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2007/12/28

琉球への接近 2007

身体感覚としての琉球弧

 野本三吉の『海と島の思想』 を辿ったことで、琉球弧を身体感覚でつかむことができた。身体感覚というのは、地図でつかめる琉球弧ではなく、たとえば、与論島には那覇から飛行機40分くらいで行けるとか、慶良間諸島の前島は、無人になっていたが、2003年から帰郷した夫婦が住んでいて、島には那覇からフェリーで向かうとか、そういった、実際にどうやったら行けるのか、どんな距離感覚にあるのか、といった体感的な情報を得られたということだ。

 おかげで琉球弧の沖縄島周辺は、架橋により離島が減少し、沖縄島は衛星島と連結して都心性を高めているのが分かった。島が消えてゆくことは、もちろん島としての琉球弧らしさが無くなることを意味している。

 ただ、もともと今年出版された『海と島の思想』には、琉球弧の最新の基層理解を求めたのだが、表層に止まっているのが残念だった。付け加えると、同じ琉球弧のことといっても、奄美に対しては記述の熱が下がっているように感じられることも。


沖縄と奄美

 この点、よしもとばななの『なんくるなく、ない』も、サブタイトルに「沖縄(ちょっとだけ奄美)」とあるように、奄美の付録感が、露骨に出ていた。ただ、『なんくるなく、ない』には、日常感覚のなかで基層を感受し表現しており、琉球弧の気持ちを代弁していて嬉しかった。たとえば、岡本太郎の『沖縄文化論―忘れられた日本』は、岡本が風葬に関心を示したように、日本には見られなくなった文化事象をたずねて、そこに「沖縄」を見出していたように思う。よしもとの『なんくるなく、ない』も、同じように、沖縄の独自性を見ようとするのだが、それは、日本にない文化事象をたずねるのではなく、ほんの日常のなかに、東京に子どもはないけれど沖縄にはいる、というように、失われた日本を見ていた。それだけ、日本も沖縄も追い詰められている切実さに共感できた。そうやってみると、よしもとの「ちょっとだけ奄美」のなかの、奄美熱下がりも、奄美が奄美らしさを損なっている側面に向けられていたのだと思う。

 日本にはないものが沖縄にはある。それが、研究対象としてではなく、若い世代の青春として、憧れの地になったことを、中江裕司監督の映画『恋しくて』は伝える(『恋しくて』-憧れの逆転)。また、その役を担うように、海人を追う海人写真家、古谷千佳子も沖縄に憧れた女性だったと、TV番組「情熱大陸」は伝えていた。

 高橋誠一と竹盛窪の『与論島―琉球の原風景が残る島』が、「もしも与論島が沖縄県であったとすれば」と問いを立てたり、斎藤潤の『沖縄・奄美《島旅》紀行』が、「沖縄と奄美は、日本ではない」と書くように、沖縄を、沖縄と奄美、琉球弧として語る視点は、沖縄外から描かれることが多いように見える。池浩三の『祭儀の空間』も、約30年前の考察であるにもかかわらず、奄美、沖縄を等価に扱う態度には、いまだ褪せない新鮮さがあった。


沖縄問題

 では、沖縄内部から沖縄はどう描かれるのかといえば、その課題を、今年、仲里効と高良倉吉の『「沖縄問題」とは何か』は担っていたと思う。ところが、ここにあったのは理念としての沖縄の溶解と空転だった。高良が、沖縄の理念を突っ張りきれず、地すべり的に本土と同じ土俵をつくろうとし、仲里はその反動のように、本土への拒否感から沖縄の理念の呼吸回路を無くしているように見える。高良は、沖縄と本土との境界は無いとみなしてせっかくの理念を溶解させ、仲里は、沖縄と本土との境界をアプリオリな前提とするため理念が空転している。でもそれではすっきりいかない、その割り切れなさのなかで、二人とも何かを考えている。そこが救いだし、そこに脈があると思えた。

 ※「『沖縄問題』とは何か」

 仲里が「あまりに沖縄的な死」として取り上げた集団自死についても、「あまりに日本的な死」として普遍化できるかどうかが、課題なのだと思う。

 8月に書いたことの繰り返しになるが、ぼくは、集団自死への軍関与の有無をめぐる教科書記述問題には、何か、ちぐはぐなものを感じる。本来、歴史記述の主体となるべき沖縄島民がその任になく、戦争放棄を内包すべき国家が、その任に顔をそむけ、その分、沖縄島民が、戦争放棄を主張する役を担っている、そんなちぐはぐさ、だ。
 ぼくは、閉鎖的共同体が追い込まれ、ある閾値を越えたとき、内発的に集団自死を発生させたという歴史記述を、沖縄の島民は、自らの手によって生み出さなければならないと思う。それは、「あまりに沖縄的な死」を「あまりに日本的な死」として普遍化する作業でもある。
 一方、国家は、関与の強弱の問題より以前に、結果的に集団自死を引き起こした戦争に責任があるのだから、戦争放棄を内包し続ける不断の努力を行わなくてはならないはずだ。そして、沖縄の島民が、内発的な集団自死を自らの手で記述し引き受けることで、直接の関与の有無に関わらず、集団自死にいたる要因を、軍も担っていたことは自明になると思える。


琉球弧の理念

 「『沖縄問題』とは何か」の議論の地平からは、琉球弧の理念はつくれない。
 琉球弧の理念は、沖縄の外部にあっては奄美が、沖縄の内部にあっては八重山がその価値を提示することが最低限、要る。それでなくては、琉球州の構想も育たない。

 高梨修や高橋孝代が執筆陣に加わっている『琉球弧・重なりあう歴史認識』には、この視点は当然のように含まれていた。沖縄内部から出たもののなかでは、『目からウロコの琉球・沖縄史』が、奄美の歴史に一瞥を加えている。この本は沖縄で売れた。

 また、『笑う沖縄』の小那覇舞天伝は、笑いとしてみた沖縄像の紋切り型に挑む意気込みがあった。逆に、川井龍介の『「十九の春」を探して』には何のために書かれたのか分からない不透明さを覚えた。一方が政治性への挑戦であれば、他方は政治性そのものに見えなくもない。それでも、ここに可能性を見ようとすれば、琉球弧内部の島間の対話へ、触手を伸ばしていることにあると思う。琉球弧の視点を持つということは、今でもそれだけで何事かなのだ。ぼくは、現役最年長の力士、一の矢の引退の報に接し、この人が徳之島出身で琉球大学を出、慕われてきたことを知った。あるいは琉球弧の理念は、人知れず、こういう人の肩に担われてきたのかもしれない(「琉球弧の一ノ矢」)。

 ところで十月には、奄美を含めた琉球全体の自治を考える、松島さんの「ゆいまーる自治」のブログがスタートした。とても注目している。


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コメント

ここ数日「与論島クオリア」の一年総括をなさっておられますね。
喜山さんのこのブログ、ずっと一読者として、与論アーカイブ(あるいは琉球アーカイブ)として読ませていただいており、立体的に与論を眺める事が出来てよかったです。今日のエントリなどもその復習をさせていただいているようで、勉強になります。

この一年、有り難うございました。また来年もよろしくお願いいたします。

投稿: あんとに庵 | 2007/12/28 21:56

 クオリアさん

 川井龍介の『「十九の春」を探して』は、知らないのを
知っているくせに、嘘に嘘を重ねるの類です
この本を読んで、「十九の春」という唄のことがわかった
つもりでいる人が増え続けているでしょうね

 1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲で、
・・・下町は壊滅状態に陥り、死者10万人、負傷者が
11万人、100万人が家を失った・・・。

 米軍の沖縄への上陸戦は、19456年(昭和20年)の
3月26日に始まり、組織的な戦闘は6月23日に終了した

 上陸戦は、・・・交戦国のいずれかの陣営が意図的に実行
しない限り、発生しないものである。(wikipedia.)

 迷惑コメントで、まさに迷惑をおかけしました
「真剣さ」に、真剣にコメントしているつもりです
主宰者や周りにご迷惑と思いながら、言わせて頂きました
ありがとうございました。トウトゥガナシ


投稿: サッちゃん | 2007/12/29 01:25

あんとに庵さん

こちらここそよろしくお願いします。
あんとに庵さんに、島ホームシックと言ってもらってから、気分が楽になりました。今年のマイ・キーワードです。ありがとうございます。

あんとに庵さんのブログも楽しみにしています。

投稿: 喜山 | 2007/12/29 09:42

サッちゃんさん

ぜひ、言い続けてください。それが、事態を前に進めることだと思います。

ションシ。トオトゥガナシ。

投稿: 喜山 | 2007/12/29 09:44

>琉球弧を身体感覚でつかむことができた。身体感覚というのは、地図でつかめる琉球弧ではなく、たとえば、与論島には那覇から飛行機40分くらいで行けるとか・・・どんな距離感覚にあるのか、といった体感的な情報を得られたということだ。

あれ?あなたは「琉日戦争」の「29日夜半に運天を出た菊隠が4月1日午前4時に牧港に着き、夜更けに首里に着く」とか「29日夜半に運天を出た薩摩軍が4月1日午前6時に浦添に着く」とかいうアホ丸出しの記述を「戦争過程が詳細化された!」とか大喜びしてるわけですが、全然距離感覚が分かってないじゃないですか。
つーかあなたは読んでる本がまずいんですよ。ナントカの思想みたいないかにもバカっぽい本よりも、google mapでも読んだ方がよっぽど距離感覚が身に付きますよ。

投稿: neoairwolf | 2014/02/28 09:25

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