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2007/12/30

与論論への接近 2007

イノー・ブルーとピシ・ブラウン

 ぼくは、礁湖の蒼(イノー・ブルー)を根拠に、与論論を構想してきた。

 ※ イノー・ブルー
 
 イノー・ブルーこそは、与論を与論たらしめている。それは色としてみたとき、五色の与論として展開することができる。この五色の中間ににイノーは位置する。そのイノーの魅力は、海であり陸であるという二重性に求められる(「イノーは海、イノーは島」)。こんな着想だ。

 ところが、高梨修の『奄美諸島史の憂鬱』(「今年はシュク(アイゴ稚魚)が接岸しますように!」)で松山光秀の『徳之島の民俗』を知り、イノー・ブルー論に先行した問題意識があるのを知った。ぼくが珊瑚礁を礁湖という海として捉えるところ、松山は干瀬として捉えていた(「干瀬のある風景・徳之島」)。珊瑚礁をイノー・ブルーと捉えるのは、珊瑚礁を「海」よりに理解することであり、「陸」よりに受け止めれば、干瀬(ピシ)になる。そこで、珊瑚礁の二重性は、イノー・ブルーとピシ・ブラウンとして明示する必要があるのだと思った。ぼくは、松山光秀のコーラル文化圏を受けて、その延長にイノー・ブルーとピシ・ブラウンとしての与論論を展開したいと思っている。
 

境界を消す力

 海と陸の中間に、イノー(礁湖)でありピシ(干瀬)を見、それを根拠にしようとするのは、ぼくが与論の力を境界を消す力と捉えているからだ。海の終わるところ陸が始まるのではない。海は直接、陸に接地するのではない。海は、礁湖と干瀬としての緩衝地帯を経て陸に接する。その陸も、砂と地という段階を経て、ようやく陸らしい陸になる。その中間地帯は、時に礁湖として海であり、時に干瀬として陸であり、そうした二重性の表情のなかで、陸と海の境界をあいまいにほどき、境界を消している。それが与論の魅力であり力の核になっていると思っている。

 境界を消す力というとき、島尾敏雄の与論島感想をぼくは思い起こす。

「与論島にて」

 私は今まで与論島には二度訪れる機会があったが、どちらも短い滞在だったから、与論島の生活について、どれほどのことも知ることはできなかった。しかしそのあいだに感じとったことがないわけではない。

 現実の具体的な面について知ることはできなかたかわりに(もっともノートを片手にたずね歩くことを意識的にしなかったのだが)、いわば抽象的なイメージを豊富につかむことができた。それは島にあらわれている現実の貧しさとは別に、とても豊かなものだ。

 島の、海から区別されている陸としての大きさについては、だれでもが認めるように、たいへん狭隘だといわなければならない。奄美の島々のなかで、与論島は、与路島や請島などとともに小さいなかでも小さい島のひとつだ。しかしたとえ与路や請とくらべて与論が少しは大きいとしても、島の孤立的な位置からみれば、どうしても与論島のほうが目立つだろう。広い大海のただなかにひとつだけ放置された島のかたちは、からだかの底からつきあげてくる寂しさを感じないわけにはゆかない。

 ところで私の浅い与論体験が、その寂しさをかくすことはできないとしても、島のなかを歩いてある景色の大きさを感じたのはどういうわけだったろう。大きさというよりあるいは広がりといったほうがよいがよいかもしれない。どこか大陸のなかの高原をさまよい歩いているような、あるいは大陸の果てが海に没する広漠たる海岸の砂丘をとぼとぼ歩いているような錯覚におちいらせるものがあった。これはどういうわけだったろう。

 島のなかほどのある場所ではその周辺より凹んでいて海の見えないことがあったかもしれないが、与論島自体は海洋のただなかのひとにぎりの珊瑚礁にすぎないのに、そのまわりに広がり横たわる海の気も遠くなる大きさを反映し吸収して、みずからもふしぎな広がりを内包していることが私には珍しかった。それが夜の月の光の下では、またいっそうその広がりを深めていることに気づかなければなるまい。

 二つの相反する条件が(つまり広がりとすぼまりが)お互いを排除しながらひとつの場所であやもつれしている光景に、私は、調子の微妙な酔いにいざなわれたことを告白しよう。そしてそのことは島に住む人々の生活にある律動をあたえているのにちがいないが、それをたしかめる余裕を私は持たなかった。私はもっとたびたび与論島を訪れることによってその状況を正確につかみたいと思っている。
 (《詩稿》昭和四十年八月 第九号、引用者が読みやすさのため勝手に改行した個所がある)

 「どこか大陸のなかの高原をさまよい歩いているような」感覚。島尾の錯覚の由来にぼくは応えたいと思うのだ。

 ところで、境界を消す力とは何だろう?
 ぼくはそれが与論の存在規定のように感じてきた。消極的にいえば、薩摩の琉球侵犯にしてもアメリカの沖縄上陸にしても、ときの勢力は与論の洋上を頭上を通過していき、与論が境界を形成する主役になることはない(「歴史は頭上を過ぎる。洋上だけでなく。」)。また、沖縄復帰のときは、与論は日本を演じる。辺戸からみたとき、「あそこには憲法がある」というその地とは与論島のことだった。日本の辺境中の辺境が、日本の象徴を演じる悲喜劇。このとき与論は何をしたのか。ぼくは、日本とアメリカの国境を演じたのではなく、、むしろ境界を消す力として働いたのだ。つまり、沖縄と日本をつなぐ力になった。

 境界を消す力だからこそ、与論は、ときに地理上の場所を離れて、ヨロンとして海外の島になったり、「どこでもない南の島」(映画『めがね』)として存在することができる。それが、与論の境界を消す力なのだ。それは、島の内側にあっては、対立を好まない、不思議な魚スクをイューガマ(魚ちゃん)と呼ぶ、そんな自他を区別しない島人の気質となって現れている。自他を区別しないとは自分がないという意味ではない。いや、ときに与論献捧の酩酊のなか、我を無くすこともしばしばだけれど、そうではなく、陸と海を無化して広大な草原に変えてしまうような、場をつくることに関心を向ける。たとえば、ヨロンマラソンは、マラソンとイノー・ブルー鑑賞を同居させて、本来のマラソンから遠ざかった不思議なマラソンになっていると解釈するのは強弁だろうか(「いちばんきれいであったかいマラソン」)。

 ぼくは、境界を消す力としての与論島の魅力を現す言葉をもっと発掘したいと思っている。

 ところで松山光秀の『徳之島の民俗』はとてもいい。地元に住み地元を掘るということが独りよがりとしてではなく普遍性につながることを鮮やかにしめしている。こんな本が書ければ本望だ。与論なら『チヌマンダイ』の延長にこんな成果を期待している。

 与論島の無意識は豊かだ。池田福重の『無学日記』(「あふれる無意識と知恵」)は、その豊かさを教えてくれた。




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コメント

 クオリアさん

 霧隠才蔵の奥儀?葉隠れの一節?
学ぶとは、真似ることと 見え隠れします
無学とは、学ばないのではなく ただひたすらに
親先祖のフトゥバを繰り返し、くりかえすうちに
真実を 誠を学んでいたのではないのかと・・・
教えてもらっていないから・・・知らない?

 無学日誌の奥儀は、いまだ不明のいたすところ
がしが、ユンヌが ヌーゲーラ チュムチャサイ

投稿: サッちゃん | 2007/12/30 21:11

サッちゃんさん

ワンナガ、ガンチムーユイ。
チュムチャサイドー。

投稿: 喜山 | 2007/12/30 22:55

 クオリアさん

 ユンヌヤ トゥウサナティ ムイ(ユ)ルムヌ
キャーサムイシガ ヌーゲーラ イカラジ

 キャーサイ、トゥサイヤ イキヤシャルムイカラ
シリボー 以外に遠くもあり、近くもありで・・・
 
 フタビヌ ムヌガッタイヤ ニャー トゥシラン
ガシュンボ ヤンニ ドウカドウカデール
ユカトゥシ ムカエティタボーリ

投稿: サッちゃん | 2007/12/31 00:01

 クオリアさん

 ユンチュルシマヤ インクーサヤアシガ 
   ナビヌスクナカニ グクヌタマル
 アンチャメーヨー グクヌタマル

 ションシゲーラ ションシヤ ヌーンネーシガ
 ムヨウティ コウトィシデークトゥヤ

 サムレーヤ アーイ ニャマ ヌーン コウトゥラヌ
 ガシガ つまらぬ楊枝をくわえて ピュマシャデール

 ユンヌンチュヤ ガシャ アランドウ

投稿: サッちゃん | 2007/12/31 02:12

サッちゃんさん

今年はたくさんコメントありがとうございます。
いつもいつも刺激を受けました。

どうかよい年をお迎えください。
来年もどうぞよろしくお願いします。

いつかお会いできる日を楽しみにしています。

投稿: 喜山 | 2007/12/31 15:27

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