神アシャギの建築形態の原型は何か
池浩三は、神アシャギの建築形態を、「穴屋型」、「差屋型」、「伏屋型」の三つに類型化している。
穴屋型
奄美・加計呂麻島瀬相のアシャゲは約三〇〇平方メートルのミャーとよばれる祭祀広場の南西側の一隅にある。またその北側には斎部加那志という聖所がある。建物の平面は三・六メートル四方で、軒高は土居桁下端で土間より約一・五メートル、頭を屈めて入れる程度である。柱は四隅と四辺中央に四本、計八本あって、股状の先端をもった椎の木の外皮を荒落ししただけの掘立丸太柱である。柱は四囲の土居桁を支え、平サスは放射状に、対向する土居桁上に差し、その先端は交差して棟木を受ける。
沖縄諸島には、第二次世界大戦以前まで多く見られた穴屋(据立て)という家屋がある。現在では、納屋や作業小屋に使用しているのを散見しうるにすぎないが、この建物は松・椎などの索丸太を柱・桁に利用し、草・茅・麦稗などで壁をしつらえたもので、その軒高・軸組・小尾組などの構造は瀬相のアシャゲとよく似ているので、このタイプの神アシャゲは一応「穴屋型」としておこう。
差屋型
アシャゲの平面は四・五メートル四方で、四面外周には九十センチ間隔に木柱があり、五カ所の出入口を除く柱相互間を貫で連結し、板壁はない。外周の木柱は玉石地形の上に立て、平方向に大引きを四本通し、さらに九十センチ間隔に根太を並べ板張りの床をつくっている。内法高は約二・二メートルで、柱頂部には土居桁を四周めぐらし、柱相互間は床と土居桁との間を三十センチ間隔に貫で構成している。平面内には四五センチ偏心して妻方向に二本の中柱があり、これと外周本柱とは大きなツナギ梁で達姑されている。
伏屋型
沖縄・伊是名島仲田の神アサギは根所(仲田部落の宗家)の屋敷内の南東、主屋から見て左手に位置していて、地元では地アサギとよばれている。建物の平面は土居桁真四・四メートル×四・八メートルでほぼ正方形である。床張りはなく土間、軒高は土居桁下端七十センチで、這うように屈まないと中に入ることができない。穴屋型との形態上の相違はこの極端に低い軒高にあるといってよい。四隅の石柱は四周の土居桁を支え、妻サスはサス頭を棟木に貫通し、サス尻は土居桁に差し込んでいる。一組の平サス、四組の隅サスは、サス尻を土居桁上に差し、サス頭は棟木上に交差させている。母屋丸太は六十センチ間隔に渡し、その上のタルキとともに縄でからげ、さらに細木を編んだスダレ状の茅下地をのせる。
ちょうど屋根を伏せたように見えるこの仲田の地アサギと穴屋型の神アシャゲとの相違は、形の上では軒高の高低の遠いだけであるが、前者の場合は、中に座って外が見えない。このことは建築空間としては全く異質のものと考えねばならないだろう。したがって類別上一応「伏屋型」として区別しておきたいと思う。
(『祭儀の空間―その民俗現象の諸相と原型』池浩三)
「伏屋型」を、「穴屋型」と「差屋型」とは別の類型として括りだしているのは、池が、「伏屋型」を神アシャギの原形と見なしているからである。
しかし、ぼくは、「伏屋型」は、原型なのではなく、新しい型だと思う。御獄(ウタキ)の神アシャギが原型であり、根所の神アシャギが原型なのではない。
御獄(ウタキ)に神アシャギがあり、そこが祭場の核である。しかし、御獄(ウタキ)に接する村落共同体に、政治的共同性が生まれた時、事態は変化する。根所の根人は何によって、政治的共同性の首長を任じるのか。それは、御獄(ウタキ)の持つ宗教性の核を根所内に持つことによってである。根人は、根所の内部に御獄(ウタキ)のミニチュアを再現する。それによって、宗教性の核を御獄(ウタキ)から根所へ移行させるのだ。そしてこうなった場合、本来の御獄(ウタキ)は、宗教性の核としての機能を失い、忘れられてゆく。
池は、「伏屋型」の軒の低さを古型の根拠として挙げるのだが、ぼくは全く同じ点で、軒が低いのは、それがミニチュアとしての再現であるからだと見做す。だから、神アシャギの変遷は、「穴屋型」から「差屋型」へのゆるやかな流れを想定すれば済み、それが、政治的首長の屋敷内に展開されたとき、「伏屋型」になったのだと思う。
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