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2008/03/31

奄美にとっての道州制

 昨日の「引き裂かれる奄美」を書いた後、どういうわけか、PUFFYの「これがわたしの生きる道」を思い出しました。

少しくらいは不安だってば これがわたしの生きる道

 こんな風に奄美が、「これが奄美の生きる道」を言い切らなきゃいけないんだろうなぁと。それに、少し抽象的な言い方で終わらせているのは自分でもちょっと気になるところです。拙いけれど一構想アイデアを挙げます。

 ぼくの考えは、奄美は一体で沖縄というか琉球州に加わるのがいいと思う。そのほうが、奄美が日本や近隣国の都市住民に提供できる価値を開示しやすいと思うからです。そして、奄美の歴史が担った強みを生かして九州との交流拠点を役割のひとつとして担えばいいのではないでしょうか。沖縄は元来、鹿児島との交流は苦手だろうしすると奄美なしでは九州との交流はおぼつかないだろうから、そこで、鹿児島在住の奄美人も多い強みを生かします。

 奄美は沖縄に対しては、同じ亜熱帯の自然と珊瑚礁の観光資源を持った地域として沖縄価値の広がりになることを伝えます。ただし、開発をしない観光資源としてのポジションは守ります。語感を誤解しなければ、琉球の辺境というポジショニングにしてもいいのです。別の側面では、沖縄がともすると、対大和に身構えて硬直化する傾向があるのに対してそれを緩和する役割も担えるでしょう。

 ただし、琉球州は琉球王国を根拠にしたら未来性は小さくなります。それは、北部奄美の反撥を買うからというより、国家の解体表現の一過程として道州制があるとするなら、国家を構築しなかった美質を持つ琉球弧の深い歴史を根拠にするほうが強い基盤を得られるからです。

 と、勝手なことを書きました。しかしこれ全て、奄美は何者かをネガではなくポジとして提示する力を前提にしています。そうでなければ、どちらへいこうが九州のなかの異物・辺境として静かに黙殺されるでしょうし、琉球州のなかでも、「お前達は鹿児島ではないのか」という無理解で無視されると思うからです。

 奄美にとって道州制というテーマは、自己の輪郭を浮き彫りにできるかどうかの試金石になる気がしています。

 (がんばれチベット、と念じて投稿。)




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2008/03/30

引き裂かれる奄美

 「NPO法人ゆいまーる琉球の自治」の松島さんが伊江島で開かれた「ゆいまーる会議」をレポートしています。

 「伊江島ゆいまーる会議」

 そのレポートの「伊江島ゆいまーる会議8」で、前利さんの、

前利さんは、道州制によって奄美諸島が沖縄県と鹿児島県に引き裂かれるという問題を指摘しました。

 という発言が気になり、松島さんにお尋ねしたところ、

道州制が 実施された場合、九州州と一緒になろうとする奄美諸島と、沖縄州とともに歩もうとする奄美諸島に分かれるという意味ではないか

 と、答えてもらいました。ありがとうございます。松島さんには前利さんに聞くといいというアドバイスもいただいたのですが、前利さんを存じ上げないので、ひとまず独り考えをしますが、「引き裂かれる奄美」というテーマは、『奄美の多層圏域と離島政策』の「市町村合併と群島内の経済モデル」という考察を思い出します。

 「市町村合併問題は、経済統合問題」という視点に立った考察では、奄美を北奄美と南奄美とに分けたシミュレーションを行っていました。

 「奄美の多層圏域と離島政策 10」

 徳之島以北を「北奄美」、沖永良部と与論を「南奄美」とした場合という仮定ですが、これは、道州制が敷かれた場合の、「九州州と一緒になろうとする奄美諸島と、沖縄州とともに歩もうとする奄美諸島」とパラレルに受け取ることもできそうです。

 あくまで経済観点で見た場合のシミュレーションでは、鹿児島県内で北奄美と南に分かれるのも、北奄美は鹿児島県、南奄美は沖縄県に分かれるのも、あまりメリットは見いだせないという結論でした。そして奄美全体で沖縄県内の市町村合併をするなら意味があるだろう、と指摘されていました。

◇◆◇

 経済的に見た場合、「引き裂かれる奄美」にメリットはない。それはそうだろうと、ふつうに考えても想像できます。もともと小さい経済圏なのに分割したらもっと経済性が小さくなるということでしょうから。そして現状のまま分割したら、北奄美は九州州のお荷物、南奄美は沖縄州のお荷物扱いであることも目に見えています。いやそれは、奄美自体が現状のままであったら、どちらへなるにしても、お荷物扱いであるに違いありません。

 だから、「引き裂かれる奄美」というテーマは、引き裂かれるほどに統一感がない奄美の歴史と現状を踏まえるためのいい問題提起になっているように思います。

 この問題提起を受け止めると、依然として問われているのは、奄美とは何か、ということなのではないでしょうか。この問いに対する答えをもって、というより、この問いに答えようとする対話のなかで、奄美の進む道も見えてくるのではないかと思えます。

 ちょうど道州制については、24日に「道州制ビジョン懇談会」が、2018年までに完全移行を謳った中間報告が提出されました。このニュースを見ても、いまひとつ現実的な動きが起こるのか、実感が湧いてきません。大前研一は、「道州制に移行しなくてはいけない真の理由」のなかで、知事は席が減り役所も仕事場が減り地方のマスコミも存立基盤を失うから、大きな政治的決断が無ければ先へ進むはずがないと2年前に書いていますが、いまひとつリアリティが湧いてこないのはこうした背景もあるのかもしれません。ただ、政治にねじれを起こして事態をストップさせて、とにもかくにもここ数年で起きている混乱を回収するまでは何も先へ進めたくないという生活感情があるから、なおさら、2018年までの移行という報告にリアリティを感じないのかもしれません。

 けれど、事態の進展がどうあれ、奄美にとって奄美とは何かが突きつけられていることに変わりはないと思えます。ぼくはこれは答えの内容もさることながら、奄美がそれに答えるということ自体に大きな意義を感じます。そのための言葉の積み重ねをぼくもささやかながら続けていこうと思います。



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2008/03/29

高神としての御願

 まず、「高神=垂直神型」についてです。高神(たかかみ)は、「いと高い所」にいる神で「天」の考え方と結びつくことも多い。そこで高神について考えるときは、垂直軸が浮かんでくる。そしてその神に人間が祈るときには、人間の心は「いと高き所」を目指し、神は「山の上や立派な樹木の梢に降下してく」ると考えられています。

 高神は、琉球弧ではどういう現れ方をしているでしょうか。

 沖縄に行きますと、どこの村にも「御獄」という森があります。とても静かな森です。熱帯性の植物が両側に生い茂る薄暗い小道をたどって、森の奥につきますと、そこにはこぢんまりとした明るい空間が開けます。明るい子宮とでも言いましょうか、なにか柔らかい霊的な膜によって、現実の世界から隔てられた空間の内部に、包み込まれているような印象です。  日本本土の神社と違って、そこにはなんの建物もありません。珊瑚の石を敷き詰めて、ただ簡単な香炉などが置いてあるだけです。ここで女性の祭祀者であるノロたちが、「御嶽の神」との交信を図ります。同じようなタイプの神は、南島の島々のいたるところにいます。違う名前で呼ばれていて、それがどういう神なのかということに関しては、驚くほどの共通性を見せています。

 そうした「御嶽の神」は、島の人々によってつぎのように考えられている神なのです。
(l)「御嶽の神」は、一年中いつもそこに常在している神である。
(2)そのおかげで、村の生活を滞りなく続けていることができる。もしこの神が一瞬でもいなくなれば、人間の社会生活は一時たりとも続けることができない。「御嶽の神」はこの世の秩序を保ってくれているのである。このタイプの神のいない世界は存在しないのであるから、どこかからやってくるという「来訪型」の思考は生まれようがない。
(3)「御嶽の神」ははっきりしたことは言われたことはないが、とにかく「いと高い所」にいまします「垂直型」の神である。
(4)その神は像で描かれることがない。完全な無像性を特徴としている。ノロたちに「あなたがお祀りしているその神様はどんなお姿をしているのですか」などと質問しても、笑って答えてくれないケースがほとんどで、答えてくれたとしても「まぶしい、光みたいな」といったまるでイメージ性に乏しい抽象的な答えしか返ってこない。これはノロたちが神秘めかしているせいではなく、もともと表現可能なイメージ性がこの神にはないのである。感覚的には、恐ろしく簡素・簡潔で、この点では本土の神道の神とも、深い共通性をもっている。(『神の発明 カイエ・ソバージュ〈4〉』

 沖縄の「御獄(ウタキ)」に対応しているのは、与論の御願(ウガン)です。「森の奥」というほどの森は与論には無いので、そんな立地はなかなか得られないのだけれど、「明るい子宮」とでもいうような「こぢんまりとした明るい空間」であること、そこには建物もなく、「珊瑚の石を敷き詰めて、ただ簡単な香炉などが置いてあるだけ」という簡素な佇まいは共通しています。

 与論島には、各字のところどころに、神聖な小高い丘があって、そこには樹木がうっそうと繁り、中は昼間でもうす暗くなっている。そこは、神霊の宿っているところだと信じられ、その小丘全体をばいわば一つの神体として、あがめ奉るということをしていた。その聖地を「ヲゥガン」または.「ウガン」 といっている。
 「ウガン」という語は、ヲゥガミ(拝ミ)、という形から変化して生じたものか、あるいは、神霊をヲゥカ(またはウカ)といっていたため、樹木の繁った小丘の中に神霊が宿っていると信じて、ヲゥカヌ(神霊の)という語が用いられ、それから変化して生じたものか、今のところはっきりした決め手はない。「ウガン」という所は、要するに、拝むところであり、神霊の宿るところである、と信じられた場所である。
 ウガンの樹木は、一本でも伐ることはできないのはもちろん、枯れて落ちている木の枝も葉も、叩-本でも取ることは禁じられている。また、勝手に中に踏み入ることも許されない。それほど神聖な場所だと信じられている。アマグイ(雨乞い)は、たいてい「ウガン」の場所で行なわれていた。(『与論島の生活と伝承』山田実

 樹木信仰につながるところ、御願の神は高神としての性格を持っているように見えます。ただ、「神が一瞬でもいなくなれば、人間の社会生活は一時たりとも続けることができない」という緊張度が、御願の神にあるのかどうか、ぼくには分かりません。

 ウガンには、「ムヌ」がひそんでいると信じられている。「ムヌ」という語は、幽霊、妖精、鬼神、邪鬼、魔物という意を表わすほか、ふしぎな霊威を持つ力のあるもの、という意にも考えられている。それで、「ムヌ」のひそんでいる「ウガン」には、恐れて誰も立ち入ろうとしないのである。しかし、そこで雨乞いをすれば効果があったので、雨乞いの場にも用いられていたのである。
 ウガンに対するそのような信仰心をいだいていたから、神霊の崇りを受けないため、祭を行なっていたようであるが、どういう方法の祭であったかは伝わっていない。(『与論島の生活と伝承』山田実

 中沢新一の多神教の宇宙によれば、それは高神、来訪神、残余のスピリットに分かれて存在しているので、仮に御願(ウガン)の神を高神だとすると、そこにムヌが潜んでいると言うのは面白いところです。ムヌは多神教宇宙のなかでは、「残余のスピリット」に当てはまるものです。三つの構成要素として多神教宇宙ができたとき、与論では、高神と残余のスピリットは、はっきり分離することができずに、原初の姿を引きずったとでもいうのでしょうか。

 アアサキウガンは、与論島の最初の開発祖神である、アマミクとシニグクの両神が、与論島に来島して、ショオヌ宮(御屋)に居住する前に、暫時居を構えた仮りの居所だった、というふうに伝えられてい。ティラサキウガンとクルパナウガンは、アマミクとシニグクの両神に遅れて、与論島に開発祖神として上陸し、居所を構えた地点だと伝えられている。クルパナウガンに居住した神は、オーシャンガナシだったと伝える古老もいる。そのような由来に基づく神聖な場所であるから、シニグ祭との関係が生じたのであろう。
 与論島のウガン信仰は、きわめて古い時代から行なわれてきたようである。古神道の流れに基づくものであろう。明治四年に入って、琴平神社の鎌田常助神主の提案により、全島のウガンが、常主神社に合祀されるようになったため、同年に各地のウガン祭は廃止されたのである。(『与論島の生活と伝承』山田実

 アマミクとシニグクと関係があるところは、御願(ウガン)の神が高神に属することを物語っています。高神の考え方を手にすると、それが高神であるがゆえにシニグ祭との関係が生じたと、ぼくたちは言うことができます。また、高神であるがゆえに、より上位の高所を想定している神社が登場したとき合祀されるという点も、高神的であるように見えます。



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2008/03/28

多神教的な宇宙としての琉球弧

 中沢新一は、多神教的な宇宙の典型のように琉球弧を紹介しています。

 このような多神教的な神々の宇宙の基本構造を、日本の南西諸島(奄美や沖縄にある島々のこと)ほどくっきり鮮やかに示している地帯も少ないのではないでしょうか。そこでは、高神もいれば来訪神も出現するし、樹木に住む小さなスピリットたちもいればといった具合で、スピリット世界が「対称性の自発的破れ」をおこしてそこから多神教宇宙があらわれでてきたのが、まるでつい昨日のことであったかのような、ういういしい様子で、いまでも私たちを迎えてくれるのです。

 日本列島の本土のほうでは、多神教の宇宙は奄美や沖縄におけるようなストレートな形態をしていません。高神の要素のほうははっきりとあらわれているのに、来訪神のほうが明瞭な形ではあらわれてこないからです(この間題はあとでもう一度詳しくとりあげるつもりです)。柳田国男と折口信夫の二人が、一九二〇年代に相次いで奄美諸島や沖縄本島・先島諸島に渡り、そこで出会った来訪神の姿に深い衝撃を受けて、それ以来日本の宗教史についてまったく新しい考え方を抱くようになったのは、そのあたりに原因があるのではないかと、私などは考えています。

 じっさい南島の神々は、そこの太陽の輝きのようにあざやかな形で、私たちの前に出現してくるのです。そこには「常在神」と「来訪神」という二つのまったく違うタイプの神がいて、たがいに相手をおぎないあいながら、豊かな多神教の宇宙をかたちづくっています。(『神の発明 カイエ・ソバージュ〈4〉』

 多神教的な宇宙はこんな構造をしていると言います。

 (多神教宇宙)=(高神)+(来訪神)+(残余のスピリット)

 中沢は、この多神教宇宙の基本構造を「高神=垂直神型」と「来訪神=水平神型」と整理するのですが、、ぼくはその前に「残余のスピリット」にまず目を奪われます。「残余のスピリット」に、イシャトゥもウグミもウンワラビも、「樹木に住む小さなスピリットたち」であるキジムナーもケンムンも含まれるからです。彼らはぼくたちの生活のなかでもとても身近な存在でしたから。

 そして、本土では「来訪神」が芸能にとって変わられているために、本土では多神教宇宙を明確な形で見いだせないが、琉球弧では、「多神教宇宙があらわれでてきたのが、まるでつい昨日のことであったかのような、ういういしい様子で、いまでも私たちを迎えてくれるのです」と言うのですが、ぼくも「残余のスピリット」たちの延長に、それが琉球弧の魅力ではないかと感じるところです。

 そこで、多神教宇宙の構造の中身について、中沢の言うところを追ってみたいと思います。



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2008/03/27

「奄美こだわりショップ」

 奄美の物産館が話題(「奄美物産館がほしい」)になったと思ったら、できるという話題が飛び込んできました。

 「奄美こだわりショップ」
Amamikodawari







 日本のどこよりも奄美が大好きになってしまった中西さんにとって奄美は既に第二の故郷になっているようだ。
 「奄美の特産品は優れた商品がたくさんあるが、これまではなかなかPRする場がないと感じていました。この『奄美こだわりショップ』のオープンによってどんどん奄美ファンを増やしていけたら」と中西さん。
 そんな中西さんの奄美への想いがたくさん詰まった『奄美こだわりショップ』のグランドオープンは、4月4日金曜日。

 嬉しいじゃありませんか。場所も川崎だし、これは行かねばなりますまい。

 二枚看板のもうひとつは、「博多名物もつ鍋『如水』」で、一瞬?となりますが、博多の方ですものね。当然です。でも奄美の食材を使ってくださるそうですし、ここも行ってみたいですね。

 「あまみんちゅトピックス」でも、「ついに誕生!」と書いていますが、ついに、やっと、ぼくもそんな言葉が浮かびます。東京近辺でも「奄美」に出会えると思えるだけで、気分が晴れやかになるようです。今後、こんな“奄美屋さん”の拠点が増えていくのを期待します。



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2008/03/26

あなたが着たい泥染めの色は?

 縁あって、奄美の泥染めTシャツの商品づくりのお手伝いをしています。
 モノトーンでは、3色をつくろうと計画しています。この色です。

Dorozome_2












 で、この色合いの好みについてアンケートを開始しました。たった1問の選ぶだけアンケート。よかったら答えてやってください。

 ◆アンケート>> あなたが着たい泥染めの色は?


 集計結果が出たら、このブログでもお伝えしますね。




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イダウワーリヨウ

 「イダウワーリヨウ」は、「早くいらしてください」、そんな意味になると思う。

与論では自分の家以外のところで落命すると、葬式の朝、神官と喪主はその場所へ行って魂をお供してくる。今は便利な携帯電話があって、到着時間を正確に知らせてくれるから、親戚の者どもは門の外にまで出て出迎える。死者の名前を呼び「イダウワーリヨウ(お帰りなさい)」と泣き声とともに口々に言いながら迎え入れる。傍観者には見えないが迎える人たちには、その姿が見えているような振る舞いの光景である。勿論亡骸は前日から家の中に横たわっている。
 生前親しかった弔問客がくると、亡骸の耳に顔を近づけて、「何某がみえたよ」と教える。客も死者に話し掛ける。旅から兄弟、子や孫など肉親がくると「ニャマ ウレー○○が来たよ」と教える。食事をするときは枕辺の祭壇にお食事の膳を供え、祭り人が食事をはじめる詞を奏上し、みんな打ちそろって礼拝してからはじめる。体が動かず、口が利けなくなっただけで、そこに「います」がごとくに進められる。(『ドゥダンミン3』竹下徹)

 ぼくの記憶のなかだと、祖母(ぱーぱー)の振る舞いを見ていると、まるでそこにいるかのような雰囲気が強く漂いました。神棚に祈る時の、話しかけ方や拝む手の挙措。神を迎え見送るときの手のやわらかな仕草。ぱーぱーがすると、まるで、そこに本当にいるように見えるんです。だから、自然と厳かな雰囲気になったものです。

 「傍観者には見えないが迎える人たちには、その姿が見えているような振る舞いの光景」は、魂は人から分離することができ、かつ人と同じ価値の存在であるという世界観のなかに生まれます。そしてそこでは死は生の向こう側にあるというより、生とつながっています。だから、誰が来たよ、と声をかけるし、「体が動かず、口が利けなくなっただけで」そこに「いる」と感じているわけです。そこに「いる」と考えているのではなく、そこに「いる」と見なしているのでもなく、そこに「いる」と感じているのだと思います。だからこそ芝居がかっているわけではない自然な仕草なのに霊的身体を浮かび上がらせることができるのでしょう。

 ぼくは、こんな世界観のなかにある習俗の優しさに心惹かれてやみません。


 さて、これにて、『ドゥダンミン3』の読書は終わります。『ドゥダンミン3』も、やっぱり、与論の漁の話、習俗の話が最高でした。もっともっと与論の話を読みたいものです。


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2008/03/25

島流し

 『ドゥダンミン3』読書も終盤です。今回は、心乱される響きのあるタイトルの「島流し」というエッセイ。

 薩摩藩から(文化三年二八〇六から嘉永五年二八五二までに)大島郡に遠島されたのが、大島一二八九人、喜界四〇〇人、徳之島七七一人、永良部三五人、与論六人である。薩摩藩本土からは、寛延三年(一七五〇)の頃から始まり、明治八年通達によって遠島人制度が廃止になるまでの百二十五年間は、毎年、各島々の人口の大体百分の一の割合で配流されていた。従ってその数は数千人を超えていた。与論の流人が極端に少なかったのは、代官所がなく、監視不行き届きのため配流しなかったからである。(以上は奄美の風土と人と心、水間忠光著二一五貢から)

 島流しは、西郷隆盛の例に見られるように罪悪人とは限らなかった。遠島人の知識教養において上中下があった。上は私塾を開き、地域の子どもに読み書きを教えた。永良部にはこうした私塾が二十数カ所あったそうである。ここで学問尊重が植え付けられた。この恩恵は絶大だと言っても言い過ぎではない。知的財産だけではなく、本土の文化、気質などがもたらされ、後世にも受け継がれているからである。島にとって「人財」になった。下には島民とトラブルを起こす「大罪」もいた。

 遠島人の中には島の人と結婚してそのまま居付き、子孫を残し、生涯を終えた者も少なくない。
 薩摩藩政下二百五十八年間で、大島四島(喜界、大島、徳之島、永良部)に在勤した代官は約四百五十名、横目、付役を加えた合計は約三千四百名である。代官が滞在している間、身の回りの世話ということで島トゥジがいた。代官は、藩主の名代として絶大な権限が与えられていた。島トゥジになるのは、極めて狭き門であった。それは島民による給与があり、髪には銀かんざしを挿すことが出来、家族・一族は優位に過されたからである(奄美の風土と人と心、二百十三頁)。

 しかし、いい話ばかりではなく、いやがるのを代官が強引に島トゥジにしようとした悲劇物語りもある。
 こうした島トゥジとの間に出来た子孫は莫大な数になるであろう。その中から明治以降活躍した有名人士は多い。
 代官所が与論に置かれなかったために、遠島人を含め「人財」に恵まれなかった。与論と永良部の合併問題があったときに、代官所(役場)がなかったときのこの歴史がドゥダンミン男の頭をよぎった。        平成十八年十月記。(『ドゥダンミン3』竹下徹)

 ぼくは、ドゥダンミン男さんのように、代官所がなかったために「人財」に恵まれなかったとは全く思いません。これが、自分たちを劣性に置き、本土の人を優性に置く島人の哀しい心性と言えばいいのでしょうか。ぼくはむしろ、このエッセイに痛ましさを感じます。

 来訪神がしっかり存在し貴種流離譚がリアルに感じられる離島の環境のなかで、「遠島人」も「来訪神」や「貴種」のように見做されているようです。ただ、旅の人(たびんちゅ)にしても、「貴種」や「来訪神」に向かうようにもてなす気持ちはぼくも共有していたので、この心の傾斜は理解できます。

 けれど、その心の傾斜と歴史の理解は分けて考えなければなりません。与論は、「代官所がなく、監視不行き届きのため配流しなかった」ために「流人」は極端に少なかったが、そのために「私塾」も無く、そのために「人財」が育たなかったことを指摘するなら、同時に、島人とトラブルが起きる余地も無かったし、島トゥジをめぐって突然、優位劣位が持ち込まれる関係の不自然を感じることもなかったこともまた、同時に強調されなくてはならないでしょう。こうした歴史は、現在のゆんぬんちゅ(与論人)の純粋さ、世間知らず、喧嘩や自己主張は苦手という優しい性格の背景に脈々と受け継がれていて、それは現在にあっては、稀な美質と言うことだってできるとぼくは思っています。

 自分たちを劣性と見做す眼差しのなかで、こうした美質を看過してはいけないでしょう。「代官所がなく、監視不行き届き」の状況は、他の奄美の島々に比べてずいぶん安穏とした世界であったことを意味するのではないでしょうか。そのことを、ぼくは素直によかったなと思います。

 とりたてて取るもののない小さな島だからこそ与論は時の権力に無視されてきました。そのおかげでのんびりできたことが現在の与論の人となりに引き継がれているとしたら、それはかけがえのなさ与論らしさのひとつだと思います。「代官所が与論に置かれなかったために、遠島人を含め『人財』に恵まれなかった」と言う必要は全くなく、根拠のない劣性意識は、もう黒潮に流してもらえばいいと、ぼくは思います。



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2008/03/24

サーシマグトゥ

 サーシマグトゥは「逆さごと」のことだと思う。

サーシマグトゥ(逆さまこと)
 親友以上の付き合いをしている人が、危機的状態を脱して元気に退院してきた。父親は早くに他界し、高齢の母親が人一倍慈しんできた息子だった。横着者のトゥラは、そのお母さんに「サーシマグトゥ(親より先に子が死ぬこと)にならなくてよかった」と言ってしまった。
お母さんは一瞬戸惑い「ガシティボ(そうなんだよ)」といった。トゥラは悪戯の過ぎたと後悔したが後の祭。快気祝いの酒がまずかった。

 その一年数か月後、こともあろうにその友が急死した。トゥラは、母親にかける言葉なく、顔を見ることもできなかった。数十年後の今はそのとき言った言葉が、針になって心に突き刺さったままである。

 サーシマグトゥとは、死や死にまつわることである。①あの世はこの世の逆さまで、サーシマグトゥと忌み嫌われる。着物を裏返しに着たり、えりの前あわせが反対であったり、北枕にしたり、ちょっとしたことでも気にする人は忌み嫌う。②子が親に先立つことは順序が逆でサーシマグトゥの最たるもので、親不孝の最たるものである。(『ドゥダンミン3』竹下徹)

 サーシマグトゥは葬儀での「逆さごと」が、日常的な言葉として定着したもののように見えます。ところがその中でも、「子が親に先立つこと」をその最たるものとして取り出しているのは、この島の個性でしょうか。

 サーシマグトゥについて、

三途川(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)

賽の河原は、親に先立って死亡した子供がその親不孝の報いで苦を受ける場とされる。

 という解説を参照して、これを本土への仏教流布後に与論にも伝わったものと見なせば、その歴史は比較的浅いことになります。しかし、サーシマグトゥを、「子の苦」というより「親の痛み」として受け止めているのは、与論的な受容の仕方のようにも思えます。今回の『ドゥダンミン』エッセイもそうですが、子に先立たれることの多かった背景を想像すると、サーシマグトゥという言葉が痛切に響いてきます。

 「サーシマグトゥ(逆さごと)」の琉球弧の分布を知りたくなりますね。



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2008/03/23

マーブイユシ

 抜けた魂を込めることを沖縄ではマブイグミ(魂込め)と言ったと思う。『ドゥダンミン』では、それをマーブイユシ(魂寄せ)と呼んでいます。今日は、そのマーブイユシの話。

 マーブイユシ(霊魂寄せ)
 弟は仮死状態で生まれてきた。産婆である伯母が背中をさすり、両足を持って逆さにしてたたいて蘇生させた。ヤーナー(家名)は、マサとつけた。ビニャ(虚弱)で育ちが悪かったので、名前を頑丈なウシ(牛)に後年付け替えた。
 彼が幼い頃、夜中に何かにおびえたように泣き叫んだ。それが二日続いた。祖母が「フヌワラビヤー、マーブイヌガチャイ。マーブイユシシリバドゥナユイ(この子は霊魂が抜けている。それを呼び寄せなければいけない)と言って、おむすびを数個作り、芭蕉の葉に包んでテル(竹かご)に入れて、泣き出した前日に遊んだトゥマイの浜へ行った。
 沖に向かって大声で「ワー マサガマ マーブイ ハックゥヨー(私のマサの霊魂よおいで)」と叫びながらおむすびを投げた。ナーバマ、湯浜と場所を移して同じことをした。  祖母はマサガマの目をみつめて、「マサガマ マーブイヤキチヤクトウ、イダウプヤカプドゥイリヨー(マサの霊魂が戻ってきたから、大きく成長しなさい)と言い聞かせた (言霊入れした)。その晩から不思議に泣かなくなった。それから日に日に元気になった。今日まで大きな病気をすることなく、東京で定年まで教員を勤め上げてなお元気でいる。

 トゥマイの浜でマーブイユシをしたのは、その子が前日遊んだ場所だからでしょうか。抜けた場所で寄せるのか、それとも寄せる場所は海と決まっていたのでしょうか。沖に向かって叫ぶ祖母の姿は真剣そのもので、こうした光景が何十年も前にはあったことを思うと、いとおしくなります。

 ここにいうトゥマイ、ナーバマ、ユバマは、映画『めがね』のあの浜なのだと言えば、与論に来たことがない人もその絵を想像できるかもしれません。
 

(マーブイユシその2)
 トゥラの長女が三歳の時、その母親は急逝した。葬式のとき親子の永遠の別れになるからということで、出棺前に、ふたを開けて顔を見せた。とたんに「わあ!」と大声を上げると同時に飛び退いた。そばにいた女の先生の首に飛びすがり泣きわめいた。女の先生が外へ連れ出してあやしたが泣きやまなかった。トゥラは余計なことをしたと後悔した。葬式が終わってもその先生から離れようとせず、手を焼いた。

 与論に帰ってきてある晩、その長女が夜中いきなり飛び起きて、夢遊状態で泣きじゃくった。何をどうしても泣くばかりである。翌日の夜も同じ状態になった。祖母(私の母)が、「フヌワラビヤーマーブイヌガチャイ、マーブイユシシリバドゥナユイ」 と言った。

 翌日、早速おむすびを作り、ソイ(竹製のざる)に入れてトゥマイの浜に行った。「ワー雅子マーブイハックーヨー(私の雅子の霊魂おいでよー)」と言って海に向かっておにぎりを投げた。場所移動をして繰り返した。隣のナー浜へ行って同じことをした。雅子に「よし、もう雅子のマブイを呼んだから、心配ないよ、大丈夫」と行って抱きあげた。トゥラは雅子に「おんぶして帰ろう」と言っておぶった。

 その晩からぐっすり眠り、二度と泣くことはなかった。母は、祖母がしたような「マーブイユシ」をした。与論での昔のマーブイユシは、祖母のやり方と違って、ヤブを頼んで家でしたと伝え聞いている。祖母が北の海に向かっておむすびを投げたのは、昔日本各地であったという「魂呼ばい」が北に向いてしたからだろうか。それとも、海の彼方のニライ・カナイ信仰からだろうか。おむすびはご馳走なので魂も欲しがるそうである。父や私は、祖母や母がすることをただみているだけであった。皆さんは、俗信だと一笑に付すだろうか。
               平成十九年四月記(『ドゥダンミン3』竹下徹)

 笑うわけがありません。つい数十年前にも、魂が身体を抜け出して自然につくことがふつうにありえた与論の世界の奥行きがいとおしくなるだけです。いまはいまで、ぼくは自分に与論(ユンヌ)のマーブイユシをしたくてなりません。



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2008/03/22

童虎山房にとって奄美とは何か

 もうすっかり奄美の最新情報は「あまみ便りblog」に頼っている日々ですが、今回もまた大切なニュースを見落とさずに済みました。

 「童虎山房(どうこさんぼう)」公開

 「童虎山房」とは、元鹿児島大学教授の原口虎雄の蔵書群を指します。それがこの度、奄美博物館で研究者に公開されることになったというもの。ここには、「薩摩、大隅、奄美、琉球の近世・近代史の専門書や古文書の写しなど約2万冊」が収められているといいます。

 原口さんのおいで愛知学院大教授の黒田安雄さん(67)は「権力の下部から歴史を見ようと、行政の末端組織の資料を丁寧に集めてある。島津家のお手元資料でなく、庶民の歴史の視座が多面にわたっている」。郷土史研究家の弓削政己さん(59)=奄美市=は「原本がすでに行方不明になり、手書きの写本しか残っていない古文書など貴重な資料が多い」と話す。(「原口虎雄元鹿大教授の蔵書群 来月から研究者へ公開」南日本新聞)

 と、こうあるが、奄美の歴史を紐解くのに基調な資料群であるに違いなく、嬉しい。

 ただ、「あまみ便りblog」の水間さんは、こう書き添えているのですが、

残念ながらこのニュースは今日の地元新聞2紙には掲載されていません。
 南日本新聞の紙面には掲載されているのかな。
 地元のニュースでありながら、地元新聞よりも本土の新聞のWebによって先に知るというのが、今の島の現状なんですね。
 このニュースは地元にとっても大きなニュースだと思いますが、それよりも島外の奄美に関心をもっている方にも大きなニュースだと思います。
 奄美をアピールすることができるニュースだけでも早く地元新聞のWebサイトで知ることができるようになってほしいと思うのですが。

 ぼくも同感するところです。奄美を掘り起こすニュースだからこそ、地元紙もいちはやく取り上げてほしい。それは、奄美の存在理由を確たるものにすることに他ならないから。そう受け止めることができます。

◇◆◇

 ところでぼくはまたそれとは別のことに目が留まりました。
 前にも「母なる奄美」という記事で引いたことがありますが、原口虎雄の『鹿児島県の歴史』には、次のような一節があります。

強者が近隣の弱者を食ったまでのことで、日本国中に弱肉強食がおこなわれて、結局徳川将軍による幕藩体制に組みいれられることになったのである。これまで同じ日本民族でありながら、南日本の琉球列島だけが中国の版図になっていたのが、慶長十四年の征琉の役以後、日本の統一政権下にはいったといえる。隣の飢えたる虎にもたとえられる島津藩に併合されたということは、琉球国にとっては耐えがたい苦痛であったが、もし征琉の役がなかったら、琉球は中国の領土として、その後の世界史の進展のなかでは、大いにちがった運命にさらされたであろうと思われる。(『鹿児島県の歴史』1973年)

 いまなら、チベット問題を引き合いにもで出して言いそうな、この、むきだしの強者の開き直りの論理を前に、もう16年ほど前になりますが、ぼくは、この文章を「感受性の死」と評しました。この開き直りの影で奄美の困難は黙殺され、その反対に薩摩の思想が免罪されて、それは自己批判に晒されることなく延命していると思えたからでした。

 それが、去年、1999年の新『鹿児島県の歴史』に、「母なる奄美」という表現を見つけて驚くということがありました。薩摩の思想は、開き直りから、奄美の存在とその価値を認めるところまで歩みを進めたと感じられたからです。

 ただ、ぼくはそこで、

「母なる奄美」という認識は、南島を喰らうという本質を、美名のもとに隠していないだろうか。(「明治維新を越えること」

 と、「母なる奄美」がキーワードとしてのみ生き、その内実を伴っていないことも同時に感じました。しかしそれ以上に当時は、あとがきを見て、新『鹿児島県の歴史』の「母なる奄美」が、旧『鹿児島県の歴史』の原口虎雄の息子によって書かれているのを見て驚きました。開き直りから内省まで、ひと世代を要した変化であると思ったからです。

 それが去年までのぼくの認識です。そういうぼくにとって今回の記事は驚きでした。

童虎山房は、原口さんが鹿児島市の自宅に集めた資料群。生前の原口さんが「鹿児島の母なる奄美」と表現し、研究の起点としていた地に2006年1月、遺族が「研究者が自由に利用できるよう一括寄贈したい」と申し出た。
   これを見れば、「母なる奄美」という表現は、息子、原口泉の手になるものではなく、父、原口虎雄の表現であると書かれているからです。「鹿児島の母なる奄美」、と。

 薩摩のおかげで中国にならずに済んだのだからよかったねとでも言いたげなむきだしの強者の論理にある感受性の死と、「母なる奄美」という感受性の息吹きとは、世代をまたいだ受容の進化ということではなく、それは、同じ人物のなかに宿った二つの側面だということになります。驚かずにはいられないというものです。

 むきだしの強者の論理による奄美の無視とその真逆にある「母なる奄美」という奄美への思慕が、世代を費やした認識の深化ではなく、同一人物のなかに宿るものだとしたらそれは自己矛盾以外の何物でもありません。

 原口虎雄は、この自己矛盾に対し、『鹿児島県の歴史』を奄美への無視で押し切り、開き直ります。そして、「母なる奄美」というキーワードは息子へと引き継がれ、新『鹿児島県の歴史』のなかで蘇ります。新版では、旧版にあった厚顔無恥の開き直りによる薩摩の思想礼賛は影を潜めますが、しかし、「母なる奄美」の意味するものは具体的に述べられることなく、キーワードのまま宙吊りにされているとぼくは感じました。父、原口虎雄の自己矛盾は解かれていないのです。

 いまも解けることなくある薩摩の思想の自己矛盾を、ぼくたちはここに見ないでしょうか。

 ぼくはこの自己矛盾は、薩摩が、日本に対して絶対的な弱者であるという存在基盤を、絶対的な弱者である奄美(琉球)に対して絶対的な強者として振舞うことで逆転しようとしたことに端を発していると考えます。だから、自己矛盾を解く鍵は、絶対的な弱者である自己像を受容することにあるはずです。そしてそれこそが、薩摩と同じく絶対的な弱者としてあった奄美と対話の土俵を共有する鍵であることは言うまでもありません。

3月23日には原口さんの研究業績や資料価値をテーマに、長男で外務省外交史料館編さん委員の邦紘さん、二男で同大教授の泉さん(61)ら6人が同博物館で講演する。

 今日は22日。息子たちを交えた講演は明日です。ぼくはこの講演を聴くことはできないので、講演録やレポートに期待しますが、それは何より、自己矛盾をどう引き受けようとしているのかを知りたいからに他なりません。



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上十条のヨロン島

 料亭(懐石・割烹)とあったから、財布は大丈夫だろうか、食べるものは一杯あるだろうかと気にしながら訪ねたら、「ごめんなさいね、食べるもの、今日はあんまり用意してないのよ」と逆の意味で言われた。

 「ちょっと待ってね。何か見繕うから」。そう言うと、ウバはカウンターの向こう側に行って冷蔵庫を空けたりガスに火をつけたりし始める。ぼくたちは、等身大の女性の裸の後姿のポスター?が張ってある奥の席に腰かけてビールを飲んだ。「生は置いてないの。瓶になるけど」。「いいですよ」と、冷蔵庫まで取りに行くぐらい自分でしようかなと思ったけど、ウバは栓を当てて片手をすっと降ろすと、瓶はスポッといい音をたてて開封された。格好よくてなまじ手伝わなくてよかった気がした。

 カウンターには、高齢のウジャ、ウバが五人ほど連なってにぎやかだ。ゆうべは寒く、みんなコートやオーバーを着たまま飲んでいた。それを後ろから眺めていると、なかなか絵になっていて映画の1シーンを見ているようだった。

 壁には、ちゃんと見ていないのでうろ覚えだけれど、何人かの人をかたどった赤と黄と黒の大きな絨毯がかけてあった。ロカビリー演歌歌手と銘打った誰かのポスターもあった。そんな中のひとつにヨロン島のポスターもあって、店名以外では、それが与論とのつながりを教える唯一のものだった。

 換気扇が動いていないのか、煙草の煙が立ち込めてくると、入口を開けて椅子ではさんで逃がしてやっていた。すると寒い風が店内に入り込んできて、ぼくも上着を脱いだり着けたりした。

 ひとり帰りふたり帰りして、残ったウジャ、ウバがカラオケを注文。巨大冷蔵庫のようなカラオケにセットして、「大阪時雨」に始まり、あとはぼくの知らない演歌が続く。曲の合間には、巨大冷蔵庫的カラオケからプスプスプスプスと音が鳴り止まない。「掃除してくれる人がいないのよ」と、ウバ。

 聞けば、ウバは茶花の人。アチャ(父)がユンヌンチュ(与論人)で、アンマー(母)は大牟田だそうだ。「やっぱりねえ、島の人が来ると嬉しいよ。懐かしいからね」。ウバはユンヌフトゥバ(与論言葉)ではしゃべらなかったけれど、時々、「アッシェー」って口にするので、ああ島の人と納得。

 残ったウジャが同行のヤカ(兄)と高齢の恋の話をはじめると、「わたしはそんなの分からん、知らない、疲れる」と、きっぱり背中を向けて煙草を吸うのだった。その後姿に、ウバの来し方の年輪があった。

 与論ゆかりの場所を訪ねると、そこにはきっと与論がある。ウバの店には、店名とポスターだけが外見にそれと分かる与論印だったけれど、尋ねる人だけに応えるようにウバと与論のムヌガッタイ(物語)を分かち合えた。人それぞれの与論だなあと感じ入ります。

 その夜、ウバが出してくれた唯一の料理の焼きうどんは、お袋の味のように、うまかった。


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2008/03/21

何もないということは、人が作ったものがないということ

 映画『めがね』のDVD発売に合わせて、フードスタイリスト飯島さんが、『めがね』で用意した料理について語っています。

スクリーンいっぱいに映し出された料理も、キャストの一人。
『めがね』DVD化記念・フードスタイリスト飯島奈美さんの“理想の宿ごはん”とは。

ロケをしたのは与論島でしたが、南の島らしい食事を強調したいわけではないから、現地で手に入らないレンコンやさやつきのそら豆は、東京から送ってもらって。

 と、こう語っているが、そういえば料理にしてもいかにもな南の島(与論)らしさは無かったけれど、それは気にならなかった。

 それとは別に与論らしさはきっちり描かれていたからだと思う。その与論らしさを、「映画『めがね』なにもないがある島の日常」というあんとに庵さんの言葉を手がかりに、「何にもないこと」と捉えてきたけれど、その何もなさというのは、「人が作ったものが何もない」というようにも言い換えられそうです。「人が作ったもの」ではない自然があふれているということ。そこで、「人が作ったもの」しかない都市で生活している人は、そんな光景を前にすると、思わず「たそがれて」しまうのでしょう。

 映画のことを久しぶりに振り返れたインタビューでした。それにしても、飯島さんはお見かけするだけで美味しいものを作りそうな雰囲気を醸し出しています。(^^)


 この『めがね』DVDのパッケージもシンプルですね。TVでやっていた「朝のたそがれ」も収録されているそうです。


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2008/03/20

限界集落と自然限界

 ティギティギの山川さんに教わっていたのだが、昨日やっと渋谷駅でビッグ・イシューを買い求めることができた。お目当ては最新号ではなく、「限界集落」をテーマにした前回号でした。

 THE BIG ISSUE JAPAN90号

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 「限界集落」は、

「65歳以上の人口が半数をこえて高齢化が進み、集落としての機能維持が限界に達している集落」

 を指すという。集落を維持するのが限界ということだから、集落としての再生産が限界という以上に限界が進んでしまっていることを指している。記事では、限界集落は、ひとつその集落だけの問題ではなく、そこがもし集落機能を停止すれば、集落の持つ自然環境を水源地となって水を供給している都市がダメージを受けるという理由で、都市の問題でもあると、限界集落と都市を結び付けている。

 ぼくは別様に、でも、都市と農村は互いの問題を逆写像に映し出すように両者には関係があるのではないかと思えました。限界集落に対応させるなら、自然限界です。「限界集落」が、「集落としての機能維持が限界に達している集落」であるなら、都市には「自然限界」がある。「自然限界」というのは、「人間の自然性を再生産させる自然が限界に達している状態」とでも言えばいいだろうか。

 なんとなく感覚的な言い方だけれど、単に“自然”がないというのではなく、自然の一部としての人間が、自分を維持するのに必要な、人間が作ったものではないという意味での自然を享受できなくなった状態という感じ。ビルばっかり人ばっかりという以上に、何か、自然が枯渇してしまっている状態のこと。

 限界集落はその問題の解決のひとつの方向性として、都市からの移住を挙げているけれど、ぼくもこうなった都市と農村は、移住あるいは滞在によってしか解決しないのではないかと思えました。自然限界の都市を移住して、移住者にとっては自然を、限界集落にとっては集落機能を回復するということです。

 むかしガルブレイスの『大衆的貧困の本質』(1979年)を読んだとき、貧困を克服するのは「教育」と「移住」しかないと実証しているのに感心したことがありましたが、いまは、都市の農村の袋小路、限界集落と自然限界の行き詰まりを克服できるのも、移住(あるいは滞在、交流)しかないと言えるかもしれません。

 「限界集落」という問題で、自然限界を考えさせられました。



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2008/03/19

イシャトゥ

 与論精霊(スピリット)のなかで馴染みナンバー1は、イシャトゥではないだろうか。このブログでもこれまで何度も登場してきています。今回は、『ドゥダンミン』版イシャトゥです。

 《イシャトゥ》
 Y氏は、ある晩、岩の上から投げ竿で釣りをしていた。魚がかかった。するとそこに灯りが見えた。デントウアイキ(懐中電灯を使った漁)の人だと思い、「ヌガ、ワヌワジャクシュルムナァー(何で私の邪魔をするのか)」と言った。すると灯りが無数に増えて、さざ波さえ立ってきた。
 ああ、これはイシャトゥだなあー、と思った。そう思ったとたん恐怖でがたがた震えた。あわてて釣り糸を断ち切り、今まで釣ってあった魚もうち捨てて這々(ほうほう)の体で逃げ帰った。その灯りは南側の岩の所へ入っていった。気が付いたら被っていた帽子もなかった。
それ以来、魚釣りは一切止めた。
 Y氏が五十歳代のときの実体験として語ったことである。

 母が若い頃、さとうきびの搾りがらやススキを束ねてたいまつを作り、いざり漁をしたそうである。ある闇夜、弟の静治と漁をしていたら、小人が小さな明かりをつけて、二人の前になったり後ろになったりして歩いていた。気にかけながら、二人とも押し黙ったままでいた。

 目の前に大きなシガイ(手長たこ)が手を広げ、真っ赤になって座っていた。錆(もり)で突き、頭上にあげ「シガイとった」とやや大きな声で言った。弟にというより怪しげなものに聞かせるためであった。

シガイはたいまつの明かりを浴びながら、長い手で盛んに蛸踊りをした。その後小人は姿を消した。

 帰宅して弟に「小人を見たか」ときいたら、「うん、見た」と言った。
 ばあさんが、「ウワーシギヤー、イシャトゥエータイ」と言った。

 姉が十歳の頃、母は姉を連れて寺崎海岸にいざり漁に行ったそうである。すると舟に乗って近づいてきて「トゥラリュイヰー」といってから去っていったという。あれは「イシャトゥだった」と確信的に母が晩年話していた。

 イシャトゥは想像上の妖怪だが、イシャトゥの体験談は与論でいろいろ語られている。岩やウシクの大木に棲んでいて、夜、海に行く。

 悪口を言ったら仕返しをされると恐れられている。片足でケンケンをして歩く、ハタパギと言われる妖怪もいる。
 これらに似た妖怪は、大島ではキンムン、沖縄ではキジムナー、本土ではカッパである。
              平成十八年四月記。(『ドゥダンミン3』竹下徹)

 イシャトゥは人に悪さをする。与論の人はイシャトゥを恐れ、海で襲われて命からがらに逃げ帰る経験をしている人も多い。座敷童士のようなおどけた感じはない。もっぱら海にいるのかと思ったので、「岩やウシクの大木に棲んでいて、夜、海に行く」という生態は新鮮な知見です。与論にケンムンやキジムナーはいないと思うのですが、大木に住んでいるなら、イシャトゥは海イグアナのように海上に適応したケンムン(キジムナー)なのでしょうか。

 けれど、「イシャトゥは想像上の妖怪」と言って済ませないほうがいい。それは、海上でリアルな体験を与論の人が共有している限りにおいて、存在しているわけです。イシャトゥ話が尽きない限り、与論の自然は大丈夫だとも言えるのです。


 この機会に、これまでのイシャトゥ記事も載せておこう。

 「アーミャー - 赤い猫」 
 「海霊イシャトゥ」



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『めがね』DVDの広告 at 新橋

 今朝、新橋駅の改札を過ぎたところで、足が止まりました。

 そういえば、『めがね』のDVD発売。今日だったんですね。

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 足早に過ぎ行く人たちへ、「たそがれ」の誘い、ですね。

 あとでまた撮ってこようなんて思ってます。


 ふぅ、やっともう一枚、追加です。

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奄美の「丸刈り」問題

 今朝、「みのもんたの朝ズバッ!」を流していたら、奄美市という音に耳を奪われました。最近、奄美市のことが続けてニュースになるのが気になるのを感じながら聞くと、「丸刈り」のことでした。

「奄美市中学生丸刈りの波紋拡がる」(南日本放送)

現在、奄美市内の12の中学校のうち男子生徒の丸刈りが校則で定められているのが10校、ほかの2校も丸刈りという明記はないものの実質「丸刈り」となっています。

「丸刈り校則で中学校長と意見交換」(南日本放送)

 中学における丸刈りの強制は、「子どもの人権を無視したもの」だとして反対する保護者たちは署名活動を展開。奄美市の教育委員会は、各中学校で検討委員会を設置し話し合うよう、通達を出した。今週末、再び署名活動は行われる予定。

 現段階の進捗はこういうところのようです。

 この報道に触れて、ぼくはとっさに鹿児島本土はどうなんだろうと思いました。「奄美イケル」さんのブログによると、それは奄美諸島に集中しているようです。

「ボーズ」

鹿児島には、50校の丸刈り強制校がありますが、そのうち48校が大島群島に集中しています。ちなみに、奄美以外では203対2の丸刈り廃止が圧倒的多数。

 いまでは鹿児島本土でも丸刈りは無くなっているが、奄美には残っている。そういうことなんですね。そういえば、与論に帰ると“懐かしい”と感じる、その感じ方のなかには、男子中学生の頭のことも含まれているかもしれないと内省しました。

 「いまさら」です。でもこの「いまさら」を背負っているのは他ならない奄美なのだと改めて感じます。みのもんたも流すようにしか反応していませんでした。もっとも、みのもんたが正面切って取り上げるから重要だということではさらさらありません。西郷隆盛の大島紬マントのときもそうでしたが、みのもんたに分かるはずもない問題です。

 森本さんは、7年前に「髪ん風」(『けーし風32号』2001・9シマだより(奄美))で、

 鹿児島県の丸刈り族の資料を前にして、ぼくは鹿児島県民、ひいては日本列島民の歴史や文化の南北問題を感じている。

 と書いてらっしゃるが、ぼくも似た感触を持ちます。「いまさら」であろうが何だろうが、片づけなきゃなりません。

◇◆◇

 芹沢俊介の『現代<子ども>暴力論』(1989年)によれば、丸刈りという頭髪型は、恥辱に耐えるという意味で僧侶の修行のひとつとしてはじめられたそうです。それはさらに辱しめを与えるという意味で囚人に適用されることになりました。これが一般市民のあいだで適用されるようになったのは明治以降の軍隊においてですが、これが終点ではなく、昭和の世界戦争への突入に際して未成年者の一斉丸刈りの強制が出現したのだといいます。

 芹沢がそこで加えている考察はこうです。戦後は、こんどは衛生面、家計面から採用されたが、社会の成熟にともない衛生面、家計面の解決がはかられたあとでも丸刈りという頭髪型は残った。

それも、興味深いことに民主主義を率先して指導する建前になっている教育空間において。いや残ったというより、再び、校則という形で復活したのである。

 丸刈りという頭髪型の強制は、戦争状態への突入と同義であり、このことは社会がその内部のどこかに戦争状態を作り出すことを不可欠にしている理由があるのだ、と芹沢は述べています。

 学校の権威がすっかり地に堕ち無能力化した中学と、丸刈り強制の横暴をそのまま相転移したかのようなモンスター・ペアレントと、置き去りにされ隘路にもがく中学生との間で行われいているのが現在の戦争状態だとしたら、それは「丸刈り」以降の戦争と言うべきものだから、いまそのままの形では受け取りにくいけれど、「丸刈り」が支配的であるなかでは芹沢の解説は説得力を持っています。

 ぼくも中学入学時の「丸刈り」は心理的に嫌でした。昨日まで遊んでいた同級生と違う顔で会うことになるのが恥かしかったのも覚えています。それでもそれはほんの一瞬で、たちどころに学校風俗のなかで慣れていきました。みな、そうだからです。でも好きなスタイルなわけではないので、高校に行くと、当然、丸刈りを続けるわけもなく、髪を伸ばしました。

 ところが、高校二年生のとき、ジョン・レノンが死んだ二週間後に、何を思ったか自分で「丸刈り」にしてしまいました。その後も、なんでそんなことをしたのか、自分でもよく分からないままだったのですが、芹沢の解説を読んで、当時、ぼくは学校と鹿児島の風土との折り合いが悪く、その後、ある種の戦争状態に入っていったので、ああ、あれは我知らず戦闘モードに入ったということだったんだなと合点いったのです。

 まあこんな個人的体験はどうでもいいとして、芹沢解説の「丸刈り」の歴史を踏まえても、これは無くなってしかるべきものです。あとは、選択肢として残ればいい。中孝介がファッションとして丸刈りしているように、です。

 「奄美イケル」さん(「ボーズ」)が、

「はげー、中学生になっても坊主せんでいいっちよ」 と、喜びの「はげー」を耳にする日を、願っております。

 こう書いていますが、ぼくも同感です。


 ところで、この話題にどんな記事が出ているのだろうと、眺めたとき、「鹿児島県奄美大島の自然破壊」というタイトルで、

道路の草刈りを、名瀬市開発公社が行っているのですが、これによって、ありとあらゆる植物が問答無用で丸刈りにされています。その後・・・。蝶が、行き場を失っています。

 とあるのを見て、こっちの「丸刈り」も止めたほうがいいと、「丸刈り」つながりで思いました。




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2008/03/18

ウンワラビ

 直訳すると「海の子」になる「ウンンワラビ」のお話。

ウンワラビ
 ウンワラビは、人魚のことだと言われている。人魚は上半身が女、下半身が魚の想像上の生物とされ、ジュゴンがそれに近いと思われている。沖縄では犀漁(ざんのうお)と呼ばれ辺野古沖や名護湾沖で見つかっている。天然記念物である。
 与論ではウンワラビが釣れたときには、ウンパフ(海に小物を入れて持っていく二十センチ四方程の木箱)の中に入れて泣かさないようにする。そのためにウンパフを持って行く。泣かすと台風が吹くと恐れられている。ウンワラビをいじめたり、陸に揚げてもいけないとされている。この話からすると人魚とは別ではないかと思われる。
 K氏があるとき、ウンワラビを釣って浜に置いていた。それをある婦人が持ち帰り、ウプナビ(口の広い大きな鍋)で煮て豚に食べさせた。すると与論の空がにわかにかき曇り、大風が吹き荒れ、災害が起きた。その日、沖永良部に電話をかけて天気をきいたら、風のないべた凪だということだった。それ以来、K氏は海に行くことをやめたそうである。K氏は糸満漁業の経験もある海達者な人である。この話は、K氏本人が実体験として話したことである。
 与論でいわれているウンワラビは、ワラビ(子ども)という名前が付いているし、ウンパフにはいる程の小さなものだから、ジュゴンとは異なるものではなかろうか。ジュゴンの子どものことなのか、はたまた海にいると信じられている妖怪なのか、誰か教えてもらいたい。(『ドゥダンミン3』竹下徹)

 ウンワラビを釣って豚に食べさせたら、「与論の空がにわかにかき曇り、大風が吹き荒れ、災害が起きた」。ここを読んでいる時には、すっかり昔の民話のように思っているのに、沖永良部に「電話した」と出てきてびっくりします。そう、いまどきの話なんですね。現代の民話です。都市は都市伝説を生みますが、与論には昔ながらの民話の世界がすぐそこに広がっているんですね。

 与論には森がないので、キジムナーやケンムンなどの樹木の精霊(スピリット)は育ちにくいけれど、その分、ウンワラビにしてもイシャトゥーにしても、海の精霊(スピリット)は豊かに育つ気がします。海の子、ウンワラビ。会って見たいですね。


追記
 康三兄さんには、ウンワラビはボウボウのことではないかと教えられました。

 ボウボウ

 ボウボウは「ぐうぐーぐうぐー」と鳴くそうなので、「泣くウンワラビ」と符合していますね。海の精霊(スピリット)の背景には、現実の魚の存在があって、それが精霊(スピリット)のリアリティを支えるのかもしれません。



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2008/03/17

止まり島

 「わたしは『止まり木』なんですよ」、「『止まり木』をつくりたい」と、最近、「止まり木」という言葉を立て続けに聞いて、そうか、与論島は「止まり島」なのかなと思いました。

 「◆与論島の魅力とは?」という「与論町地域雇用創造促進協議会のブログ」の記事が気になっていたこともあります。

今ある与論島の魅力は、どうしても沖縄の他の離島と被ってしまう部分が多いことが事実です。

 「わたしは『止まり木』なんですよ」、「『止まり木』をつくりたい」というのは、どちらも都市のなかに都市で生活している人のための「止まり木」のことを言っています。でもこの意味をもっと広げると、与論島を止まり木のように感じて移住するケースも視野に入ってきます。言ってみれば、「止まり島」としての与論島です。

 「たそがれ」に来ていた映画『めがね』の主人公たちにしても、「止まり島」として「どこでもない南の島」にきていたのでした。それは何にもない与論島のあり方にとても合っていました。

 「止まり島」として与論島を考えるなら、それは声高にアピールするものではないですね。むしろ、沖縄県の観光地図に載っていないことが、不利ではなく、正しいあり方になってきます。「ひと息つきたい」「それなら与論島があるよ」と、あくまで人伝えで広がってゆく、知る人ぞ知る島という位置を保ちつづけるのです。

 アイデア・メモでした。



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2008/03/16

道は最大標高差70m・総昇降400mの島

 このグラフは面白いです。GPS時計をつけてヨロンマラソンを走ったランナーが、標高差をグラフ化したものです。

ヨロンマラソン2008のレポート

それにしてもヨロンマラソンのコースって最大標高差は70mぐらいしかないのに、総昇降が800mもあるとはいかにアップダウンばかりで平坦な部分が少ないというのが伺えますね。それだけきついコースだったということなんです^^ゞ

 与論島はお隣のヤンバル(山原)や沖永良部島と比べても低いし、船から見るといまにも没してしまいそうに海面に寄り添っているから、平らな島だと思ってしまいますが、いざ巡ってみるとアップダウンが多いんですよね。それをこのグラフは可視化してくれています。マラソンとしてみたら、やっぱり「きついコース」なんでしょうね。

 与論は一周で42.195kmをまかなう大きさはないのですが、このグラフでも真ん中から対称的になっていて折り返して2周走っているのが分かります。眺めていると、ロールシャッハテストを受けているような気分になりました。

 8km以降の急激な上昇は昇龍橋でしょうか? コースを知っている人ならこのアップダウンに地名を対応させてみることもできるんでしょうね。そんな地図も見てみたいです。

 道で言えば、与論は最大標高差70m・総昇降400mの島。グラフのおかげで坂の多い島の表情が見えてきました。「沖縄離島ブログ」さんに感謝です。



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2008/03/15

奄美物産店がほしい

 さっきテレビでタレントの石塚英彦さんが有楽町の物産店を食べ歩きしていました。有楽町の物産店といえば、「遊楽館」「わしたショップ」がありますが、こちらの希望通りのように、順番に回ってくれました。

 で、遊楽館とわしたショップを順に見ると、やっぱり奄美物産店がほしくなりますね。

 奄美物産店、「奄美屋」です。

 遊楽館とわしたショップはどちらも県営なので、奄美物産は遊楽館に入ることになるけど、まあ案の定おまけのようにしかないですからね。想像通りというか。やっぱり黒砂糖とかマンゴーとか考えると、わしたショップとの相性がいいと思いますが、ここに県の壁が立ちはだかるわけです。物産店でも奄美は行き場がないなあと思います。

 それなら奄美は奄美。奄美単独の物産店があるといいですね。島を離れていると、せめて島のものを食べたり飲んだりしたいなと思ってきます。そんなときに仕入れに行ける店があると嬉しい。

 奄美物産店、「奄美屋」。ほしい、行きたい。わしたショップなんかいつもすごく賑わってます。奄美屋もきっとイケます。できないかなあ。




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2008/03/13

シニグ道

 以前、盛窪さんがシニグ道を記録したいと書いていて、とても嬉しくなりました。

 ※「シニグクとアマミク」

 シニグ祭のときに通るシニグ道は、与論島の民にとってとても重要な道です。『ドゥダンミン』でも触れられています。

 以前はシニグ道(神道)を通ってハジピキパンタ経由でターヤパンタまで行ったということだが、引き継いでないので道順もわからず、しかも道を違えることはできないこととしていたので寺崎の地だけで祭るのみにしたということである。
 寺崎シニグ道は、二年に一度行われるシニグのときだけ通る神道である。特殊な道で通るのがとても難儀だったという。クルパナシニグは、増木名池を通らなければならなかった。水かさが増しているときは、荷物を頭に載せて胸まで水につかって渡ったという。
 最初に開発祖神が与論島に上陸したのは、赤崎だといわれている。その次は、黒花と寺崎だといわれ、その祖神が通って行った道がシニグ道だといわれている。(『ドゥダンミン3』竹下徹)

 「引き継いでないので道順もわからず」という与論ぽさが何とも残念ですが、引き継がないと道順が分からないということのなかにシニグ道の性格もよく表れています。それは必ずしも日常的に使っている道ではなく、主に口承で、祭儀のときの反復によって伝承されてきたから、祭儀に参加できない引き継げないとなった途端に復元が困難になるということなのでしょう。

 シニグ道は、与論島の東西南北から上陸した島の民の移住の足跡を記憶に封じ込めたものに違いありません。その道を辿れるということは、島の歴史を辿れるということでもあるのです。寺崎シニグ道は、もう叶わないかもしれませんが、それでもいつか辿ってみたいと思うシニグ道です。



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2008/03/12

ヨロンジマドットコムに期待

 4月1日のヨロンジマドットコムのオープンをとても楽しみにしています。

 ヨロンジマドットコムのこだわり

今回、ヨロンジマドットコム がもっともこだわっているのが

いいもの

いい人

いい情報

の3ワードを与論発信で全国へ・・・ということです。

 このこだわり、いいですね。嬉しいですね。

皆さんのご意見、こんなコーナーがあったらいいのに、などのご要望もお待ちしております。

すぐには実現できないかもしれませんが、1つ1つご要望にお答えしていければと思いますのでよろしくお願いします。

 ぜひ、巻き込み型にしてください。島外の与論縁者の巻き込みです。与論島だけでがんばる、としたら、5000人パワーですが、島外の与論縁者も加えたらそれが10倍にも100倍にもなります。

 メールマガジンを発行してはどうでしょう? ブログやサイトは待っていなければなりませんが、メールマガジンだったら、商品の告知や販売の際、直接、読者に伝えることができます。

 手伝えることありましたら、ぜひおっしゃってください。準備に大変な時期と思いますが、がんばってください。応援しています。


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2008/03/11

おめでとう!星砂きび酢

 与論島で作られている「星砂きび酢」が、鹿児島県新作観光土産品コンクールで優秀賞を受賞したそうです。

 ※「速報!!星砂きび酢が受賞しました。」

 おめでとうございます。よかったですね。

 与論島の地域ブランドの一翼を担う商品に育つといいですね。

 「与論島きび酢」


◇メモ
県新作土産品コンクール 2点が優秀賞 最多49社100点出品(西日本新聞)

加工部門の「星砂 よろん島 きび醋」は、与論島に古くから伝わる「きび酢」に殺菌した星砂などを溶かし込み、食用カルシウムが強化された健康食品。


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2008/03/10

グー

 『ドゥダンミン3』を続けます。今日は、「グー」です。「グー」といえば、沖縄ではクジラを指すと思いますが、与論では、「グージャー」となっていました。「グー」はどういう意味でしょう。

 与論語で友達のことを「ドゥシ」又は「アグ」という。アグは、「合う具」の「う」が脱落してアグになったと思われる。
 グー=具。
 料理では、みそ汁や雑炊に入れる野菜・魚肉のことを具と言う。豆腐にイウガマをのっけると酒の肴にもってこいである。下駄や草履のように対をなすもの、蛤やアナグーの二枚貝、セットや組み合わせになっているものなどをグーといい、片割れをハタグーという。グーには「良くあう」意味が含まれている。
 シャコ貝のことを与論語でアナグーという。アナグーとは穴によく合うということである。穴に合うというより、実際は自分で大きさに合わせて穴を作っているのである。
 「グーナティ」、「グーナユン」と言えば「夫婦になる」ことを意味する。最も現代では通用しないかもしれないけれど。年頃の成年に「アグ、トゥメーティクー」といえば、結婚相手を接してこいという意味である。古代語が今も残る与論語である。(『ドゥダンミン3』竹下徹)

 グーを考えるのに、アグに遡るなら、アグは、「首飾り」から来ていると、去年、考えました。

 ※「アグはブローチ」

 これは、「日本国内には海岸や河川などの、水に縁のある場所にアゴやアンゴの地名」があるが、その由来はマレー語にある、アゴは「頸飾」、アゴックには「ブローチ」「珠数の頸飾」から来ているのではないかという鏡味完二の『日本地名学』から引いたものでした。

 この地名は最初は真珠などの飾玉を採集する海岸に命名せられたものが、そこから真珠のない海岸に移住した漁夫らを呼ぶ名ともなって、そこには地名の根が下されたと考えられる。青森県の方言に「漁夫仲間」を指して、Akoというのがある。(鏡味完二『日本地名学』)

 この説を教えてくれた牧野哲郎さんはそこから連想して、徳之島南端の阿権(アグン)、竜郷の赤尾木(アーギ)、竜郷、瀬戸内のアンキャバ、糸満の阿波根(アーグン)、与論の赤佐(アガサ)などを同じ系列と捉えていました。

 これは今見ても面白い連想だと思います。飾玉になる真珠を採集した海岸名は、次に真珠の取れない海岸に移住した漁夫の名称になる。それは漁夫仲間の意味にもなる。こういう経過を辿ると、アゴは、海岸名から漁夫仲間の意味になり、ついで、友達そのものの意味になったと解釈すると、与論でいう友達のアグにつながります。

 するとアグ(友達)は、アガサ(赤佐)の海岸名を由来は同じだということになります。この連想、やっぱり今たどっでも面白いですね。

 で、「ドゥダンミン」のアグ考と対比してみると、グーは「道具」ではなくて、「首飾り」のアゴからの転訛したアグの「ア」が脱落したものと見做すことになります。すると、グーには「良くあう」意味が含まれるのも、「グーナティ」、「グーナユン」が「夫婦になる」ことを意味するのも、素直につながります。

 「グーナユン」なんて与論で使われると楽しいでしょうね。



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2008/03/09

イイジマハンドゥーグワァ

 久しぶりに『ドゥ・ダンミン』の世界に入ってみます。心が波立つときには、昔の与論の話が心地いいですから。

 イイジマハンドゥーグワァ 子どもの頃、沖縄から来る旅芝居を祖母に手を引かれて見に行った記憶がある。那間の夜学(公民館を当時夜学といった)で公演があった。木戸銭を払って入る。演目に「イイジマハンドゥーグワァ」という実話にもとづいた恐ろしい悲恋物語があった。次はその概要である。

 伊江島の島村屋の伊江親方色館の息子にカナヒートいう若者がいた。あるとき、カナヒーは綿の買い付けのために辺土名へ渡った。辺土名滞在中にカナヒーは美女ハンドウーグワァを見染め恋仲となった。二人は若い血を燃やして青春のロマンにふけった。

 だが、カナヒーは伊江島に妻子があり、ままならぬ身の上。伊江島ではカナヒーの帰りが長引いていると身内の者は心配し、まもなくカナヒーは叔父によって島に連れ戻された。最愛のカナヒtとの仲を裂かれたハンドゥーグワァはつのる思慕の情に身を焼き、悶々の日々を過ごしていた。が、ついに思いあまって、カナヒーの真情を確かめようと伊江島へ渡る決心をした。こうしたハンドゥーグワァの一途な気持ちに同情した伊江島のシンドゥスー(船頭主)は彼女を島まで連れ帰り、親切に面倒をみてやった。

 島に渡ったハンドゥーグワァは愛するカナヒーとの再会に胸躍らせながら島村屋を訪ねた。ところがカナヒーの態度は冷たかった。あまりのひどい仕打ちにハンドゥーグワァは失望して、島村屋の向いの松林へ入り、自らの黒髪を首に巻き付けて若き命を捨てた。

 ハンドゥーグワァの亡霊が島村屋を襲うようになった。夜な夜な島村屋の家族を苦しめ、悩ました。食事をしていると、お膳が宙に浮いた。家畜も死んだ。数々の不吉な出来事のうちに島村屋の子孫は絶え果てた。反対に船頭主の子孫は代々栄えた。(沖縄村の伝説、青山洋二著、那覇出版社)全てヤンバル語で演じていたが聴衆はよく分かっていて、泣き笑いしていた。(『ドゥダンミン3』竹下徹)

 イイジマハンドゥーグワァは、「伊江島ハンドー小」という字を当てる沖縄の歌劇です。この歌劇は、念じることが世界を動かすという呪いが生き生きしていた琉球弧の世界を伝えてくれます。でも、ぼくは近所の伊江島発祥の歌劇が与論島にも芝居としてやってきた事実に、歌劇の恐ろしさとは別に、心が和みます。こんな芝居を観にいけた、竹下少年をうらやましく思います。身体の記憶として沖縄とのつながりを持っているなんて、いいですねえ。


 今日はヨロンマラソンの日。島はいまごろ、完走後の宴なんでしょうね。楽しそう。



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気分は併走、ヨロンマラソン

 盛窪さんのブログでも「ヨロンマラソンの背番号・3309」とあるけれど、今日はヨロンマラソンの日。

 まあ現地にいてもぼくはきっと観戦参加だと思うけれど、ここでみなさんのブログを見ながら、併走気分に浸ることにします。

 島を身体に見立てれば、今日は人が血流となって体内を駆け巡る日ですね。ランナーのみなさん、与論の海を目の端々に楽しんでくださいね。



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2008/03/05

与論島と対称性人類学

 「銀河と夜景」「亜熱帯と都市」「雨乞いとインターネット」と、少々強引と思われるようなつなげ方で、与論島と東京または都心的なものが似ていると見なしてきたのだけれど、それはこんな風にも言えると思っています。


1.都市空間や都心的なものが進展すればするほど、琉球弧の過去を遡行するように両者の世界が接近する。

 そして、これとは別に与論島や奄美・琉球弧について、ぼくはこんなことをこのブログで考えてきました。

2.与論(奄美・琉球弧)は国家をつくる必然性を持たなかった地域だ。誇るなら、そこを誇りたい。
3.与論(奄美・琉球弧)には、人間が動物や植物などの他の存在と「同じ」だった時代の感覚が息づいている。
4.与論(奄美・琉球弧)を救うのは、「贈与」の論理だ。

 ただ、ぼくにとって、これらのことはつなげたいけれどどうつなげればよいか分からないことどもでした。

◇◆◇

 こんなことを書くのは、これらがひとまとまりになった言説に出会ったからです。
 たとえば、こう、あります。

 神話的思考の優しさや思慮深さを見てきた私たちは、そこでつぎのように問うことができます。神話の思考は、流動的知性=無意識の働きを直接に反映してつくられたものであることによって、人間に深い思慮と動物や弱者にたいする思いやりのある態度を生み出すことができたのです。しかし、現代人がもはや神話の思考に立ち戻ることなどは不可能なことですし、資本主義を捨て去ることもできないし、国家以前の状態にいきなり戻ることなども不可能なことです。それならば私たちは、回帰するのではなく、前に進んでいくやり方で、現代世界が陥っている袋小路から抜け出す道を探さなくてはなりません。はたして、そんなことは可能なのでしょうか?

 私の考えでは、ただひとつだけ可能性のある道があります。それは、現生人類の(徴)でもあり、その「心」の基
体をつくりなしている流動的知性=無意識の中から直接出現する、新しい知性の形態を創り出していくことです。私はそのような試み自体を、あらためて「対称性人類学anthropologie synmetrique」と名付けようと思います。

 かつては神話が、そのような対称的知性の一形態でした。そして、「構造人類学anthropologie structurale」がそのことをあきらかにするための、現代人の強力な知的武器となりました。私たちはいま、その構造人類学の先に出て行こうとしています。神話的思考や宗教や経済活動の内部で、いったいどんなふうにして無意識が作動しているのかを、徹底的に調べあげることによって、高度に発達した技術と資本主義の社会で「よい働き」をすることのできる、かつての神話とは違った新しい知性の形態が生み出されるための条件を、この対称性人類学という学問をつうじて、探っていってみようと思うのです。

 「対称性人類学」とは難しい言い回しですが、「同質なものとしてつながりを見いだす」人類学とても言えばいいでしょうか。そして、「同質なつながり」とは、ぼくたちに馴染み深いと考えてきた、人間と植物、動物が「同じ」であるとしてつながりを見いだすことを指しています。

 同じであるという感覚はこんな風にも語られています。

 先住民の儀礼から一神教の宗教にいたるまで、こういう実例は、枚挙にいとまがありません。どの体験を観察しても、そこに対称性の思考や無意識の働きが関与していないものを見出すことはできません。愛犬をかわいがっている都市生活者が、自分のことを信頼感をこめて見つめる犬の眼を見て味わっている幸福感は、「人間と動物とは昔兄弟だった」と神話を語りだしている狩猟民が、原初の時間に思いをはせながら感じていた至福の感情と、同質のものを持っています。それはさらに、神と人間とのあいだの絶対的な距離を強調する一神教において、神秘家の存在を神の愛の火が破壊し包み込んでいるときに、神秘家が法悦として感じ取っている感情を生み出している構造と、まったく同じ本質を持っています。耐え難い苦痛のなかで、比較を絶した至福感がわきあがってくるのです。

 どの場合でも、「心」のなかで対称性無意識の働きが、分離された世界で失われた感情の通路を、ふたたびつくりだそうとしています。宗教においても、日常生活においても、幸福感と対称性は一体です。これまでにもたくさんの「幸福論」は書かれてきましたが、対称性の視点から幸福を論じたものは、ほとんどなかったと言ってよいでしょう。しかし私たちの「魂」の秘密に触れている文化のすべてが、そのことに関わっています。そして、そのなかでも芸術は格別な地位を占めています。

 「人間と動物とは昔兄弟だった」というのは、アマンを先祖とみなすぼくたちの祖先と同じ感覚のことを指しています。

 その世界では、国家を持つことはなく、人はいつでも無意識の世界と交流することができました。

 国家を持たない人々の社会では、「心」のマトリックスをかたちづくっている部分の働きが、社会の表面にまで躍り出して、豊かな活動をおこなっていました。そのひとつの表現のかたちが神話や儀礼でした。そういう社会では、現実の生活を導いている非対称性の論理の働きと、「時間と空間がひとつに溶け合う」神話的な対称性論理の働きとが、バイロジック的に結合した作動をおこなっていたために、人はいつでも簡単に、自分の「心」のマトリックスである無意識に入り込んでいくことができたのでした。

 またその世界では、贈与価値が支配的でした。

 歴史的には交換よりもずっと早く出現した贈与は、本質的な点で対称性の原理と深く結びついています。贈与は等価交換ではありませんし、贈与される物の「価値」はたんなる貨幣価値に換算できるようなものではない、と考えられています。それは贈与で発生する「価値」が、商品としての使用価値ばかりではなく、それを贈ることで得られる社会的信用とか、獲得される名誉とか、贈り物にこめられる愛情などのようなたくさんの「価値」を「圧縮」して、ひとつの贈り物につめこもうとしているからです。そのため、貨幣価値は一次元の数億で表現できますが(たとえば苛のような形で)、贈与される物に込められている「価値」は多次元的(高次元的)な性質をもつようになります。そこで贈与では交換とちがって、図のような多次元的な関係をとおして、「価値」が発生することになるわけです。

 贈与はまた、贈る人と贈られる人とを、贈与物を媒介にして人格的に結びつける働きをします。よい贈り物ならば、それを受け取った私たちは、贈り主の愛情や思いやりなどその人の人格の一部が贈り物に付着して、私たちのもとに届けられるような気がします。昔の人たちは、そういう場合に、「贈り物には贈る人の魂が付着している」などと表現して、ゆめおろそかな気持ちでは贈り物などあげなかったし、受け取りもしませんでしたが、その原因は贈与が人と人、集団と集団をたがいに結びつける力をもっていたからです。そのために、贈与には喜びや感動や愛情や信頼など、強いエモーショソ(情動)がかき立てられることがしばしばです。

 そのため贈与をとおして成立した信頼がいったん裏切られたとき、たがいのあいだに何もないときには発生しょうもないほど強烈な憎しみの感情がかきたてられることになります。愛情関係のもつれは、たいがいそんな風にしてこんがらがっていくようですよ。


 ところが「交換」価値が入ることによって、世界の何かが変わります。冷たく、なるのです。

 それにしても、経済の鎮域でも神の領域でも、〈一〉の原理とでも呼ぶことのできる特別な原理がとても大きな働きをしていることを、お気づきになったことと思います。〈一〉の原理が登場してくると、それまで対称性の論理にしたがって動いていたものが、またたくまに非対称な関係につくりかえられてしまうのです。

 たとえば、長いこと人間の相互関係のおおもとをなしてきたのは、贈与の原理でした。それは対称的経済関係としての特徴を持ち、ものごとの「価値」を多次元的に決定するデリケートなメカニズムが、人々のあいだに精妙な贈与関係を打ち立ててきたのでした。ところが、そこに〈一〉の原理が忍び込んでくると、たちまち対称性にもとづく贈与関係に変質がおこってしまいます。それまで多次元的に決定されていた「価値」が、単一の価値尺度に還元されて、数で数えられるものにつくりかえられてしまうのです。その瞬間、いままで贈与関係によって結びつけられていた人々のあいだに、冷たい空気が入り込んできて、たがいに結びつけられていたものが分離を体験するようになります。贈与が交換につくりかえられる瞬間です。

 こうして生まれた交換と昔ながらの贈与は、長いことバイロジックの関係を保ち続けていました。
ところが、交換の中から出現した貨幣が、社会の全域に行き渡るようになると、交換は贈与の関係をいたるところで破壊して、経済の領域での覇権を握ってしまうことになります。社会の重要な部分が、すべて交換の原理で作動するようになったところで、おもむろに資本主義が登場してきます。資本主義は〈一〉の原理が経済の領域で覇権を振ったことによって、はじめて可能になったメカニズムなのです。

 では、対称性人類学の目指すものは何か。

 流動的知性=対称性無意識は、私たちの「心」の内部で、いまだに変わることのない働きを続けています。あらゆる領域の形而上学化が進行していって、いまやそれが社会生活や個人の心的生活の深いレベルにまで及んでいることが感じられる今日にあっても、ホモサピエソスである私たちの「心」の基体には、いまだに致命的な損傷は加えられていません。

 形而上学化の運動によっては損傷を加えることのできない、高次元的なトポロジーとして、無意識が活動しているからです。すっかり変化してしまったのは経済のシステムや社会の構成原理ですが、それによって社会の表面からは隠されていってしまったとはいえ、「心」の基体をなす対称性無意識の作動は、依然として私たちの「心」の見えない場所で活発に続けられているのです。私たちの「心」の中で古代は生きているとも言えるでしょうし、変装した野生の思考が思いもかけない分野で活動しているのを、人々が気づいていないとも言えるでしょう。

 それを引き出してくるのが、対称性人類学のつとめです。私たちは後ろ向きの、過去にノスタルジックな視線を送るような学問をめざしているのではありません。すっかり形而上学化された世界の中に、生きた野生の思考を取り戻すとは、流動的知性を本質として対称性の論理で動く無意識の働きに、創造的な表現の形を与えることにはかなりません。そういう創造的な知性の働きとして、対称性人類学は構想されています。

 この「対称性人類学」の構想を思い切り自分に引き寄せれば、未来に琉球弧の原型のエッセンスを見ることに他なりません。ぼくは、この言説を読みながら、自分がしたいと思っていることは、「対称性人類学」なのか、と思ったくらいでした。

◇◆◇

 ぼくは、マルクスの自然哲学をベースに、人間と植物、動物を同質に見なした与論(奄美・琉球弧)での世界との関係の仕方を、

 人間は、全自然を人間の「像(イメージ)的身体」とし、
 全人間は、自然の「像(イメージ)的自然」となる。

 と整理し、一方、第三次産業が主体となる都市の人間と世界の関係の仕方を、

 人間は、全人工的自然を人間の「像(イメージ)的身体」とし、
 全人間は、人工的自然の「像(イメージ)的自然」となる。

 と考えました。

 ※四つの段階と人間と自然の関係

 そしてここで面白いのは、第一次産業以前の第零次の世界と第三次の世界の関係式が共鳴しているように見えることでした。

 ぼくはこれを、時代の進展とともに、第零次と第三次が共振の度合いを深めると見なしてきました。与論島と東京はどこかで共振していると思ったのです。

 ただ、そうなるだろうと思いはしても、どうなるのがよいのか、そのことはなかなかつかめずにきました。それが、「対称性人類学」を見ると、未来に琉球弧の原型を蘇生する、というように読めるので、ひとつのベクトルを得た気がしたのです。

 この、「対称性人類学」の視点は、もう少し追っていきたいと思っています。

 ところで、『対称性人類学 カイエ・ソバージュ』は、中沢新一の作品です。

Photo

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2008/03/03

雨乞いとインターネット

 夜景(「銀河と夜景」)と都市(「亜熱帯と都市」)に続いて、ぼくが東京と与論が似ていると感じるのは、もう東京じゃなくてもいい、すでに与論でも体感できることで、それは都心的とでも言ったらいいと思う。

 それらのものたちは、あの、「あみたぼーり、たぼーり」という雨乞いと、どこかが似ている。

 雨乞いは、念じること祈ることで世界を動かすという人と自然の関係を現しています。たとえ今それは、伝統舞踊そのものになっていて、信ずべき言葉になっていないにしても、かつてそれは間違いなく信じられていた言葉でした。

 念じることで世界を動かす。ぼくがここで取り上げたいのは、そんな人と世界の関係のことです。

 たとえば、駅帯電話は、電話機やパソコンのある場所で電話やeメールはできるという、空間のくびきを解きました。結果、ぼくたちは思いついたときに、電話をかけたりeメールをしたりするようになっています。これは念じれば動くという関係とは違いますが、それでも、いつでもどこでもできるという感覚は、つながりたいときにつながれるという実感を通じて、念じることで動くという関係を連想させます。

 去年の2007年、一挙にヒット商品化した電子マネーは、都市空間を自在に行き来できるという実感を通じて、念じることで世界が動くという関係を連想させます。切符を買い、改札を通るというのは移動の律速段階でしたが、それが、改札でまるで念じるようにカードを押し付けるだけで素通りできるというのは、都市空間が遮るもののない自在な空間になるという感覚を育てています。

 念じれば世界は動くという実感をいまもっとも与えてくれるのは、他でもなくインターネットです。どこでもドアのようにクリックすれば別の世界へ行き、キーの操作だけで、ブログを書いたり、プログラムを書いたりすると、それがネットに反映されて世界は動きます。それは、アイデア次第で世界は動くという感覚を育てているように思えます。

 グーグルアースは、シミュレーションとして、念ずれば地球は動くという実感を届けてくれます。また、テレビゲームも指先の動きが身体化すれば、ほとんど、念じることが世界を動かすことにつながっています。

 こうした、携帯電話、電子マネー、インターネット、テレビゲームのような都心的なものが進展すればするほど、アミタボーリ(雨乞い)の世界に似てくるような気がします。




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2008/03/02

「日本の『端』を巡る旅」

 「日本の『端』を巡る旅」と題したマイコミジャーナルの記事は、素顔に近い与論島の紹介文になっていて、3回の連載を楽しみに読んでいました。

 ※「与論島(3)--27度線を越えて親しい沖縄の地へ」

 この記事の感想というより、記事を読んで思い出すこと感じることを記します。

このユンヌの島が"日本の端"であったのは、これまでにも書いたように1972年の沖縄返還以前のこと。与論島を含む奄美諸島も戦後、沖縄と同様に米軍政下に置かれていたが、奄美諸島は沖縄より20年弱早く1953年12月25日に日本へ復帰した。その日付から、アメリカは日本へのクリスマスプレゼントだと表明したそうだ。

 いままで気づかなかったけれど、1953年12月25日が日本へのクリスマスプレゼントのように表明されたことは驚かざるをえません。「クリスマスプレゼントとしての奄美」なんていう表象は実感からほど遠いのです。これは戦後対策として日本政府には意味があったでしょうが、日本が奄美をクリスマスプレゼントと感じることはなかったでしょうし、当の奄美の人は喜んだでしょうが、それが自分たちがクリスマスプレゼントとして迎えられると感じたからではありませんでした。

与論と沖縄本島最北端・辺戸岬でそれぞれ松明を灯し合い、双方の人々が沖縄の日本復帰を願ったというエピソードは有名だ。

 「クリスマスプレゼントとしての奄美」の次は、沖縄からみたときの「日本の象徴としての与論」。クリスマスプレゼントといい日本の象徴といい、奄美や与論は不思議な表象をまとってきたものです。

大型船を接岸できなかったときは、乗客もすべて艀(はしけ)で運んだ。艀というのは、大型の船舶から貨物や人を運ぶ際に使う小型船のこと。大型船舶が着岸できる港がない場合などに用いられる。日本の端ということで多くの観光客が訪れた当時、与論で下船する人が1,000人を超えたこともあったが、夜の海を艀で何度も何度も往復しながら運んだという。「ただの一度も事故を起こさなかったことがいちばんの誇りですね」と橋口さんは語る。

 このエピソードは、ぼくの記憶にも重なってきます。大型船に横付けして上下に大きく揺れる艀(はしけ)で、ちょうど大型船の乗降口と高さが同じくらいになったとき、「ハイ」というかけ声と一緒に人や荷物を艀(はしけ)に移していました。あれは子ども心にも怖くて、命がけに近い気がしました。そんなすごい場面を安心させてくれたのは、積み替えを担ってくれたウジャターです。たとえばぼくは、「来ちゃんむい」と言って艀(はしけ)に抱きかかえて入れてくれた金久のウジャの姿を思い出します。

また沖縄返還前は、商売で"密航"した人もやはりいたという。与論から豚や牛を積み、物々交換で沖縄から米軍物資の缶詰などを持ち帰る。"国境"があろうがなかろうが、与論と沖縄はそれほどに近いのだという事実の証でもあろう。

 これも、身近なウジャたちから武勇伝のように聞かされる話です。思えばこのとき、奄美の民は海の民である自分たちの遺伝子を思い出した時期だったのかもしれません。

同じ与論の人であっても、"日本の端"への思いはやはり世代によって異なる。僕が与論でいつもお世話になる民宿「楽園荘」の若旦那・本園秀幸さん(ヒデさんと呼んでいる)は、沖縄返還の翌年に生まれたから、現在30代半ば。返還をリアルタイムで経験した世代ではないので、当然ながら与論が日本の端であるという意識はまったくないという。

 これはその通りで、でも、この先の話を付け加えることができます。与論は「端」の島から「非在」の島へ、「どこかにある南の島」へ位相を変えたのです、と。

与論島は沖縄県になったほうがいいかと尋ねると「個人的には、なったほうがいいですね。やっぱり、近いからですね」と、ヒデさんは何のためらいもなく答えた。
「自分が東京や大阪へ行ったとき『どこ出身?』と聞かれるじゃないですか。与論島だと答えると、それは何県かって聞かれるんですよ。『いちおう鹿児島県なんだけど』と答えると、『じゃあ鹿児島の人なんだね』と言われるわけです。そのとき、なんかカチンとくるんですよ。おい、ちがうぞ、と。鹿児島が嫌いなわけじゃないんだけど、桜島とか、カルカンとか、いわゆる鹿児島のイメージと、与論島とでは、あまりにちがいすぎるじゃないですか」。
那覇の飲み屋で与論の話をすると、意外にもウチナーンチュ(沖縄人)の多くは「与論って(沖縄本島の)そんな近くにあるんだねー」と驚く。ヤマト(日本本土)からの旅人の多くも、沖縄から300~400km離れた宮古や八重山はあくまで沖縄(沖縄県)として興味を持つが、わずか20km強の与論は「沖縄県じゃないから」という理由であまり意識しないらしい。ヒデさんの「鹿児島県より沖縄県といわれるほうが気持ちとしては近い」という思い、いわば与論から沖縄へのラブコールは、沖縄側からだとなかなか理解されないのだろうか。与論島の微妙な歴史的・地理的位置に、ついぞ歯噛みをしたくなった。

 「与論島は沖縄県になったほうがいい」というのは、島の人の素朴なアイデンティティの感覚を代弁していると思う。

 特に、

『いちおう鹿児島県なんだけど』と答えると、『じゃあ鹿児島の人なんだね』と言われるわけです。そのとき、なんかカチンとくるんですよ。おい、ちがうぞ、と。鹿児島が嫌いなわけじゃないんだけど、桜島とか、カルカンとか、いわゆる鹿児島のイメージと、与論島とでは、あまりにちがいすぎるじゃないですか。

 この感覚はぼくも共有してきたものです。鹿児島からは異文化として黙殺され、沖縄からは他県として無視されることが奄美や与論のアイデンティティを複雑にしてきた要因であり、ここにはその素朴な実感が素直に表明されています。

 だから、「端」から「非在」へというポジショニングにはある解放感がありました。それは与論を「ヨロン」と表記するときの、あの解放感です。

 記事の書き手は、「与論島の微妙な歴史的・地理的位置に、ついぞ歯噛みをしたくなった。」と与論へのシンパシーから書いてくれていますが、そういうポジションであればこそ、与論島は琉球弧の全体が素直に見渡せるのではないかとぼくは思います。


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2008/03/01

「アンモニア性窒素がサンゴの生育を妨げる」

 今日の「南海日日新聞」に、サンゴ礁の衰退は、「海水温の上昇だけでなく、家畜排せつ物や生活排水の流出に伴う海域の富栄養化が起因する」と出ています。

 高知大学の四方正孝さんと緒方賢一さんの発表。

窒素の濃度は陸域で最も高く、降雨によって海へ流れる。生活排水や家畜排せつ物が発生源とl考えられ、流出に伴う海域の富栄養化がサンゴに悪影響を与えている。

 「富栄養化」とは、「窒素などの栄養物質が蓄積した状態」を指すという。

 珊瑚礁の衰退については、海面の上昇の他に、排泄物の流出が原因ではないかということは従来から言われていました。今回の発表はそれが調査結果として裏づけを得た形になるでしょうか。

 実はこれは与論島「ウル・プロジェクト」の成果なのです。

 記事は書いています。

サンゴの再生に向けた環境保全対策を進めるためには堆肥センターを有効活用し、家畜排せつ物を適正に処理する必要があると指摘。
全島民共通の環境問題として取り組まなければならない。改善に寄与した場合にメリットを感じられるシステムを作ることが重要だ。

 原因は分からないより分かるほうがいい。何をしなければならないか、はっきりするから。

・堆肥センターを活用すること。(これが活用されているのかされていないのか、されていないとしたらそれはなぜなのか、ぼくは把握していない)

・畜産業者が他職業に就けるようにすること。

 課題は、珊瑚礁の育成が、島人の生活育成につながる必要があるのは言うまでもないと思います。行政の対策に期待します。



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「ゆんぬ昔ばなし 島唄とともに」

 島では今夜、「ゆんぬ昔ばなし 島唄とともに」というイベントが開かれるんですね。
 しかも、フバマのある与論コーラルホテルで。

 ※「島唄コンサート」

 歌うは、中村瑞希。

 中村さんは、奄美大島笠利町出身で2003年の奄美民謡大賞を受賞している方なんですね。

「コーラスを入れたりしてもいいが、島唄の歌い方は崩したくない」
「自分で歌詞を作って歌ったこともある。でも、あまりうまくいかなかった。恋の歌などは自分の気持ちに置き換えてみる。時代と生活が違うから、島唄に込められた昔の人の苦しみは分からないけど」
「島にフランチャイズのファストフード店やコンビニは要らないと思う。島に生まれたからにはシマンチュ(島の人)でありたいし、その気持ちをなくしたくない」
「奄美に住み、仕事をしながら島唄を歌いたい」

 こんな発言が嬉しいです。

 ※第26回 島唄に思いを込めて

 よく見ると、おととし民謡日本一にもなってます。

 ※「中村瑞希さん!」

 ブログもありました。

 ※まりかみずきさんのブログ

 とまあ要するに、すごい活躍ぶりなのに、ぼくが知らなかったということなのですね。失礼しました。

 もうすぐ与論島では夜のイベントで、彼女の歌声がフバマの海にもこだまするのでしょう。奄美の島唄が与論島に響いて、奄美のつながりが深まるのは嬉しいことです。

 みなさん楽しんでくださいね。ぼくは宴に想いを馳せることにします。

 いいなぁ。(^^)




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