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2008/03/02

「日本の『端』を巡る旅」

 「日本の『端』を巡る旅」と題したマイコミジャーナルの記事は、素顔に近い与論島の紹介文になっていて、3回の連載を楽しみに読んでいました。

 ※「与論島(3)--27度線を越えて親しい沖縄の地へ」

 この記事の感想というより、記事を読んで思い出すこと感じることを記します。

このユンヌの島が"日本の端"であったのは、これまでにも書いたように1972年の沖縄返還以前のこと。与論島を含む奄美諸島も戦後、沖縄と同様に米軍政下に置かれていたが、奄美諸島は沖縄より20年弱早く1953年12月25日に日本へ復帰した。その日付から、アメリカは日本へのクリスマスプレゼントだと表明したそうだ。

 いままで気づかなかったけれど、1953年12月25日が日本へのクリスマスプレゼントのように表明されたことは驚かざるをえません。「クリスマスプレゼントとしての奄美」なんていう表象は実感からほど遠いのです。これは戦後対策として日本政府には意味があったでしょうが、日本が奄美をクリスマスプレゼントと感じることはなかったでしょうし、当の奄美の人は喜んだでしょうが、それが自分たちがクリスマスプレゼントとして迎えられると感じたからではありませんでした。

与論と沖縄本島最北端・辺戸岬でそれぞれ松明を灯し合い、双方の人々が沖縄の日本復帰を願ったというエピソードは有名だ。

 「クリスマスプレゼントとしての奄美」の次は、沖縄からみたときの「日本の象徴としての与論」。クリスマスプレゼントといい日本の象徴といい、奄美や与論は不思議な表象をまとってきたものです。

大型船を接岸できなかったときは、乗客もすべて艀(はしけ)で運んだ。艀というのは、大型の船舶から貨物や人を運ぶ際に使う小型船のこと。大型船舶が着岸できる港がない場合などに用いられる。日本の端ということで多くの観光客が訪れた当時、与論で下船する人が1,000人を超えたこともあったが、夜の海を艀で何度も何度も往復しながら運んだという。「ただの一度も事故を起こさなかったことがいちばんの誇りですね」と橋口さんは語る。

 このエピソードは、ぼくの記憶にも重なってきます。大型船に横付けして上下に大きく揺れる艀(はしけ)で、ちょうど大型船の乗降口と高さが同じくらいになったとき、「ハイ」というかけ声と一緒に人や荷物を艀(はしけ)に移していました。あれは子ども心にも怖くて、命がけに近い気がしました。そんなすごい場面を安心させてくれたのは、積み替えを担ってくれたウジャターです。たとえばぼくは、「来ちゃんむい」と言って艀(はしけ)に抱きかかえて入れてくれた金久のウジャの姿を思い出します。

また沖縄返還前は、商売で"密航"した人もやはりいたという。与論から豚や牛を積み、物々交換で沖縄から米軍物資の缶詰などを持ち帰る。"国境"があろうがなかろうが、与論と沖縄はそれほどに近いのだという事実の証でもあろう。

 これも、身近なウジャたちから武勇伝のように聞かされる話です。思えばこのとき、奄美の民は海の民である自分たちの遺伝子を思い出した時期だったのかもしれません。

同じ与論の人であっても、"日本の端"への思いはやはり世代によって異なる。僕が与論でいつもお世話になる民宿「楽園荘」の若旦那・本園秀幸さん(ヒデさんと呼んでいる)は、沖縄返還の翌年に生まれたから、現在30代半ば。返還をリアルタイムで経験した世代ではないので、当然ながら与論が日本の端であるという意識はまったくないという。

 これはその通りで、でも、この先の話を付け加えることができます。与論は「端」の島から「非在」の島へ、「どこかにある南の島」へ位相を変えたのです、と。

与論島は沖縄県になったほうがいいかと尋ねると「個人的には、なったほうがいいですね。やっぱり、近いからですね」と、ヒデさんは何のためらいもなく答えた。
「自分が東京や大阪へ行ったとき『どこ出身?』と聞かれるじゃないですか。与論島だと答えると、それは何県かって聞かれるんですよ。『いちおう鹿児島県なんだけど』と答えると、『じゃあ鹿児島の人なんだね』と言われるわけです。そのとき、なんかカチンとくるんですよ。おい、ちがうぞ、と。鹿児島が嫌いなわけじゃないんだけど、桜島とか、カルカンとか、いわゆる鹿児島のイメージと、与論島とでは、あまりにちがいすぎるじゃないですか」。
那覇の飲み屋で与論の話をすると、意外にもウチナーンチュ(沖縄人)の多くは「与論って(沖縄本島の)そんな近くにあるんだねー」と驚く。ヤマト(日本本土)からの旅人の多くも、沖縄から300~400km離れた宮古や八重山はあくまで沖縄(沖縄県)として興味を持つが、わずか20km強の与論は「沖縄県じゃないから」という理由であまり意識しないらしい。ヒデさんの「鹿児島県より沖縄県といわれるほうが気持ちとしては近い」という思い、いわば与論から沖縄へのラブコールは、沖縄側からだとなかなか理解されないのだろうか。与論島の微妙な歴史的・地理的位置に、ついぞ歯噛みをしたくなった。

 「与論島は沖縄県になったほうがいい」というのは、島の人の素朴なアイデンティティの感覚を代弁していると思う。

 特に、

『いちおう鹿児島県なんだけど』と答えると、『じゃあ鹿児島の人なんだね』と言われるわけです。そのとき、なんかカチンとくるんですよ。おい、ちがうぞ、と。鹿児島が嫌いなわけじゃないんだけど、桜島とか、カルカンとか、いわゆる鹿児島のイメージと、与論島とでは、あまりにちがいすぎるじゃないですか。

 この感覚はぼくも共有してきたものです。鹿児島からは異文化として黙殺され、沖縄からは他県として無視されることが奄美や与論のアイデンティティを複雑にしてきた要因であり、ここにはその素朴な実感が素直に表明されています。

 だから、「端」から「非在」へというポジショニングにはある解放感がありました。それは与論を「ヨロン」と表記するときの、あの解放感です。

 記事の書き手は、「与論島の微妙な歴史的・地理的位置に、ついぞ歯噛みをしたくなった。」と与論へのシンパシーから書いてくれていますが、そういうポジションであればこそ、与論島は琉球弧の全体が素直に見渡せるのではないかとぼくは思います。


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コメント

クオリアさん

 「端」とか「非在」とは、こころの在り様のこと
なのでしょうか?

 心ここに在らず・・・でもなさそうですし
日本の国は、世界地図の真ん中にあるのに極東とは
これ如何に?
与論は、鹿児島の端と云うが如し

 知らないことばかりが多すぎて・・・
未知な世界が多いほど、出会いも巡りあいも多いの
だと、無知な自分に云い聞かせています

 子どもの頃、時間は無限だと勘違いしていました
今は、あと何回かの瞬きの余生かと寂しくもなりま
すが、心の持ちようかと時々奮い立ちます

 琉球弧というより、私の心の中の真ん中にユンヌ
が居続けようとするので厄介なものだと・・・
ヤッケーナムヌデーシガ、ガシガヨデールクトゥ

投稿: サッちゃん | 2008/03/03 22:50

ぼくも与論がいつも中心です。中心どころか与論を宇宙と思ってしまうので、他の世界が消えてなくなりかねません。

非在というのは、人々の思う与論のことをイメージしました。ヨロンが流行ったとき、「あそこは外国なんでしょ」とよく言われました。ぼくは鹿児島県といわれるより、そんな誤解のほうが居心地がよかったです。その延長で、「どこかにある島」という「めがね」的な位置づけで、非在の島と言ってみたのです。

分かりにくい表現でごめんなさい。

投稿: 喜山 | 2008/03/04 22:53

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