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2007/12/25

地名への接近 2007

沖の島としての琉球弧

 2007年は、何といっても図らずも、地名に夢中になってしまった。
 去年の暮れ、琉球弧の島名の呼称を声に出して読んでみたとき、パティルマ、カキルマと言ってみて、あれ、「加計呂麻は波照間?」じゃないかと思ったのがきっかけだった。波照間島と加計呂麻島は地名として同じだ。そして金関丈夫の仮説通り、パティルマが「沖の島」の意味だとすれば、加計呂麻島も沖の島だ。そう考えると、確かに、加計呂麻島は奄美大島の「沖の島」だった。

 この発見が面白くて、南島地名研究センターの『地名を歩く』をむさぼるように読み、『南島の地名』の資料を求めて国会図書館に通い、地名自体の資料を見たいと「地名資料室」に出かけ、あっという間に地名オタクが一丁、出来上がってしまった。

 地名は、琉球弧の基層と上層を明らかにしたいというぼくのモチーフにもぴったり合うテーマだった。基層を明らかにするのに、費用や在住が必須ではなく、徒手空拳で立ち向かえるのが地名という素材で、ぼくのような在野の立場でも接近可能なのがありがたい。もっとも、地名研究には必須と言われるフィールド・ワーク欠乏症ではあるのだけれど。

 そうやって探求していくと、「沖の島」は、波照間島、加計呂麻島だけではなく、鳩間島、多良間島、来間島、慶良間諸島も、同じ「沖の島」だと気づいた。気づいたというのは無論、ぼくが仮説したというに過ぎないが、ここから、「沖の島」の流れとしての琉球弧という視点を得ることができたと思っている。

 もう少し言えば、平安時代の歌人、藤原公任の作として、

おぼつかな うるまの島の人なれや
わが言の葉を知らず顔する

 の歌が取り上げられ、沖縄でウルマという語を扱うときの出典先になっていたりする。その通り、勝連も、現在は「うるま市」と名を改めたけれど、ここにいう「うるま」も、パティルマと同系列の「沖の島」と同じではないかとぼくは思っている。


久高島=津堅島

 琉球弧の地名探求のなかで、久高島と津堅島は地名として等価であるという仮説に辿り着いた。

 ※「津堅地名考」

 もともと、琉球弧の島名呼称のなかで、津堅島を「チキン」というが、それは「チキタン(着いた)」から来ているという説明に頷けないので、本当の由来を知りたいと思ったのが発端だった。ぼくは、それを「崖のある山」として解いたが、波照間島のときと同様、「崖のある山」という地勢名は、津堅だけでなく、具志堅、久手堅、宇堅、宇検、そして久高も該当すると見做していった。

 地名は、ひとつを紐解くと、眠っていた仲間達が、共鳴して騒ぎ出し、名乗りを上げてくるようで面白い。それに、波照間と加計呂麻にしても、津堅と宇検にしても、奄美と沖縄が同一の地平に浮かび上がってくるのが嬉しかった。


ユンヌとは

 ところで、もともと地名に関心を持つのは、与論島の呼称である「ユンヌ」の意味を知りたいからだ。ユンヌという語音からすると、沖縄の与那や与那覇、与那原なども同じ系列だと漠然と思っていたが、沖縄の地名研究を見ると、沖縄(本当)内の与那系地名は「砂」にちなむという仮説はあるものの、与論島のことは度外視しているように見えるのが不満であるという背景もあった。

 ぼくは今年、与論島を「砂の島」として仮説し、その手ごたえを確かめるように、島内の砂浜を巡ってみた。

 ※「与論砂浜三十景」

 巡ってみると、与論島は八方美人で、どこから見ても砂浜を玄関のように差し出している島であることがよく分かり、その広がりに圧倒された。

 けれど、「砂の島」としての確信は深まったかといえば、そうでもなく、ぼくは沖縄の与那系地名の理解のなかで、与論島と同じく度外視されているように見える与那国島との類縁が気になっている。

 与那国のドゥナンという呼称、ユノーンという他称、ダンヌという砂浜の存在、そして15世紀の資料に出てくるユンイという表音などを手がかりにすると、ユンヌと等価と思えてならないからだ。

 ※「ユンヌの語源 註」

 ただし、与那国島は、与論島ほどには「砂の島」には見えない。そうすると、地名の初期原則である、地勢を言い表したものという原則に適っていないような気がしてくる。また、ドゥナンとユンヌを同じと見做すときの鍵は、与那国島の方言から得られるd音とy音が等価であることを根拠にしているが、両者を比べて、d音が古形に当たっていると見做すと、ユンヌもドゥンヌと呼ばれた可能性を持つわけであり、すると、砂としてのユナの意からは離れるように見えるのだ。

 それは考えすぎなのか、それとも別の理由があるのか。たとえば、竹富島出身で地名オタクの友人の崎山毅さん(とぼくが勝手に思っているだけで、崎山さんは1969年に他界している)は、

 ※「大隈・奄美、八重山の地名相似説」

 を唱えていて、これによれば、西表島は、種子島の西ノ表から、西表島の八重岳は、屋久島の八重岳から、波照間島は加計呂麻島から、そして、与那国島は与論島からであるとしている。この相似説は、十代の頃、南島航路を船に揺られながら、地図を広げたとき、西之表と西表は似ているとか、与論と与那国は終わりの島として一緒だという素朴な気づきとして、そういえば、そう思ったことがあるのを思い出した。相似説は、そんな素朴な気づきを生かした仮説であり、一定の信憑性があると思える。というのも、本土のなかでも同じ地名が反復されるのは普通に見られることであり、たとえば、谷川健一の『日本の地名』によれば、日和山という地名は、全国で八十余個所ある。それと同じことで、琉球弧のなかでも、地名が反復されているのだ。

 崎山さんとぼくが違うように考えるとすれば、崎山さんが、一様に、南下勢力による反復を考えていることだが、ぼくは、南からの反復も、北からの反復も両方ありえると思っている。たとえば、波照間は加計呂麻の反復地名ではなく、加計呂麻が波照間の反復地名である。同じように言えば、ありうるとしたら、与那国は与論の反復地名であるとかもしれない。この点は、崎山さんと同じだが、ぼくの場合、南下勢力は、崎山さんの想定よりもっと太古のものだ。


地名の三層モデル

 地名ひとつ取ってみても解きほぐすべきことはいくつもある。作業仮説として、ぼくは漠然と、地名を三層で捉えようと思っている。


 p3 -----------------

 p2 -----------------
 
 p1 -----------------

 p3:地名を形態として識知。弥生期南下勢力により文字として定着。
 p2:南方からの地名。三母音化。
 p1:それ以前の、地勢としての地名。

 ※ 現在からの時間: p3<p2<p1

 たとえば、波照間は、もともと「p2」を下限としパティルマやカキルマという語となり、「p3」層の段階で、波照間や加計呂麻となった。与那国島の「租納(ソナイ)」は、アイヌ語で「p1」層にできた地名に「p3」層で漢字を当てたものだ。津堅島も同様である。

 こんな風に見做すことで、新しい理解が生まれるか、今後の課題だ。


与論の地名 

 ただただ自然に呼び習わしてきた与論島内の地名についても、由来が分かるところも現れて、それはそれは楽しかった。那間は泉であり、金久は、(荒い)砂のある地のことだ。そして、赤崎と寺崎は、太陽と砂の色に由来しているかもしれず、赤佐は、ブローチに由来しているかもしれなかった。また、立長の由来についても一歩、詰め寄ることができた。

 ところで、こうした突き詰めをする思考作業のなかで、牧野哲郎さんの論文は心強い味方だった。牧野さんの「沖縄←→奄美の共通地名を求めて」は、沖縄と奄美で、同じだと思える地名を整理したものだが、ぼくは分からない地名があると、この表を手がかりに思いをめぐらすことができた。

 牧野さんは、奄美のなかから語源の難しい小字名約5000枚をカードに書き、それを五十音順に整理。沖縄の地名についても同様の作業を行い、それをもとに考察している。こんな膨大な作業の恩恵を受けて、ぼくたちも考えることができるのだ。徳之島出身の牧野さんは、奄美出身者として沖縄の地名研究とのつなぎがないのに気づき、この作業を行っている。問題意識も共通しているのだから、感謝も一入というものだ。

 ◇◇◇

 やれやれ、2007年は地名に夢中だったと書こうとしたら、この長さ。オタクのオタクたる所以だろうか。笑い飛ばしください。



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コメント

ユンヌが砂の島につながる発想は

    少し考えてみたい。

 砂が 寄せられてできたのかなーなんて

  石積みのパンタから根津栄パンタを通りながら
地形のことを考えている。
東から、砂が寄せられてきて、ウロー山脈が
何度かできている。
地球温暖化になっても、
砂が寄って来るので、
沈まないとおもいたいきょうこの頃。

投稿: awamorikubo | 2007/12/27 07:52

awamorikuboさん

いやほんとです。与論は沈まない島であってほしい。
願っちゃいますね。

投稿: 喜山 | 2007/12/28 08:59

 ここにも琉球圏の地名オタクがいます(笑)。
 
 「加計呂麻」の語義語源の僕の推測は「カキ(崖)ウルマ」ですけどもどうでしょうか?
 だとすると、中国語で「馬歯山」とも呼ばれた「慶良間(ケラマ)・(カ)が脱落?」も同義ではないかと。。。つまり「加計呂麻・慶良間」は、船上から見てガケの切り立ったウルマかなあなんて考えています。

 ところで、「立長」についての話題がどこかにありましたが、『沖縄県の地名/平凡社 2002』には以下のように説明されています。
*** 与論町立長は近世は瀬利覚村と称した。沖永良部の知名町瀬利覚と同じ表記であり、浦添市勢理客、伊是名島の勢理客、今帰仁村の勢理客と同類であった。これらの地名の漢字表記と方言名から祖形は「ゼリカコ」と推定される。(略)
 沖永良部島では破擦音化せず「キョ」の発音が残ったのであろう。漢字表記「瀬利覚」は口蓋音化する前に宛てられたもので、「勢理客」は口蓋音化の後、破擦音化の前に宛てられた表記であろう。「立長」はすべての変化が終了した後の表記である。***

投稿: 琉球松 | 2008/12/02 12:48

琉球松さん

立長と勢理客は同じ、立長の前が勢理客だというのは面白いですよねえ。その流れを考えると、祖形はジッキョ、ジッチャクという地元の発音ではないかなあと思います。その意味は、ぼくにはまだ分かりません。

加計呂麻を「崖」とみる見方はありえますよね。地形からすれば。

地名オタク、大歓迎です。

投稿: 喜山 | 2008/12/04 08:29

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