安田のシヌグ
池浩三の『祭儀の空間―その民俗現象の諸相と原型』は、琉球弧の祭儀の事例集として読むこともできてありがたい。
与論島に近い安田のシヌグ祭も辿ることができる。
事例二十 沖縄国頭村安田のシヌグ
沖縄本島北部安田では、毎年旧七月発亥の日を例祭とし、ウンジャミ祭と交互に行なう。粟亥の日を選ぶ理由は、昔は猪の害が多く、これを祓うためだったという。シヌグのことを「大シヌグ」と称しウンジャミを「小シヌグ」と呼ぶことがある。昔は亥の日から三日間の行事があったが、昭和初年から二日に短縮された。
祭りの場所は、神アサギとその前のアサギ庭(シヌグマー)である。神アサギの北に根所、東にアサギヌスリ、南にナカメー、西にノロの拝所(産井)があり、これらは古い屋敷跡である。またアサギ庭の北方にササ、西にメーバ、南にヤマナスとよぶ山がある。これらの山は拝所ではないが、祭りのなかで、男達の登る定められた山で、凝装するためのミーハンチャ(木の実は赤く魔除けになるとして祓いに用いる)やその他の木の枝を用意する山でもある。昔、ササは最も古い家系、メーバはその次、ヤマナスは新しい家系と一定の基準があった。神アサギには、柱が十三本あり、柱数だけ神人がいるという。神人は神アサギの中で柱を背にして定められた位置に着座する。神人が参加できない時はその柱を神人に見たてて、神酒を差し上げる所作をするという。
第一日、前日に神アサギを修繕し、アサギ庭には豊年祈願のノボリを立て祭りの準備をする。当日、神人達は早朝部落内外の拝所・御嶽で祈願をする。午後ヤマヌブイ(山登り)といって、男達(六歳~五十歳迄)は上半身裸か、シャツにパンツだけ(昔は全員赤フンドシひとつ)で山に登る。以前は山登りの前に神アサギで神人から盃を受けたという。山へ登ると、予め用意してあった木の葉や草を体に纏い、頭には俗称シバという草で造ったガンシナ(冠)を被り、五尺程の小さい木の枝を各自持参する。準備が整うと、太鼓を合図に、山の神に豊焼、健康、子孫繁栄を祈願し、それから太鼓の音に合わせて「エーへーホー」と掛け声をかけながら円陣をつくる。一回まわるごとに、「スクナーレ、スクナーレ」と唱えながら、手に持った木の枝ではげしく地面をたたく(島袋源七『山原の土俗』には、「頂上にある洞<口径四尺、深さ五尺程>を巡りつつ、ユーへーホーイと唱え三回ここなつく」とある)。やがて、メーバからの太鼓の合図が聞えると、男達は一列縦隊に並んで太鼓持ちを先頭にエーへーホーと掛け声勇しく山を降りる。
その時、各宇内にいる女達は全部酒をもって彼等を迎える。これをサカンケーといっているが、それが終ると部落へ向ってさらに進み、神アサギ近くの畑の中(昔、安田ンマーという家の屋敷跡)で合流する。ここでは、男達は大きな円陣をつくり、一回ごとに手にした木の枝で女の肩をかるくたたく。この所作も三回くりかえす。部落内の各所での祓いを終えると、部落内の道を通って東の浜にでる。浜では、男達は体に巻きつけた蔓葉や木の枝をその場に捨て、砂の上に坐り、まず山に向って礼拝し、次に海に向って礼拝する。続いて太鼓を合図に一斉に海に飛びこみ、身を浄め、海からあがると、ヤナギをかたどって作ったノポリをかかげ、神人を先頭に、部落の西端を流れる川へ行き禊をして神アサギに引きあげる。
祈願は神アサギを中心にして行なわれるが、最初は根所で神酒・花米・御馳走を供えて豊作、健康を祈り、それがすむと、そこから神アサギに向ってお通しをする。次に神アサギから根所に向って拝み、神アサギでの祈願が終ると、ナカメーの拝所に行き、祈願をする。
これらの神事に次いで、字の者が円陣になって、猪狩り・魚獲り・船の進水・田革とりなどの模擬演技をくりひろげる。猪狩りでは、男一人が猪に扮し、男児が猟犬となって、神大が猪を射とめる。魚獲りはワラ網で漁の演技をし、船の進水は、丸太に釘を打ったり、それを海に運びだして浮かべるという所作を行なう。
田草とりほ、男女で田草をとったり、弁当を食べたりという演技である。また、余興として船の修繕を模した演技だといわれる「ヤーハリコー」がある。一本の丸太に十教本の縄をつけ、青年男女がその丸太を持ってヤーハリコ」の掛け声で、中央から右方へ小走りして行き、またもとの位置にかえる。次には左方に走り、もとの位置にもどり、ヤーハリコーの掛け声で神アサギに向かって突進し、屋根にはげしくぶつける。この動作を三回繰り返す。一方、その間水桶で海水をかける真似をする。以前はノミで船の穴に漆喰を塗りこめる仕草があったという。夜には最後の余興としてウシデーグが行なわ
れる。
シヌグの二日目には山登りはなく、夕方からウシデークと相撲がある。以前には男女の神人が交互にオモロを唱したという。
(『祭儀の空間―その民俗現象の諸相と原型』池浩三)
シヌグが新しい祭儀ではないかと思えるのはなぜか。
それは、根所の近辺を拠点になされていることだ。根所の屋敷跡にある神アシャギは、ぼくの考えでは、新しい神アシャギである。
シヌグが古い祭儀を包含していると思えるのはなぜか。
それは、「山へ登ると、予め用意してあった木の葉や草を体に纏い、頭には俗称シバという草で造ったガンシナ(冠)を被り、五尺程の小さい木の枝を各自持参する」という擬装が、山としての自然への同化を現しているからだ。ぼくには、「昔は猪の害が多く、これを祓うため」という理由は、住居を山から平地に移して、そもそもの祭儀の意味が忘れられた後につけられた理由のように思える。山の化身となる様式は、稲作儀礼よりは狩猟儀礼の面影を宿していると感じられるのだ。
ここには、谷川健一が『南島文学発生論』で、シヌグ祭とスクを結びつける根拠になった、「スクナーレ、スクナーレ」の掛け声も見える。(「シニグの由来はイュウガマの豊漁祈願!?」)
シヌグは、たくさんのヒントを包含した新旧混合の祭儀のように見えてくる。もっともっと、その元始の姿が見えるよう、眼力を養いたい。
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コメント
スクナーレ、とイューガマの発想はぴんとは来ない。
神アシャギを知らないからなのだろうか。
昨日、按司根津栄の氏子の忘年会に行った。
正月のしめ縄を手伝ったあとの飲み会では、ここで書かれているような話はもう聞けない。
全く、学問の世界であるようだ。
与論のシニグも私の世代で終わるかもしれないと思いつつ、根津栄神社にまつわる写真でも残しておきたいと思う。
新年会を兼ねた郷土研究会の発表テーマを子供心でみた、
アージンツェーの物語にしてみよう。
勉強になります。
ありがとう。
投稿: awamorikubo | 2007/12/23 04:35
awamorikuboさん
サークラは神アシャギの一種なのだと思います。
スクナーレとイューガマにつながりをみる発想はとても面白いですが、ぼくも、これだと言い切る確信が持てません。
与論のシヌグの話、じっくりお聞きしたいです。
子供心でみる、というのはすごくいいアプローチだと思います。できあがったらぜひ読ませてください。
投稿: 喜山 | 2007/12/23 23:07