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2007/12/13

シヌグのなかの神アシャギ

 次はシヌグ祭である。

 事例二 沖縄のシヌグ
 沖縄北部の国頭地方や中部の東海岸の島々で行なわれているシヌグは祓えと世果報予祝の神事といわれ、多くは旧暦七月の盆明けの卦の日に始まるが、国頭村安田・安波ではウンジャミと一年交替で七月初の亥の日に、伊平屋・伊是名の両島では七月十五日のウンジャミに続いて十八日、そして中部の伊計・宮城・平安座・浜比嘉の島々では六月二八日と八月二八日の年二回もある。

 シヌグはアマン世ヌシヌグ(国始れ神アマミキヨの時代に始まるシヌグ祭の意)、裸世の行事ともいわれ、古くは沖縄南部の東海岸の村々や奄美緒島の与論島・沖之永良部あたりにも分布していた。シヌグは国語の「凌ぐ」の意味ともいわれ、シヌグの祭りはあらゆる災害・病疫などから村人を守るために、村落の男たちの扮した一日神(仮装神)による祓い鎮めの行事であった。

 安田では、かずらや木の葉を身にまとった男たちが、また伊是名島では自鉢巻白衣姿のシヌグ年(五・七・九歳)にあたる少年たちが、村落の田畑・聖地・家々などを廻り祓えごとをする。また、国頭村辺戸では、十五歳以上の男がシヌグモー(祭場)に仮設された籠り屋(グムンジュ、シヌグ屋という)に四泊五日も籠ったといい、宮城島でもシヌグ神とよぷ神女以外の女が参加すると雨が降るといって忌まれた。

 このように、男の折目・ヰキーウガミ(兄弟拝み)といわれるシヌグ祭は、男性集団の祭りとして性格づけられている。その他、男と女が相撲をとって女を必ず勝たせたという伝承をともなう行事、男女青年が大きな丸太を神アシャゲの屋根にぶつけるヤーハリコーの行事(安田)、神アシャゲに集まった女たちが男たちの籠るシヌグモーに押しかけて、男押入の勢頭を杵に乗せて大声ではやすヤーリンホーの行事(辺戸)、シマヌフユーフ (島の大屋子)という男押入が小屋がけして守っているシヌグモーのかまどの火を、アサギ庭にいる女たちが来て火を消そうとして男女で争う行事(奥)などがある。

 またシヌグには踊りはつきもので、安田では祭りの三日間、毎晩シヌグ遊びが続いた。
 尚敬王の一七一九年、清国の冊封副使徐藻光の北琉球巡見でシヌグ遊びが禁止されたのは、豊穣を予祝する神遊びのシヌグ踊りにはかなり性的なしぐさがあって、これが時の王府の役人の忌諱にふれたからであったらしい。

 このように、シヌグが男の折目・兄弟拝みとよばれ、山神の資格で村落の祓えを行なうのを特徴とするのに対して、ウンジャミは女の折目・姉妹拝みとして女を拝する祭りともいわれ、女性祭祀集団による海神送迎の祭りが中心となっている。しかし、両者とも島初めの神に対する祭祀と解釈されているから、沖縄における甘い血縁的村落(マキョ)においては、元来一つのものであったのかもしれない。
  (『祭儀の空間―その民俗現象の諸相と原型』池浩三)

 シヌグはとても興味深い。
 ひとつには、シヌグは、母系の流れを汲む女性原理が優先した祭儀が多い琉球弧のなかにあって、男性原理の祭儀であるという点だ。

 ふたつめは、祭儀の分布と祭儀内容の組み合わせの謎である。
 国頭の安田、安波、伊平屋、伊是名や、伊計、宮城、平安座、浜比嘉という祭儀の分布は、琉球王朝に由来を持つ地と、東海岸を軸に展開されている。そして、仮装神、火、放埓な踊りなどのアイテムが、稲作農耕以前の祭儀を思わせる。

 まず、東海岸を拠点に、シヌグがあるのは、この祭儀が、弥生期の稲作農耕技術を携えて南下した勢力によって、共同宗教として組織化されたことを示していると思える。組織化の意味が強いと思えるのは、たとえば、与論島のシヌグは、安田のような稲作農耕以前の祭儀ではなく、主軸は稲作農耕以降の祭儀であると思えるように、地域差が大きいと思えるのに、同一の祭儀名を冠している点だ。既存の祭儀をシヌグの名のもとに組織化したように見えるのだ。

 シヌグは、その内容は祭儀として珍しい男性原理であり、内容に、稲作農耕以前の要素を見いだすことができるのに、その組織化はきわめて新しい、稲作農耕以降の勢力によってなされたのではないか。
 これが、シヌグにまつわる謎のように思える。

 仮説にもならないアイデアだけれど、ぼくは漠然とこういうことを思う。
 祭儀の内容は、いにしえに北方からやってきた島人から始まったもの。そのときすでに男性原理として祭儀はあった。次に南方からやってきた島人によってなされた女性原理のウンジャミ(海神)と共存していた。それを、次いで農耕技術を携えて南下した勢力が、共同宗教シヌグ、ウンジャミとして組織化していった。

 ところで、シヌグで神アシャギは、女性の拠点として登場している。神アシャギは、女性原理とともにあった祭祀空間だったのだろうか。



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コメント

 クオリアさん

 シヌグの祭忌は、男尊女卑であるとすれば、もしかして北から南へと辿る道があったのではないかと・・・
 
 南から北への流れ(くろしお)は、与論の島の西と東でどう違うののか、よく分かりません

 むかしは、ユンヌのウフガニクの沖合いを当時の大型船が通っていたそうですよね

 だとすると、勝連からの船は安田を経てユンヌのアガリン方を通り北へ向かい、南へ向かっていたということになるのかと推測してもいいのではないかと思われます

 だから、アジネエッチィが沖に向かって弓を引いて艫綱を射切ったなどという伝説が残されているのでは・・・?

 与論からの文化が沖縄へ伝来したという妄想もあながちあたらずでもあり、遠い話でしょうね

 与論の島の奥の深さを、何かにつけて思います

投稿: サッちゃん | 2007/12/13 23:56

サッちゃんさん。

おっしゃるように、北から南への伝播があったのだと思います。

それが、アジネエッチィの時代よりはるか以前にあったと。それが古層に敷かれている気がします。

本当に、琉球弧、与論の歴史は奥深いと感じます。

投稿: 喜山 | 2007/12/14 23:31

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