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2007/12/29

奄美への接近 2007

島尾ミホ、逝く

 三月、島尾ミホが他界した。近代奄美最大の文学者の死だった。
 たとえば、『海辺の生と死』の「洗骨」は、洗骨が生と死の境界を緩和する親和と畏怖に満ちた儀式であることが叙情的に描かれている。それだけでも充分だけれど、作品は、人類史がどこかで経験してきたに違いない普遍性に手を届かせていて、改葬を知らない人の心も動かす。ぼくもまたそのように感じる読者の一人だが、習俗の内側にいる者としては、ともすると好奇の目に晒されてきた洗骨を、ふつうに人に伝えられるものにしてくれた。そういう励ましもこの作品から受け取ってきたのだ。この作品を想いながら、十一月、ぼくも祖父を洗骨した

 他界の少し前に、島尾敏雄の日記、『「死の棘」日記』を読み、「棘」の時期の「やわらかさ」に心奪われた。治癒とは健常者が病者に、健常を伝えることではない。病者を前にうろたえる健常者が思い余って病者に近づく。そのところで、病者は我に返るように健常者に戻る。健常者は病者であり、病者は健常者である。そんな交換を幾度もいくども繰り返すことのうちに、治癒はそれと知れることなく訪れている。そんな過程が綴られていた。ぼくは、人を救うとはその人と徹底的に付き合うことだ。たしか、詩人、鮎川信夫のそんな言葉の実例を見る思いだった。やわらかさの印象は、友情としてもあった。批評家、奥野健男と吉本隆明と同席の場面。

奥野が吉本に今一番興味のある作家は? 武田泰淳?ときくと吉本、ぼくを指さす。

 たったこれだけの日記の一節にも、島尾がどんな励ましを受け取ったか、伝わってくる。
 島尾ミホは、「刊行に寄せて」、こう書いている。

 亡夫が生前、毎晩机に向って、己と対峙しつつ書き綴った心懐の秘め事の証ともいえる「日記」を、遺された妻が公開致しますことに、私は思案にくれて決め兼ねました。殊に私達家族にとりましての、最も苦渋に満ちた日夜の記述の公開には、かなりの強い逡巡が先立ちました。
 然し島尾文学の解明と御理解に幾分なりとも役立ち、又島尾文学に心をお寄せ下さる方々への報恩にもなりま すならばと、夫婦共々の羞恥は忍んでも発表に思いを定めました。

 ぼくたちは、この想いを汲まなくてはと思う。
 島尾ミホが他界する前の月に、孫娘の島尾まほは、エッセイ、『まほちゃんの家』を発表する。そこには、島尾敏雄とミホの娘、マヤと心を通わせた日々のことが書かれていて、消息を知らないぼくたちをあたたかな気持ちにさせてくれた。ミホの他界の気づきは、その孫娘、まほが担うが、ぼくたちは、島尾ミホが逝く前に、『まほちゃんの家』を読んだろうことを、慰めのように受け取る(「小さな手が受けとめる」)。

 島尾ミホが主演した『ドルチェ - 優しく』をたずねれば、「ミホ、あなたは神戸に行かなければなりません」と、敏雄との生活を促す父の決意があったことをミホは語っている。人の想いが人の歴史をつくる。私的なことが公開される宿命を引き受けた文学者の生き様から、せめてぼくたちは受け取るべきものは最大限に受け取りたい。


屈服の論理

 四世紀も前の、薩摩の琉球侵犯に正面から向き合った、いまどき珍しい骨太な作品として期待した『しまぬゆ』から知ったのは、奄美思想の屈服の論理だった。よく耳にする奄美の“複雑骨折”の内実はこれかと思わずにいられなかった。被支配者なのに支配者の論理を内面化し、そこから同胞・仲間である被支配者を見る。その色眼鏡の向こうに、実際の同胞・仲間は、視野の外に置かれる。しかし、自分も被支配者であるに違いないから自己欺瞞が萌さずにおかない。それを、どこにも行かないどこにも行けない根深い諦念によって押し隠している。それが屈服の論理の中身だ。もちろん、克服すべき論理である以上のものではない。

 驚愕は二度やってきた。世紀を改めてますます空疎な自動空転に入っている薩摩の思想を、『薩摩のキセキ』で知った。唖然を通り越し、笑うしかない。死んでいることに気づかない存在。それは成仏できない亡霊なのか? いや茶化したいわけではない。ぼくは、まじめに向き合う必要があると思い、十六年前の文章を引っ張り出してみた。

 「薩摩とは何か、西郷とは誰か」

 読みにくさは『しまぬゆ』級だが、書くことを覚えた初期の手習い文章でご容赦ください。奄美の「二重の疎外」という概念も、このときつかんだもので愛着もある。心配してくれる方がいるので付記すると、ぼくはここで鹿児島の人を批判しているのではない。シラス台地に付き合ってきた人々の場所から、抑圧と貧困を永続化する思想を批判しているものだ。ぼくも、知人、友人は鹿児島にいちばん多い。

 いま思うのは、奄美の屈服の論理と薩摩のこわばりの論理は、奄美と薩摩、薩摩と大和という支配・被支配の関係に照らすと、被支配者が支配者の論理を内面化するという点において同型なのではないかということだ。それが奄美と薩摩の両者の関係においては、被害の側に寄る奄美は支配者の論理を内面化しているので、薩摩に立ち向かえず内攻し、加害の側によるも被支配者の経験がしみている薩摩は、奄美に向かって、「みんな同じだよ」とうそぶく。違いは、両者の自己欺瞞の処理法だけではないのか。奄美の屈服の論理と薩摩のこわばりの論理よ、きみたちは似ているのではないのか?

 こんなメランコリーな思想状況のなか、山之内さんのエッセイは、遠くまで歩みを進めていて、救われる想いだった。

 「マイノリティーの視線を」
 
 年の暮れにかけて、ぼくたちはアフリカマイマイ騒動西郷隆盛マント騒動を目撃する。これら二つの出来事は、他県の人には分かりにくい、でも奄美の人にはよく分かるといった形で、薩摩と奄美の関係を浮かび上がらせていた。ぼくは、この件に反応した奄美つながりのブログを読みながら、自分の諦念を反省するように、記事を書いた。ぼくたちはこういうとき、フカイナオモイヲシテイルという声を挙げなければいけないのだと思う。そうでなければ、そういう事実が消えてしまう。そうでなければ、対話が始まらない。四世紀も囲い込みをした上で黙殺をしてきた思想が相手方なのだ。声を挙げなければ、気づかないだろう。


ネガ奄美からポジ奄美へ

 2007年は、これまでネガとしてしか存在していない奄美をポジに変換する動きも目立ってきた一年だった。

 『奄美の島々の楽しみ方』は、今年、その嚆矢だった。この本の意義は、ルサンチマンに依らない奄美紹介をなしたことだ。この本には既視感があり、1989年に沖縄で発行された『おきなわキーワードコラムブック』を思い出させた。『おきなわキーワードコラムブック』も沖縄的な事象をコラム形式でカタログ的に並べた構成だった。そして、『おきなわキーワードコラムブック』の意義も、ルサンチマンに寄らない沖縄表現の登場にあった。『奄美の島々の楽しみ方』は、奄美版『おきなわキーワードコラムブック』と言える側面を持っていたのだ。『おきなわキーワードコラムブック』は、沖縄の人に受けたように、『奄美の島々の楽しみ方』も、まず奄美の人に受けたと思う。

 高橋孝代の3年前の博士学位論文、「沖永良部島民のアイデンティティと境界性」と出会えたのは幸運だった。ちなみに、ぼくはこれを、『境界性の人類学』という書籍では読んでいない。ネット上に論文が公開されていたから読んだ。

 ※「沖永良部島民のアイデンティティと境界性」

 これはインターネットの善き側面で、おかげで書籍の形ではなかなか手が出なかったろう、しかし、わがことのような切実な課題を扱ったこの論考をじっくり読むことができた。ぼくにとっては、沖永良部の島人のアイディンティティを追究したこの論考を手がかりに、与論のアイデンティティ論に、参考や励みを受け取ることができた。奄美内からのまっすぐな奄美論の登場を、待ちに待ったようにぼくは受けとめた(「沖永良部学との対話」)。

 そして、2005年の『ヤコウガイの考古学』をはじめとする高梨修の奄美論は、奄美の「二重の疎外」を、国家境界領域問題として捉え、考古学の見地をもとにしながら、ネガ奄美をポジ奄美に変換する力強い論考としてぼくたちの前に現れた。考古学の成果は、奄美評価につながるもので、谷川健一が『甦る海上の道・日本と琉球』で、南下する倭寇勢力にとって奄美は当時の先進地だったと主張するに際し、依拠しているのがこの高梨らの考古学成果だった。ただ、高梨論考の魅力は、仮に考古学成果を抜き取ったとしても残る。それは、屈服を克服に転換しようとする奄美への理解があるからだ。ぼくは、これまで島尾敏雄の文章をもって奄美紹介文の筆頭としてきたけれど、それが更新されゆく心地よさを感じている。


浮上する奄美身体

 既視感は、『奄美の島々の楽しみ方』以外にもあり、元ちとせの音楽と映画『めがね』がそうだった。元ちとせは、奄美の身体性に依拠しながらポップスの水準を達成したことが新しかった。同様のことを80年代、沖縄のりんけんバンドは果たしていた。また、荻上直子監督の映画『めがね』は、フィクションの形を採りながら、与論島の身体性を浮かび上がらせた。これは、高嶺剛監督が、1989年に映画『ウンタマギルー』で沖縄・琉球の身体性を浮かび上がらせたことを思い起こさせる。

 そしてこう比較するとき、元ちとせの達成は、七島灘をやすやすと渡って、遠くとおくまで行っていることが分かるような気がする。りんけんバンドにあっては、沖縄方言を使うことは、彼らの音楽のアイデンティティには手放せないことだった。しかし、元ちとせの音楽にそれは必須ではない。けれど、必須でなくても、つまり奄美の言葉で歌わなくても、彼女の作品は充分に奄美を感じることができる。それは、高度で自在な達成だ。

 2007年の中孝介のメジャー化は、元の達成のあとに来る、その土俵に助けられたものだ。中にとっても、奄美の言葉で歌うか、奄美の旋律で歌うかは、条件ではなくなっている。けれど中の歌にも、ぼくたちは奄美を感じるだろう。そして気がつけばぼくたちは、ふだん口ずさめ、そういうものとして人にも勧められる奄美発の音楽を持っている。よく、ここまで来れたと思う。

 奄美の身体性も浮上してきたのだ。ぼくたちは、もっともっと奄美の表情を浮かびあがらせよう。

 今年は、「奄美料理 まれまれ」と、「奄美の家」というお勧めのお店にも出会えた。うれしかった。




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コメント

 クオリアさん

 年の暮れになって、K.Yな感じになった気がします
でも、身体性・・・?の浮上ですか
中孝介に、その可能性をみるといえばいいんでしょうか

 元ちとせに感じるアイデンティティーは、ドナンしなく
も、その心がどこまでも聞こえるようです

 クオリアさんのグーグルさが近くに感じます
ユンヌ言葉で、遠い(さ)は字義通りに、トゥーサですが
近い(さ)は、キャーサですよね

 来易い距離にあるので、「きゃーさ」というのは・・・
安易過ぎますか?ウートゥンゲーラヤ
クオリアさんが接近中な感じです
K・Yは、読める?読めない?イドゥルゲーラ?

投稿: サッちゃん | 2007/12/30 00:45

サッちゃんさん

イッチャーゲーラ、ワンナイヤワカラジ。
読めていないなら教えてください。学びます。

キャーサイは、来易い。そうかもしれないですね。

投稿: 喜山 | 2007/12/30 22:53

 クオリアさん

 ユミボウ ユミャリューシガ アンクターマシヤ
ユマリギクンネー ムチカシャヌ

 ユムは 云う
読むは ユムで、詠むも ユム
云うはヤシク シュウシヤ 難しく 云えば角が立つ
ユヌナカヤ ガシュkウトゥドゥ ムチカシャヌ
ユム ムヌ ユンヌフトゥバヤ ムットゥデールヤ

 片言の与論言葉で タンディ ドーカデール

投稿: サッちゃん | 2007/12/30 23:40

サッちゃんさん


盛窪さんと共著、いいんじゃないでしょうか?
そんな気がします。いい本ができそうな。

投稿: 喜山 | 2007/12/31 15:21

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