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2008/03/22

童虎山房にとって奄美とは何か

 もうすっかり奄美の最新情報は「あまみ便りblog」に頼っている日々ですが、今回もまた大切なニュースを見落とさずに済みました。

 「童虎山房(どうこさんぼう)」公開

 「童虎山房」とは、元鹿児島大学教授の原口虎雄の蔵書群を指します。それがこの度、奄美博物館で研究者に公開されることになったというもの。ここには、「薩摩、大隅、奄美、琉球の近世・近代史の専門書や古文書の写しなど約2万冊」が収められているといいます。

 原口さんのおいで愛知学院大教授の黒田安雄さん(67)は「権力の下部から歴史を見ようと、行政の末端組織の資料を丁寧に集めてある。島津家のお手元資料でなく、庶民の歴史の視座が多面にわたっている」。郷土史研究家の弓削政己さん(59)=奄美市=は「原本がすでに行方不明になり、手書きの写本しか残っていない古文書など貴重な資料が多い」と話す。(「原口虎雄元鹿大教授の蔵書群 来月から研究者へ公開」南日本新聞)

 と、こうあるが、奄美の歴史を紐解くのに基調な資料群であるに違いなく、嬉しい。

 ただ、「あまみ便りblog」の水間さんは、こう書き添えているのですが、

残念ながらこのニュースは今日の地元新聞2紙には掲載されていません。
 南日本新聞の紙面には掲載されているのかな。
 地元のニュースでありながら、地元新聞よりも本土の新聞のWebによって先に知るというのが、今の島の現状なんですね。
 このニュースは地元にとっても大きなニュースだと思いますが、それよりも島外の奄美に関心をもっている方にも大きなニュースだと思います。
 奄美をアピールすることができるニュースだけでも早く地元新聞のWebサイトで知ることができるようになってほしいと思うのですが。

 ぼくも同感するところです。奄美を掘り起こすニュースだからこそ、地元紙もいちはやく取り上げてほしい。それは、奄美の存在理由を確たるものにすることに他ならないから。そう受け止めることができます。

◇◆◇

 ところでぼくはまたそれとは別のことに目が留まりました。
 前にも「母なる奄美」という記事で引いたことがありますが、原口虎雄の『鹿児島県の歴史』には、次のような一節があります。

強者が近隣の弱者を食ったまでのことで、日本国中に弱肉強食がおこなわれて、結局徳川将軍による幕藩体制に組みいれられることになったのである。これまで同じ日本民族でありながら、南日本の琉球列島だけが中国の版図になっていたのが、慶長十四年の征琉の役以後、日本の統一政権下にはいったといえる。隣の飢えたる虎にもたとえられる島津藩に併合されたということは、琉球国にとっては耐えがたい苦痛であったが、もし征琉の役がなかったら、琉球は中国の領土として、その後の世界史の進展のなかでは、大いにちがった運命にさらされたであろうと思われる。(『鹿児島県の歴史』1973年)

 いまなら、チベット問題を引き合いにもで出して言いそうな、この、むきだしの強者の開き直りの論理を前に、もう16年ほど前になりますが、ぼくは、この文章を「感受性の死」と評しました。この開き直りの影で奄美の困難は黙殺され、その反対に薩摩の思想が免罪されて、それは自己批判に晒されることなく延命していると思えたからでした。

 それが、去年、1999年の新『鹿児島県の歴史』に、「母なる奄美」という表現を見つけて驚くということがありました。薩摩の思想は、開き直りから、奄美の存在とその価値を認めるところまで歩みを進めたと感じられたからです。

 ただ、ぼくはそこで、

「母なる奄美」という認識は、南島を喰らうという本質を、美名のもとに隠していないだろうか。(「明治維新を越えること」

 と、「母なる奄美」がキーワードとしてのみ生き、その内実を伴っていないことも同時に感じました。しかしそれ以上に当時は、あとがきを見て、新『鹿児島県の歴史』の「母なる奄美」が、旧『鹿児島県の歴史』の原口虎雄の息子によって書かれているのを見て驚きました。開き直りから内省まで、ひと世代を要した変化であると思ったからです。

 それが去年までのぼくの認識です。そういうぼくにとって今回の記事は驚きでした。

童虎山房は、原口さんが鹿児島市の自宅に集めた資料群。生前の原口さんが「鹿児島の母なる奄美」と表現し、研究の起点としていた地に2006年1月、遺族が「研究者が自由に利用できるよう一括寄贈したい」と申し出た。
   これを見れば、「母なる奄美」という表現は、息子、原口泉の手になるものではなく、父、原口虎雄の表現であると書かれているからです。「鹿児島の母なる奄美」、と。

 薩摩のおかげで中国にならずに済んだのだからよかったねとでも言いたげなむきだしの強者の論理にある感受性の死と、「母なる奄美」という感受性の息吹きとは、世代をまたいだ受容の進化ということではなく、それは、同じ人物のなかに宿った二つの側面だということになります。驚かずにはいられないというものです。

 むきだしの強者の論理による奄美の無視とその真逆にある「母なる奄美」という奄美への思慕が、世代を費やした認識の深化ではなく、同一人物のなかに宿るものだとしたらそれは自己矛盾以外の何物でもありません。

 原口虎雄は、この自己矛盾に対し、『鹿児島県の歴史』を奄美への無視で押し切り、開き直ります。そして、「母なる奄美」というキーワードは息子へと引き継がれ、新『鹿児島県の歴史』のなかで蘇ります。新版では、旧版にあった厚顔無恥の開き直りによる薩摩の思想礼賛は影を潜めますが、しかし、「母なる奄美」の意味するものは具体的に述べられることなく、キーワードのまま宙吊りにされているとぼくは感じました。父、原口虎雄の自己矛盾は解かれていないのです。

 いまも解けることなくある薩摩の思想の自己矛盾を、ぼくたちはここに見ないでしょうか。

 ぼくはこの自己矛盾は、薩摩が、日本に対して絶対的な弱者であるという存在基盤を、絶対的な弱者である奄美(琉球)に対して絶対的な強者として振舞うことで逆転しようとしたことに端を発していると考えます。だから、自己矛盾を解く鍵は、絶対的な弱者である自己像を受容することにあるはずです。そしてそれこそが、薩摩と同じく絶対的な弱者としてあった奄美と対話の土俵を共有する鍵であることは言うまでもありません。

3月23日には原口さんの研究業績や資料価値をテーマに、長男で外務省外交史料館編さん委員の邦紘さん、二男で同大教授の泉さん(61)ら6人が同博物館で講演する。

 今日は22日。息子たちを交えた講演は明日です。ぼくはこの講演を聴くことはできないので、講演録やレポートに期待しますが、それは何より、自己矛盾をどう引き受けようとしているのかを知りたいからに他なりません。



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コメント

トラックバックありがとうございます。
「母なる奄美」という表現、以前も見てはいたのですがあまり深く考えてはいませんでした。
原口虎雄さんについては地元郷土研究家の方たちには評価は大きく分かれているように聞いています。
しかし、今回の資料群の公開は大きな意味があるかなとは思います。
残念ながら明日の講演会は私もいけないので、行った方のブログや「奄美諸島史の憂鬱」さんにレポートが掲載されるのを楽しみにしたいと思います。
ちなみに地元紙には今日も掲載されていませんでした。明日の講演会に併せて掲載するつもりなんでしょうか。(って、講演会のお知らせもありませんが)

投稿: mizuma | 2008/03/22 17:52

 クオリアさん

 話がいつも、遠すぎる感じがします
私が、遠いところで生きているのかもしれませんね

 都会からみると、どこも同じように遠いところ
沖永良部も与論も奄美群島の一部にあり、それでも
沖縄のそばであって・・・

 日本のどこにでもあるような農漁山村からみると
都会はすぐ傍にあるように見えるのではないかと、
ふと老眼・近眼を掛け違ったような気になります

 でも、周りをそっと見直しながら暮らしています
アルツハイマーの兆候が、時折見受けられるような
昨今です

投稿: サッちゃん | 2008/03/22 23:55

>mizumaさん

地元紙が奄美の文化で賑わうと嬉しいですよね。ぼくも高梨さんレポートに期待しています。


>サッちゃんさん

ぼくは今のところ遠いところからアプローチするしか術がないのです。それでも、切実ですから。

投稿: 喜山 | 2008/03/23 09:19

初めてのコメント失礼します。毎回興味深く拝読しています読者の一人です。童虎山房については2005年の寄贈時に紙面で取り上げていること、そして今日の講演会については3月20日付既紙で予告記事が掲載されていることをお伝えします。弊社HPは週一回の更新なので更新回数を増やすとより充実した内容になるかもしれませんね。ご指摘ありがとうございました。

投稿: トウダ | 2008/03/23 20:06

トウダ様

はじめまして。コメントありがとうございます。
掲載はあったとのこと。失礼いたしました。
南海日々新聞のホームページで探せばいいでしょうか?

これからもよろしくお願いいたします。

投稿: 喜山 | 2008/03/24 08:40

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