イエロー・ジジイ
二回目の「奄美の家」は、同じ苗字の三人衆なのであった。ぼくにとっては二十数年ぶりの再会もあり、昔話に花が咲いた。それも今明かされる新事実。
兄は、子どもの頃、鼻血が止まらなくなったことがあり、体調を心配した両親は、診てもらおうと鹿児島へ渡った。そこで、鹿児島在住のパラジのウジャの家に泊まったわけだった。
兄弟はウジャからお小遣いをもらう。硬貨と当時の五百円札。嬉しかったろう。けれど、弟は五百円札をクシャクシャにして窓から捨ててしまう。弟にとってお金とは硬貨のことであって、お札は紙切れにしか見えなかった。お金を間違えて投げたのではなかった。
二階の窓から投げたお札は屋根に乗る。兄はそれを見て何とかしてやらなくてはと思う。窓から下を見下ろす。瓦でもトタンでもない。厚紙が波打ってるようだった。足がすくむ。でも取ってあげなければならない。だから、思い切って、飛んだ。
兄の足は、屋根を突き破り、その破片が地面へ落ちてゆく。次の瞬間、パラジの家に泊まらせてもらっている母が、血相を変えて飛び出してきて、有無を言わさず兄を叱る。
ひょんなことから語られたこのエピソード。けれど、事態は兄と弟では全く意味が違っていた。
兄にしてみれば、弟をかばい、母に怒鳴られても弟のことを言わず、いまとなってみれば懐かしい思い出になっているにしても、弟だけは言わずとも心の中では解ってくれている、それが矜持の記憶に違いなかった。ところが、弟は、
「兄ちゃんは、仮面ライダーになってライダー・キックをした」
仮面ライダー、とぉ、というわけである。
兄ちゃんは、ライダー・キックをして右足が屋根に突き刺さった。お金のこと? 記憶にない。きっとほら、お札は紙切れにしか見えなかったからだよ。
兄が覚えているのは血相を変えた母の形相とニヤニヤして事態を眺めている弟の顔だ。でも、弟は、兄は仮面ライダーしたと記憶に残した。屋根の破片が地面に落ちてゆく光景を覚えているから、自分がやったわけではないと思い返すことはあった。
かくして三十数年ぶりに明らかになる事実。どこまでも生真面目にことに直面して傷ついたけれどその記憶を背負ってきた兄(ヤカ)と、ことの起因を忘れて仮面ライダーでことを処理した弟(ウットゥビ)と。長男は弟のためにしたのだと今も知らないアンマーと。長男と次男の永遠の物語と、言ってしまえばそれまでだけれど、あったかくも切ない、切なくもあったかい物語だ。
☆ ☆ ☆
弟は面白い。ワジャクをして叱られて柱にくくりつけられる。でも、叱りつける父に向かって言う台詞が、
「イエロー・ジジイ」
当時、富三先生にそんなこと言えるのは、彼だけだったろう。さすがの父も笑ってしまう。でも、イエロー・ジジイの意味が解って笑ったのではなかった。いや、確かめたわけではないから、ひょっとしたら解って笑ったのかもしれないけれど、これはなかなか発想できない。
弟曰くには、怒ると、父の背中にバリバリと星型の火花が散るように見える。だから、イエロー、なのだ。
なんと、地震、雷、火事、親父の言葉にふさわしいその父の姿は、子どもにはピカチューさながらだったのだ。それで、“イエロー・ジジイ”、なのだ。なんて観察力なんだろう。
イエロー・ジジイなんて言葉を浴びせる。そんなこと、兄にはできない。つい、父も笑ってしまう。そんなこと、兄にはしてくれない。ここには、兄のそんなうらやましい視線も入っている。
いい話だった。笑いに笑う、初笑いをさせてもらった。
いつの間にか「奄美の家」の夜は更け、気がつけば、ぼくたちだけが陣取っていて。それに気づいて慌てて帰り支度だった。
「奄美の家」の圓山さんにはまたよくしてもらいました。とおとぅがなし。
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コメント
クオリアさん
30年前のことが昔話になる
可笑しく、面白くもあり、どこかに
かなしみもあるようで・・・
ン百年前のユンヌの昔話が、語り
継がれているのにもどこか相通じて
いるかと思ったりします
「ガシガの島の物語」を構想しな
がら、遅々として進みません
50年ぶりの同窓会で与論の島の
ことを自慢しすぎたせいもあってか、
ヤマトゥンチュだけで20人余りの
与論ツアーで盛り上がっています
オンリー・ワンの意味するのが何
なのかよく分かりませんが、世界中
で一つだけしかない与論島のことを
吹聴していますので、あるがままの
島の姿を楽しんでもらうつもりです
「いんくさやあしが なびぬすくなかに
ぐくぬたまる」と謳って聞かせました
投稿: サッちゃん | 2008/01/19 13:22
サッちゃんさん
与論ツアー、いいですね。ぼくもいつか友人たちを連れて、旅してみたいです。
「ガシガの島の物語」、ぜひ書いてください。
投稿: 喜山 | 2008/01/20 09:46
レスを有り難うございました。
少し、小生が誤解をしていたようですね・・・すっかり、貴殿を富三先生のご子息かと早合点をしてメールを致しましたが・・・「イエロージジ」を再度、読み返し、またレスのコメントをいただきクリアになりました。
また、うろ覚えで間違っていると失礼ですが、貴殿の父はテルゾウ様では? 必至に「闊達な子供達」の名前の遠い記憶をたぐり寄せているのですが・・・男児が二人、女児が二人では無かったかと・・・
もう、かれこれ40年前の事ですから、名前はやはり失念の限りです。
ただ、どの方もとても明るくてやんちゃで、しかし聡明であった!との記憶は明瞭に脳内HDに刻まれています。 伊勢湾台風(だったと記憶)の時には確か貴殿の宅で茂隆様家族ともども非難させて頂いたような記憶も残っています。
当時は、とても立派な唯一、シェルター的なお家でしたから・・・
それから10年後には、当方は離島し喜山茂隆様ももう大阪へ引っ越して40年余になりますね。幾星霜・・・幼子の一時を過ごした宇和寺村は時の経過に関係なく鮮明なネガとして記録されています。
ランプの光と月明かりに包まれた世界は今の宇和寺からはきっと想像され得ない永遠の心の中の傑作画みたいなものですね。
フバマの海でのササイレも良くやりました。貴殿がその事にも触れていること、とっても哀愁に近い良き時代?の原型を想起させてくれます。
一番の忘れ得ぬ記憶は・・・幼くも、遙か遠い地の井戸への水くみ、果てしないほどの距離!を数回も往復したことでしょうか・・・ 道無き道と思えた蛇の道はまだあるのだろうか?井戸は山下実(泉下の恩師)先生の自宅近くで、幼少の身には数十里の感が有ったように記憶しています。
貴殿のお祖母様も一緒に水汲みに行った記憶も鮮明です。キビ混じりのおむすびを頂き励まされながら共に通ったことがありましたね。
そのころのガジュマル林はとにかく大きな「マッタブ」の住処で、家の軒にもお棲いの様をときどき目にしましたが・・・神様扱いで災いが起きた事も皆無でしたから。
いろいろと、遠い想念を連ねました。悪しからず。いずれの日にか相まみえ、遠い日々の共通の想いでの地を肴に談笑できる時が訪れることを祈念しましょう。
日本の地にてまた・・・
投稿: ロイ | 2008/01/28 02:25
ロイさま
わたしも背景がつかめてきました。わたしは、輝三ウジャの弟の子です。輝三家が離島して以降、宇和寺のあの家に祖母と住んでいました。覚えてらっしゃる子ども達はわたしの従兄姉にあたります。
マッタブの道なき道、確かに遠く感じましたが、今はもうないと思います。わたしもかすかに井戸のことは覚えています。山下先生には、小学1年生の折り、受け持っていただきました。
宇和寺のあの家。たしかにシェルターでした。
投稿: 喜山 | 2008/01/28 09:14