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2008/03/25

島流し

 『ドゥダンミン3』読書も終盤です。今回は、心乱される響きのあるタイトルの「島流し」というエッセイ。

 薩摩藩から(文化三年二八〇六から嘉永五年二八五二までに)大島郡に遠島されたのが、大島一二八九人、喜界四〇〇人、徳之島七七一人、永良部三五人、与論六人である。薩摩藩本土からは、寛延三年(一七五〇)の頃から始まり、明治八年通達によって遠島人制度が廃止になるまでの百二十五年間は、毎年、各島々の人口の大体百分の一の割合で配流されていた。従ってその数は数千人を超えていた。与論の流人が極端に少なかったのは、代官所がなく、監視不行き届きのため配流しなかったからである。(以上は奄美の風土と人と心、水間忠光著二一五貢から)

 島流しは、西郷隆盛の例に見られるように罪悪人とは限らなかった。遠島人の知識教養において上中下があった。上は私塾を開き、地域の子どもに読み書きを教えた。永良部にはこうした私塾が二十数カ所あったそうである。ここで学問尊重が植え付けられた。この恩恵は絶大だと言っても言い過ぎではない。知的財産だけではなく、本土の文化、気質などがもたらされ、後世にも受け継がれているからである。島にとって「人財」になった。下には島民とトラブルを起こす「大罪」もいた。

 遠島人の中には島の人と結婚してそのまま居付き、子孫を残し、生涯を終えた者も少なくない。
 薩摩藩政下二百五十八年間で、大島四島(喜界、大島、徳之島、永良部)に在勤した代官は約四百五十名、横目、付役を加えた合計は約三千四百名である。代官が滞在している間、身の回りの世話ということで島トゥジがいた。代官は、藩主の名代として絶大な権限が与えられていた。島トゥジになるのは、極めて狭き門であった。それは島民による給与があり、髪には銀かんざしを挿すことが出来、家族・一族は優位に過されたからである(奄美の風土と人と心、二百十三頁)。

 しかし、いい話ばかりではなく、いやがるのを代官が強引に島トゥジにしようとした悲劇物語りもある。
 こうした島トゥジとの間に出来た子孫は莫大な数になるであろう。その中から明治以降活躍した有名人士は多い。
 代官所が与論に置かれなかったために、遠島人を含め「人財」に恵まれなかった。与論と永良部の合併問題があったときに、代官所(役場)がなかったときのこの歴史がドゥダンミン男の頭をよぎった。        平成十八年十月記。(『ドゥダンミン3』竹下徹)

 ぼくは、ドゥダンミン男さんのように、代官所がなかったために「人財」に恵まれなかったとは全く思いません。これが、自分たちを劣性に置き、本土の人を優性に置く島人の哀しい心性と言えばいいのでしょうか。ぼくはむしろ、このエッセイに痛ましさを感じます。

 来訪神がしっかり存在し貴種流離譚がリアルに感じられる離島の環境のなかで、「遠島人」も「来訪神」や「貴種」のように見做されているようです。ただ、旅の人(たびんちゅ)にしても、「貴種」や「来訪神」に向かうようにもてなす気持ちはぼくも共有していたので、この心の傾斜は理解できます。

 けれど、その心の傾斜と歴史の理解は分けて考えなければなりません。与論は、「代官所がなく、監視不行き届きのため配流しなかった」ために「流人」は極端に少なかったが、そのために「私塾」も無く、そのために「人財」が育たなかったことを指摘するなら、同時に、島人とトラブルが起きる余地も無かったし、島トゥジをめぐって突然、優位劣位が持ち込まれる関係の不自然を感じることもなかったこともまた、同時に強調されなくてはならないでしょう。こうした歴史は、現在のゆんぬんちゅ(与論人)の純粋さ、世間知らず、喧嘩や自己主張は苦手という優しい性格の背景に脈々と受け継がれていて、それは現在にあっては、稀な美質と言うことだってできるとぼくは思っています。

 自分たちを劣性と見做す眼差しのなかで、こうした美質を看過してはいけないでしょう。「代官所がなく、監視不行き届き」の状況は、他の奄美の島々に比べてずいぶん安穏とした世界であったことを意味するのではないでしょうか。そのことを、ぼくは素直によかったなと思います。

 とりたてて取るもののない小さな島だからこそ与論は時の権力に無視されてきました。そのおかげでのんびりできたことが現在の与論の人となりに引き継がれているとしたら、それはかけがえのなさ与論らしさのひとつだと思います。「代官所が与論に置かれなかったために、遠島人を含め『人財』に恵まれなかった」と言う必要は全くなく、根拠のない劣性意識は、もう黒潮に流してもらえばいいと、ぼくは思います。



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コメント

 クオリアさん

 全く同感です
自然もそこに住む人も「素材のままに恵まれて
生きてきたのだと思います

 いつか云ったと思いますが、「あしと」の
集落は「葦(蘆、芦)戸」に由来し、「麦屋」
の地名と併せてゆかしさ、雅さを感じます

 与論島の集落発祥の地である麦屋地域のこと
(人)をインジャないしはインジャンチュと呼
んでいわゆる「田舎者」の代名詞のようにして
いる風潮があるようです

 歴史的にもそうですが、麦屋地域で語り継が
れているユンヌ言葉こそが日本祖語の正統な形
を残していて、豊かさを湛えていると思ってい
ます

 沖縄、奄美のゴチャマゼの言葉なんかよりは
優雅で、奥深さを持っています
決して劣性ではなく、研ぎ澄まされた優性遺伝
のDNAを親先祖は伝えてくれているのです

 逆境をチャンスにしてくれる、そうしないと
生きていけない島の歴史の真髄があるはずです
し、それを語り継いで行くべきです
たとえ、それが「ティーチユン」といわれても
やっぱり、「まこと」だと思います 

投稿: サッちゃん | 2008/03/26 14:19

サッちゃんさん

ぼくもインジャンチュの言葉はより祖型を残しているのではないかと想像します。いつかきちんと確かめてみたいです。

投稿: 喜山 | 2008/03/27 08:56

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