイデンティティはこの二つの類型を析出せずにおきません。

 この居心地の悪さを、従来、奄美人は、大和人になることで、そして近代以降は、奄美人の琉球的な母型を自己否定して日本人になることで解消しようとしてきました。しかしそれは自己喪失に他なりません。自己否定して大和人・日本人になるのは解決ではありません。

 ぼくの考える二重の疎外の脱出は、外に脱出口を見出すのではなく、内を掘ることに糸口を持つと考えます。

・奄美を内在的に語ること。
・奄美と沖縄の同じところを明らかにすること。
・奄美が大和との交流で果たしてきたことを積極的に評価すること。

 奄美の内実を豊かにすること。奄美の内部が満たされれば、語るべきことが生まれ、外への連結手も自然に伸びてくると思えます。それが奄美のアイデンティティを安定的にする方法ではないかと思います。

 山之口獏の詩から七十年経って、ぼくたちは彼の悩みは半分、終わっていると言うことができますが、もう半分は「会話」の続きの話をつくっていかなければならない気がしています。



| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/04/14

「夜ネヤ、島ンチュ、リスペクチュッ!! in 東京」のゆうべ

 ゆうべは思い立って、「夜ネヤ、島ンチュ、リスペクチュッ!! in 東京」を観に新宿へ行ってきました。日ごろ、奄美あまみと書いている割には、大島の島唄をオンパレードされたら場違いな気分にならないか、柄にもなく引っ込み思案になっていたんですが、でもまあそれは杞憂というものでした。

 ひと口に言って、奄美(大島)は明るくなった気がしました。

 ぼくはこれまで奄美(大島)の哀調を帯びたメロディの島唄を聴くと、哀しいなぁ大島の人は苦労したんだなぁと辛くなるものでした。でもその印象が少し変わって、むしろ琉球方言で歌う優しい民謡に聞こえました。松元良作さんは、「行きゅんな加那」の歌詞の意味を、ぼくたちは知らずに歌っているけれどこんな内容ですと解説していましたが、詞内容の方言(島口)の意味が抜けたところで歌われる点が哀切さの響きが和らぐ理由になっているかもしれません。

 哀切さ辛さよりは、琉球方言の響き、唄者の歌唱力に心奪われるのは、ひとつには奄美の民謡の背景にあった娑婆苦が緩和されているからに違いありません。それが、明るさのひとつの背景になっていると思えます。

 もうひとつは、島の唄者というより島出身のミュージシャンと言ったほうがふさわしいように、現在のポップの担い手も増えたからでしょう。我那覇美奈さんの歌は、島を歌の素材に使った現在の歌謡でした。その分、島唄の情念からは自由で、若い世代の切なさを歌に乗せていました。中孝介さんの歌もこの系譜にあるでしょう。そして、中孝介さんの出番では、会場外で同窓会?を決め込んでいた人たちも会場内に押しかけてくるように、奄美(大島)がメジャーなミュージシャンを出す地になったことが、明るさを強力に後押ししてくれているのが分かります。消されそうな火を両手で覆ってそっと見守るのではなく、まばゆい光に見とれていればいいという変化がここにはあります。

 ぼくがいちばん聞き入ったのは、里アンナさんの「わん島」でした。彼女の歌唱は、島唄のエッセンスを現在のポップに生かすというレベルを越えて、奄美の深い森から声を発しているような、ソウルフルなエネルギーが充満していました。これは、元ちとせさんの歌にも感じる魅力です。そういえば、元ちとせさんのビデオ出演もよかった。東京国際フォーラムの「GREEN plugged LIVE」では借りてきた猫のようにぎこちない挨拶をしていましたが、島人ばかりという安心感があるのでしょう。島の姉さんのコメントで、場が和みました。

 奄美(大島)の出身者ではないですが、ハシケンさんのワイド節もよかった。ハシケンさんにかかると、あのワイド節は、あれはロックですね。それがよく分かりました。他郷の方がアレンジを加えて取り上げることができるのは、80年代に坂本龍一らが沖縄音楽でそうしたように、ミュージシャンの力量にも依るでしょうが、その前提に、奄美の身体と切っても切れない民謡が、他者と共有可能なものに変わったことを意味しています。もちろん民謡が変わるのではありません。それを歌う人と歌う舞台が変わるからです。

 奄美(大島)は明るくなった。よかったよかったと思わずにいられませんでした。

◇◆◇

 もちろん厳しい現実がないわけではない。むしろ厳しい現実があるのは分かっていて、それを変えなきゃいけないという努力が、この明るさを支えていることを忘れてはいけないでしょう。昨夜のイベントは、「あまみエフエム ディ!ウェイヴ開局一周年記念」で行われたものですが、ラジオ局のみなさんの情熱あっての舞台運営だったと思います。変な言い方ですが、途中、ディ!ウェイヴの紹介をしてくれたスタッフの方たちのトークが垢抜けているのには隔世の感を覚えました。奄美(大島)は変わったんだなあと痛感する瞬間でした。

 ディ!ウェイヴでは、英語と一緒に島口を覚えようというコーナーも紹介されていましたが、この番組は明るさと引き換えに忘れてしまった島口を、明るさを力にして覚え直そうとしているように、ぼくには感じられました。

 ぼくは昨夜の奄美(大島)の方言や島唄の意味がなんとなく分かったし、那覇に行っても街角のおばぁたちが話す言葉がおおよそ分かります。それはひょっとしたらぼくが沖縄と奄美大島の琉球方言を等距離で見ることができる与論の人だからかもしれないのに気づきました。それに、いつもは琉球音階で血が騒ぐので、島唄の締めはカチャーシーのほうがしっくり来る方で、六調が身体に響いてくることはこれまで無かったのですが、昨夜はその印象も変わって、奄美の歌謡に身体を馴染ませて入っていけば、そのリズムは琉球弧のそれだという同一性を感じることができました。それは、民謡の響きにもMCにも感じたことで、ぼくには嬉しい発見でした。だって、サーモン&ガーリックのMCは、沖縄の笑築過激団などのそれと口調が瓜二つです。模倣と言いたいのではなく、つながっているのがよく分かったのです。

 そのつながりからいえば、ここに沖永良部や与論の歌い手も登場して曲を披露してくれれば、島ンチュの意味が、奄美大島(や喜界島)限定ではない広がりが生まれるだろうと、そんな場を期待したくなりました。

◇◆◇

 コンサートを抜けては、オーガニック泥T推進リーダーの山川さん、亀尾さんとともに山元さんの泥染めの店を手伝えて嬉しかった。そこで山元姉兄弟にも再会できて嬉しかった。昨年奄美で行ったコンサートの東京バージョンを7月30日に計画しているソプラノ歌手の萩原かおりさんと再会できて嬉しかった。水間さんとお会いすることもできて、それもとても嬉しかったです。夜の時間が押して、山元さんとTシャツの打ち合わせをすることすらできませんでしたが、大島ンチュの輪のなかに加えてもらってご機嫌な夜でした。

Dorozomeshop












 そうそう。亀尾さんの発見ですが、奄美(大島)ンチュは、男女問わず、ハンチング率が高いですね。亀尾さんの見立ててでは20%。ゆうべのびっくりのひとつです。あれ、どうしてだろう?いつから流行ってるんだろう? 楽しい謎をみつけました。そのうち解明したいです。

 奄美(大島)のみなさん、楽しいひと時、ありがとうございました。とおとぅがなし。


Photo












(「うかれけんむん」だなんて飲まずにいられないネーミングです)


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/04/13

そりゃ九州でしょうという声と沖縄のほうがという声と

 道州制について、奄美は琉球と九州を選ぶとしたら、どちらに入るべきと思いますか?と、「奄美の家」の圓山さんに聞いたことがあります。で、先日、「奄美の家」にお邪魔したとき、同世代の人に聞いてみたと、圓山さん。

 「やっぱりそれは九州でしょう。だって沖縄って言われても何も知らないよね」

 と、こういう回答だったそうです。
 奄美大島の若い世代は、沖縄のことを知らないという。そのこと自体、とても情けなくなるのですが、これは珍しくない声だと思います。

 もうひとつ。
 二週間ほど前、弟と新宿の「奄美 まれまれ」に行ったときのこと。
 夜も更けてきたところで、隣のテーブルの若者たちに声をかけられました。二十代の大島の男の子二人と出身者ではない女の子二人の四人連れ。男の子のひとりが、「大島ですか?」とぼくたちに聞きます。「与論です」と弟が答えます。男の子は親近感ある笑顔をぼくたちに向けた後、女の子を向いて、「奄美のなかでも与論は別格だから」と。でもその後どういう脈絡でそんな話になったか分かりませんが、その子たちが、「鹿児島は離島には予算を使わないから、もう沖縄になったほうがいいんじゃないと思ってるのよ」と女の子に話していました。

 予算が来ないからという理由もちょっと物悲しいですが(苦笑)、大島の若い世代でもそういう感じ方があるのを聞けたのは収穫でした。弟は弟で、二十代の若い世代が、奄美の所属について問題意識を持っているに新鮮な驚きを感じていました。ちょっとショックだった、と。

 そりゃ九州でしょうという声と、沖縄のほうがという声と。どちらも奄美大島の若い世代の声です。前者のほうがきっと数は多いんだろうなと想像しますが、それでも、この二重の幅は奄美らしさを物語っているのを確認することができます。

 こんな声をもっと多く、具体的に聞いてみたいものです。



| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008/04/12

大和化への反復強迫

復帰運動の分裂
 奄美の復帰をめぐる動きの中には当初から三つの考え方があった。一つは即時完全復帰、二つは鹿児島県大島郡の復活、三つは琉球独立論である。もちろん圧倒的多敬は日本復帰であり、琉球独立論者はほんのひとにぎりの反共売弁分子であった。これは復帰連動が高まっていくにつれて表面から退散していった。しかしこれまで条約三条撤廃即時復帰で統lされてきた復帰協内部に早期実質復帰へのスローガン変更を求める動きが表面化した。実質論者の言い分は、奄美は歴史的に沖縄とは違うというものであった。もう一つの言い分は、沖縄には米軍の軍事基地があるが今の世界情勢からみて簡単に手放すとは考えられないので沖縄と一緒ではいつまでも復 帰はできない、さらに奄美はもともと鹿児島県大島郡であったのだから、その復活を求めることこそ理にかなっているというのであり、実質復帰論は当面可能な渡航、送金、進学等の自由化など実現可能なものから取りくみ、復帰をめざすべきであると言うものであった。(崎田実芳「復帰をめぐる様相」1989年)

 「反共売弁分子」の意味はよく分かりませんが、「即時完全復帰」は、奄美と沖縄全体の復帰のことを指していると思う。これを読むと、復帰運動には、「奄美・沖縄復帰」、「鹿児島県大島郡復活」、「琉球独立」の三つが存在していたことが分かります。この三つは、

 1.奄美・沖縄が日本に復帰する
 2.奄美だけが鹿児島県大島郡として日本に復帰する
 3.奄美・沖縄が琉球(=非日本)として独立する

 と言うことができます。そして、ことの進展につれ、3の選択肢は表面からすみやかに消え、1に代わって2が台頭するという成り行きは、奄美人の心性をよく伝えています。奄美は、沖縄と琉球として国家独立する必然性を持っていない。その結果、奄美は沖縄との同一性よりは差異を際立たせ、鹿児島県大島郡を選択しようとする。この選択はしかし、「鹿児島」を選ぶというより「日本」を選ぶということを意味しています。

 3が存在するということは、漠然とした気分としては琉球への親和感があるのですが、ことが際どくなってくると、琉球への親和は影を潜め、日本人保証への衝迫が表面化してきています。それが、1から2への傾斜です。

 沖永良部と与論は、文化的アイデンティティは沖縄だけれど、道州制の議論が現実化すると、鹿児島県としての政治的アイデンティティが表面化するだろうということを、ぼくは前利潔さんに教えてもらったのですが、この復帰のプロセスはそのことを雄弁に物語っています。

 ぼくはこのことを、奄美の自発的意思による選択でなく、自失の結果だと見なしてきました。そしてそれは、琉球処分の際に、鹿児島県ではなく沖縄県への組み入れの議論が起こらなかった過程にも現れていると思ってきました。奄美人は、奄美の二重の疎外を「日本人になる」ことで脱しようとしたからだと考えたのです。

 しかしことは近代以降のことだけではなく、それ以前から繰り返されてきたことなのかもしれません。それというのも、琉球のなかで南下する大和朝廷勢力の影響を最大に受けてきたのは、奄美(特に北部奄美)だからです。大和朝廷勢力が文明を携えて南下したとき、奄美の人々には、大和人になることが憧れを含んだ強迫として植えつけられたのかもしれません。本土と異なり、奄美以南の南島は、大和朝廷勢力の支配は徹底されることなく、局所的であったり断続的であったりしました。そのため、気分は琉球弧でありながら、一端ことが起こると大和に我知らず傾斜する傾向を生んだということです。

 ぼくは、近代奄美人は、「日本人になる」ことで、薩摩藩により構造化された「二重の疎外」を解決しようとしたと考えてきました。ただことは、薩摩の琉球侵犯により始まったのではなく、大和朝廷勢力のときに既にその心性の下準備がなされていたのかもしれません。それだからこそ、近代以降の「日本人になる」傾向は激しくなったのではないでしょうか。奄美人の「日本人になる」ことの衝迫の激しさを思うとき、近代以前も含めて捉えたほうが遠因を理解できるような気がするのです。日本人になるという強迫は、大和人になるという強迫の延長戦に現れたものだということです。

 ここまで考えると、戦後日本の西洋化への衝迫と似ていることに気づき、奄美はいかにも日本の縮図と言える側面を持っています。ただ、西洋化は、文明と文化にまつわることですが、大和化は、文明と文化だけでなく、人の交流、混合も含まれている点が違っていました。



| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/04/11

奄美の家族

 「あまみのかぞく」じゃないんでしょうね。正確には「あまみのいえ・ぞく」。

Photo_2












 「奄美の家」に足しげく?通っていたら、いただいたんですね、これ。5センチ×6センチくらいの小さなカードなんですが、なんか特別なものを持った気分。ぼくのは、No.129とあります。129人目ですね、きっと。

 「奄美の家族の証」っていい響きですね。奄美の人にとって、奄美諸島としての「奄美」は決して自明な概念ではありません。だから、「奄美」といえば、奄美大島を指すに止まることのほうが圧倒的に多いでしょう。

 でも、「奄美の家」は、奄美の島々ひとつひとつを対象にしているから、「奄美の家族の証」も奄美諸島のことを指しているんだと思います。実は、そういう場があるから、奄美諸島全体としての「奄美」は存在することができます。それ以外は、「大島郡」という住所記名のなかに存在するくらいです。

 奄美諸島全体としての「奄美」のイメージは希薄なままで、それを豊かにすることができるかできないかは問われることも少ないのですが、「奄美の家」というお店があると、それだけでも奄美諸島全体としての「奄美」を考える足場のひとつになるので、ぼくには貴重な場です。こんな拠点がもっと増えるといいなと思います。

 奄美の「家・族(いえ・ぞく)」は奄美の「家族(かぞく)」になることができるでしょうか。それが、「奄美の家」が発しているテーマだと思います。

 さて、「よろんの里」の店長さんも、こんなの作ってくれないかな。「よろんの里帰り」とか、「よろんの里親」とか。こんど提案してみましょう。


 ときに、「奄美の家族の証」があると、何かいいことあるのかな? 聞くのを忘れました。(^^;)



| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008/04/10

事故の事実・背景を知りたい

 南海日々新聞への投稿記事。長くないので、全文引用しよう。

 「交通事故原因の調査、報道を」 喜山 康三

 与論空港の敷地内道路で三月二十四日、重軽傷者七人が出る交通事故が発生した。車は花壇を乗り越え、フロントガラスはクモの巣状にひび割れていた。死者が出なかったことが不思議に思えるほどだった。

 現場にいた知人の話によると、当時は道路上に警察のパトカーや一般の車両が駐車し送迎人も多く、非常に混雑していたとのこと。事故発生場所は駐車禁止であるにもかかわらず、イベントや転勤に伴う歓送迎が頻繁に行われており、「交通事故の心配がある」と一部から指摘されていた。

 新聞報道は運転者のアクセルとブレーキのミスによる事故としているが、これだけの多数の方が事故に巻き込まれたのは、駐車禁止場所で公然と送迎が行われていることも原因ではないのか。当日は幹部派出所長の送迎も行われている。パトカーには駐車違反はないと思うが、事件や事故捜査とは関係のない、送迎でパトカーを駐車させていることは問題ないのか。事故後の対応に不信感を募らせている住民もいる。

 事故にはさまざまな要因がある。客観的に読者が把握できるよう、当局の発表をそのまま報道するだけでなく、一定のチェックを行い、報道する「取材力」が求められている。駐車禁止場所で送迎を行った警察当局だけでなく、報道の在り方にも強い疑念を抱く。(「南海日々新聞」2008年4月7日)

 わが島で先月、七人の重軽傷者を出す事故が起こっている。七人のといえば、島では大事故だ。いや、島でなくたって、大きい。自分が遠いところにいるせいもあるが、事故が起こったことを、こうして教えてもらわないと知らないまま過ぎてしまうのが、何とももどかしい。

 また、この投稿記事だけでは、事故の事実関係がはっきりつかめない。「事故後の対応」への「不信感」とは何なのか。駐車禁止場所のパトカーとこの事故に関係はあるのか。「幹部派出所長の送迎」と事故とは関係があるのか。事実を知りたい。

 投稿記事は、新聞報道の在り方へも批判を加えているけれど、これを突破するひとつの力は市民ジャーナリズムだと思う。チベットの市民暴動やミャンマーの軍行動をつぶさに伝えてくれた一端が市民ジャーナリズムであったように。ぼくがも現場居合わせたら、すぐに観察した事実をブログに記述するだろう。

 これだけの情報量ではまだ何も言うことはできない。しかしどこに何を求めたらよいか分からないが、事実関係ははっきりさせてほしいと思う。そして、重軽傷者へは運転者のミスで済まされるのかそうでないのか、明らかにしてほしい。もし、万が一にも島だから的扱いが潜んでいるとしてら黙するわけにいかないからだ。

 われわれは、アネッタイ・アイランドで純粋培養された世間知らずかもしれないが、わが島はもはやサイレント・アイランドではないのだ。



| | コメント (8) | トラックバック (0)

2008/04/09

もしも奄美がなかったなら

もしも奄美がなかったなら、
薩摩は直轄領を持つことはできず、
従って、明治維新を起こすことはできなかっただろう。
その前に、朝鮮出兵の兵力を提供できずに、
秀吉とさらにひと悶着あったかもしれない。

いやもっとその前に、奄美がなかったなら、
南北200キロに伸びる「道の島」が存在しなかったら、
太古、初源の人びとが沖縄まで南下していくことはできなかったかもしれない。
また、南洋の人びとの北上は、沖縄に止まり、
三母音文化は本土へ移らなかったかもしれない。
大和勢力も、本土止まりであったかもしれない。

すると、日本はもっと平坦な顔つきの人の多い、
もっと平板な歴史と文化だったろう。

そう考えれば、奄美は、
日本の多様性と近代化の無言の立役者なのです。



| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/04/08

「苦労は売ってでもやめろ」

 去年、『しまぬゆ』を読んだ時、島役人の記述を、「勝者の論理に盲目的に服従する奴隷の精神とは異質な敗者の論理を構築して昇華しようとしたのである」と解していることに強い異和感を覚え、それは敗者なのに勝者の思考に自らの思考を預けた屈服の論理に他ならないと考えました。そして必要なのは、敗者の論理なのではなく、「負けない論理」ではないかと書きました。

 ぼくはそこで、奄美の「負けない論理」をつくることは、『しまぬゆ』から受け取る課題だと書いたので、ずっとそのことは念頭を去らずにいます。奄美の「負けない論理」とは何だろう。

 ところで、「ほぼ日刊イトイ新聞」で2月に、「さんまシステム」と題したインタビュー記事が載ったことがあります。さんまシステムというのは、あの明石家さんまのことです。

 文脈は省きますが、彼はそこで、「苦労は売ってでもやめろ」と言うのです。

苦労は売ってでもやめろ

 ああ、と思いました。これって、負けない論理じゃないかって。ふつう、「苦労は買ってでもしろ」といいます。で、「苦労は売ってでもやめろ」というのは、それを全部ひっくり返しているわけです。苦労は売れ、苦労はするな、と。いつものあの口調で(たぶん)。でもさんまはそれをお笑いのネタとして言っているのではありません。読む限り、大真面目に、「苦労は売ってでもやめろ」と、そう言うのです。

 これは、反語的なのでもなくレトリックなのでもなく、言ってみれば、ことわざを温故知新で臨み現在化した、いまのことわざなんじゃないでしょうか。いまどきのハードさを乗り切るためのコトワザです。

 その心は、と書くのは野暮な気もするし、気の利いたことも書けそうにないのですが、「負けない論理」に近づけるようにしていえば、こんな風に思います。「苦労は買ってでもしろ」というのは、「苦労」は買わないとやってこないかのような錯覚を与えるけれど、そんなものじゃない。望もうが望むまいが向こうから勝手にやってくる。平気にやってくる。いくらでもやってくる。だから、「買ってでもしろ」と言わなくていい。むしろ、それは「売ってでもやめろ」なのだ。ひとつやふたつ売ったところで無くなるわけでもない。

 それに苦労は、苦労を経ると人性を豊かにする面を持っているけれど、それだけではない、そうは問屋が卸さない、豊かさを根こそぎにするかもしれないほど駄目にする面も持っています。人柄のにじみ出た優しさをかもし出す人を見て、「苦労したんだねえ」と言うことがあります。けれどそれは乗り越えた人に対して言う言葉です。その背後には、苦労したばっかりに、それが背負いきれない苦労だったばっかりに、笑顔をなくしたり生きる気力を無くす無数の例が控えているはずです。そんな苦労はしないほうがよかったのです。だから、「苦労は買ってでもしろ」というのは、人生を空想的に捉えている時に言えることに過ぎない。実際、生きてみれば、苦労は向こうから否応なしにこちらを捕まえてくる。売れるくらいの苦労は売るくらいにうっちゃって、売るわけにもいかない苦労に向き合うほかないのだ。

 この言い方は胸のすくような側面があって気持ちいい。それはきっと、「苦労は買ってでもしろ」の抑圧的な含みが抜かれているからだろう。むしろ、「苦労は売ってでもやめろ」というとき、「苦労は買ってでもしろ」を想起するから、それに対する対抗の言葉のようにある、それが胸のすく理由の一端をなしていそうです。

 奄美だってそうじゃないですか。奄美の二重の疎外だって、ぼくは「買ってでもしろ」とは露ほども思わない。むしろ、「売ってでもやめろ」ってそっちのほうに賛成です。

 と、ここまで書いて、与論にも、「若さるばんぬ難儀やほーうてぃんしり」という言葉のあるのを思い出します。この言葉を反芻してみて、ぼくはこの言葉に異議を唱えたいわないと感じられてきます。それはどうしてかなと考えると、「苦労は買ってでもしろ」は、弱者から弱者へ手渡されるとき、生きる知恵となっている。けれど、これが勝者から敗者へ、あるいは強者から弱者へ言われるとき、抑圧へと転化してしまう。そういうことではないでしょうか?

 とすると、さんまの言う、「苦労は売ってでもやめろ」という言葉は、「苦労は買ってでもしろ」が、強者や勝者の抑圧の言葉にならないための抗いなのかもしれません。

 こんなことをうつらうつら考えながら電車に乗っていたら、「すべての負けないハートたちへ」という言葉が目に飛び込んできました。これ、何のコピーだと思いますか?ある商品のコピーなんです。

すべての負けないハートたちへ

 カンロの「ピュレグミ」だそうです。TVCMもやっているようですが、ぼくは観たことありません。でも、「負けない論理」を思っていると、こんなコピーも助け舟のようにやってきます。負けるわけにいかない、負けちゃいけない。そう思いますよね。


 もうひとつ。聖火リレー妨害に対して、「すべきではない」とチベット人に呼びかけているダライ・ラマ14世の言葉も、「負けない論理」ではないでしょうか。



 

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008/04/07

時勢の流れのままなら、奄美は九州入りでしょうか

 奄美にとっての道州制を考えてゆくと、でもこのまま自然の流れに任せれば、あのいつもの諦念的無関心によって、奄美は鹿児島の黙殺的付録のまま、九州(州)の端を構成することになるのかもしれません。

 「ゆ(世)」はいつも勝手に向こうからやってきて勝手なことをしていく。でもそのことが一体、わたしに何の関係があろうか。そう言いたげな島人の態度からすれば、琉球と言われれば琉球といい、薩摩といわれれば薩摩といい、アメリカといわれればアメリカといい、鹿児島と言われれば鹿児島と言ってきたように、九州と言われれば九州と言うのかもしれません。

 それでは、二重の疎外を生む構造は解けないまま残りますが、それでも、「鹿児島」が「九州」に代わる分には、疎外は緩和され、楽になるのかもしれません。九州(州)となれば、与論や沖永良部の島人が移住した口之津も、与論の島人が苦労した大牟田も近くなるというものです。

 こうなった場合、奄美諸島のなかに、「日本人になる」という願望が潜在しているとしたら、それが「鹿児島」県下にあるときよりも満たされるのもしれません。大宰府にちなんで「九州府」と名づけようとする議論もあるくらいです(「九州府」『道州制』)。奄美諸島が日本史と関係を持つとき、その本土側の結節点として登場するのは大宰府ですから、奄美諸島の歴史を既成の日本史のなかに組み込むには都合のいい面も出てくるでしょう。

 しかし、こう書いていくうちに、ぼく自身は気持ちが萎えていくのをどうしようもありません。奄美の九州入りが奄美諸島の総意だとしたら、従うほかありませんが、ぼく自身は亜熱帯ヤポネシアの価値を根拠にした琉球州と、その中でも、ある固有の役割を担う地域としての奄美というポジショニングの可能性を考えていこうと思います。それに仮に九州(州)になっても一巻の終わりというわけではありません。そのなかで改めて二重の疎外の現れ方とそれを解く方法を探るでしょうし、奄美の負けない論理をつくろうとするでしょう。そして、とどのつまりそれは、琉球州の道を辿ったとしても同じことで。す。どちらにしても、奄美とは何か、それに答えることが大切なのに変わりはありません。

 何だか自分に言い聞かせる記事になってしまいました。




| | コメント (2) | トラックバック (1)

2008/04/06

琉球弧を舞台にした大和の仕業

 去年の2007年、谷川健一が『甦る海上の道・日本と琉球』で、11~12世紀の奄美諸島は琉球弧の先進地域であったこと、そして、琉球王朝を誕生させたのは九州から南下した武装勢力であって琉球社会の内発的発展によるものではないという仮説を読んだとき、ふたつのことを思いました。

 ひとつは、近年著しい考古学的成果によって奄美諸島、特に北奄美が自信を持つことはいいことだということです。ただ、それを「先進地」であることに過度に依存してほしくないな、とも。奄美はもともと「先進地」ではないという言われようで苦しんできた土地です。それが「先進地」と言われることによって今度は逆の自失に陥ってほしくないと思います。仮に、その「先進地」という根拠で沖縄に目線を向けるようなことがあれば、目も当てられなくなります。

 ぼくが自信というのは、「先進地」であるということとは少し違います。奄美が奄美を語る言葉を持てるようになること自体、奄美が奄美を掘り下げられる材料を持つことが、奄美の自信につながるだろうと思うからです。

 奄美大島にほど近い喜界島には台地の上に城久と呼ばれる集落があり、そこの遺跡から大量の石鍋の破片やカムィヤキ土器、または青磁や白磁などが出土したことはすでに述べた通りである。それと奄美大島のヤコウガイ、徳之島のカムィヤキ土器などを合せて考えると、太宰府や薩摩の豪族による南島経営の最前線、あるいは博多商人や宋商の南島交易の尖端拠点として、城久遺跡はきわめて重要な位置を占めていたことが見えてくる。

 これらからすれば、十一、十二世紀の奄美諸島は、琉球弧の中で最も早くから開けた地域であったことは明らかである。これまで琉球王国にとって奄美諸島はその周辺部分と見なす考えが一般的であった。第一尚氏の統一王国以後はそうであったことは確かであるが、それ以前、つまりグスク時代の黎明期においては奄美のはうが沖縄本島よりもはるかに先進地帯であったことを喜界島の城久遺跡は如実に物語っている。(『甦る海上の道・日本と琉球』)

 もうひとつ、琉球社会は内発的に琉球王国を作ったのではないということについて、やっぱりなと思わざるをえませんでした。島人としての実感に照らして、島から受ける世界感受にのっとれば、琉球弧は内在的には国家をつくる必然性を持っていないと思えてならなかったので、合点がいく気がするのです。

 谷川健一の『甦る海上の道・日本と琉球』は、奄美諸島の生産地と交易手としての役割と琉球王国建設の担い手が非琉球勢力であることを指摘したことにより、二重に沖縄中心の琉球観を相対化しています。それはひいては、琉球王国を根拠にした琉球州という構想に対しても、同様の相対化の眼差しを投げかけずにはおきません。

 また琉球に統一王朝が誕生するきっかけとなったのは、私見によれば、九州から南下した武装勢力であった。折口信夫は名和氏の残党としているが、その公算はきわめて大きい。いずれにしても、琉球社会は、みずからの内発的発展によって三山統一にいたり、琉球王国を開花させた、という従来からある説に組することはできない。日本からの影響の大きさを痛感せざるをえない。

 しかし、その根底には縄文時代以来の自然の「海上の道」があった。この海の道は、日本列島と琉球弧のあいだの往来の道であった。その道を「物への欲望」を担い、「心の渇望」を抱いた人々が南北にとだえることなく往き来した。そこにはまぎれもなく相互の親和力があった。ここにして思うのは、幾千年このかたの「海上の道」をかけ橋としてつづいてきた日本本土と琉球の縁のふかさ、血の濃さである。その歴史的意義をあらためて甦らせることをささやかな使命として仕事に区切りをつけることにする。(『甦る海上の道・日本と琉球』)

 琉球王国を沖縄のアイデンティティの中核に据える観方があります。また、奄美のなかには、琉球の奄美支配を薩摩の奄美支配と同様の被害とする観方もあります。ぼくは両方ともに異論を持ちますが、谷川健一の作品を踏まえると、別の視点もやってきます。奄美諸島北部に拠点を作ったのは大和勢力であり、11~12世紀の奄美を「先進地」にしたのも大和勢力であり、琉球王朝をつくったのも大和勢力であり、したがって、琉球が奄美に再三攻め入ったのは、南の大和勢力が北の大和勢力を討ちにいったことになります。つまり、これすべて琉球弧を舞台にした大和の仕業と見る観方です。

 谷川はここで、「日本本土と琉球の縁のふかさ、血の濃さ」に想いを馳せるのですが、ぼくはその予定調和の前に、琉球弧の独自性、普遍性は、奄美の先進性でもなく琉球王国の存立でもなく、国家未然の世界観にあり、それを掘り下げることが先決である気がします。ぼくは別に琉球弧だけを無垢にしておきたいわけではありません。ただ、「日本本土と琉球」にあいまいな同一性を認める前に、琉球弧の果たした役割はまだまだ明らかにされていないことが多いと思うのです。



| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008/04/05

亜熱帯ヤポネシア

 琉球王国を根拠にした奄美の琉球州入りは賛成できません。たとえば、琉球王国の領土であった奄美諸島の沖縄県への返還という提案も存在しているようですが、響いてきません。何より国家存続の踏み台にさせられてきた歴史を持つ地域がその当の国家の論理で、奄美に接近するのはげんなりします。それは日本という国家の縮小再生産に見えてきます。

 琉球文化圏を根拠にするという提案もあり、それはぼくには馴染み深いものですが、奄美諸島内における琉球文化の露出の濃淡を考慮すると、琉球文化圏は過去に遡行するには有効だけれど、未来を展望する言葉になりにくい気がします。

 そこで新しい言葉が必要だと思うのですが、たとえば、「亜熱帯ヤポネシア」はどうでしょう。ヤポネシアの亜熱帯地域という意味で、琉球文化を形成した基盤の自然を名指したものです。それは地勢の環境を言ったに過ぎませんが、北海道にしても四国州にしても、本土としてみた九州にしても、道州制の境界の大きな根拠のひとつは地勢なのですから、「亜熱帯」でも根拠薄弱にはならないでしょう。

 それと、ヤポネシア、ですが、前利潔さんはこう書いてます。

 島尾敏雄のヤポネシア論の受容の仕方にも、違いがみられる。沖縄側はヤポネシア論を日本という国家に包摂されることを拒否する思想として読み込んだ。奄美側はヤポネシアと視野を広げることによって「奄美」を日本という国家に正当に包摂してくれる思想として読み込んでいる。ヤポネシア論を「沖縄人(琉球王国)」の記憶で受容した沖縄と、「日本人」の記憶で受容した奄美との違いである。(前利潔、「時評2006 6月」「琉球新報」)

 ヤポネシアという言葉が、奄美と沖縄では受容の仕方が異なるというのは確かにそうだと納得します。ところでぼくはこれを、受容の相違としてではなく、両者に受け容れられる言葉という意味で受け止めて、「亜熱帯日本」ではなく、「亜熱帯ヤポネシア」としてはどうだろうという考えです。

 ・琉球州は、ヤポネシアの亜熱帯地域で構成します。
 ・琉球州は、「亜熱帯」「という自然環境の同一性を基盤に観光立州として位置づけます。
 ・琉球州は、自然環境の同一性を基盤に育んだ多彩な琉球文化を発信します。
 ・それは日本に対し、日本や日本人の懐かしさを提供するでしょう。
 ・また、海外にも、人類的な懐かしさを提供するでしょう。

 過去に根拠を求めるのではなく、未来的なビジョンのなかで過去を生かすように琉球州を構想していけたらと思います。



 

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008/04/04

琉球の北限・大和の南限

 奄美にとっての道州制を考えていくと、それが「琉球か大和か」というテーマの更新形であることに気づかされます。歴史上、「沖縄か鹿児島か」、「アメリカか日本か」と問われることもありましたが、そこには「琉球か大和か」という問いが通底しており、それらはその変奏形に他なりませんでした。もっとも、「琉球か大和か」というのは、二者択一を迫るような選択肢だったわけではなく、お前は何者かと問われると、住所不定のようにあっちでもないこっちでもないと揺れだす自己として意識にのぼってきたのでした。

 唯一その例外に見えるのは、琉球政府から日本復帰を果たしたときですが、これは自発的な意思と言えるようなものではなく、自失の極致だったとぼくは思っています。そういう意味で、道州制は奄美にとって初めて自発的な意思を表明する機会になりうるのです。

 もともと、さまよいだす自己が「琉球か大和か」と問いだすのも、史上、大和が奄美に南進しては放置するということを繰り返してきことが背景をなしています。第一次は大和朝廷勢力の南下によるもので、第二次は薩摩藩による琉球侵攻です。第一次から琉球王朝の成立まで、その関係は奄美の島間によっても濃淡がグラデーションをなすゆるやかなものだったかもしれません。第二次以降、奄美は、つかの間、琉球政府に属することもありますが、それは歴史時間から見れば瞬きするほどの時間で、今の鹿児島県下にあるという状態は、薩摩藩の琉球侵攻以来、継続されているようなものです。

 ぼくたちは、大和の南限が伸縮したことによって生まれた苦難に配慮しようとすると、つい薩摩の琉球侵攻に目が行きがちですが、そしてそれは重要な問題ではありますが、根深い外傷としてあるのは、日本人信仰なのかもしれません。それは、あの昇曙夢の「日奄同祖論」(「二重の疎外の力学」)のみみっちさに典型的に現れています。あのみみっちさは、下図でいえば、自分たちを何が何でも南下する大和朝廷勢力の末裔と見なしたい動機に基づいていました。下図でいえば、「日本人b」に自分たちの出自を求めたことを意味しています。でもそれは土台、無理があるというものです。「日本人b」の前に、奄美・琉球弧にも、今の日本人を構成する「日本人a」の存在を無視することになるからです。昇の「日奄同祖論」も「日本人a」を無視したい衝迫にかられたものでした。

 下図は、紀元前1000年前から始めていますが、時間は実際にはもっともっと遡れることは言うまでもありません。大和朝廷勢力よりはるかに長い時間の自分たちの歴史を等閑視して、安定したアイデンティティがつくれるわけがありません。与論の島人の書いた書籍にも「日本人b」への願望が色濃く滲んでいるのが否応なく感じられてきますし、今でも島人の言葉の端にそれを感じることもあります。痛ましいと思いますが、もう自由になっていいと思わずにいられません。

 「大和」の対位項として登場するのは「琉球」です。ただ、「琉球」は自称が無かったから「琉球」を使うまでのことで、この言葉がいちばんやっかいなのは、それが琉球王朝に収斂するように機能することかもしれません。しかし、琉球王朝に収斂するのは、「日本人b」にアイデンティティの根拠を求めようとするのと同じみみっちさを招きかねません。「琉球と大和」を対立項のように見なして「大和」が「日本人b」に収束するのを鏡にすれば、「琉球」は「日本人a」に収束してしまおうとするでしょう。しかしそれではこんどは逆に、自分たちを「日本人a」のみで自己規定する窮屈さを生んでしまいます。

 その上、「琉球」が「琉球王朝」に収斂しても、せいぜいが琉球も国家を築くことができたということ言うに過ぎません。これを過大視すると、琉球州の根拠を「琉球王朝」に求めることになりますが、それでは歴史的に言ってもやったことの中身からいっても、大和朝廷勢力と代わり映えしないことになってしまいます。

 「琉球」の北限をぼくたちはふつう、黒潮の横切る、あの七島灘に求め、島尾敏雄に倣って「琉球弧」と呼んだりしますが、それで琉球王朝の版図を指したいわけではないのです。むしろ、琉球弧の実現した世界観にこそ魅力があります。それならいっそ、「日本人a」の時間に「琉球」を放つことが必要ではないでしょうか。琉球を時間軸に遡行すれば、たとえば、三母音に磨きをかけた地域と言うこともできます。すると、それは七島灘を北上し、与那国島の三母音と近似する言葉を持つ東北語と共鳴します。このとき、琉球は、東北まで北上しそこに北限を刻むのです。

 「琉球か大和か」を考えるとき、「大和」に「日本人」を限定しないこと、「琉球」を琉球王朝の版図ではなく、もっと長い時間をかけて琉球弧の果たした役割のことを思い描くことが必要なのではないでしょうか。


Photo_9



| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008/04/03

スマイルコンサート音楽のちからin与論島

 昨日、与論で、「スマイルコンサート音楽のちからin与論島」なるコンサートが催されたのを、江戸っ子マサさんのブログで知りました。

 「スマイルコンサート」

 なんで東京フィルハーモニー交響楽団が与論で、とびっくりしていたら、そこには与論らしい物語があったようです。

 ときは二年前の冬。
 何かに誘われるように、時化を乗り越えて与論島に到着したひとりの音楽家。
 タラップを降りるけれど、出迎えるのは雨と風。
 何やら苦難の予感、ずぶ濡れを覚悟。
 と、そこへ覚悟とは裏腹に拍子抜けするように、「お~い、乗ってく?!」の声。
 そして次の瞬間には、喜山康三さんの自宅へ招かれる。

「お~い、お客さんだよ~。」
奥様が昼食の用意をして下さる。
「そう、コントラバスやってるの!聴いてみたいなぁ。
え?弾いてくれるの?! ん、楽器なら学校の吹奏楽部にあるな。」
「あなた、そしたら池田さんのピアノ教室のサロンがいいんじゃないんですか?!」
「それがいいな!お、中学の音楽の先生が、
自前の楽器貸してくれるって!」
「あなた!それより夕方から会議じゃないんですか?」
「ん?キャンセルキャンセル♪」

 で、あっという間に即席コンサートが小さな島で催される。
 下手な紹介より、あとはブログで読んでください。

 「即席!コントラバス・ミニコンサート in 与論島」

 与論に降りた音楽家は、こう書いています。

与論島に行ったら、せめて砂浜で遊ぼう、とそれだけを考えて 降り立ったあの日。
あたたかい人情に救われ、お礼のつもりの演奏が皆さんに聴いていただけて喜んでもらえて、おまけに願っても叶わない贅沢までさせて頂きました。
みなさんの心意気、決して忘れません。
これからもみなさんと繋がっていたいです。
そして、また宴会しましょう!
ありがとうございました!!

 聞けばこれがご縁の昨日のコンサート。与論らしいストーリー。

 たとえば、去年の夏の帰省時、空港から街へ重たい荷物をかついでトボトボ歩いている女の子を見るや、「かわいそうだがね、乗せてあげなさい」と、アンマーとウバンカが声をかけて、お昼と夕ご飯を一緒に楽しみました。自転車で帰ろうとすると、レンタルにはライトがついてないことが分かり、クルマのトランクを開けてそこに自転車を押し込んで、トランク開けたまま茶花へ送りましたっけ。楽しい思い出。ぼくはこんなアンマーやウバンカのノリが好きですが、与論ではありふれたことです。

 でも、そのありふれたことが、こんないい物語を生むんですね。空港と港は与論物語の起点。この音楽家の話は、現在の貴種流離譚、与論民話の現在形を読むようです。こんな物語が生まれる限り、与論は大丈夫、と思うのでした。

 与論直送の貴種たちの姿です。

Concert1_3
Concert3_2



 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/04/02

二重の疎外の力学

 「奄美にとっての道州制」で、道州制構想として奄美の琉球州入を書いたら、反動のようにその困難さが気になりだします。

 ぼくは、奄美固有の困難を「二重の疎外」と捉えて、ここでもしつこいくらい書いてきました。(たとえば、「四世紀後の異議申し立て」)。

 繰り返せば、二重の疎外は、地勢と自然と文化の同一性の親和感から沖縄を向けば政治的共同性が異なると無視され、政治的共同性の同一性から薩摩に顔を向ければ地勢と自然と文化により差別される、というのがその中身です。この困難は、言うまでもなく薩摩の琉球侵犯によって構造化されたものです。

 近代以降、奄美人は「日本人になる」ことを「二重の疎外」の脱出口と捉えてきました。実を言えば、捉えてきたという冷静なものではなく、我を失うように日本人になることになだれを打って投身したのでした。それが、琉球処分の際、奄美からは沖縄県への参入の声があがらなかった理由であり、戦後、沖縄を省みず、なりふり構わず復帰運動に突き進んだ理由です。

 わたくしは奄美大島出身の者であります。今回の奄美大島の帰属問題について、歴史上からの私の知っている範囲において純然たる日本人であり、また日本国の一部であることを立証いたしまして、皆さんの御参考に供えて、そうしてこの帰属問題について皆さんのご協力を仰ぐ次第であります。  もうすでに御承知の通り、奄美大島は、沖縄と共にずいぶんと古い、開びゃく以来古い紀元を持っておる島であります。

 人種の上からいっても大和民族の一つの支流であります。大和民族の、もっとも移動についてはたびたび行われておりますが、一番最後の第三回目に大陸から朝鮮海峡を経て日向に落ち着いたのが、一番武力においても知能においても最も優秀な民族で、これを固有日本人という学名で呼んでおりますが、その一派が日向、大隅、薩摩ここから南の島々に殖民して、それがわれわれのつまり祖先になっているわけであります。

 もちろんそれ以前に先住民族がありました。アイヌのごときはその一つでありますが、しかしどこまでもやはり奄美人の主体というのは固有日本人で、これは学術上明らかに証明されておるので、わずかにアイヌの血が混っておるというに過ぎません。その点においては、日本全土挙ってアイヌの血を多少とも受けておるわけでありますから、ひとり奄美大島ばかりには限りません。どこまでも主体としては固有日本人になっておるのであります。(東京奄美会八十年史編纂委員会 1984年)

 この、情けなくも痛ましくもある主張は、1951年に奄美の復帰問題について、参議院外務委員会公聴会で話されたものです。この聞いていられない「日奄同祖論」を展開したのは、あの、『大奄美史』の昇曙夢です。昇にしてからのこの体たらくでは、当時の奄美の島人の日本人への保証強迫を鎮静するどころか煽ることしかできなかったでしょう。ただ、この体たらくは情けなさの極みですが、ぼくたちはこれを笑うことはできません。

◇◆◇

 ところで、「二重の疎外」を規定する薩摩と沖縄のうち、奄美の「日本人になる」という脱出口を持っているのは、薩摩としての政治的共同性の方でした。だから、薩摩による政治支配が形上解けた近代以降も、奄美人に日本人保証の願望がある限り、「二重の疎外」の構造は解けることなく残存したのです。

 薩摩の政治的共同性に向くことが「日本人になる」ことを保証するように見えたということは、その逆、沖縄の文化的共同性に向くことは、「非日本人」であることを認めることして表象されるほどでした。そこで、奄美は沖縄にひっそりと背を向けてきたのでしょう。

 それはたとえば、ウチナーンチュ(沖縄人)という自己規定が、その対立項としてヤマトゥンチュ(大和人)を見出し、その「沖縄人vs大和人」がそのまま「非日本人vs日本人」と含意されていると感じられるとき、奄美はむしろ積極的に自己を喪失し、出自を伏せ方言を忘れる度合いを激しくしたのだと思います。沖縄がウチナーンチュとヤマトゥンチュという構図で自己規定すると、その枠外にあるはずの奄美が反応してしまうのです。大和との差異線で沖縄が浮上すれば、奄美は沈んで大和に同化するという、まるで擬態のような反応行動でした。ウチナーンチュvsヤマトゥンチュの枠組みのなかで奄美が発語することは、先の連想が働く限り奄美人が非日本人であることにつながり、二重の疎外の脱出口をふさいでしまうと見なされたのです。これが、奄美の底深い失語の背景にある二重の疎外の力学です。

 こう考えてくると、奄美にとっての道州制のテーマは、奄美にとって「日本人になる」ことが強迫であり続けているかどうかを再び問う試金石でもあるということができそうです。強迫である理由はもう何もないのはいうまでもないですが、島人の実感に照らしてどうなのかということは、奄美のみなさんに聞いてみなければなりません。



| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/04/01

祝オープン!ヨロンジマドットコム

 「与論島のいいもの、いい人、いい情報を地元から全国へ」をコンセプトにしたヨロンジマドットコムがオープンしました。

 ★ ヨロンジマドットコム ★

Yoronjimadottokomu_3










 まずは、おめでとうございます。予定通りのオープン、おつかれさまです。嬉しいです。ここまで大変だったと思いますが、これからの順調なサイトの発展をお祈りいたします。

 左上のログインボタンをクリックするとフォームが出てきたので、早速登録しました。ニュースレターも楽しみにしています。

 こんな動きが与論の元気につながるといいですね。



| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2008年3月 | トップページ | 2008年5月 »