« 2007年12月 | トップページ | 2008年2月 »

2008/01/30

与論の税金徴収率とふるさと納税

 「週刊ダイヤモンド」の特集記事のなかで、ランキングワースト20にわが与論町が載っていてびっくりした。指折り数えて悪いという順位に与論が名指されているというのだから、驚かないわけにいかない。けれど少し冷静になってみると、複雑な気持ちになってくる。特集は、「税の踏み倒しを許すな!」「地方自治体『税金徴収力』のお粗末」とかなり語気の荒いタイトルなのだが、ワースト20の中身も「税金徴収率」について、なのだ。

 すぐに思うのは、与論は、金銭に換算する限り決して潤沢ではない。だから、"税金徴収”というと、まるで弱い者いじめで、だったらそっとしておくべきではないのか。ましてぼくはタックスマンではないのだから、口出しすべきことでもないだろう。そんな思いが過ぎる。けれど一方で、しかし税収が減って自治力が名実ともに無くなれば、大は小を兼ねるに巻き込まれて、与論らしさは風前の灯火となってついえてしまいかねない。それは嫌だし、与論の意思でもあるまい。まして、与論は町として、市町村合併にもノーと言った土地なのだ。そう考えると、この税収率の低さと市町村合併ノーの意思表示とは矛盾しているようにも見える。

 このテーマ、与論が気になる者にとって関心を持たざるをえないというものだ。

 ※「週刊ダイヤモンド2月2日号」

 ◇◆◇

 全国的に徴収率は下がっているという。でもそれは予想されたことで、これまで住民税は5%、10%、13%と累進課税であったのに一律10%にしたので、課税所得200万以下の人にとっては住民税は倍増することになる。低所得者が税金を払いにくくなっているということなのだ。

 そう言われると、与論もそれが背景なのだろうかと暗澹たる気分になってくる。けれど、必ずしもそうとは言い切れないケースも載っている。人口2万3000人規模の奈良県王寺町は、短期間で徴収率をアップしたという。それは、「払えるのに払わずにいる人」なのだそうだ。

 中野さんは着任当初、滞納者に税を納めてもらおうという姿勢で臨んだという。だが、あるとき、間違いだと気づいた。住民の多くはしんどいなかで税金をしっかり納めている。ところが、滞納者のなかには払えるのに払わずにいる人もいる。それを放置してきたのは、まさに職務怠慢。滞納の山はこれまでしっかり仕事をしてこなかった裏返しの現象だ。  払えないのと払わないのは、違う。それをしっかり調査し見極めたうえ、払わない人と交渉する必要はないと考えた。法律に則った手続きを進めたのである。中野さんの対応に怒り、町長室に押しかける滞納者も現れたが、町長からストップがかかることはなかった。

 与論にもこうした背景はあるだろうか。実際、ワースト8位の徴収率は64.9%なのだが、その内訳を見ると、

 合計徴収率 64.9% 現年分徴収率 96.2% 滞納繰越分徴収分 6.1%

 と、滞納分の徴収率が低いことが分かる。現年分が約96%もあるのに合計が約65%まで下がってしまうのは、滞納分の額が全体の約65%を占めているからだ。これは相当に大きく、王寺町と同じケースではないかと推測してしまう。これ以上のことは分からないが実態を知りたい。

 ◇◆◇

 記事には、市町村合併を拒否した町のケースも出ていた。

 鮫川村の近くに「合併しない宣言」で有名な矢祭町がある。自立の道を歩む矢祭町も徴収に力を入れており、現年分は九九・三%と高い。矢祭町の特徴は全職員が徴税吏員と出納員を兼務し、徴税に当たっている点だ。滞納整理班をいち早く組織し、夜間は幹部、昼間は若手職員が滞納者を訪ねて回っている。また、役場を年中無休にしていることも納税Lやすさにつながっている。住民に税をきちんと納めてもらい、それを大事に使うという考えが浸透しているのである。

 与論町もこうすべきであると、ここからすぐに言えるわけではない。けれど、矢祭町は、市町村合併に対し「合併しない宣言」をしたことを引き受けようとする意思を感じるのは確かだ。

 記事は、滞納者への不正免税を行政担当者が行い、その見返りを受け取った「行政と地域ボスの談合」のケースなども載っていて、それが激しいタイトルにも反映されている。

 ◇◆◇

 思いがけない形で与論町の実態を知ってしまったが、少なくとも、徴収率の低さの原因は知りたいところだ。与論町という行政体が無くなるのは嫌だと思うからだ。ただ、「週刊ダイヤモンド」の記事に乗って、不都合を指摘するだけでは何とも後味が悪い。故郷に向かって引導を渡すような書き方をしたくない。

 そこで思うのは、ぼくでもコミットできる事態打開の方策としての「ふるさと納税」だ。自分が出す税金の一部の納付先を選択できるというものだ。与論づくりは、与論住民だけでするのではなく、島内外を合わせた与論島関係者を巻き込んで行うべきだとぼくは思っているけれど、「ふるさと納税」は、その考え方にも適合する。



| | コメント (5) | トラックバック (0)

2008/01/29

奄美郷土研究会の公式ホームページです

 「奄美郷土研究会」の公式ホームページがあるのをご存知ですか?

 「奄美郷土研究会」公式ホームページ

 「奄美郷土研究会」は、1956年、昭和三十一年に結成された「奄美史談会」に源流を遡ります。島尾敏雄も結成メンバーの一人でした。紆余曲折はあるものの、現在まで続いている郷土研究会の、ウェブ上の拠点がやっとできたわけです。

 研究会では、このほど情報交換を目的にメーリングリストを設置したと、管理人の水間さんが案内してくれています。

 奄美郷土研究会ML

 メーリングリスト参加希望の方は、下記のページにあるメールアドレス宛てにメールをしてください。ちなみにぼくは申し込みました。奄美の郷土談義が楽しみです。

 奄美郷土研究会問い合わせ窓口



| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/01/26

「ナマ ククル ヌクサン」

 DVD復刻にちなんで、映画『エラブの海』の話題をあちこちで見かけてホクホクしてきます。

 「ナマ ククル ヌクサン」。与論だったら、「ニャマ ククル ヌクサン」というところだけれど、この映画の惹句に採用された言葉です。

 「今、心があったかい」。

 復刻に尽力した喜原さんは、幼少の頃、この映画の青空上映を観たのだといいます。

私が当時5歳の時に、島の学校の校庭で上映されたこの映画の映像がとても印象に残っていたのです。この映画を子どもながらに観ていた時の、心が優しくなるようだったというか、心が楽になる(開放される)ような感覚でした。今の時代だからこそ、そういう心の底から温まる映画が必要なのではと思いまして。

 「心が楽になる」っていいですね。琉球弧以外の人にとっても観る価値があるんじゃないかと思えました。

 でも、その前にまず、奄美、琉球弧の人が観るといいなと思います。ぼくもこれから、ですが。だって、下の記事の干瀬での少年の釣りの姿、かやぶき屋根の家並み、観てください。懐かしさがこみ上げてきます。

 ※ 半世紀ぶりにDVDで復刻『エラブの海』




| | コメント (1) | トラックバック (0)

2008/01/25

ダイナマイト漁と毒物漁

 昔、一部の漁師のあいだでは、道路工事用のダイナマイトを使った漁が盛んに行われた。

 当時は今のブルトーザーなどの土木建設機械がなく、タガネとハンマーで直径3センチ深さ60~90センチ程度の穴を削り、そこにダイナマイトを吊るして入れ、粘土を詰めて爆破させていた。ダイナマイトの管理は結構ずさんで、工事が終わったところから不発のダイナマイトを拾ってきた友達もいた。導火線(電気式)には銅の細い針金が使われていて、その線が欲しくて爆発後の現場に競争で走っていたこともある。それをモーターを作る材料に使うのだ。

 ダイナマイト漁は火をつけた導火線を自作していたようで、その導火線の長さで爆発深度のタイミングを計った。最初に一人が海に飛び込み、魚のいる深度を目測し爆発深度を決める。タイミングを間違えると危険ということだが、実際、死傷事故も起きていた。終戦直後もダイナマイト(爆弾)漁は盛んで、その時は不発弾を使ったそうだ。

 ◇◆◇

 観光ブームの前には毒物の漁が盛んになっていた。本来、毒物は容易に手に入るものではないが、田んぼの害虫用に使われていたものが流用されていたようだった。

 少年は、ひとつ自分も漁をしたいと思い、何とか手に入れて早速友達を誘い海に出かけた。獲れるは、獲れるは。その威力にはビックリした。エラと内臓をとれば人間に害はないという大人の話を聞いていたので、取り除いて友達と二人で焼いて食べた。たいした量を食べることが出来ない、でも持って帰るとバレルから、惜しいと思いながらも捨てて帰った。毒物はズボンのポケットに入れたまま帰り、慌てて裏の藪に捨てた。しかも素手だった。今思うとぞっとする。

 3月3日、あちらこちらのハタマ(リーフの周辺にある池になった溜まり)で毒物漁が行われていた。次第に満潮で潮流も早くなる頃、ワタンジを渡れるぎりぎりまで居残ると大物が獲れる事があった。浜に上がった後、海面をバタバタとのたうちまわって飛び跳ねるでっかい魚を目にすることも多かった。

 毒物漁は、観光発展の為に販売を止めようとの自主規制で幕を閉じた。

(聞き書き 与論昭和史)


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/01/24

島への想いが果たした復刻

 つい最近ニュース報道にもなった『エラブの海』のDVD化は、沖永良部島出身者の企画よるものだそうだ。

 ※ 本土復帰直後の奄美が舞台、映画「エラブの海」をDVD化

 記事によれば、

復刻にあたったイベント会社社長、喜原弥穂(みほ)子さん(53)(東京都三鷹市)は映画の舞台となった沖永良部島出身。「手つかずの自然や伝統行事など、本土とは違う『昭和30年代』を後世に伝えたい」との夢を実現した。

 どうして今頃、DVD化ができたのか? そこにはやはり島への想いが背景にあったのこだ。この、企画と実現に、ぼくは心動かされるし、とても励まされる。想う力は強い。想う力で、沖永良部島は島の資産をひとつ増やしたのだから。それは島づくりの確実な一歩だ。

 それにしても、エラブの方には、真面目さと勤勉さを感じます。流石です。



| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008/01/22

『困ったときに見るeメールの書き方Q&A100』

 つい先日、『困ったときに見るeメールの書き方Q&A100』という本を発行しました。
 本、といっても、紙ではなく、パソコン上で読む電子書籍です。

 ◆ 『困ったときに見るeメールの書き方Q&A100』
 (500円(税抜き))

 この本は、eメールの書き方について、Q&A形式で整理しています。
 たとえば、

 Q02:eメールしておけば、電話はしなくていい?

 という「Q」に対して、

 A:大事な用件のときは、電話で確認を取ります。

 と、「A」で答えて、具体的に説明をしています。

 直接、与論に関わるものではないですが、与論島の地域ブランドづくりには、あるといい技術だと思うので、投稿します。よろしければ、使ってください。あ、もちろん、与論つながりのみなさんは、わたしに直接、言ってくれればいいのです。(^^)


Emailqa

















 本には、eメールの質問ができる質問券をつけました。eメールで質問を受け付けていますので、ぜひ、疑問・質問、お寄せください。

 ではでは。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2008/01/20

ササイレ

 漁は子どもの遊びだった。『ドゥダンミン3』にはそんな光景も描かれている。 

 大潮の干潮時にパーギタ(環礁の外海側)のチブ(潮水のたまっている窪み)にササイリティ、ウマヌパナなど小魚をおどり出させて捕った。「ササイリ」とは、ミーミジンクサ(ルリハコべ)やバッタイマチギ(トウダイグサ)などの毒草をたたいて毒汁を出して使う一種の麻酔漁法である。弟が、ササイリ用に植えたデリスの枝葉をつかって、二人でその漁をしたことがある。飛び出してくる魚を捕まえるのは、子どもの結構な遊びでもあった。小さいものから先に飛び出してくる。大きいほど毒の回りが遅くなる。

 ティララキのナーシバンバラの下はガーマ(洞穴)になっていて潮が引くとチブみたいになる。そこへある人が、旧暦三月の大潮の日に、ウンボーダいっぱいのミーミジン草を担いできて、石でたたき、ササ入れをした。しばらくしたらアイナー、ニームシ、イヤービキ、サビチラ、ニーバイ、プシク、サジ、パパなどが、ガーマからふらふらと次々に出てきた。その人は手早く網ですくつて、ウンボーダに入れた。大漁だった。あらかたとりおわり、もうそれ以上出てきそうになかった。その人は、そばで見ていた少年・ハニガマに「後は君が捕っていい」と言い残して、ウンボーダを担いで帰って行った。

 しばらくすると、ガーマの中から大きなユナジニーバイがふらふらと出てきた。ハニガマは難なくそれを捕まえた。シーノー(ひも)をえらぶたから口に通して担いで帰った。肩にかけた魚の尻尾が地面に付くほどの大きなものだった。(『ドゥダンミン3』竹下徹)

 「小さいものから先に飛び出してくる。大きいほど毒の回りが遅くなる」。このとき、子どものハニガマは待ったので、大魚をものにすることができた。突然の海の幸、嬉しかったろう。

 「麻酔漁法」と書かれている「毒魚漁」は、名越左源太の『南島雑話』にも出てくると、「幕末奄美遠島生活」でbizaさんが紹介している。

 「イジュの漁」

 これを読むと、現在は禁止されているそうだが、やってみたかったと思うことのひとつだ。

 ◇◆◇

 もうひとつ。子どものいる風景とは別に、寺崎を「ティララキ」と表記しているのが面白い。やはり、ダとラは交換されやすい音なのだ。(cf.「太陽と白」

 この、寺崎の「ナーシバンバラの下のガマ」、いつか見てみたい。



| | コメント (6) | トラックバック (0)

2008/01/19

イエロー・ジジイ

 二回目の「奄美の家」は、同じ苗字の三人衆なのであった。ぼくにとっては二十数年ぶりの再会もあり、昔話に花が咲いた。それも今明かされる新事実。

 兄は、子どもの頃、鼻血が止まらなくなったことがあり、体調を心配した両親は、診てもらおうと鹿児島へ渡った。そこで、鹿児島在住のパラジのウジャの家に泊まったわけだった。

 兄弟はウジャからお小遣いをもらう。硬貨と当時の五百円札。嬉しかったろう。けれど、弟は五百円札をクシャクシャにして窓から捨ててしまう。弟にとってお金とは硬貨のことであって、お札は紙切れにしか見えなかった。お金を間違えて投げたのではなかった。

 二階の窓から投げたお札は屋根に乗る。兄はそれを見て何とかしてやらなくてはと思う。窓から下を見下ろす。瓦でもトタンでもない。厚紙が波打ってるようだった。足がすくむ。でも取ってあげなければならない。だから、思い切って、飛んだ。

Amaminoyeah_2












 兄の足は、屋根を突き破り、その破片が地面へ落ちてゆく。次の瞬間、パラジの家に泊まらせてもらっている母が、血相を変えて飛び出してきて、有無を言わさず兄を叱る。

 ひょんなことから語られたこのエピソード。けれど、事態は兄と弟では全く意味が違っていた。

 兄にしてみれば、弟をかばい、母に怒鳴られても弟のことを言わず、いまとなってみれば懐かしい思い出になっているにしても、弟だけは言わずとも心の中では解ってくれている、それが矜持の記憶に違いなかった。ところが、弟は、

 「兄ちゃんは、仮面ライダーになってライダー・キックをした」

 仮面ライダー、とぉ、というわけである。

 兄ちゃんは、ライダー・キックをして右足が屋根に突き刺さった。お金のこと? 記憶にない。きっとほら、お札は紙切れにしか見えなかったからだよ。

 兄が覚えているのは血相を変えた母の形相とニヤニヤして事態を眺めている弟の顔だ。でも、弟は、兄は仮面ライダーしたと記憶に残した。屋根の破片が地面に落ちてゆく光景を覚えているから、自分がやったわけではないと思い返すことはあった。

 かくして三十数年ぶりに明らかになる事実。どこまでも生真面目にことに直面して傷ついたけれどその記憶を背負ってきた兄(ヤカ)と、ことの起因を忘れて仮面ライダーでことを処理した弟(ウットゥビ)と。長男は弟のためにしたのだと今も知らないアンマーと。長男と次男の永遠の物語と、言ってしまえばそれまでだけれど、あったかくも切ない、切なくもあったかい物語だ。

 ☆ ☆ ☆

 弟は面白い。ワジャクをして叱られて柱にくくりつけられる。でも、叱りつける父に向かって言う台詞が、

 「イエロー・ジジイ」

 当時、富三先生にそんなこと言えるのは、彼だけだったろう。さすがの父も笑ってしまう。でも、イエロー・ジジイの意味が解って笑ったのではなかった。いや、確かめたわけではないから、ひょっとしたら解って笑ったのかもしれないけれど、これはなかなか発想できない。

 弟曰くには、怒ると、父の背中にバリバリと星型の火花が散るように見える。だから、イエロー、なのだ。

 なんと、地震、雷、火事、親父の言葉にふさわしいその父の姿は、子どもにはピカチューさながらだったのだ。それで、“イエロー・ジジイ”、なのだ。なんて観察力なんだろう。

 イエロー・ジジイなんて言葉を浴びせる。そんなこと、兄にはできない。つい、父も笑ってしまう。そんなこと、兄にはしてくれない。ここには、兄のそんなうらやましい視線も入っている。

 いい話だった。笑いに笑う、初笑いをさせてもらった。

 いつの間にか「奄美の家」の夜は更け、気がつけば、ぼくたちだけが陣取っていて。それに気づいて慌てて帰り支度だった。

 「奄美の家」の圓山さんにはまたよくしてもらいました。とおとぅがなし。



 

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2008/01/17

ミシュフガとマッタブ

 竹下徹の『ドゥダンミン3』。できるだけ、方言を楽しむように、与論の生活を味わうように読んでみたい。

 トゥラが中学生だった昭和二十七年以前のニワトリは、文字通り庭で放し飼いされる「庭鳥」だった。鶏は林の中に巣を作り卵を産んだ。その巣を見つけた子どもは、手柄になり親からほめられた。鶏は巣に毎日一個ずつ卵を産む。一腹で多いときは二十数個産む。巣から卵を取るときは、必ず一個は残して取る。全部取ってしまうと鳥は翌日からその巣を放棄して別のところで産む。一個だけ残して置くと毎日産み続ける。残して置く一個の卵を 「ミシュフガ」 という。

 あるとき、林の中で雌鳥が、くっお、くっおと異様な声で泣き叫んでいた。トゥラが近づいてみると雌鳥は羽を逆立て興奮していた。大きなマッタブ(アカマタ蛇)が卵をねらって近づいているところだった。先の割れた赤い舌を出し、左右にぺろぺろ動かしていた。トウラもびっくり、怖かったが勇気をふるい、付近の木の枝を探して蛇に襲いかかった。かねて蛇をたたくときは、頭をたたかなければ効き目はないと聞いていたので、頭にねらい定めて思いっきり打ち据えた。棒は折れ、蛇はのたうった。次の瞬間蛇は反対方向にくねくねと逃げていった。一発パンチを浴びせただけでダメージはなかった。トゥラは、膝ががくがくふるえて、折れた棒を握りしめて見送るばかりだった。仕留められなかった残念さより、自分に向かってこなかった安堵感が胸に広がった。再び棒を探して追いかけようという気拝は湧かなかった。

 あのマッタブの野郎懲りずにまた来るだろうと、ミシュフガも残さずに全部持ち帰った。そのことを家族に話したら、「蛇は仕返しに来るものだそうだよ」 とまた脅かされた。
                        (『ドゥダンミン3』竹下徹)

 鶏は養鶏場のなかにいるのではなかった。林のなかに放し飼いにされて巣をつくり卵を産む鶏。卵、美味しそうだ。

 巣を見つけるのは子どもの役割。そして、鶏が巣を移動してしまわないように卵は一個、残しておく。それがミシュフガ。

 蛇が鶏を狙う。毒蛇ではないけれど、中学生の男の子も膝が震えるくらい、怖い。

 人を含めて動物が生き生きしている。人も動物も同じ場所、空間で生きていたのだ。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/01/15

『めがね』は島尾敏雄エッセイの映画化!?

 tssune3さんがブログ「Optimistic」で、こう書かれていてはっとした。

まさに、「めがね」はそれを映像化した映画と感じた。

 「それ」というのは、島尾敏雄が南島に感じる「やわらかさ」、本土の「かたさ」に対して置かれた「やわらかさ」のことだ。

 ぼくは琉球弧という言葉を使っています。それは琉球という言葉が、奄美の人、沖縄の人にかなり抵抗があるんです。ただ他に言いようがなくて、琉球そのままでもなんなので、まあ琉球孤という地理学的な言葉を援用しています。弧という字もかっこうがいいしあの発音もいいでしょう。それで琉球弧というのを使って、奄美からずっと沖縄、先島までを含めた言葉にしているのです。この琉球弧と東北が、何かいろんな点で似ています。

 政治、行政って言うのかなあ、どっちも、中央権力に与っていない地方ですね。琉球弧の方は、沖縄が小さな国家を作りましたが、でも日本全体からみると、やはり辺境で疎外されて、いつも忘れられてるという形です。東北はというと、これはいつも征伐されている。度々の蝦夷征伐とか、戊辰の役とか、そういうふうにされて来ているところが、何かとても似ているような気がしてしかたないのです。

 それとは別ですけど、ぼくは日本の中に、ある固さが感じられて、それから抜け出したいというような気がしている。どういう形だといわれると、これもちょっと困るんですけどね。ところが奄美に行ったら、本土でいやだと思っていたそういう固さがないんです。さっきも、あいまいにやわらかさなんて言いましたけども、それは何んだろうかと思ったわけです。

 簡単に日本じゃないとは言いきれない。本土には無いものであるのに、ぼくの感じではまったく日本なんですから、日本以外の何ものでもないという感じがしたわけです。まあ別にどうしても日本である必要もないんですが、感じとしてはどうしても日本です。そうすると、表面的には隠れているようにみえる、日本が持っているもう一つの面があるんじゃないかと思ったんです。で、その両をヤポネシアと呼んだわけなんです。
                                                  (「回想の想念・ヤポネシア」島尾敏雄)

 そうか。tssune3さんに言われると、なるほどと思えるところがある。
 もしそうだとしたら、映画『めがね』は、島尾敏雄のヤポネシア論、エッセイを映画化したということになる。そしてこのとき、与論は、琉球弧のある象徴を担ったということでもあるわけだ。これは愉快な連想だ。


 はっとする視点をありがとうございます。山をこよなく愛するtssune3さん。



| | コメント (2) | トラックバック (0)

ドゥダンミン3!

 盛窪さんの「チヌマンダイ」で紹介されていたのを見て、読みたくてたまらなかったのだが、お袋経由で送ってもらったのが、今日、届いていた。

 「ドゥダンミン3」である。

 もうすっかり、インディアナ・ジョーンズのようにシリーズものの楽しみになっている。
 また、トラ男の冒険が読めるのか、と。

Dudanmin3












 ところで、嬉しさを省みると、与論のことにやっぱり飢えてるんだなと思う。この“飢え”は、強がり半分で言えば、与論に行けば満たされるというのと少し違う。

 形になって触れることができるものになって、初めて満たされる飢えだ。祭りなら参加すればいいし、風習ならその習俗の内側にいれば満たされる。でも、いまそれが無いなら、作品を通じて感得するほかない。

 だから、とぼくは思う。盛窪さんはじめ書ける方、作品にできる方にはぜひ、与論を語って描いてほしい。そんな願望も同時に湧き上がるのだ。

 さて、しばし、『ドゥダンミン3』の愉楽に浸らせてもらおう。

 おいおい感想も書いていきます。とおとぅがなし、竹下先生。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/01/13

エラブの海

 つい最近、「奄美の島々の楽しみ方」で、DVD『エラブの海』の話題を読んだばかりだったが、このほど、沖永良部島の 「あしびの郷・ちな」で上映されたと、ニュースが伝えていた。

 1960年に撮影された映像を、50年ぶりに公開したそうだ。フィルムを保存していた平守人さんは、自然は破壊されていく一方で、残せるのはこうした映像しかない。上映が、沖永良部の自然を取り返すきっかけになってくれればと語っていた。

 印象的だったのは、かやぶき屋根の家屋と豊かな干瀬の映像だった。いずれもいま無くなりあるいは貧困化しているものたちだ。

 短いニュース番組の間とはいえ、つかの間、エラブの映像を目にすることができて嬉しかったが、そのエラブの人たちは、何を感じただろう。聞いてみたい。

 ※『エラブの海』-奄美アマルガムのエロス化



| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/01/12

映画『めがね』のDVDが出ます

 早いものです。
 もう、『めがね』のDVDが発売されるそうです。3月19日。

映画『めがね』DVD



 それにしても困ったものです。改めて予告編見るだけで、もう一度、あの世界に浸ってみたいと思うのですから。




| | コメント (3) | トラックバック (0)

2008/01/11

松山光秀の「コーラル文化論」

 徳之島の松山光秀は、自身の「コーラル文化論」の由来について、こう書いている。

 私が島の周囲をとり巻くさんご礁の干瀬に関心を持ちち始めたのは、昭和六十二年(一九八七)の秋のことであった。そのとき私は公務出張のために生まれて初めて沖縄の先島諸島を巡っていたのであるが、行く先々でまちがいなく出あうさんご礁の干瀬の海の風景に心惹かれ、あたかも徳之島から陸伝いに歩いて来たような錯覚にとらわれて、しばし我を忘れてしまったのであった。

 あれは私にとっては、まことに不思議な体験であった。その日以来、さんご礁の海の干瀬は、私の頭の中に重たくのしかかってくるようになるのである。さんご礁の海の干瀬とはいったいなんであろうかと。このように思いをめぐらしていくうちに、私は、私たちがかねて琉球文化圏と呼んでいるこの奄美と沖縄地域の島々が、まざれもなくさんご礁の干瀬を共有し、自然的条件のうえにおいてもほとんど共通していることに気づかされたのである。ここで私は、文化を育む基盤は大自然のもたらす条件や恩恵と深くかかわっているという想念にたどりつき、いつの間にか「コーラル文化圏」という言菓を頭の中で造り出したのである。

 ある日、私はこのコーラル文化圏という言葉を琉球文化圏の上に覆いかぷせてみた。すると不思議なことに、いろいろなイメージが広がっていく。以来、私はこのコーラル文化にとりつかれている。学問的にはまだまだ説得力に乏しく、内容も貧弱であるが、平成三年(一九九一年)八月四日に徳之島町亀津で開催された「奄美沖縄民間文芸研究会」 の席上で「コーラル文化を語る」と題して私の基本的な考えを公表したので、それにならってここに拙文を載せることにしたものである。各界の諸賢からご指導ご批判をいただければ幸いである。(『徳之島の民俗』松山光秀)

 松山は、先島諸島の干瀬に触れたとき、「あたかも徳之島から陸伝いに歩いて来たような錯覚にとらわれて」しまったと書くが、この「錯覚」は二つの意味で重要だった。

 ひとつは、この「錯覚」が、徳之島の特徴が、琉球弧全体に連なる自然基盤の共通性であることに気づいたことだ。この認識をもとに、松山のコーラル文化論は、徳之島民俗論ではなく琉球弧論として広がる契機を持った。この契機は、いまにいたるもわたしたちに自明のものとなったとは言えない。そんな先見性の輝きを失っていない。

 そしてもうひとつは、まるで夢幻に誘われるように、「我を忘れて」錯覚に浸れる資質は、地元の民俗を掘り下げるのに最適なものだった。柳田國男の民俗学の象徴であり、また吉本隆明の『共同幻想論』が原典としたのは、柳田の『遠野物語』だが、その『遠野物語』が民俗学の資料たるのに、物語の語り手、佐々木喜善の、やはり松山と同じような、錯覚に入りやすい資質は不可欠だった。その意味では、徳之島民俗は、松山に担われるべくして担われたのである。
 
 ぼくはまた、考えてきた与論のイノー・ブルー論が、松山の「コーラル文化論」を踏まえると、琉球弧論としても展開できる可能性を感じることができた。ぼくは、そうしようと思っている。

 今夜、高梨さんの『奄美諸島史の憂鬱』で、松山光秀さんの訃報を知った。ぼくは、親交があったわけでも、『徳之島の民俗』以上に知るわけでもないから、これ以上のことは書けない。しかし、松山さんの「コーラル文化論」の射程を思うとき、この仕事を引き継ぎたいとここに記しておきたい。ほんとうは去年、展開するはずだったものだ。人は自分の都合に合わせて待ってくれるわけではない。与論の自然も人もいつまでも無限にあると思ってはいけないのかもしれない。いま、あるときこそが全てなのだ。そういう受け取りがやってくる。
 
 奄美民俗学の重心、松山光秀さん。安らかに。


 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

たゆたう島、与論島

 与論の力、与論力は何だろうと考えます。よく、考えます。

 ときにそれを、「境界を消す力」と言ってみたりするのですが、あまりピンと来ないですよね。

 やっぱり、「たゆたい」、かな。そう思ったりします。

 たゆたい。たゆたうこと。ゆらゆら動くさま。

 唄にいう、「木の葉みたいな わが与論」。それは、海にたゆたう島の姿。
 珊瑚礁の海のたゆたいは、時に礁湖(イノー)の顔を蒼に見せ、時に干瀬(ピシ)の顔を茶に見せます。
 その波のたゆたいは、陸と海の境に揺らぎを与えて、どこからどこまでが海なのか、どこからどこまでが陸なのかを曖昧にし、境界を消してしまいます。
 イノーとピシの存在が、陸と海の境界を消し、陸と海をなだらかにつなぎます。
 そう、だから、境界を消す力はつなぐ力にもなるのです。

 与論は、海にたゆたうだけではありません。
 それは、時に、カタカナのヨロンになったり、パナウル王国になったりします。するとヨロンは、地理上のある場所を離れ、沖縄や海外のどこへでも浮遊しはじめます。オキナワの横だったり、グアムやプーケットのそばだったり、たゆたうように出かけていきます。そしてあるいは、沖縄復帰のとき辺戸岬からは、日本の象徴にすらなりました。
 それだからこそ、映画のなかでも、「どこかにある南の島」になることができます。
 映画のつながりで言えば、「たそがれる」ことができるのも、この島では、時間が揺らぎ、たゆたい、時が動くような動かないような流れを生むからです。

 与論だけではなく琉球弧全体に言えることですが、魂(マブイ)もよくたゆたいます。現を抜かすような状態になることもあれば、ガジュマルなどの樹木たちやアマンなどの生き物たちに寄り添い、彼らと言葉を交わすことができます。かつて、そういう人たちはいたものです。そういえば、オオゴマダラがいかにも与論に似あうと感じるのも、蝶のあの舞いがたゆたいだからです。だから、オオゴマダラ復活の努力は、与論蘇生に通じると思えます。

 心はたゆたい、タビンチュの前に極度に人見知りします。その人見知りを、にわかごしらえに一挙に飛び越そうとすると、そのときたゆたいは、境界を消す力となって自他の区別を無くそうとするでしょう。それが酩酊のなかに自他をつなごうとする、あの、与論献捧です。
 与論にかかると、マラソンも揺らぎます。イノーを鑑賞しながらの走りは、マラソン自体をたゆたわせます。それがヨロンマラソンの魅力かもしれません。

 たゆたう島、与論島。
 と、今日はそう考えてみました。



| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/01/10

『南島雑話』の奄美

 「幕末奄美遠島生活-左源太さんの日記-」で、bizaさんが『南島雑話』のカラー画像を紹介している。鹿児島大学の図書館に所蔵されているものだ。

 『南島雑話』

 『南島雑話』には、薩摩藩のお家騒動(お由羅騒動)で奄美大島への遠島を命じられた名越流刑を命じられた名越左源太(なごやさげんた)の目を通して、19世紀(1849年-1855年)の奄美大島が活写されている。

 ・表紙

 ・食物

 ・附録

 ・アマン?それとも絵心のある左源太が描くのだから別の生き物か?

 ・ナメクジ。なんと笑ってるように見える。まるで、ツチノコだ。

 『南島雑話』というと、ぼくは島尾伸三の文章を思い出す。

 薄茶色の半ズボンに薄汚れたランニングシャツで黒い長靴をはいて荷車を引いているおじさんも、豚肉をキャビネットサイズに大きく角切りして売っている裸足のおばさんも、学生帽を被った裸足の高校生も、どの人も背が低く色黒でがっしりした体型で元気が溢れもいるのに、青白い顔でスースー細い身体つきの、顔も細くて、風呂敷に包んだ本を脇に抱えて清々しく歩くヤマトッチュ(日本人)のおとなの男は、ぼくのおとうさんです。
 奄美小学校四年生のぼくに「南島雑話」の絵を写してほしいと言ってます。ええ、一所懸命やってみます、と、心は反応しています。でも気持ちのままに言葉が出ないので「うん」と生返事をしました。子どもの頃のぼくは、おとうさんのために働くのが好きでした。理由は分かりませんが、何だかとても大切な仕事に参加できたような充実した気分になれたのです。
 まず、ハブの絵を写しました。半透明のトレーシングペーパーなどの無い時代でしたので、原本を睨みながら別の紙に鉛筆で絵を真似ていくのです。一九五七年のことだったはずです。(『東京~奄美 損なわれた時を求めて』)

 心躍らせている島尾敏雄の役に立ちたいと張り切る伸三の姿がここにはある。
 ときに、ここで伸三が描いたハブは、これかもしれない。

 ・ハブ
 
 伸三のいう「何だかとても大切な仕事」を引き継ぐように、bizaさんは「幕末奄美遠島生活-左源太さんの日記-」で、左源太の記述を多角的に追っている。bizaさんのブログの向こうにも、ぼくたちは“奄美”を感じることができるのだ。
 ありがたいなぁ。ぼくはいつもそう思って、更新を楽しみにしている。みなさんもぜひ。



| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008/01/04

海賊!

 海賊!楽しい壁画。

Yoronpirate_3















 これはどこ?
 他ならぬ与論。
 でも、こんな絵、どこにあるんだろう?

 どこだろう?
 見つけたら教えてほしい。
 でも、どこってことより、こんな壁画が与論にあるのが嬉しい。



| | コメント (4) | トラックバック (0)

2008/01/01

神聖なお酒

 修三兄さんが、有泉を「神聖なお酒」と書いていて、腑に落ちることがあった。

 ※ 「有泉ときび酢」

 ぼくは「与論献捧」が好きではない。というか、与論献捧の酒量選択と一巡限定を主張している。それが、ユンヌンチュが大人になる条件だと思っている。

 ※ 「与論献俸」分解酵素

 そのせいか、「有泉」と聞いて、手放しに嬉しい気持ちにならない。人に勧める気にならない。そんな気分だった。でも、どういうわけ口にしてしまう。飲んでしまう。

 そりゃあやっぱり故郷の酒だからだろうと、適当に思ってきたのだが、修三兄さんによれば、

私にとりまして有泉は,神聖なお酒のイメージです。と言いますのは,小さい頃,お正月やお祝い,お祭りのときに御神酒の代わりに口に含んだお酒が有泉だからです。

 ダンジュ。ガシュクトゥドゥエー。
 これはぼくも思い当たる。パーパー(祖母)は、いつもそうしていた。

 そうか、「有泉」はそんな厳かな場面の記憶と結びついている。それで、何となく口にしてしまうのだ。
 思い切り合点がいってしまった。

 とはいえ、いま手元にない。今度、飲む機会には、あの、幸せだった少年の正月の日のことを思い出して厳かな気持ちで飲んでみよう。

 ◇◆◇

 というわけで、新年が明けました。喪中につき、挨拶は控えさせていただきますが、みなさまが幸多い一年でありますよう、お祈りいたします。

20070901



| | コメント (4) | トラックバック (0)

« 2007年12月 | トップページ | 2008年2月 »