たゆたう島、与論島
与論の力、与論力は何だろうと考えます。よく、考えます。
ときにそれを、「境界を消す力」と言ってみたりするのですが、あまりピンと来ないですよね。
やっぱり、「たゆたい」、かな。そう思ったりします。
たゆたい。たゆたうこと。ゆらゆら動くさま。
唄にいう、「木の葉みたいな わが与論」。それは、海にたゆたう島の姿。
珊瑚礁の海のたゆたいは、時に礁湖(イノー)の顔を蒼に見せ、時に干瀬(ピシ)の顔を茶に見せます。
その波のたゆたいは、陸と海の境に揺らぎを与えて、どこからどこまでが海なのか、どこからどこまでが陸なのかを曖昧にし、境界を消してしまいます。
イノーとピシの存在が、陸と海の境界を消し、陸と海をなだらかにつなぎます。
そう、だから、境界を消す力はつなぐ力にもなるのです。
与論は、海にたゆたうだけではありません。
それは、時に、カタカナのヨロンになったり、パナウル王国になったりします。するとヨロンは、地理上のある場所を離れ、沖縄や海外のどこへでも浮遊しはじめます。オキナワの横だったり、グアムやプーケットのそばだったり、たゆたうように出かけていきます。そしてあるいは、沖縄復帰のとき辺戸岬からは、日本の象徴にすらなりました。
それだからこそ、映画のなかでも、「どこかにある南の島」になることができます。
映画のつながりで言えば、「たそがれる」ことができるのも、この島では、時間が揺らぎ、たゆたい、時が動くような動かないような流れを生むからです。
与論だけではなく琉球弧全体に言えることですが、魂(マブイ)もよくたゆたいます。現を抜かすような状態になることもあれば、ガジュマルなどの樹木たちやアマンなどの生き物たちに寄り添い、彼らと言葉を交わすことができます。かつて、そういう人たちはいたものです。そういえば、オオゴマダラがいかにも与論に似あうと感じるのも、蝶のあの舞いがたゆたいだからです。だから、オオゴマダラ復活の努力は、与論蘇生に通じると思えます。
心はたゆたい、タビンチュの前に極度に人見知りします。その人見知りを、にわかごしらえに一挙に飛び越そうとすると、そのときたゆたいは、境界を消す力となって自他の区別を無くそうとするでしょう。それが酩酊のなかに自他をつなごうとする、あの、与論献捧です。
与論にかかると、マラソンも揺らぎます。イノーを鑑賞しながらの走りは、マラソン自体をたゆたわせます。それがヨロンマラソンの魅力かもしれません。
たゆたう島、与論島。
と、今日はそう考えてみました。
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