« 2008年1月 | トップページ | 2008年3月 »

2008/02/28

亜熱帯と都市

 銀河と夜景の他に、与論と東京が「似ている」と感じたのは、亜熱帯と都市でした。亜熱帯の自然は、緑や赤の原色がはっきりとして、その色が世界を覆っています。浜辺に行けば、圧倒的な白が待っているし、海に行けば圧倒的な蒼が控えています。

 都市は。都市は、コンクリート・ジャングルとも言われてきましたが、ビルの森があります。それは街灯やネオンで街を色づかせています。そして近年では、ビルは透明度が増して映像がよりやわらかく重なって見えます。色彩豊かに世界を覆うところで、余計に似てきたと思わせます。

 それはおしゃれも同じです。都市は都市の映像に対応するように、都市の人々はおしゃれをします。亜熱帯の自然のなかでも、人はアロハのような色彩豊かなおしゃれで、自然に応えます。でもここではもっと以前に、刺青を身体に施していたことや、もっと以前なら身体自体に色を施した時代のことを想定したほうがいいかもしれません。

 亜熱帯の自然に応えて身体のおしゃれをするように、都市では都市の色に合わせて、ファッションに身を包みます。一方は天然自然で、一方は人工であるという違いはありますが、そしてその違いは決定的なものではありますが、それでも、映像で呼応しあう世界と人の関わりあい方が似ていると思うのです。

 ※「銀河と夜景」



| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/02/26

奄美の大地を着る-泥染めのメタファー

 先日、大鹿児島展で客足がひと段落したところで、泥染めのTシャツを買おうと試着させてもらった。黒に近い濃い茶の、無地の柄だ。

 不思議だったのは、着た瞬間、心鎮まるように落ち着いたことだった。奄美のTシャツだから嬉しいのは当たり前だとしても、それ以上に、なんというか、安らげる気がしたのだ。あれこれ考えてみたけれど、いわば、“奄美の大地を着る”ということを感じたからかもしれない。

 奄美の泥を着る。奄美の泥を身にまとう。奄美の大地が守ってくれる。そんな連想も働く。

 泥染めのTシャツは、奄美の泥を着るということ。それは、奄美の大地に抱かれるということだ。養分いっぱいで贅沢じゃないですか。

 「奄美の大地を着る」は、泥染めのメタファーなのだ。

Tebabrown













(「大鹿児島展」は今日が最終日でした。山元さん、おつかれさまです。)


 

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2008/02/25

奄美の「泥染め」、All about で

 昨日、「わあ、きれい」の記事の泥染めですが、久米さんが、All about の記事で紹介してくれました。

 肥後染色「奄美の泥染めTシャツ」大地の色

 こちらもぜひご覧ください。

また、製品が完成した後も、着込み洗い込むうちに、色が少しずつ「いい感じ」で褪せて元の生地色に近づいてくるそうです。そのエージング見本も見せてもらいましたが、まさに良質なジーンズのように愛用する程に味わいが出てくるようです。

 こんな風に、泥染めの魅力を語ってくれています。


 こうした嬉しい声のひとつひとつが、与論、奄美、琉球弧の地域ブランドを育ててくれます。がんばりましょう。




| | コメント (0) | トラックバック (0)

銀河と夜景

 27年前、初めて東京に来たとき、意外に与論を近くに感じました。その実感はいまも変わりません。変わらないどころか、増してきています。少し前に、従姉に、「与論が好きだのによく東京にいれるね」と言われたのですが、そくからするとそれは少し違っていて、与論にいるのじゃないければ東京の方が与論とつながれる気がします。少なくとも、それまでいた地方都市よりは格段に与論を感じるのです。

 それは数十年前、与論が観光地化されたときに言われた「東京都与論町」という意味ではありません。そうではなく、近い、と感じたのは、東京の夜景を見たときでした。ぼくは夜に見上げた満天の星空を思い出しました。あれみたいだなと思ったのです。

 与論の銀河と東京の夜景は近い。その二つはつながっている。そんな風に感じたのです。しかも、ただつながっているというだけではなく、都心の夜景は、銀河をもっと人にとって魅惑的に地上化したものだと思いました。より身近に、手を伸ばせば届きそうな距離に、立体的に、そして銀河よりも色鮮やかに。夜景は、地上の銀河なのです。

 これは単に島ホームシックの感じ方かもしれません。また、単なるロマンティシズムに過ぎないと思ってもきました。でも、今もこの世界の成り立ちを考えるとき、ぼくの実感の基底にあるのは、与論島のことであり、それが東京と似ているということは変わらずにいます。その実感も強まってきました。そして、このことに、もう少し、付け加えて言えることができたような気がしています。

 そこで、これからそのことを書いてみたいと思います。



| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/02/24

「わあ、きれい」

 「わあきれい」。
 泥染めのTシャツやバッグのコーナーでは、よくそんな声が聞こえてきました。東武百貨店で開催されている「大鹿児島展」でのこと。

 「本場奄美泥染 TEBA BROWN」の山元隆広さんが展示している奄美大島の泥染めの品々は、そんないい反響の声をもらっていて、しばらくいただけでも“泥染め”の手ごたえがつかめるようでした。

Adan

Bags_edited1_2










 時折、葉書きを手にやってくるのは、奄美での泥染め体験者の方たちでした。奄美の旅行者が泥染めを体験する。関東からの旅行者に今回の展示を伝える葉書きを出す。受け取ったので、と東武にやってくる。そんな流れができていました。関心するのは、彼女たちが口々に、今年も行くからと言っていたことです。奄美旅行のリピートの環が出来、そこから泥染めのクチコミの環へとつながっていく、そんな流れが見えてきます。

 途中、東武まで足を運んでいただいた久米繊維工業の久米さんと打ち合わせ。オーガニックコットンのTシャツを泥染めで提供するまでのステップを確認です。この、泥染めオーガニックコットンTシャツのプロジェクトは、ぜひ成功させたいものです。
 

Poster
















 いまはまだ神話的世界のなかにいる奄美の泥染めが、こうした展示で消費者に接したとき、あきらかにウォンツが喚起されているのが分かりました。神話の世界から日常の世界へやってきて、伝える段階にあるんだと思います。それには、日常的に気軽に使える泥染め商品を作ることだということも、よく分かりました。

 ぼくも一枚、泥染めのTシャツを着させてもらったのだけれど、とても気持ちが落ち着く気がしました。奄美の大地を着る安心感なのかもしれません。奄美の大地とつながっている。そう思うと嬉しくなります。

 奄美の地域ブランド。いいポテンシャルです。

 ※奄美泥染めTシャツプロジェクト「奄美の泥あそび」

Bag_2Light












TshirtsTsirtsbag



| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/02/22

奄美な夜 -泥と歌と文と-

 昨日は、客先での報告を終えると、そそくさとその場を立ち去り、有楽町へ向かった。グリーンパワーキャンペーンが東京国際フォーラムで開かれていたのだが、現金だけれど、ぼくのお目当てはもっぱら元ちとせのライブだった。

 ◆GREEN plugged LIVE

 つい前の日に山川さんに教えてもらったばかりだった。元ちとせの歌声を生で聴けるのはいつだろうと思っていたところに、イベントがありしかも無料ということを知り、駆けつけないわけにいかない気持ちになったのだ。

 いつものように(と聞きました)裸足で現れた彼女には、遊びたい盛りの近所の少女の初々しさと、南島の呪力を秘めた歌姫としての風格を同時に感じるようだった。「ワダツミの木」、「ひかる・かいがら」、「語り継ぐこと」など、計5曲だったろうか、堪能させてもらった。

 彼女は、両手を横に広げる立ち姿を見せることもあれば、手のひらで太陽を遮るように天を仰いだり、上半身を大きく揺らして身体を揺さぶりながら歌ったりする。

 そこからぼくたちに届くのは、声と裏声のうねりの波動だ。元ちとせのパフォーマンスは、あのレオナルド・ダ・ヴィンチの人体図のように、彼女が広げた両手を外延にした球をつくりだす。彼女が歌うと、直立した女性身体から歌声が発せられるというより、その球になった塊からエネルギーが放散されているといったほうがよかった。そこから何か、あたたかな力の流れが届く気がした。それは、CDを聴いているときには触りしか分かっていなかったと思えることだった。

 グリーンパワーキャンペーンのPRめいたコメントは空っぽだったけどね。あんな空っぽになるなら、自分の知っている奄美の森を大切にしたいってひと言いえば、それで充分なのにと思った。けれど、照れたいたずらっぽそうな表情は奄美のものだったし、この場で出会えたのも「縁」と挨拶し、「ご先祖様を大切にしたい」、「わたしは歌しか歌えないけど」とコメントした言葉は心がこもって本物だった。

 元ちとせの、あの球状のエネルギーの塊は何だろう。あれは奄美の無意識なんじゃないかと思う。適切な言い方かどうか分からないが、たとえば、美空ひばりの演歌が、アジア的歌唱のひとつの完成型であるとしたら、元ちとせの歌唱は、それよりもっと前の原初的な場所から、もっと幼生の形で放散されている気がした。奄美は豊かな精神的資産を持っていると、ぼくは思った。

Greenpower1










 ◇◆◇

 さて、その後は、「奄美の家」に舞台を変えて、引き続き奄美の夜なのだった。

 泥染めの山元さん姉弟を囲んで、声楽家の萩原さんライターの山川さんの集いに加わらせてもらったのだ。泥染めと声楽とライティングとマーケティングと。生業を並べてみると、ぼくのはなんかいかがわしさを漂わせている感じもするが、「奄美の家」の圓山さんを交えたお喋りは、それはそれは楽しかった。

 元ちとせは、歌によって自分の素朴な心のままを表現することができるけれど、そういう手段を持たないと、それはなかなか素の形で表には出しにくい。傷つけられるような気もするから。でも、ゆうべは、初対面の顔合わせも多いのに、素朴な心のままをそのまま出してもそれが素直に通じているようで心地よかった。みんなどこかで奄美つながりという縁のなせる技かもしれない。

 山元さんの「泥染め」の商品化はこれから応援していきたい奄美ブランドだ。
 そして、去年、奄美大島でコンサートを開いた萩原さんの歌声も、いつかきちんとお聞きしたい。 

 みんなが集まる前には、「あまみんちゅドットコム」編集の柳澤さんともお話できた。そんな風に、奄美つながりの出会いとこれからの楽しみが増えて贅沢な夜だった。



| | コメント (0) | トラックバック (1)

2008/02/21

奄美の森を丸ごと

 奄美大島と徳之島の森林保護に向けた動きがあるんですね。

 ※奄美の森林 丸ごと保護 九州森林管理局が現地調査 新年度中に地域を設定へ

 世界自然遺産への登録が目指されているようですが、奄美の森を保ち育てるのは、大事なことだと思う。アマミノクロウサギを守るということはもちろんとして、でもそれだけでなく、それはめぐりめぐってぼくたちの心を保ち育てることにつながっている気がする。奄美の森が壊されていく一方だとしたら、どんなにか殺伐とした心持ちになっていくだろうと思うから。

 今朝のニュースでは、ハングル表記のポリタンクが日本海側の岸辺に大量に漂着していると伝えていた。

 ※7625個 九州漂着のポリタンク 1月中旬-2月15日 ハングル表記6割以上

 この記事は、7625個とあるけれど、今朝は1万個とその数は増えていて、地域も奄美大島と沖永良部島を加えていた。

 こんなニュースを聞くと、奄美の森の存在は、人工的な漂着物に負けないためにも大事だという気がしてくる。

 ところでぼくはこの記事でいちばん気に入ったのは「丸ごと」という表現だった。“奄美の森を丸ごと”っていいですね。丸ごと保って丸ごと育てる。豊かな気分になります。



| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/02/20

ガシドゥクラサリュール

 父が亡くなってから、昼と夜の二回、アンマー(お袋)に電話するようになって、それがいまだに続いている。父がいた頃は、年に一度か二度、電話すればいいほうで、下手したら誕生日だって忘れてしまっているくらいの親不孝ぶりだったから、それに比べると、365倍も話していることになる、かな。

 近くに弟家族はいるものの一人暮らしで、父が亡くなった後の落胆ぶりが心配で、電話するようになった。定期的にかけていると、アンマーが出かけているときにはつながらない。パラジ(親戚)の家で長居すると、それを知らないぼくは少し心配になることがあって、それをきっかけに携帯電話を持つようになった。

 そういう文明の利器を持つようになると、最初、誰から着信したのかが分からず、日中、電話をかけてきては、「今、電話した?」とかいうすっとんきょーな会話も生まれたけれど、孫に教えられたり、また孫とも話がしたりしたいという気持ちが手伝って、いつの間にか、メールもするようになった。携帯電話など生涯、無縁なそぶりで、テレビでインターネットが話題になると、父と二人、「わったい(わたしたち)は化石だね」と言って笑いあっていたというが、その当人が一年も経たないうちに、携帯を持ってメールもする今どきの人になっていった。こういうの見ると、人はいかようにも変わるなぁと改めて思う。

 アンマー(お袋)とは仲が悪いわけではないけれど、会うとイッコイ(喧嘩)になるのが常だった。だから、電話を頻繁にするようになってみると、案の定、イッコイになってしまう。電話したばかりに疲れて終わることも出てくる始末だった。

 けれど面白いもので、定期的に続けていると、そうした会話の流れが少しずつ変化するようになってきた。ここはあまり責めちゃいけない、ここは別のところから見てあげればいい。なんかそんなこんなを続けていくうちに、根絶はできないけれど、イッコイの頻度はとても減ってきた思う。

 アンマーはだいぶ元気になってきた。ぼくに、「もうそんなにしょっちゅうかけなくてもいいよ」と言ってくれることもある。我ながらそうしてもよいとも思うのだけれど、いまは止められないでいる。結局のところ、アンマーのケアのためにかけているつもりが、なんのことはない自分が寂しいからだ。恥ずかしながら、この年齢になって初めて、寂しいことの何たるかが身に沁みるようになった気がする。

 それに元気になったとはいえ、泣き虫アンマーも変わらない。二階にあがったら親父のにおいがしたといっては泣き、親父が亡くなったとき、なんで通夜告別式ができるくらいでいられたんだろうと言っては泣きしている。

 泣くがいいと、思う。

 ガシドゥクラサリュール。

 とぼくは言う。「そんな風にしか暮らせないよ」。直訳するとこんな感じだろうか。でもぼくはネガティブなつもりで言っているのではなく、もっと肯定的に、「そんな風に暮らすものだよ」と、そんなつもりで言っている。アンマーも、ガシ、と答える。本当はこのユンヌフトゥバ(与論言葉)が合っているかどうか、自信は無いのだが、最近、この言葉をよくつぶやいている。

 アンマーと和解しているようなこんな会話も、アチャ(親父)の置き土産だろうか。
 トオトゥドォ、アチャ。



| | コメント (4) | トラックバック (0)

2008/02/19

アマン

 『ドゥダンミン3』で、「ユンヌヌパジマイヤアマンから」という昔話について、「アマンはヤドカリのアマンのことではない」と解している。でも、これは、やっぱり、アマンのことだと思う。

 「ユンヌヌパジマイヤアマンからテューサ(与論の始まりはアマンからだそうだ)」という昔物語を読んで、思わず 「ウソー」 と言いそうになった。それは認識不足で、このアマンはヤドカリのアマンのことではない。
 アマは、辞典に海、海女、海人と出ている。物語り中のアマンは、アマビト(海人)を言ったのであろう。赤崎の小字名に、アマンジョウがある。またアマンジョウゴウという神井戸がある。ここで言うアマンは「海人」のことではないかと思われる。ここの地域は与論に最初に上陸した人々が住み始めたところだといわれる。その近くのウワイグスク(上城)遺跡は発掘調査によって住居跡だったことがかなりな部分明らかになっている。「アマンジョウ」のアマンとは、アマン自身が言ったのか、それよりも先に住んでいた人が言ったのか。
 「与論の始まりはアマンから」という昔物語りの「アマン」をヤドカリの与論語名アマンと勘違いするような脳タリントゥラの連想である。お笑いあれ!
                      平成十八年九月記

 アマンジョーのことは別にするとして、大丈夫、トゥラは、勘違いしたのではなく、アマンはヤドカリのことだ。

 たとえば、与那国島には、陸地を見つけた人間が、住めるかどうかを確かめるために、弓矢でヤドカリを放ち、何年後かに再び訪れると、ヤドカリが繁殖しているのに気づき、人が住むようになった。それが与那国島だという伝承が残っている。

 太陽所(てぃだんどぅぐる)

 ここから感じられるのは、この伝承を口にした古代の人たちは、ヤドカリの次に現れたのが人であり、ヤドカリと人は同じだと見なしていたということだ。いまのぼくたちは、これを、単純に、ヤドカリで生物が住めるかどうか実験したというようにしか読めないかもしれない。そしてこの伝承を、荒唐無稽にしか感じられないかもしれない。

 けれどそれは、いまのぼくたちが、この伝承を語った人たちのような自然の感じ方から遠ざかっているということに過ぎないと思う。ヤドカリの次に人、ヤドカリと人は同じ。そのような世界観のなかにあったということだ。

 孫引きになるけれど、かつて沖永良部島で、アマン(ヤドカリ)をシンボライズした入墨をした女性に、なぜヤドカリを?と聞くと、「先祖だから」と答えたという。

 小原一夫の論文「南島の入墨(針突)に就て」は、わが南島では島ごとに女たちのいれずみの文様と個処がちがっており、その観念は「夫欲しさも一といき刀自欲しさも一といき彩入墨欲しさは命かぎり」という歌にあるように、宗教的ともいえる永続観念にもとづいているとのべている。そして、奄美大島で魚の型をしたいれずみをした老婆たちに、なぜ魚の型をいれずみしたかときくと「魚がよく取れるように」と一人がこたえ、他のものはわからぬとこたえたとのべている。また、沖永良部島で左手の模様を「アマム」とよび「ヤドカリ」をシソポライズした動物紋で、島の女たちは質問にこたえて、先祖は「アマム」から生れてきたものであるから、その子孫であるじぷんたちも「アマム」の模様をいれずみしたのだとこたえたと記している。

 小原一夫によれば、南島のいれずみの観念も〈婚姻〉に関係した、永続観念と〈海〉に関係した南方からきたらしい信仰的な観念とが複合しているらしいとされている。貌志に記きれた漁夫たちのいれずみと、身分や地域によって異なるいれずみとは、まったくちがった意味をもつものの複合らしくおもわれる。ただ魏志の記した漁夫のいれずみは観念の層としては、南島の女性たちになされたいれずみの観念よりも新しいだろうと推測することができよう。なぜならば、魏志に記されている漁夫たちのいれずみは、宗教的な意味をすでにうしなっており、ただ装飾性や生活のために必要な擬装の意味しかもっていないからである。(『共同幻想論』吉本隆明)

 アマンは人の先祖である。それが信じられていた時が確かにあった。「ユンヌヌパジマイヤアマンからテューサ(与論の始まりはアマンからだそうだ)」という昔話も、これと同じ宗教観念の産物なのだ。

 このことを、昔の人は非科学的なことを信じていたと、卑下するように受け取ってはいけない。そういうことではない。むしろ、この認識を身近に持っているということは、奄美・琉球弧の可能性なのだ。

 アマン(ヤドカリ)を祖先だと考える背景には、人と動植物や珊瑚や石などの自然物は同じ価値であるという世界観がある。それは、人が動物や植物や自然物と対話ができる力を持っていたということだ。少し前まで、特にパーパーたちにはその力は残っていたと思う。彼女たちの仕草や振る舞いは、動物や植物の心が分かるようだった。しかし特に近代以降、人と動植物や自然物などの上位に、人間を置くようになって、ぼくたちはその力を失ってきたのだ。

 ただ、いまになって、人間を中心に置く、人間を上位に置く考え方は反省を強いられるようになった。そうなってみると、与論ではまだその力を感受できるということは、「遅れている」ということではなく、稀有な価値であることを意味してくる。それは、未来に対する展望を拓く力を持っていることにだってなるのだ。

 与論の始まりはアマンから。このアマンはヤドカリのことであり、ユンヌンチュはアマンを祖先と思ってきたのだ。この発想、どこかチャーミングでぼくは好きだ。ぼくもアマンがご先祖様だったと思ってみようとする。でも、科学的な認識を持った後だと、心底は難しい。いや、科学的な認識を持っていたとしても、完全にかつての世界観に自己移入できたら信じられるのだと思うけど、いまのぼくでは力不足だ。

 それでも、アマンを先祖と見做したことにはリアリティを感じる。だって、珊瑚の岩場に入れば、カサコソと、あれだけのアマンが出てくるのだから。島の先住民はアマンに違いなかったのだ。あのカサコソ登場を目の当たりにしたとき、先祖という見立てが生まれたとしても不思議ではないと思う。だから、子どもの頃は、魚の餌にと、平気でアマンの胴体を千切っていたけれど、いま小さな森で出会うと、ちょっと敬うように眺めたりしている次第だ。



| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008/02/18

沖永良部学の伊波普猷賞

 去年、「沖永良部島民のアイデンティティと境界性」という論文が公開されているのに気づいて、「沖永良部学との対話」を楽しませてもらった。

 それまで琉球弧を考察する論文といえばほとんど沖縄発のものだった。沖縄発の琉球弧論といえば、与論や奄美のことは範囲として中に入れられているが、実質として外されているといった実感が強かった。だから、奄美発の琉球弧論というだけで、嬉しかった。「沖永良部島民のアイデンティティと境界性」は、その奄美発の問題意識の延長にあるものだが、それともちょっと違っていた。それは、なんといっても沖永良部発、だったのだ。

 それはお隣の、兄弟島からの発信で俄然、親近感が湧いた。そして驚いたことに、実際に読んでみると、問題意識も近接しているのに気づいた。ぼくはそこでポスト・コロニアルという言葉を教わりながら、自分のアイデンティティが、まるで消去法の果ての残余のものでしかない現れ方をすることや、どれかひとつと言い切れないもどかしさに言葉を届かせた論考に初めて出会って胸躍らせた。

 たぶん、それが「沖永良部島民のアイデンティティと境界性」へのぼくの感想だった。

 前置きが長くなったけれど、この度、「沖永良部島民のアイデンティティと境界性」をもとに書籍化した、高橋孝代さんの『境界性の人類学』が、伊波普猷賞を受賞した。

 それは嬉しい知らせだった。元ちとせや中孝介がデビューしたというのと同じような嬉しさだ。奄美の、自己表現が胎動している。なんかそんな気がしてくる。実をいえば、伊波普猷賞の何たるかを、ぼくは全く知らないのだけれど、いいじゃないすか、嬉しいじゃないですか。

 授賞式は那覇で行われている。駆けつけたくもあったけれど、東京からだと、ちと遠い。この場を借りて、おめでとうございます、と言わせていただきます。

 ※那覇で伊波普猷賞贈呈式・祝賀会



| | コメント (4) | トラックバック (0)

2008/02/17

『めがね』がザルツゲーバー賞

 盛窪さんの「チヌマンダイ」で、『めがね』がベルリン映画祭で賞を受賞したことを知って、慌ててニュースを見てみたら、ザルツゲーバー賞、なのであった。

 ※ 『めがね』にザルツゲーバー賞 ベルリン映画祭パノラマ部門

 でも、そのザルツゲーバー賞って何?だが、ニュース報道によると、

「既存の概念にとらわれない芸術表現をした」

 とのこと。それは分かる。なにしろ、眠ってもらって成功の作品だから。(^^;)

 記事によると、「とても難しい色調をどうすれば、あのように美しく表現できるのか」なんて、コメントされているから、「既存の概念にとらわれない芸術表現」という意味は、このことかもしれない。

 それなら答えは簡単、「舞台のおかげです」と言えばいい。(^^;)?
 
 たしかに、曇り空の寺崎の浜辺と海は、柔らかな白を基調に広がっていて、独特な色の世界を展開している。浜辺と海の色彩美がもしかしたら評価されたのかもしれない。

ヨーロッパ各国をはじめイスラエルなど20カ国以上から海外配給に関する問い合わせがきている

 というから、与論島は、世界のたそがれ族の集結地になるかもですね。

 荻上監督、おめでとうございます。




| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/02/16

『エラブの海』-奄美アマルガムのエロス化

 映画『エラブの海』。その意味は奄美アマルガム、その価値は奄美のエロス化だと思った。

 南の孤島に住む家族四人。孤島の住民はこの四人だけ。そういう設定だが、舞台は沖永良部島だ。それは、作品名もそうだから、観る人は、沖永良部島の映像だと思って見入ったに違いない。
 けれど、南島内部の目線からみれば、ちょっと違う要素が次々に投げ込まれるのに違和感を覚えただろう。突然、沖永良部島にはいないハブが登場し、おあつらえ向きにマングースまで出てきて決闘する。また、一時間かけて舟を漕いでゆく先の本島では、徳之島の闘牛が行われる。バックに流れるのは、奄美大島の島唄だ。パンフレットによれば、八月踊りは奄美大島で、アオウミガメの産卵は屋久島で撮ったものだという。

 ハブが出てくるところでは、沖永良部にハブはいないという半畳を入れたくなる。あるいはわたしの叔父は、少年時の自分の姿を重ねるように観たが、島唄が沖永良部にある琉球音階でないのは、「あれは違う」と漏らしていた。けれど、映像を追うごとに次々に投げ込まれるちょっと違う風物を見ているうちに、半畳はどうでもよくなり、というか、むしろ奄美のアマルガムとして作品を構成していることがわかってくる。そう、これは作品なのだと思うようになる。

 徳之島からは、この作品名を『奄美の海』にしないのかという問題提起もあったという。でも、これは『エラブの海』でいいのだ。この映画は、「奄美の海」ではない。もしそうだとしたら、奄美外に素材を取った事物が不純物のように見えただろう。これは、作品にも出てくる海蛇(うみへび)にちなんだ海蛇神としてのエラブの海のお話なのだ。ゴジラも現れる南の島の像を、奄美に素材を採って描いた作品だった。

◇◆◇

 映画が上映された直後、1960年に島尾敏雄は、『エラブの海』を「記録映画」として捉えて、こう書いている。

 ところで記録映画としての「エラブの海」自体には、私はいくらか不満を述べないわけには行かない。それは製作者が、奄美の(というよりは珊瑚礁地帯としての沖永良部海底の)景観にまずこころを奪われていて、そこに住む人びとの生活にはあまり興味を示していないことに原因しているようだ。

 もちろん、製作の意図が珊瑚の海の方にあったにちがいないが、しかし、学術的な追求を目的とするものでない限り、生活とかかわりあわない風物は印象をうわすべりしてしまうようだ。記録映画が見る者のこころを強くとらえるのは、写される土地とそこに住む人びとの生活が分ちがたく引きあっている状態をありのままにとらえられたときのようだ。「エラブの海」の場合、風物の珍しさが写しとられている割には、島びとの生活がそこに結びついてはこない。それはやはり構成に作意がはいりすぎたからだと思う。奄美では見ることができない海女を設定したうそが、ほかにいくつか挿入した島の生活をも拒否してしまったように思う。追い込みの漁法による魚とりや「ウシトラワシ」の熱狂のキャッチが、この映画のモチーフをはなれて圧倒的に島の生活の地肌を感じさせ、生活のボリュームを与えることができたのは、そこに早急な作意が働かなかったからだと思う。少し誇張して言うと、そこには一つの世界が表現されていた。もしこの二場面を写したときの態度が全体に貫かれていたら、この映画は、全くちがったものになってしまったろうが、それはもっと強い印象を与えそこから先に何ごとかを考えさせた作品になったにちがいないと思う。私はそのことを期待していたのだといえる。奄美の生活が持つ意味、そしてそれが奄美の風物の中でどう展開されるかの一つの解釈が知りたかった。その意味で「エラブの海」は徳之島や大島の風物のつぎ足しに頼らないで永良部の現実を(或いはそれに根ざした風物詩を)描くべきであったように思えてならない。けれど、もしそのことに目をつぶるなら、この「エラブの海」が、奄美をテーマにした先駆的な映画の困難と栄誉とをになう作品であることに賛成しないわけではない。(「『エラブの海』を見て」)

 奄美の価値を本土に伝えたいと孤軍奮闘していた島尾であれば、ここにある苛立ちは真っ当で自然に湧き上がったものだろうと思える。ぼくは、島尾の苛立ちに感謝すらしたくなる。『エラブの海』は、記録映画として、島の人物風物を限りなくリアルに描いてほしかった。島尾の「期待」はぼく自身の期待にも重なるものだ。

 けれどそれから半世紀後近く経った場所にいるぼくたちは、また違った風に言うこともできる。これは、作品なのだ。奄美に素材を採って、ゴジラも現れるという南の海を、当時の日本人の異界を覗きたいという願望に添うようにイメージ化した作品なのだ。そして、そういう意味では偏見もなく空想も抑制された沖永良部的映像だった。

◇◆◇

 この映像作品が、奄美アマルガムとして事実を多少離脱するものであってもそれが不快にならないのは、作品のモチーフが奄美のエロス化にあるからだと思う。実は、投げ込まれる違和物のうち最大のものは、海女さんだった。彼女たちは石川県の本当の海女さんだという。

 映像としての『エラブの海』の最大の魅力は、海の幸をふんだんに湛えた珊瑚礁のシーンだ。そしてそれだけではなく、海女さんがその海を自在に泳ぐシーンだ。海女さんは、ほとんど全裸身で長い時間、海中で珊瑚に添いながら魚を追う。この海の美と海女の美が作品のエロスを担っている。それが、作品を支えていると思うのは、女性の身体美に加えて、彼女たちは石川県の海女さんだけれど、古代の島人はきっとこんな風に海を自在に泳げたのに違いないというリアリティがあるからだ。顔つきは奄美の人ではないけれど、その海に適応した身体性は、まぎれもなくエラブ的だと感じさせる。それが、作品のエロスを支えているのだ。

◇◆◇

 この映画は、記録であるという前に作品として観ることができるし、その視線が必要だとぼくは思う。
 では、この映画は、作品として全体を覆うことができるかといえば、そうは言い切れない。実際、作品と記録が二重写しにやってくる、というような映像であるには違いない。むしろ、『エラブの海』は、記録なのか作品なのか、どちらなのかと問うてみると、島尾がそう捉えたように、「記録」の方に軍配があがるように思える。現にこんどの復刻に当たって、尽力した沖永良部島出身の女性は、沖永良部の自然を見直す機会になってほしいというように、「記録」として紹介している。

 それはこういうことかもしれない。日本人が、異界を覗き込むように、南の海、エラブの島に臨むことが弱まった度合いに応じて、異界を描いた作品としての意味が希薄化されて、「記録」として改めて登場したのだ、と。

 それなら記録としての『エラブの海』の持つ意味は何だろう。復刻を果たした主催者や当時から約半世紀ぶりに改めて作品を観た島の人たちは、昔は自然が豊かだったと感想を述べていた。それは確かにそうだと思うものの、違う印象も過ぎった。

 作中、ナレーションを果たす老翁はこう言う。

 「これは珊瑚の死骸。ここだけどうしてこういうことになるのか、分からない」

 たしかこんなフレーズで言う。

 この映像は、ぼくの生まれる前のものだけれど、その時点で既に珊瑚の死滅はあり、またハブはマングースと闘っていた。そういう意味では、この映像作品以降にやってくる観光化が何をもたらすかについて、それはすでに始まっていることを告げ知らせることになっていると思える。奄美の自然はこのとき既に失われつつあったのだ。この失われつつあるという予兆が、奄美をアマルガム化し、海女さんによる奄美のエロス化のモチーフを生んだのかもしれなかった。

『エラブの海』(紹介ページ)
『エラブの海』(アマゾン)

Photo




| | コメント (4) | トラックバック (0)

2008/02/15

ミャンチックー

 『ドゥダンミン3』は、与論言葉の語感が楽しい。ササイレ、マチャン、グージャーに続いて心に留まったのは、ミャンチックーだ。

 ミャンチックー。

 これが、フクロウのことだなんて。教えてもらわないと、ぼくには絶対に分からない。ユンヌンチュには常識でしょうか。

 それはさておき、小正月二月十五日)には、ウンニーマイを作って食べる。食べないとミャンチックー(ふくろう)になると言い伝えられてきている。芋には、バッタイムジ(里芋)と田芋がある。ウンニーマイは、その名前の通り、芋と米を煮て、練って作る。粟やもち米を使ったりする。食べたくなくても、一口でも食べさせるために「ミャンチックーになる」と脅かす。どうしてそこまでする風習を作ったのだろうか。アダンの実や草木を菜食していた太古にあって、とてもおいしく、しかも小芋をたくさんつけ、増やすことができる。革命的新種の里芋がもたらされたときの喜びはいかばかりであっただろう。その喜びと神への感謝を捧げるために、小正月をウンニーマイ記念日にして、作った。まず神前に供え、さらに分家は本家に、妻、母、祖母の実家の神前にも供えた。今でこそご馳走ではなくなったが、飢えていたその昔はご馳走であったし、神への感謝を忘れない敬度さがあった。

 ミャンンチックーとは、顔がミャンカ(猫)の顔に似ているところからその名がついたのであろう。夜行性でホー ホーと鳴く。鳴き声は不吉の前兆として嫌がられる。夜行性だから陰気で邪鬼にさえみられてしまうフクロウは「母喰鳥」とも書かれる。食べないとそんな鳥になるというのだからよっぽどのことである。ミャンチックーにとってはいい迷惑である。(『ドゥダンミン3』竹下徹)

 だいたい与論に、ミャンチックーはいるんだろうか。それすら知らない。森もないしいそうにないけどなぁ。
 ミャンチックーを竹下先生は、ミャンカと顔が似ているからその名がついたと仮説している。ぼくは、ミャンカと似ているというより、猫と梟は夜目が共通しているということではないかと思った。ミャー、ミャンは、「見る」から連なり「夜目」を意味しているのではないだろうか。と、これはほとんと言葉遊びだけれど。
 ミャンカもミャンチックーもかわいい響きですよね。猫がミャンカだなんて、世界一可愛い「猫」の名詞じゃないでしょうか。日本の共通語になってもいいくらいの語感だ。

 ああ、それにしても、ウンニーマイが食べたくなってきた。(^^;)



 

| | コメント (3) | トラックバック (1)

2008/02/14

産む島・帰る島・逝く島

 奄美に「ふるさと」を見出した山川さんのエッセイによれば、「ふるさと」とは出会うものだ。

 迷ったとき、頭がいっぱいでどう進んだらよいのか分からなくなったとき、私は必ず思い出す。海辺の砂を裸足で歩いている自分。足を包み込んでいく砂の柔らかさ。ぬるい水。潮の色。風。森の中の絡み合う木々の枝。そして、さまざまな問題を抱えながらも、その日にできることだけを精一杯にする人たち。それはユートピアではない「ふるさと」の、私が知っている限りの紛れもない現実だ。その現実を実感として思い出すとき、私は自分の足下を確認し、「ふるさと」に出会えたことに限りない感謝を感じながら、また顔を上げて歩き出すのである。
           (「●『ふるさと』奄美●」山川さら)

 「ふるさと」を持たない都市生まれの人にとって、「ふるさと」とは親と同じく宿命のようにあるものではなく、出会うものだ。そして、ふるさとに出会いたいというニーズは、都市の自然喪失の度合いが深まるにつれ、せりあがってきているように思う。

 ぼくは、奄美のビジョンを、「南のふるさと島」としてイメージしている。

 ※「南のふるさと島」構想

 そして、その延長で、産むことと逝くことの受け皿を持ったらと続きをイメージしてきた。

 ※「奄美の多層圏域と離島政策 11」

 山川さんのエッセイを手がかりにすると、「南のふるさと島」は、「産む島・帰る島・逝く島」と言うことができそうだ。


◆「南のふるさと島」-産む島・帰る島・逝く島-

◇産む島 (与論で出産したい。)

 産婆さんに介助してもらい、波の音を聞きながら、自然のリズムのなかで子を産む。
 
◇帰る島 (年に一度か二度は与論で過ごしたい)

 田舎を持たない都市生活者の故郷になる。たとえば、夏休みは必ず与論で子どもたちと過ごす。産まれた場所ではないけれど、故郷として与論に来る。

◇逝く島 (人生の最期は与論で迎えたい)

 最期は、病院ではなく、家で逝く。もし、家族がいなくても、お世話する人が家に引き取ってくれる。


 こんなイメージだ。

 実際には、産むといったって、おいそれと与論にやってこれるわけではない。逝く、となればなおさらだ。
 でも、こう標榜することで、「南のふるさと島」として独自の島づくりができる。また、「産む」と「逝く」をセットすることで、「帰る島」の魅力づくりにも必ず反映されてくる。

 与論島や奄美は、その自然として、その人柄として、「南のふるさと島」の要件を備えているのではないだろうか。沖縄の乱開発が止めば、琉球弧全体で標榜できるものになるかもしれない。


 ということで、与論・奄美(琉球弧)ビジョン私案。

 「南のふるさと島」-産む島・帰る島・逝く島-

 この構想を自分のなかのイメージだけれど、育てていきたい。




| | コメント (5) | トラックバック (0)

2008/02/12

奄美の想い寄せ

 この本をやっと手にすることができた。アマゾンで注文するも上手くいかず諦めていたが、著者のサイト「あまんゆ」で注文の受付が始まったので、我先にと申し込んだのだった。

 ◇ あまんゆ

 手にとってみて驚いたのは、てっきり四六判のふつうの書籍と思っていたのに、これは菊判というのだろうか、大きな本だった。しかも、濱田康作さんの写真も入っている。この本、『ムンユスィ』は、濱田さんの作品をはじめ、多彩な表情の奄美の写真を背景に綴られた山川さんの奄美紀行文だった。

Munyusy














(山川さら、しののめ出版、2004年)


 「観光情報とは違う奄美の入口へ」と帯にあるように、「暮らしの中の神々」、「大島紬」、「死と再生」など、奄美の内側に入った世界が描かれている。そしてその視線はとても自然で、奄美のなかに融け入っているように見える。島の外の価値観から島を分析するのではなく、また、島の内の者に見做してくれないと弾き出されるのでもなく、島の外にあっては島を想い、島の内にあってはすぐに島人に溶け込む、そんな、たまたま出郷の境遇にあるような視線なのだ。

 この視線はどこから生まれたか。

 東京生まれで親類縁者に奄美出身者のいない私と、奄美との出会いは、10年ほど前になる。そのときは、徳之島のある果樹農家に当時保育園児の娘としばらく居候し、農作業、食事、洗濯、寝たきりのおばあの世話、できることは何でも手伝わせてもらった。訪れる先が徳之島から奄美に移っても、このときの「シマで暮らす」という体験をさせてもらったことが、いまの私の視点をつくっている。

 「居候」と聞いて、なるほどと思うところがある。そうか、これは「居候」の視線なのか、と。ただ、居候と言っても“高等遊民”を決め込んだのではない。「何でも手伝わせてもらった」とあるように、山川さんはこのとき、島の人になりきる経験を持ったのだ。

 だから、山川さんはこうも書いている。

私の歩みはまだ始まったばかりだ。これから奄美のどんな姿が見えてくるのか。自分がそれをどう受け止め、どう表現していくのか。私にとっての奄美が、なぜ〈行く場所>ではなく<帰るところ〉なのか。その答えは、まだ清明な姿にはなっていない。

 そうか、と再び合点する。山川さんは積極的な帰省者なのだ。というか、故郷を奄美と積極的に決めた人なのか、と。

 たとえば、ぼくが与論島を故郷だいうとき、そこには、島出身者で島ホームシックであるという過剰な思い入れもあるが、それがどうしてもそうで、他にはありえないと感じるのは、与論島で得られるものが他では決して得られないという交換不可能な感じを持っているからだ。だから、ぼくにとって与論島は、積極的に与論と言わなくても、どうしようもなく刻印されたものとしてある。

 ところが東京を出身に持つ山川さんが、東京に抱く感触は交換不可能な取り替えがたさを持っていない。都会の人が故郷がないというとき、それは、交換可能な場しか知らないことを言っている。山川さんは偶然か必然か、奄美に魅入られた。そしてそこを「帰る場所」と思うまでに想いを育んだ。積極的に、奄美を故郷と見做したのだ。

 この、積極的な帰省者である山川さんは、積極的になれることと帰省できることの強みを生かして、とかく矛盾しすれ違う内部からの視線と外部からの視線をどちらかにひきこもることなく広場に持ち出すことに成功しているように見える。奄美の価値を奄美の内と外の人に伝えることができている、ということだ。

 それは素敵なことではないだろうか。

 ああ、ぼくの紹介文はつい骨ばってしまう。いっそ本書の一節を紹介しよう。

海と人を結ぶイノー

 陸から海を見ると、波頭の立つ場所がある。それは、サンゴ樵のある場所だ。
 泳いでいるときに「あそこから先へ行ってはいけないよ」と言われたことがある。その先は、急に深くなっていたり、潮の流れが変わったりして、危険だから、というのだ。つまり、サンゴ礁の向こうは「別の世界」なのである。
 人が普通に入れるのは、サンゴ礁の内側。ここには、干潮時にサンゴ礁の原っぱのような風景が現れる。これを干瀬(ヒセ、ヒシ、ピシ、ピシバナなどとも呼ぶ)といい、干瀬にできる潮だまりをイノー(礁池)という。イノーは、海の世界と人の世界が交わる場所だ。

 場所によっては、石で囲まれた棚田のようなイノーもある。その棚田の中を覗いてみると、敏捷な小魚が身体をくねらせてスッとどこかへ隠れたり、ナマコが伸び縮みしていたり、ほんの一瞬、カニの動いた気配が感じられたり、「だるまさんが転んだ」でオニが振り返ったときのように、貝がピタツと動きを止めたところを見るようなことがある。
 イノーは、豊かな恵の場でもあり、心躍る遊び場でもある。ときどき、息を凝らしてジッとしていると、カニや貝が動く。その一瞬に、こちらも動いてみせると、慌てて姿を隠したり動きを止める。その繰り返しは、無心に帰るときとなる。
 古代の人も、ここで狩りをし、遊んだことだろう。イノーはそんな想像力までも刺激してくれるのである。

 奄美を奄美らしく、琉球弧を琉球弧らしくしている大事なひとつはイノーだ。山川さんもイノーに魅せられる。とはいえ、山川さんは漁師にはなれない。代わりに童心に返って人と動物が同居していた時代の感受性に近づている。言ってみれば、旅人が子どもを介して奄美への帰省者になる瞬間だ。

 どうやら奄美から山川さんへのムンユスィ(想い寄せ)は成功した。そして、この本のぼくたちへのムンユスィ(想い寄せ)も、望めばすぐに手にすることができる。こういう作品が出るということ自体、それは奄美の豊さのひとつだと思った。




| | コメント (2) | トラックバック (1)

2008/02/09

グージャー

 映画『ジュマンジ』の“ジュマンジ”のような呪文にまつわるお話。これも楽しい。

 新築祝いの前に、成年二人が茶碗にお粥(かゆ)の上汁を入れて持ち、家の四隅の内と外で次の言葉を掛け合い、三度回る。  まず、表の隅で、外の者が粥を口に含み吹きかけてから、大きな声で「へーイ」と呼びかけると、内の者が「ヘーイ」と応える。以下は与論町誌1049貢に記載されているものである。

 『外の者が、
 此の殿内(地)の隅のシンジュマンジュケンジュと唱えると、
 内の者が、
 マンネーケンケー 鯨 鰐 鮫(グージャー、ワン、サマ)シンパタナゲーリと応える。四隅で吸って吹きかけ唱えて三度回る。
 この言葉の意味は、外の者が 「此の家の隅に、住むすき間はないか」と問いかけたのに対し、「隅々まで、鯨や鰐や鮫がひっくりかえったりして騒ぎ回っているので、すき間はない」という意味だという。家の中に悪魔を入れない問答で、ここで悪魔というのは貧乏神ということである』

 この短い儀礼の中に、いろいろな意味が込められていて、発想の豊かさを思う。ミシャフを吹きかけるのは、米の霊威を使い、悪霊を吹き払うのであるが、吹きかけるさまは鯨の潮吹きを思わせる。シンパタナゲーリは鯨のブリーチングを言い表したものだろうか。鯨は地球最大の動物で、外の貧乏神を撃退し、豊かさをイメージさせる。鯨の骨は魔除けに使われる。新築したこの家は、地上最大のグージャーがはねてもびくともしない頑丈で大きく豊かであることの宣言である。

 昔の人は、魔除け呪術として行われる二人の青年のユーモラスなしぐさを神霊魂に対する敬虔心の中にちょっぴりの遊び心で楽しんでいたであろう。古人の心豊かさである。
 トゥラが子供の頃、これを真似て、「シンジュ、マンジュ、ケンジュ」、「マンネーキンネー、グージャーワンサマ、シンパタナゲーリ」と言って遊んだのを覚えている。町誌に記述されている「マンネーケンケー」が「マンネーキンネー」と転訛している。

 「シンジュマンジュケンジュ」を「千寿、万寿、京寿」だという異説(少数派)がある。これに由来したものかどうか、「千寿、万寿、献寿」を毎年の年賀状の寿詞にしている人がいる。「シンジュ マンジュ ケンジュ」を祝い言葉として「千寿、万寿、献寿」を当て、「マンネーキンネー」を「全く同じです」 とし、「グージャーワンサマ シンパタナゲーリ」を「鯨、鰐、鮫が上を下への大騒ぎ」とすると、新築祝いにふさわしく、外から「ヘーイ、千寿、万寿、献寿」と呼びかけ、内から「全く同じ。みんなグージャーになってワンドゥソーロー 大騒ぎ」と解釈すると、喜びの爆発となる。このしぐさ、狂言劇風でユーモラスである。与論十五夜締りの「ピートウヌカースー」を思い出させる。

 サティム サティサティ。この短い呪術、人によって文言や意味解釈が違う。外の悪魔は、貧乏神とする説 (町誌)、火事を起こす火玉とする説、病魔も含めた邪悪な魔物説等がある。「シンジュ マンジュケンジュ」 を 「この家の隅に、住むすき間はないか」 という問いかけだとする説(与論町誌)、「住むところ、間、気」 はないかという問いかけだとする説、新築祝いの言葉だから「千寿、万寿、献寿」とする説、等がある。「グージャー、ワンサマ」を「鯨、鰐、鮫」とする説、「鯨」だけ説、等がある。さらには「シンパタナゲーリ」を上を下への大騒ぎ」とする説、「シンパタナゲーリ」ではなくて、「シンパンゲーリ」で「大きくていっぱいにはまっている意味」だとする説、等ある。お釈迦様の教えがいろいろと解釈され、分かれていったごとくである。(『ドゥダンミン3』竹下徹)

 いまでも与論島から鯨が目撃されることがあるから、島の海人にとって鯨は身近だったに違いない。「沖縄日和」の岩井さんの「ホエールソング」では、クジラの鳴き声を聞くことができる。あんなにはっきりと聞こえるから、海人が親しんできた海の音のひとつなのだと思う。

 そのクジラを、与論言葉ではグージャーといい、新築祝いの儀礼の呪文のなかに登場しているわけだ。

 「シンジュマンジュケンジュ」。」、「マンネーキンネー、グージャーワンサマ、シンパタナゲーリ」。
 お茶目な言葉遊びのある呪文だと思う。

 父が鹿児島に家を建てたとき、叔父が、与論式でおまじないをしてみんながびっくりしていたと、母から聞いたけれど、これだったのかと合点した。「マンネーケンケー、グージャー、ワン、サマ、シンパタナゲーリ」と、ウジャはパフォーマンスしたわけだ。この呪文の由来を、『ドゥダンミン3』で知り、ウジャはいいことをしてくれたんだなと改めて思った。


| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008/02/08

いいじゃない。砂糖きび物語

 与論の商工会がギフトショーに出展しているというので、出かけてきた。

 ※「ニッポンいいもの再発見!春2008」

 巨大な展示場だけれど、とにかく与論を見つけないと始まらないと、わき目も振らずブースを探すと、「ニッポンいいもの再発見!」のコーナー内に小さいながらしっかりあった。

 でも、小さいけれど、中身はどっこい「砂糖きび」をコンセプトに、いくつも商品がラインナップされていてしっかりしてて嬉しかった。
 
 なかでも「きび蜜」は懐かしさも手伝って美味しかった。パンに塗って食べてみたくなった。

Photo









 他にも、「黒糖まんじゅう」、「黒糖ろーる」、「黒糖もち」、「黒糖ぼーろ」など、黒糖シリーズは尽きない。「きび酢」はもちろん、「さとうきびジュース」もあった。

Photo_7









Photo_8









Photo_9









Photo_6









Photo_3









Photo_4












Photo_5












 食べ物だけではない。砂糖きびの繊維を使った衣服や雑貨もある。

Photo_2












 お客さんの入りも多く、終始賑わっていたと思う。商工会の福島さんや「糸(ichu)」の山下さん他のみなさんが熱心に説明する姿が印象的だった。

Photo_10










 島内発信の勢いや元気にいささか飢えているので、この品揃えと賑わいが嬉しかった。ここからさき、しっかり育てていってほしいと思う。また、しっかり育つように、応援もしたい。

 「まんじゅう」、「ろーる」、「もち」、「ぼーろ」自体は珍しいものではない。けれど、そこに「黒糖」が加わることで個性が出る。ポスターには「砂糖きび物語」と添え書きがあったけれど、その通り、この個性に“物語”を加えていくといいと思う。そこに、海から上がってきた時、お茶と一緒に食べた黒砂糖の美味しくてほっとした味や、アンマーターが織っていた大島紬の機の音が聞えてくるような、そんな懐かしさの広がりがあれば、島の人、出身者だって、ほしくなる。そういう、旅の人だけでなく、島出身者が島を思い出し、島を懐かしみ、島の栄養を吸収できるブランドになったら嬉しい。

 そんな想像が膨らむ商品群だった。これからが楽しみだ。


◆与論ブランド育成メモ

・「砂糖きび物語」自体の「物語」
・それぞれの商品の「物語」
・与論らしさのあるデザイン
・販売する「場」と「時」




| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008/02/06

奄美のきび酢、増産

 2月4日の日経MJに、きび酢について、「奄美で相次ぎ増産」と記事が出ていた。

 きび酢といえば真っ先に思い浮かぶ「かけろまきび酢」だが、2006年度の生産額は前年の3倍に当る約1億4000万に達したという。それを受けて製造能力を4割増やすのだそうだ。

 沖永良部島の「きらさん」は、3000万の目標。
 わが与論島の「よろん島はきび酢」は、4000万目標。

 きび酢は米酢に比べミネラル分が豊富。カルシウムは米酢の約十倍、カリウム、鉄は約七倍とされる。活性酸素を打ち消す作用のあるポリフェノールも米酢の二倍以上で、健康飲料や調味料として注目されている。(日経MJ)

 記事になると、「きび酢」が奄美の地域ブランドとして成長している様が見えてくる。嬉しい話だ。応援していきたい。



| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008/02/04

「ゆいまーるに基づく自治の道」

 奄美と沖縄の共通の土俵で語る問題意識に親近感があって、松島さんの『NPO法人ゆいまーる琉球の自治』をよく見ている。

 今日の「『奄美』とは何か」も、遠慮なく核心をついた記事だ。

奄振や沖振はともに失敗したのであり、琉球人は開発に期待してきた自らの過ちを反省し、「国に依存した経済自立策」を拒否して、固有の文化や自然という地域の宝を活かしながら互いに協力していく、ゆいわく、ゆいまーるに基づく自治の道を歩む時期にきていると考える。

 この立言は、状況に杭を打ち込むように、強い。そうではないだろうか。



| | コメント (3) | トラックバック (0)

マチャン

 珊瑚礁は、海と陸に二重化される。ときに海でありときに陸。それが珊瑚礁の魅力だ。そこで、珊瑚礁では、陸で漁ができる。

 ピシバナ(環礁)には、外海からイノー(内海)へ通ずる溝がある。そこは魚の通り道なので、そこに網を張り魚を捕る。それをマチャン(待ち網)という。三月三日の浜下りのときは、「サンガチヤブリ」といわれて海がしけることが多いので、その二・三日前にこのマチャンをしてあらかじめ準備する。マチャンの場所には占有権があり、その昔は占有者でなければできなかった。名前も付けられていた。

 その昔、先述のナーシバンバラの漁占有権をめぐり、三月三日の浜下り組とシニュグ組との間で、喧嘩があったそうである。潮が引くとピシバナの上にいた魚は、イノーへ降りる。その通り道を「マタ(股)」という。潮時を見計らってそこにマチャンをする。マタと限らなくても、弓形に大きく網を張り、二~三人で上の方から石を投げたりして魚を追い落として漁獲している。アイナー、ニームシが主に捕れる。浜で焼きビャースをして一杯やるのは、にわかウミンチュ男の人生の至福どきである。(『ドゥダンミン3』竹下徹)

 ピシバナ(環礁)は、珊瑚礁と外海の境界にある。そこは、海同士の境界だから、イノー(内海)へ行くことができる。でも一方、イノー(内海)は大潮のとき、陸にもなるから、人も行くことができる。そこで、陸にいながらにして漁をするような、そんなことができるのだ。それが、マチャン。待ち網のことだ。可愛らしい響きの言葉だと思う。

 ぼくも「にわかウミンチュ男の人生の至福どき」をぜひぜひ体験したい。


 

| | コメント (5) | トラックバック (0)

2008/02/01

与論が「にほんの里100選」に応募するなら

 またまた、「あまみ便りblog」に教えてもらったことだけれど、「にほんの里100選」という企画がある。

 ※「にほんの里100選」

 与論を「にほんの里」と呼ぶのに違和感はあるが、それにこだわらないとして、与論が応募するとしたらどんなアピールポイントだろうと想像してみたくなった。

応募要綱にはこうあります。

□景観 暮らしが生み出した特色ある景観が、まとまりをもって見られる。 あるいは、里の景観が全体として調和していて美しい。

□生物多様性
かつては里でよく見かけた動植物が今もすこやかに生きている。
あるいは、そうした生き物や生育・生息環境を再生する試みなどがある。

□人の営み
景観や生き物を支え、里のめぐみを生かす暮らしや営みがある。
あるいは、そうした暮らしを築き持続させようとする人々がいる。


 しばし考えてみたが、こういうのを書こうとすると、つくづく珊瑚礁の死滅は打撃なのだと分かる。

 いっそ、「たそがれの里」としてみるのがいいだろうか。(^^;)

 与論島の応募もあるといいなと思う。3月末が締め切りだ。




| | コメント (4) | トラックバック (0)

« 2008年1月 | トップページ | 2008年3月 »