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2008/03/26

イダウワーリヨウ

 「イダウワーリヨウ」は、「早くいらしてください」、そんな意味になると思う。

与論では自分の家以外のところで落命すると、葬式の朝、神官と喪主はその場所へ行って魂をお供してくる。今は便利な携帯電話があって、到着時間を正確に知らせてくれるから、親戚の者どもは門の外にまで出て出迎える。死者の名前を呼び「イダウワーリヨウ(お帰りなさい)」と泣き声とともに口々に言いながら迎え入れる。傍観者には見えないが迎える人たちには、その姿が見えているような振る舞いの光景である。勿論亡骸は前日から家の中に横たわっている。
 生前親しかった弔問客がくると、亡骸の耳に顔を近づけて、「何某がみえたよ」と教える。客も死者に話し掛ける。旅から兄弟、子や孫など肉親がくると「ニャマ ウレー○○が来たよ」と教える。食事をするときは枕辺の祭壇にお食事の膳を供え、祭り人が食事をはじめる詞を奏上し、みんな打ちそろって礼拝してからはじめる。体が動かず、口が利けなくなっただけで、そこに「います」がごとくに進められる。(『ドゥダンミン3』竹下徹)

 ぼくの記憶のなかだと、祖母(ぱーぱー)の振る舞いを見ていると、まるでそこにいるかのような雰囲気が強く漂いました。神棚に祈る時の、話しかけ方や拝む手の挙措。神を迎え見送るときの手のやわらかな仕草。ぱーぱーがすると、まるで、そこに本当にいるように見えるんです。だから、自然と厳かな雰囲気になったものです。

 「傍観者には見えないが迎える人たちには、その姿が見えているような振る舞いの光景」は、魂は人から分離することができ、かつ人と同じ価値の存在であるという世界観のなかに生まれます。そしてそこでは死は生の向こう側にあるというより、生とつながっています。だから、誰が来たよ、と声をかけるし、「体が動かず、口が利けなくなっただけで」そこに「いる」と感じているわけです。そこに「いる」と考えているのではなく、そこに「いる」と見なしているのでもなく、そこに「いる」と感じているのだと思います。だからこそ芝居がかっているわけではない自然な仕草なのに霊的身体を浮かび上がらせることができるのでしょう。

 ぼくは、こんな世界観のなかにある習俗の優しさに心惹かれてやみません。


 さて、これにて、『ドゥダンミン3』の読書は終わります。『ドゥダンミン3』も、やっぱり、与論の漁の話、習俗の話が最高でした。もっともっと与論の話を読みたいものです。


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コメント

 クオリアさん

 ユンヌ言葉、民謡などの「島フトゥバ、島唄の歴史
のミニ・フォーラム」を二人でやりたいですね

誰もいないところで・・・ウドゥヌス辺りのミーミー
コウコウでと思っていますが、大したことではないの
で云いたい放題でいいと思います

 狭い与論ではすぐ悪口や言いたい放題はバレバレに
なってしまうので、赤坂辺り・・・赤崎ではありませ
んよ・・・か六本木界隈で話ができたらいいですね

 四方山与論話千夜一夜とか分かりやすく名チキティ
の内緒の話でもしましょうか?そのうちに・・・

投稿: サッちゃん | 2008/03/26 23:21

サッちゃんさん

東京へいらっしゃる機会は、ぜひ声かけてください。
でも、赤坂だけじゃなく赤崎でもぜひ。(^^;)
教えてもらうことばかりと思いますが、四方山話させてください。

投稿: 喜山 | 2008/03/27 08:59

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