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2007/12/31

自己問答への接近 2007

 大晦日。ブログを見る人も少ないだろうから、自己問答的に書かせてもらおう。
 ぼくは、琉球弧の基層と上層(歴史の始まりと現在・未来)、言い換えれば、東京と与論を一緒に捉える視点を考えてきた。それを、今年、マルクスの自然哲学を拡張し、「超・自然哲学」として展開することができた。とてもつたないが、いまも時間を見てはゆっくり更新を続けている。

 ところが、これを書いたことで、与論とは関係がないというお叱りも受けた。
 ぼくにとっては同じことなのだが、そう言われる理由もうなずけた。いくつもブログを立てることに億劫さがつきまとったが、これを機に、受け皿が必要だと思い、「超・自然哲学」というブログにした。これは好都合だった面もある。

 ぼくは、与論、ビートルズ、批評、マーケティングが、ライフワークだといつの頃からか自覚してきた。でも、ビートルズをどうすることがライフワークなのか、マーケティングとひと口に言ってもひろうござんす、一体何をすることがライフワークなのか、そんなことは見当がつかなかった。
 
 7年前、ジョン・レノンとポール・マッカートニーの作品を通じた相聞歌が、ぼくの視点だと気づいて、「ビートルズ相聞歌」をメールマガジンで書き始めた。与論は、与論でしか味わえないあの感じを言葉にしたいというのがぼくのモチーフだったが、脳科学者の茂木健一郎の言う“クオリア”という概念がピッタリだと思って、「与論島(よろんじま)クオリア」とした。そして、批評のテーマが、「超・自然哲学」だ。仕事のことはいちばん後になるらしく、マーケティングは「生の声マーケティング」にひとまず落ち着いた。

 もちろん、ブログを書くことはライフワークそのものではない。特に、与論のことは、実際の与論島が元気にならなければ意味がない。ただ、なすべきことの視座がつかめたことは今年の収穫だった。なにしろ、たったこれだけのことに、人生の半分以上を費やしてしまっている。

 ◇◆◇

 「手紙を書こうと思ってるよ」と話し、「ぼくもそう思ってるよ」と答えてもらったのが、父との最後の会話になった。前の晩だった。心残りだというのではない。手紙は書かなくても互いの伝えたいことは分かっていたと思う。それより、手紙を書こうと思っている、そのことを伝え合えたことが今となっては慰みなのだ。

 父は旅立つ少し前の四月、ぼくを励まそうと、「タンポポの詩」を教えてくれた。

 父は、この詩を生徒に読んで聞かせることもあったというが、その前に自分自身のために読んでいたに違いない。生涯、一介の小学校教師を通した父をぼくは尊敬し、同時に、かばうべき人と感じてきた。
 ぼくはいつも徒手空拳でいようとしてきたが、それは父を継ごうとしてきたのだと思う。
 これからもぼくは父をかばおうとするだろう。けれど、もういいよという父の声がする気がする。ぼくも少しは現世的に生きていっていいような気がしている。

 ◇◆◇

 今年は、生涯のなかで、もっとも辛い一年だった。
 恐怖に震え、膝を折り、のたうちまわり、しこたま泣いた。愚かしいことに、ぼくはそれが峠を越えつつあるのか、まだ始まったばかりなのかすら分からないでいる。ただ、まだ倒れるわけにいかない。

 そんな時間の流れのなか、与論は全力でぶつかっても、いつも尽きない新しい表情を見せてくれた。昔から与論は駆け込み寺であり続けてきたが、それは健全で、ぼくはまたしても助けられたのだった。今年は、与論だけでなく、奄美や琉球弧まで、精神を委ねる対象は広がっていった。そのなかで、このブログを通じて、知り合い、出会い、再会した人たちに心底、助けられた。それぞれがかけがえのない出会いで、救われる想いだった。
 何だか本のあとがきみたいだが、実のところ、来年は、「与論島クオリア」の更新頻度を落とそうと思う。身過ぎ世過ぎ、「生の声マーケティング」に傾注せねばならんとです。

 なに、頻度を落とすといっても、関心が絶えるわけではない。それはありえない。三十数年間、島ホームシック(あんとに庵さん命名)であり続けてきたのだ。関心は、いつも絶えずあり続ける。それに、少し間を置いたとしても、与論はいつでも待っていてくれる。そう感じられるようになったのは今年の収穫だ。ゆっくりとではあっても、与論の考察は進めてゆこう。むしろ、与論を元気にする活動は、実際的な場面で行っていきたい。

 来年、与論の人、与論に想いを寄せる人が幸多いことを祈ります。奄美・琉球弧の方々においてもまた。




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2007/12/30

与論論への接近 2007

イノー・ブルーとピシ・ブラウン

 ぼくは、礁湖の蒼(イノー・ブルー)を根拠に、与論論を構想してきた。

 ※ イノー・ブルー
 
 イノー・ブルーこそは、与論を与論たらしめている。それは色としてみたとき、五色の与論として展開することができる。この五色の中間ににイノーは位置する。そのイノーの魅力は、海であり陸であるという二重性に求められる(「イノーは海、イノーは島」)。こんな着想だ。

 ところが、高梨修の『奄美諸島史の憂鬱』(「今年はシュク(アイゴ稚魚)が接岸しますように!」)で松山光秀の『徳之島の民俗』を知り、イノー・ブルー論に先行した問題意識があるのを知った。ぼくが珊瑚礁を礁湖という海として捉えるところ、松山は干瀬として捉えていた(「干瀬のある風景・徳之島」)。珊瑚礁をイノー・ブルーと捉えるのは、珊瑚礁を「海」よりに理解することであり、「陸」よりに受け止めれば、干瀬(ピシ)になる。そこで、珊瑚礁の二重性は、イノー・ブルーとピシ・ブラウンとして明示する必要があるのだと思った。ぼくは、松山光秀のコーラル文化圏を受けて、その延長にイノー・ブルーとピシ・ブラウンとしての与論論を展開したいと思っている。
 

境界を消す力

 海と陸の中間に、イノー(礁湖)でありピシ(干瀬)を見、それを根拠にしようとするのは、ぼくが与論の力を境界を消す力と捉えているからだ。海の終わるところ陸が始まるのではない。海は直接、陸に接地するのではない。海は、礁湖と干瀬としての緩衝地帯を経て陸に接する。その陸も、砂と地という段階を経て、ようやく陸らしい陸になる。その中間地帯は、時に礁湖として海であり、時に干瀬として陸であり、そうした二重性の表情のなかで、陸と海の境界をあいまいにほどき、境界を消している。それが与論の魅力であり力の核になっていると思っている。

 境界を消す力というとき、島尾敏雄の与論島感想をぼくは思い起こす。

「与論島にて」

 私は今まで与論島には二度訪れる機会があったが、どちらも短い滞在だったから、与論島の生活について、どれほどのことも知ることはできなかった。しかしそのあいだに感じとったことがないわけではない。

 現実の具体的な面について知ることはできなかたかわりに(もっともノートを片手にたずね歩くことを意識的にしなかったのだが)、いわば抽象的なイメージを豊富につかむことができた。それは島にあらわれている現実の貧しさとは別に、とても豊かなものだ。

 島の、海から区別されている陸としての大きさについては、だれでもが認めるように、たいへん狭隘だといわなければならない。奄美の島々のなかで、与論島は、与路島や請島などとともに小さいなかでも小さい島のひとつだ。しかしたとえ与路や請とくらべて与論が少しは大きいとしても、島の孤立的な位置からみれば、どうしても与論島のほうが目立つだろう。広い大海のただなかにひとつだけ放置された島のかたちは、からだかの底からつきあげてくる寂しさを感じないわけにはゆかない。

 ところで私の浅い与論体験が、その寂しさをかくすことはできないとしても、島のなかを歩いてある景色の大きさを感じたのはどういうわけだったろう。大きさというよりあるいは広がりといったほうがよいがよいかもしれない。どこか大陸のなかの高原をさまよい歩いているような、あるいは大陸の果てが海に没する広漠たる海岸の砂丘をとぼとぼ歩いているような錯覚におちいらせるものがあった。これはどういうわけだったろう。

 島のなかほどのある場所ではその周辺より凹んでいて海の見えないことがあったかもしれないが、与論島自体は海洋のただなかのひとにぎりの珊瑚礁にすぎないのに、そのまわりに広がり横たわる海の気も遠くなる大きさを反映し吸収して、みずからもふしぎな広がりを内包していることが私には珍しかった。それが夜の月の光の下では、またいっそうその広がりを深めていることに気づかなければなるまい。

 二つの相反する条件が(つまり広がりとすぼまりが)お互いを排除しながらひとつの場所であやもつれしている光景に、私は、調子の微妙な酔いにいざなわれたことを告白しよう。そしてそのことは島に住む人々の生活にある律動をあたえているのにちがいないが、それをたしかめる余裕を私は持たなかった。私はもっとたびたび与論島を訪れることによってその状況を正確につかみたいと思っている。
 (《詩稿》昭和四十年八月 第九号、引用者が読みやすさのため勝手に改行した個所がある)

 「どこか大陸のなかの高原をさまよい歩いているような」感覚。島尾の錯覚の由来にぼくは応えたいと思うのだ。

 ところで、境界を消す力とは何だろう?
 ぼくはそれが与論の存在規定のように感じてきた。消極的にいえば、薩摩の琉球侵犯にしてもアメリカの沖縄上陸にしても、ときの勢力は与論の洋上を頭上を通過していき、与論が境界を形成する主役になることはない(「歴史は頭上を過ぎる。洋上だけでなく。」)。また、沖縄復帰のときは、与論は日本を演じる。辺戸からみたとき、「あそこには憲法がある」というその地とは与論島のことだった。日本の辺境中の辺境が、日本の象徴を演じる悲喜劇。このとき与論は何をしたのか。ぼくは、日本とアメリカの国境を演じたのではなく、、むしろ境界を消す力として働いたのだ。つまり、沖縄と日本をつなぐ力になった。

 境界を消す力だからこそ、与論は、ときに地理上の場所を離れて、ヨロンとして海外の島になったり、「どこでもない南の島」(映画『めがね』)として存在することができる。それが、与論の境界を消す力なのだ。それは、島の内側にあっては、対立を好まない、不思議な魚スクをイューガマ(魚ちゃん)と呼ぶ、そんな自他を区別しない島人の気質となって現れている。自他を区別しないとは自分がないという意味ではない。いや、ときに与論献捧の酩酊のなか、我を無くすこともしばしばだけれど、そうではなく、陸と海を無化して広大な草原に変えてしまうような、場をつくることに関心を向ける。たとえば、ヨロンマラソンは、マラソンとイノー・ブルー鑑賞を同居させて、本来のマラソンから遠ざかった不思議なマラソンになっていると解釈するのは強弁だろうか(「いちばんきれいであったかいマラソン」)。

 ぼくは、境界を消す力としての与論島の魅力を現す言葉をもっと発掘したいと思っている。

 ところで松山光秀の『徳之島の民俗』はとてもいい。地元に住み地元を掘るということが独りよがりとしてではなく普遍性につながることを鮮やかにしめしている。こんな本が書ければ本望だ。与論なら『チヌマンダイ』の延長にこんな成果を期待している。

 与論島の無意識は豊かだ。池田福重の『無学日記』(「あふれる無意識と知恵」)は、その豊かさを教えてくれた。




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2007/12/29

奄美への接近 2007

島尾ミホ、逝く

 三月、島尾ミホが他界した。近代奄美最大の文学者の死だった。
 たとえば、『海辺の生と死』の「洗骨」は、洗骨が生と死の境界を緩和する親和と畏怖に満ちた儀式であることが叙情的に描かれている。それだけでも充分だけれど、作品は、人類史がどこかで経験してきたに違いない普遍性に手を届かせていて、改葬を知らない人の心も動かす。ぼくもまたそのように感じる読者の一人だが、習俗の内側にいる者としては、ともすると好奇の目に晒されてきた洗骨を、ふつうに人に伝えられるものにしてくれた。そういう励ましもこの作品から受け取ってきたのだ。この作品を想いながら、十一月、ぼくも祖父を洗骨した

 他界の少し前に、島尾敏雄の日記、『「死の棘」日記』を読み、「棘」の時期の「やわらかさ」に心奪われた。治癒とは健常者が病者に、健常を伝えることではない。病者を前にうろたえる健常者が思い余って病者に近づく。そのところで、病者は我に返るように健常者に戻る。健常者は病者であり、病者は健常者である。そんな交換を幾度もいくども繰り返すことのうちに、治癒はそれと知れることなく訪れている。そんな過程が綴られていた。ぼくは、人を救うとはその人と徹底的に付き合うことだ。たしか、詩人、鮎川信夫のそんな言葉の実例を見る思いだった。やわらかさの印象は、友情としてもあった。批評家、奥野健男と吉本隆明と同席の場面。

奥野が吉本に今一番興味のある作家は? 武田泰淳?ときくと吉本、ぼくを指さす。

 たったこれだけの日記の一節にも、島尾がどんな励ましを受け取ったか、伝わってくる。
 島尾ミホは、「刊行に寄せて」、こう書いている。

 亡夫が生前、毎晩机に向って、己と対峙しつつ書き綴った心懐の秘め事の証ともいえる「日記」を、遺された妻が公開致しますことに、私は思案にくれて決め兼ねました。殊に私達家族にとりましての、最も苦渋に満ちた日夜の記述の公開には、かなりの強い逡巡が先立ちました。
 然し島尾文学の解明と御理解に幾分なりとも役立ち、又島尾文学に心をお寄せ下さる方々への報恩にもなりま すならばと、夫婦共々の羞恥は忍んでも発表に思いを定めました。

 ぼくたちは、この想いを汲まなくてはと思う。
 島尾ミホが他界する前の月に、孫娘の島尾まほは、エッセイ、『まほちゃんの家』を発表する。そこには、島尾敏雄とミホの娘、マヤと心を通わせた日々のことが書かれていて、消息を知らないぼくたちをあたたかな気持ちにさせてくれた。ミホの他界の気づきは、その孫娘、まほが担うが、ぼくたちは、島尾ミホが逝く前に、『まほちゃんの家』を読んだろうことを、慰めのように受け取る(「小さな手が受けとめる」)。

 島尾ミホが主演した『ドルチェ - 優しく』をたずねれば、「ミホ、あなたは神戸に行かなければなりません」と、敏雄との生活を促す父の決意があったことをミホは語っている。人の想いが人の歴史をつくる。私的なことが公開される宿命を引き受けた文学者の生き様から、せめてぼくたちは受け取るべきものは最大限に受け取りたい。


屈服の論理

 四世紀も前の、薩摩の琉球侵犯に正面から向き合った、いまどき珍しい骨太な作品として期待した『しまぬゆ』から知ったのは、奄美思想の屈服の論理だった。よく耳にする奄美の“複雑骨折”の内実はこれかと思わずにいられなかった。被支配者なのに支配者の論理を内面化し、そこから同胞・仲間である被支配者を見る。その色眼鏡の向こうに、実際の同胞・仲間は、視野の外に置かれる。しかし、自分も被支配者であるに違いないから自己欺瞞が萌さずにおかない。それを、どこにも行かないどこにも行けない根深い諦念によって押し隠している。それが屈服の論理の中身だ。もちろん、克服すべき論理である以上のものではない。

 驚愕は二度やってきた。世紀を改めてますます空疎な自動空転に入っている薩摩の思想を、『薩摩のキセキ』で知った。唖然を通り越し、笑うしかない。死んでいることに気づかない存在。それは成仏できない亡霊なのか? いや茶化したいわけではない。ぼくは、まじめに向き合う必要があると思い、十六年前の文章を引っ張り出してみた。

 「薩摩とは何か、西郷とは誰か」

 読みにくさは『しまぬゆ』級だが、書くことを覚えた初期の手習い文章でご容赦ください。奄美の「二重の疎外」という概念も、このときつかんだもので愛着もある。心配してくれる方がいるので付記すると、ぼくはここで鹿児島の人を批判しているのではない。シラス台地に付き合ってきた人々の場所から、抑圧と貧困を永続化する思想を批判しているものだ。ぼくも、知人、友人は鹿児島にいちばん多い。

 いま思うのは、奄美の屈服の論理と薩摩のこわばりの論理は、奄美と薩摩、薩摩と大和という支配・被支配の関係に照らすと、被支配者が支配者の論理を内面化するという点において同型なのではないかということだ。それが奄美と薩摩の両者の関係においては、被害の側に寄る奄美は支配者の論理を内面化しているので、薩摩に立ち向かえず内攻し、加害の側によるも被支配者の経験がしみている薩摩は、奄美に向かって、「みんな同じだよ」とうそぶく。違いは、両者の自己欺瞞の処理法だけではないのか。奄美の屈服の論理と薩摩のこわばりの論理よ、きみたちは似ているのではないのか?

 こんなメランコリーな思想状況のなか、山之内さんのエッセイは、遠くまで歩みを進めていて、救われる想いだった。

 「マイノリティーの視線を」
 
 年の暮れにかけて、ぼくたちはアフリカマイマイ騒動西郷隆盛マント騒動を目撃する。これら二つの出来事は、他県の人には分かりにくい、でも奄美の人にはよく分かるといった形で、薩摩と奄美の関係を浮かび上がらせていた。ぼくは、この件に反応した奄美つながりのブログを読みながら、自分の諦念を反省するように、記事を書いた。ぼくたちはこういうとき、フカイナオモイヲシテイルという声を挙げなければいけないのだと思う。そうでなければ、そういう事実が消えてしまう。そうでなければ、対話が始まらない。四世紀も囲い込みをした上で黙殺をしてきた思想が相手方なのだ。声を挙げなければ、気づかないだろう。


ネガ奄美からポジ奄美へ

 2007年は、これまでネガとしてしか存在していない奄美をポジに変換する動きも目立ってきた一年だった。

 『奄美の島々の楽しみ方』は、今年、その嚆矢だった。この本の意義は、ルサンチマンに依らない奄美紹介をなしたことだ。この本には既視感があり、1989年に沖縄で発行された『おきなわキーワードコラムブック』を思い出させた。『おきなわキーワードコラムブック』も沖縄的な事象をコラム形式でカタログ的に並べた構成だった。そして、『おきなわキーワードコラムブック』の意義も、ルサンチマンに寄らない沖縄表現の登場にあった。『奄美の島々の楽しみ方』は、奄美版『おきなわキーワードコラムブック』と言える側面を持っていたのだ。『おきなわキーワードコラムブック』は、沖縄の人に受けたように、『奄美の島々の楽しみ方』も、まず奄美の人に受けたと思う。

 高橋孝代の3年前の博士学位論文、「沖永良部島民のアイデンティティと境界性」と出会えたのは幸運だった。ちなみに、ぼくはこれを、『境界性の人類学』という書籍では読んでいない。ネット上に論文が公開されていたから読んだ。

 ※「沖永良部島民のアイデンティティと境界性」

 これはインターネットの善き側面で、おかげで書籍の形ではなかなか手が出なかったろう、しかし、わがことのような切実な課題を扱ったこの論考をじっくり読むことができた。ぼくにとっては、沖永良部の島人のアイディンティティを追究したこの論考を手がかりに、与論のアイデンティティ論に、参考や励みを受け取ることができた。奄美内からのまっすぐな奄美論の登場を、待ちに待ったようにぼくは受けとめた(「沖永良部学との対話」)。

 そして、2005年の『ヤコウガイの考古学』をはじめとする高梨修の奄美論は、奄美の「二重の疎外」を、国家境界領域問題として捉え、考古学の見地をもとにしながら、ネガ奄美をポジ奄美に変換する力強い論考としてぼくたちの前に現れた。考古学の成果は、奄美評価につながるもので、谷川健一が『甦る海上の道・日本と琉球』で、南下する倭寇勢力にとって奄美は当時の先進地だったと主張するに際し、依拠しているのがこの高梨らの考古学成果だった。ただ、高梨論考の魅力は、仮に考古学成果を抜き取ったとしても残る。それは、屈服を克服に転換しようとする奄美への理解があるからだ。ぼくは、これまで島尾敏雄の文章をもって奄美紹介文の筆頭としてきたけれど、それが更新されゆく心地よさを感じている。


浮上する奄美身体

 既視感は、『奄美の島々の楽しみ方』以外にもあり、元ちとせの音楽と映画『めがね』がそうだった。元ちとせは、奄美の身体性に依拠しながらポップスの水準を達成したことが新しかった。同様のことを80年代、沖縄のりんけんバンドは果たしていた。また、荻上直子監督の映画『めがね』は、フィクションの形を採りながら、与論島の身体性を浮かび上がらせた。これは、高嶺剛監督が、1989年に映画『ウンタマギルー』で沖縄・琉球の身体性を浮かび上がらせたことを思い起こさせる。

 そしてこう比較するとき、元ちとせの達成は、七島灘をやすやすと渡って、遠くとおくまで行っていることが分かるような気がする。りんけんバンドにあっては、沖縄方言を使うことは、彼らの音楽のアイデンティティには手放せないことだった。しかし、元ちとせの音楽にそれは必須ではない。けれど、必須でなくても、つまり奄美の言葉で歌わなくても、彼女の作品は充分に奄美を感じることができる。それは、高度で自在な達成だ。

 2007年の中孝介のメジャー化は、元の達成のあとに来る、その土俵に助けられたものだ。中にとっても、奄美の言葉で歌うか、奄美の旋律で歌うかは、条件ではなくなっている。けれど中の歌にも、ぼくたちは奄美を感じるだろう。そして気がつけばぼくたちは、ふだん口ずさめ、そういうものとして人にも勧められる奄美発の音楽を持っている。よく、ここまで来れたと思う。

 奄美の身体性も浮上してきたのだ。ぼくたちは、もっともっと奄美の表情を浮かびあがらせよう。

 今年は、「奄美料理 まれまれ」と、「奄美の家」というお勧めのお店にも出会えた。うれしかった。




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念願の『奄美の家』

 ゆうべ、幼なじみ以上の幼なじみのヤカと、念願の「奄美の家」に行った。
 これまで、何度も満席を言われて、近場の空いている?沖縄料理屋に行ってきた。だから、“念願の”なのであった。

Amamiyeah_3

















 ヤカとのムヌガッタイが楽しいのはもちろんだけれど、隣の席のご夫婦も与論に何度か行ったことがあり、16年程前、汐見荘に泊まってダイビングをしていたと知って、話が弾んだ。酒店の話もあり、あるとき、宴席に招いてもらったそうだが、よく聞くと、どうも、ヤカの家でやったらしいことが分かり、これまた大笑いだった。いまは奄美大島で潜ることが多いそうなのだが、また与論にも来てほしものだ。

 その向こうの席の方は徳之島出身だったが、若い頃、与論にはディスコがあるというので、勇んで行った。楽しんだまではよかったが、帰りのお金が乏しくなった。沖永良部までは渡ったが、徳之島まで行けない。そこで友人を頼ったら、警察に連れていかれ、そこでお金を貸してもらったそうだ。愉快な奄美物語が楽しい。

 「奄美の家」は、ふつう「奄美」というと、奄美大島のことを指すけれど、ここは、奄美大島も徳之島も与論島も、奄美の島々を平等に扱ってくれているのが分かって、とても居心地がよかった。繁盛するはずである。

 「奄美の家日記」のブログもいい。まず、URLがいいよね。amamino-yeah ですぜ。「よろんの里」の店長にも、これやらなきゃってけしかけたいと思っている。

 年の瀬に、いい笑いと美味しい黒糖焼酎と料理をいただきました。ありがとうございます。



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2007/12/28

琉球への接近 2007

身体感覚としての琉球弧

 野本三吉の『海と島の思想』 を辿ったことで、琉球弧を身体感覚でつかむことができた。身体感覚というのは、地図でつかめる琉球弧ではなく、たとえば、与論島には那覇から飛行機40分くらいで行けるとか、慶良間諸島の前島は、無人になっていたが、2003年から帰郷した夫婦が住んでいて、島には那覇からフェリーで向かうとか、そういった、実際にどうやったら行けるのか、どんな距離感覚にあるのか、といった体感的な情報を得られたということだ。

 おかげで琉球弧の沖縄島周辺は、架橋により離島が減少し、沖縄島は衛星島と連結して都心性を高めているのが分かった。島が消えてゆくことは、もちろん島としての琉球弧らしさが無くなることを意味している。

 ただ、もともと今年出版された『海と島の思想』には、琉球弧の最新の基層理解を求めたのだが、表層に止まっているのが残念だった。付け加えると、同じ琉球弧のことといっても、奄美に対しては記述の熱が下がっているように感じられることも。


沖縄と奄美

 この点、よしもとばななの『なんくるなく、ない』も、サブタイトルに「沖縄(ちょっとだけ奄美)」とあるように、奄美の付録感が、露骨に出ていた。ただ、『なんくるなく、ない』には、日常感覚のなかで基層を感受し表現しており、琉球弧の気持ちを代弁していて嬉しかった。たとえば、岡本太郎の『沖縄文化論―忘れられた日本』は、岡本が風葬に関心を示したように、日本には見られなくなった文化事象をたずねて、そこに「沖縄」を見出していたように思う。よしもとの『なんくるなく、ない』も、同じように、沖縄の独自性を見ようとするのだが、それは、日本にない文化事象をたずねるのではなく、ほんの日常のなかに、東京に子どもはないけれど沖縄にはいる、というように、失われた日本を見ていた。それだけ、日本も沖縄も追い詰められている切実さに共感できた。そうやってみると、よしもとの「ちょっとだけ奄美」のなかの、奄美熱下がりも、奄美が奄美らしさを損なっている側面に向けられていたのだと思う。

 日本にはないものが沖縄にはある。それが、研究対象としてではなく、若い世代の青春として、憧れの地になったことを、中江裕司監督の映画『恋しくて』は伝える(『恋しくて』-憧れの逆転)。また、その役を担うように、海人を追う海人写真家、古谷千佳子も沖縄に憧れた女性だったと、TV番組「情熱大陸」は伝えていた。

 高橋誠一と竹盛窪の『与論島―琉球の原風景が残る島』が、「もしも与論島が沖縄県であったとすれば」と問いを立てたり、斎藤潤の『沖縄・奄美《島旅》紀行』が、「沖縄と奄美は、日本ではない」と書くように、沖縄を、沖縄と奄美、琉球弧として語る視点は、沖縄外から描かれることが多いように見える。池浩三の『祭儀の空間』も、約30年前の考察であるにもかかわらず、奄美、沖縄を等価に扱う態度には、いまだ褪せない新鮮さがあった。


沖縄問題

 では、沖縄内部から沖縄はどう描かれるのかといえば、その課題を、今年、仲里効と高良倉吉の『「沖縄問題」とは何か』は担っていたと思う。ところが、ここにあったのは理念としての沖縄の溶解と空転だった。高良が、沖縄の理念を突っ張りきれず、地すべり的に本土と同じ土俵をつくろうとし、仲里はその反動のように、本土への拒否感から沖縄の理念の呼吸回路を無くしているように見える。高良は、沖縄と本土との境界は無いとみなしてせっかくの理念を溶解させ、仲里は、沖縄と本土との境界をアプリオリな前提とするため理念が空転している。でもそれではすっきりいかない、その割り切れなさのなかで、二人とも何かを考えている。そこが救いだし、そこに脈があると思えた。

 ※「『沖縄問題』とは何か」

 仲里が「あまりに沖縄的な死」として取り上げた集団自死についても、「あまりに日本的な死」として普遍化できるかどうかが、課題なのだと思う。

 8月に書いたことの繰り返しになるが、ぼくは、集団自死への軍関与の有無をめぐる教科書記述問題には、何か、ちぐはぐなものを感じる。本来、歴史記述の主体となるべき沖縄島民がその任になく、戦争放棄を内包すべき国家が、その任に顔をそむけ、その分、沖縄島民が、戦争放棄を主張する役を担っている、そんなちぐはぐさ、だ。
 ぼくは、閉鎖的共同体が追い込まれ、ある閾値を越えたとき、内発的に集団自死を発生させたという歴史記述を、沖縄の島民は、自らの手によって生み出さなければならないと思う。それは、「あまりに沖縄的な死」を「あまりに日本的な死」として普遍化する作業でもある。
 一方、国家は、関与の強弱の問題より以前に、結果的に集団自死を引き起こした戦争に責任があるのだから、戦争放棄を内包し続ける不断の努力を行わなくてはならないはずだ。そして、沖縄の島民が、内発的な集団自死を自らの手で記述し引き受けることで、直接の関与の有無に関わらず、集団自死にいたる要因を、軍も担っていたことは自明になると思える。


琉球弧の理念

 「『沖縄問題』とは何か」の議論の地平からは、琉球弧の理念はつくれない。
 琉球弧の理念は、沖縄の外部にあっては奄美が、沖縄の内部にあっては八重山がその価値を提示することが最低限、要る。それでなくては、琉球州の構想も育たない。

 高梨修や高橋孝代が執筆陣に加わっている『琉球弧・重なりあう歴史認識』には、この視点は当然のように含まれていた。沖縄内部から出たもののなかでは、『目からウロコの琉球・沖縄史』が、奄美の歴史に一瞥を加えている。この本は沖縄で売れた。

 また、『笑う沖縄』の小那覇舞天伝は、笑いとしてみた沖縄像の紋切り型に挑む意気込みがあった。逆に、川井龍介の『「十九の春」を探して』には何のために書かれたのか分からない不透明さを覚えた。一方が政治性への挑戦であれば、他方は政治性そのものに見えなくもない。それでも、ここに可能性を見ようとすれば、琉球弧内部の島間の対話へ、触手を伸ばしていることにあると思う。琉球弧の視点を持つということは、今でもそれだけで何事かなのだ。ぼくは、現役最年長の力士、一の矢の引退の報に接し、この人が徳之島出身で琉球大学を出、慕われてきたことを知った。あるいは琉球弧の理念は、人知れず、こういう人の肩に担われてきたのかもしれない(「琉球弧の一ノ矢」)。

 ところで十月には、奄美を含めた琉球全体の自治を考える、松島さんの「ゆいまーる自治」のブログがスタートした。とても注目している。


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2007/12/27

地域ブランドとしての与論島への接近 2007

離島発 生き残るための

 地域ブランドとしての与論島も、関心の尽きないテーマだ。
 今年は博報堂が『地ブランド』という本を出したのに刺激を受けて、「地域ブランドとしての与論島」を考えるきっかけになった。マイクロソフトが主催した、「ブログで離島応援計画」にもアイデア提供で参加してみた(「KAIKI722」)。で、関心の赴くまま、「地域ブランドフォーラム」の全国大会にも出席してみたけれど、会場からは地域ブランドに対する期待の大きさを感じたし、また、成功の要因としてインターネットの力が見逃せないという理解に至っているのも分かった。


 ところで、与論島では、「喜山康三議員の公開質問状」の問題提起を告知文のようにして、町長選が行われた。ぼくは、「与論が与論であるために」何が必要なのか考えさせられたが、まるで古い記録映画を見るようだった。

 そんな中、『奄美の島々の楽しみ方』の山川さんに教えてもらった、『離島発 生き残るための10の戦略』は、与論島の先行シミュレーションのようで、刺激を受けた。与論島の、特に役場の方たちに読んでほしい本だ。隠岐ほどにまだ追い詰められていないかもしれない、けれど早晩やってくる事態に、どう行政体としての与論島が立ち向かえばいいのか、とても参考になると思う。そして、先駆地域のシミュレーションを待たなくても、先んじてやれることをもっともっと進めたらいいと思う。


「巻き込み」と「ネット活用」

 それは「巻き込み」と「ネット活用」だ。

 「巻き込み」は、与論島育成を、与論島内だけではなく、島外の出身者、島に訪れる観光客、島に想いのある人を巻き込んで行うということだ。与論島の人口は6000人弱だが、与論コミュニティの人口は30万人と見なす。

 6月にスタートした「ヨロン島サンゴ礁基金」は、「巻き込み」型の例だ。ただ、ぼくはこの、町からの呼びかけに対しては、想いと具体的計画を教えてほしいと書いた(「与論町へ。もっとメッセージを」)けれど、それは今も変わらない。町のサイトには、「2007年度ヨロン島サンゴ礁基金中間報告書」が用意されているが、これを読んでも何をどうしたいのか、よく分からない。現状の寄付は、心ある人の、言わなくても分かるよ、という寄付だと思う。与論はそれ以上の「巻き込み」が要るはずである。それなら、心ある人の好意に甘えるに止まらず、何をどうするつもりなのか、具体的にメッセージしてほしい。基金は、「『寄付による投票』と呼ばれています」と、そんな教科書説明を聞きたいわけではない。

 「巻き込み」をするにも「ネット活用」は欠かせない。与論島にとってインターネットは、どこでもドアだというだけでなく、小が大に負けないための、小が無くならないための最大の武器だからだ。与論島育成には交流人口が必要だ。交流はコミュニケーションから生まれる。そしてインターネットは、コミュニケーション促進メディアに他ならない。

 だから、与論島におけるコミュニケーション拠点の嚆矢である「与論情報サイト」や、元気ある「与論町地域雇用創造促進協議会のブログ」の活躍が嬉しい。それに続いて、与論の人、与論の事業者の方たちがブログを書くのに期待したい。自分たちがここにいることを、与論島の空気を、竹盛窪さんの「チヌマンダイ」のように、与論を感じたい人へ届けてくれれば、それが与論島の未来をつくる力になると思う。(今年生まれた地域ブランド「よろん島きび酢」のブログも、更新楽しみにしています。)

 また、ロボットシステムメーカーのロボテックが、来年、工場を建設し雇用を促進することも決めている。応援したい。そうそう。巻き込み型で考えるなら、18歳で写真作家デビューした鈴木ゆりあを応援しよう。彼女の被写体のひとつは、与論島なのだ。で、もうひとつ、東京の「よろんの里」だって、与論の地域ブランドだ。そういえば、ここを紹介するサイトがないような。もったいない。今度、店長のヤカに聞いてみよう。

 (ちょっと、上から目線、入ってますか? つい熱くなり・・・堪忍です)


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2007/12/26

映画『めがね』への接近 2007

観られる与論島

 2007年、与論島は、映像作品として観られるという経験をした。これは、与論島にとって初経験だったと思う。映像としてなら、同じく今年あった「新日本紀行」もあるが、ドキュメンタリーではなく、作品の舞台として撮られたのは初めてだった。

 ところで、本当に重要なのは、「初」経験のことではなく、撮られたのは作品舞台としての与論島であり、架空の物語のなかに登場する、「どこかの南の島」であるという設定にもかかわらず、描かれていたのがある意味で与論島そのものであるという点だった。

 「どこかの南の島」という設定が、場所が定かでなく浮遊している現実の与論島のイメージ・ポジションに重なること。そして映像作品として描かれているものの内実が、与論島でしか味わえない与論島クオリアそのものであったこと。この二つの点から、映画『めがね』は、作品を通じて与論島そのものと出逢うという達成をしている。それは、登山口こそ違え、高嶺剛監督が、映画『ウンタマギルー』で「沖縄・琉球」に対してi行ったことと同じだと思えた。

 春以降、映画『めがね』の公開前と以降のトピックスをブログで追えたのは幸運だった。数えてみると、ぼくは、34の記事を書いている。まるで追っかけだ。

 ★ 映画『めがね』ウォッチング


 作品の公開後、この映画に寄せられる声を読むのは楽しい。
 ぼくが読んだ範囲で心に残った感想記事を、現在から過去に遡って紹介したい。


■映画/めがね(12/26)

毎朝、枕元にもたいさんが居るのはイヤだけど、あの、自転車で 迎えに来てくれたもたいさんは、女神かと思った。

 タエコの葛藤のような、なかじまさんの言葉がリアルです。
 サクラのイラストも趣があります。

■めがね与論島ロケ地の映画(12/17)

与論島に行ったことある人だったら、すぐにわかるよね。 与論しかあれへん。

 沖永良部在住のめぐみさんのコメントが、とても印象的。とてもいい。

■「めがね」のマフラー完成!(12/09)

 kokorokokoroさんは、もたいまさこさんがつけていたマフラーを、お手製で再現したわけです。すごいことです。

■映画「めがね」を観ながら思うに(11/11)

「めがね」とは、「見えないものを見えるようにするもの」ではなくって 「めがねでしか見えないものを見えるようにするもの」なのだ

 paris-rabbit-sanさんの、『めがね』の「めがね」理解が、味わい深い。

■映画「めがね」(10/24)

好きなものに自信を持っていいんだってことでした

 ナオさんの、この素直な受け取り方に心動かされます。

■映画「めがね」(10/17)

時間をフィルムに定着させるとこんな映画になるんだろう、というのが実感。 「かもめ食堂」より、より時間や空気に寄っていて、メッセージを探す煩わしさ もない(メッセージはあるのだけど、気がつかないふりをしたくなる)。

 鑑賞時の気分を、さとなおさんはよく言い当てています。

■映画…めがね…(10/11)

与論島で撮影されているので、海がすごくきれいです いかにも南のリゾートの海っぽくなくていいです

 「いかにも南のリゾートの海っぽくなくいいい」。kiyokiyoさんのこのひと言、最大の褒め言葉です。

■映画『めがね』なにもないがある島の日常(10/11)

 映画『めがね』を真っ芯で捉えた、あんとに庵さんの本質的な映画評です。

■映画「めがね」(09/21)

 めぐろのY子さんのウェブコミック?が楽しい。




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2007/12/25

「ありがとう」、のひと言

 16年前の今朝はやく、
 助産院を出ると、真暗な空から白い粒が降りてきた。
 雪だった。

 神経が昂ぶっていて、
 少しも寒さを感じなかった。

 ぼくは信仰の徒ではないけれど、
 またなんて日に産まれたんだろうと、
 不思議を感じた。

 合羽をつけた助産婦さんも、
 自転車で家路を急いでいた。

 ぼくはどうやって帰ったか、もう覚えていない。
 産まれてすぐ、天空を仰ぐように、
 手を動かしていた姿が鮮明に焼きついていた。


 いまじゃもう、お祝いといっても、
 一瞥するだけで、どこぞへ行ってしまう。

 ま、そんな年齢だ。

 収まりがつかず、今日、仕事場から「誕生日おめでとう」とメールする。
 しばしあって、ひと言、「ありがとう」と返事くる。

 それだけで充分だ。
 その後の話は、十年後にでもできればいいのだから。



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地名への接近 2007

沖の島としての琉球弧

 2007年は、何といっても図らずも、地名に夢中になってしまった。
 去年の暮れ、琉球弧の島名の呼称を声に出して読んでみたとき、パティルマ、カキルマと言ってみて、あれ、「加計呂麻は波照間?」じゃないかと思ったのがきっかけだった。波照間島と加計呂麻島は地名として同じだ。そして金関丈夫の仮説通り、パティルマが「沖の島」の意味だとすれば、加計呂麻島も沖の島だ。そう考えると、確かに、加計呂麻島は奄美大島の「沖の島」だった。

 この発見が面白くて、南島地名研究センターの『地名を歩く』をむさぼるように読み、『南島の地名』の資料を求めて国会図書館に通い、地名自体の資料を見たいと「地名資料室」に出かけ、あっという間に地名オタクが一丁、出来上がってしまった。

 地名は、琉球弧の基層と上層を明らかにしたいというぼくのモチーフにもぴったり合うテーマだった。基層を明らかにするのに、費用や在住が必須ではなく、徒手空拳で立ち向かえるのが地名という素材で、ぼくのような在野の立場でも接近可能なのがありがたい。もっとも、地名研究には必須と言われるフィールド・ワーク欠乏症ではあるのだけれど。

 そうやって探求していくと、「沖の島」は、波照間島、加計呂麻島だけではなく、鳩間島、多良間島、来間島、慶良間諸島も、同じ「沖の島」だと気づいた。気づいたというのは無論、ぼくが仮説したというに過ぎないが、ここから、「沖の島」の流れとしての琉球弧という視点を得ることができたと思っている。

 もう少し言えば、平安時代の歌人、藤原公任の作として、

おぼつかな うるまの島の人なれや
わが言の葉を知らず顔する

 の歌が取り上げられ、沖縄でウルマという語を扱うときの出典先になっていたりする。その通り、勝連も、現在は「うるま市」と名を改めたけれど、ここにいう「うるま」も、パティルマと同系列の「沖の島」と同じではないかとぼくは思っている。


久高島=津堅島

 琉球弧の地名探求のなかで、久高島と津堅島は地名として等価であるという仮説に辿り着いた。

 ※「津堅地名考」

 もともと、琉球弧の島名呼称のなかで、津堅島を「チキン」というが、それは「チキタン(着いた)」から来ているという説明に頷けないので、本当の由来を知りたいと思ったのが発端だった。ぼくは、それを「崖のある山」として解いたが、波照間島のときと同様、「崖のある山」という地勢名は、津堅だけでなく、具志堅、久手堅、宇堅、宇検、そして久高も該当すると見做していった。

 地名は、ひとつを紐解くと、眠っていた仲間達が、共鳴して騒ぎ出し、名乗りを上げてくるようで面白い。それに、波照間と加計呂麻にしても、津堅と宇検にしても、奄美と沖縄が同一の地平に浮かび上がってくるのが嬉しかった。


ユンヌとは

 ところで、もともと地名に関心を持つのは、与論島の呼称である「ユンヌ」の意味を知りたいからだ。ユンヌという語音からすると、沖縄の与那や与那覇、与那原なども同じ系列だと漠然と思っていたが、沖縄の地名研究を見ると、沖縄(本当)内の与那系地名は「砂」にちなむという仮説はあるものの、与論島のことは度外視しているように見えるのが不満であるという背景もあった。

 ぼくは今年、与論島を「砂の島」として仮説し、その手ごたえを確かめるように、島内の砂浜を巡ってみた。

 ※「与論砂浜三十景」

 巡ってみると、与論島は八方美人で、どこから見ても砂浜を玄関のように差し出している島であることがよく分かり、その広がりに圧倒された。

 けれど、「砂の島」としての確信は深まったかといえば、そうでもなく、ぼくは沖縄の与那系地名の理解のなかで、与論島と同じく度外視されているように見える与那国島との類縁が気になっている。

 与那国のドゥナンという呼称、ユノーンという他称、ダンヌという砂浜の存在、そして15世紀の資料に出てくるユンイという表音などを手がかりにすると、ユンヌと等価と思えてならないからだ。

 ※「ユンヌの語源 註」

 ただし、与那国島は、与論島ほどには「砂の島」には見えない。そうすると、地名の初期原則である、地勢を言い表したものという原則に適っていないような気がしてくる。また、ドゥナンとユンヌを同じと見做すときの鍵は、与那国島の方言から得られるd音とy音が等価であることを根拠にしているが、両者を比べて、d音が古形に当たっていると見做すと、ユンヌもドゥンヌと呼ばれた可能性を持つわけであり、すると、砂としてのユナの意からは離れるように見えるのだ。

 それは考えすぎなのか、それとも別の理由があるのか。たとえば、竹富島出身で地名オタクの友人の崎山毅さん(とぼくが勝手に思っているだけで、崎山さんは1969年に他界している)は、

 ※「大隈・奄美、八重山の地名相似説」

 を唱えていて、これによれば、西表島は、種子島の西ノ表から、西表島の八重岳は、屋久島の八重岳から、波照間島は加計呂麻島から、そして、与那国島は与論島からであるとしている。この相似説は、十代の頃、南島航路を船に揺られながら、地図を広げたとき、西之表と西表は似ているとか、与論と与那国は終わりの島として一緒だという素朴な気づきとして、そういえば、そう思ったことがあるのを思い出した。相似説は、そんな素朴な気づきを生かした仮説であり、一定の信憑性があると思える。というのも、本土のなかでも同じ地名が反復されるのは普通に見られることであり、たとえば、谷川健一の『日本の地名』によれば、日和山という地名は、全国で八十余個所ある。それと同じことで、琉球弧のなかでも、地名が反復されているのだ。

 崎山さんとぼくが違うように考えるとすれば、崎山さんが、一様に、南下勢力による反復を考えていることだが、ぼくは、南からの反復も、北からの反復も両方ありえると思っている。たとえば、波照間は加計呂麻の反復地名ではなく、加計呂麻が波照間の反復地名である。同じように言えば、ありうるとしたら、与那国は与論の反復地名であるとかもしれない。この点は、崎山さんと同じだが、ぼくの場合、南下勢力は、崎山さんの想定よりもっと太古のものだ。


地名の三層モデル

 地名ひとつ取ってみても解きほぐすべきことはいくつもある。作業仮説として、ぼくは漠然と、地名を三層で捉えようと思っている。


 p3 -----------------

 p2 -----------------
 
 p1 -----------------

 p3:地名を形態として識知。弥生期南下勢力により文字として定着。
 p2:南方からの地名。三母音化。
 p1:それ以前の、地勢としての地名。

 ※ 現在からの時間: p3<p2<p1

 たとえば、波照間は、もともと「p2」を下限としパティルマやカキルマという語となり、「p3」層の段階で、波照間や加計呂麻となった。与那国島の「租納(ソナイ)」は、アイヌ語で「p1」層にできた地名に「p3」層で漢字を当てたものだ。津堅島も同様である。

 こんな風に見做すことで、新しい理解が生まれるか、今後の課題だ。


与論の地名 

 ただただ自然に呼び習わしてきた与論島内の地名についても、由来が分かるところも現れて、それはそれは楽しかった。那間は泉であり、金久は、(荒い)砂のある地のことだ。そして、赤崎と寺崎は、太陽と砂の色に由来しているかもしれず、赤佐は、ブローチに由来しているかもしれなかった。また、立長の由来についても一歩、詰め寄ることができた。

 ところで、こうした突き詰めをする思考作業のなかで、牧野哲郎さんの論文は心強い味方だった。牧野さんの「沖縄←→奄美の共通地名を求めて」は、沖縄と奄美で、同じだと思える地名を整理したものだが、ぼくは分からない地名があると、この表を手がかりに思いをめぐらすことができた。

 牧野さんは、奄美のなかから語源の難しい小字名約5000枚をカードに書き、それを五十音順に整理。沖縄の地名についても同様の作業を行い、それをもとに考察している。こんな膨大な作業の恩恵を受けて、ぼくたちも考えることができるのだ。徳之島出身の牧野さんは、奄美出身者として沖縄の地名研究とのつなぎがないのに気づき、この作業を行っている。問題意識も共通しているのだから、感謝も一入というものだ。

 ◇◇◇

 やれやれ、2007年は地名に夢中だったと書こうとしたら、この長さ。オタクのオタクたる所以だろうか。笑い飛ばしください。



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復帰をどのように語るのか

 今日は奄美の日本復帰から54周年に当るという。
 このタイミングで、「伝承する会」が設立された、とニュースは伝えている。

 ※ 奄美復帰きょう54年 「伝承する会」設立(南日本新聞)

復帰運動の歴史と教訓を風化させないよう、次世代の「語り部」育成などに取り組む。

 奄美の日本復帰を風化させないために、「伝承する会」は、どう伝えようとしているのだろう。
 ぼくは、このテーマは、奄美の日本復帰を伝える、そのこと自体より、「どのように」伝えるかが、ことの他重要だと思っている。

 次の世代にとって、奄美の歴史を引き受けることは、自分の生を豊かにすることにつながると思える語り口、それこそが大事だと思うからだ。

 「伝承する会」の活動を聞えてきたら、また改めて言及したい。



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2007/12/24

神アシャギの位相同型

 実は、ここまででも、池浩三の『祭儀の空間―その民俗現象の諸相と原型』について、三分の一の道程を辿ったに過ぎない。

 池は、琉球弧の神アシャギの建築形態をつぶさに見ながら、高倉、稲積み、産屋との関連を探っていた。そしてこの後、新嘗祭や大嘗祭との関連を辿る道程へと舵を取る。この道程は自然な過程であり、当然、そこへ、向かうべきだと思える。

 ただ、ぼくの琉球弧の神アシャギを探るという関心からすると、やや軌道を離れてゆくので、ぼくもここを別れ道としなくてはならない。池の方法とは分岐せざるをえないと思う。 

 わが国には、神社の境内の老樹・大木などに注連縄をはり、これを神木とする風習が広く見られる。また森そのものが神聖視され、木を伐ると祟りがあると伝えられているところもあって、これも古い習俗を示すものである。はるか原始の時代にあっては、多くの学者が説くように、あらゆる樹木に精霊が宿ると人々は考えていたかもしれない。すなわち草木すべて物いう時代である。そして未開人は落雷にしばしば撃たれ火に満たされる高樹を恐怖の眼をもって眺めたにちがいない。しかし、このことを、特定の樹木や森を神聖視すること、すなわち樹木崇拝と同一視することにはなお議論の余地があろうというものである。特にいわゆる「神髄信仰説」のように、常緑の自然木に神を迎える信仰形態、あるいは高樹に神が憑依すると考える観念形態から、祭儀に際して柱を立てて、これを依り代としたという通説には、筆者は、これまでのヒモロギや柱に関する諸現象考察を通してみると、どうも納得がいかないのである。

 すなわち柱の信仰は、こうした発展形態とは逆に、古代稲作農耕生活における収穫祭の折、神々を迎えるために、新室とよばれるような祭り小屋を毎年建てる行為のなかで生まれたのだと考えたい。自らの手で立てた柱という一つの存在に神観念が結合することによって柱の神聖視・象徴化が生じた。さらにその柱の垂直性が特定の樹木の神聖視へと進んだ、と考えられないだろうか。おそらく特定の森や山への信仰も、稲積みやそれを象どったムロやヒモロギをつくる祭祀行為のなかで生まれたものであろう。人間は自らの手で作った素朴な家に住むようになってはじめて、自分たちの世界、宇宙を認識するようになったといわれている。

 池は、樹木信仰を、どうあっても稲作農耕の祭り小屋に起源を求めずにいられない。この欲求がどこから来るのは、ぼくにはよく分からない。ただそれは、「日琉同祖論」の欲求を分からないというのと似ていて、気持ちは分かるが、真実ではない、と感じる。

 同じ論拠から、池にあっては神アシャギにしても、稲作農耕の祭り小屋としてが、その起源なのだ。しかし、それは、琉球弧の歴史を、あるいは日本の歴史を浅く掬うことだと思える。だから、この方法にぼくは袂を別たざるをえない。

 伊勢や出雲の神社の原型は、去来信仰の消長・神の常在化の傾向とともに、祭祀の中心が仮設的なムロから常設の神庫(穂倉)に移行するなかで形成されたが、それが神の居所として建築的にまた造形的に整備されればされるほど、かつての祭り小屋(ムロ)がもっていた人と神とをつなぐ機能は失われていった。そのような意味では、本土における神社建築の成立は、神話的時代の一つの終焉であったともいえよう。  これに対して、沖縄の神アシャゲは伊勢や出雲のように建築として洗練された造形に発展しなかったが、しかしそれゆえに、農耕儀礼における祭り小屋の機能や、このささやかな空間のなかで生まれた信仰や観念を、比較的純粋なかたちで保存してきたのである。それは、やはりかけがえのない一つの文化遺産というべきであろう。 (『祭儀の空間―その民俗現象の諸相と原型』池浩三)

 池にあっては、神アシャギは、洗練されてはいないが、本土の神社や大嘗祭施設の原型をなすものとしての意義があったのだ。

 たしかに神アシャギは、大嘗祭施設との共通性を持っている。けれど、ぼくの問題意識は、神アシャギと大嘗祭施設の共通性をもとに、一方をその原型を長く保存したものであり、他方を建築形態が発達したものとはみなすことにはない。むしろ、神アシャギのなかに、大嘗祭施設にはみつけることのできない古型を見いだそうとするだろう。それこそが、琉球弧の魅力だと思えるからである。池の検討した、高倉や産屋やシラは、神アシャギとして形態化した宗教精神の位相同型物なのだと見做せば充分で、それを稲作農耕を起点に、時系列化するのは無理がある。宗教精神はそんなに底の浅いものではない。

 ただ、池の、正方形という図形に根拠に置いた祭儀空間論には、「日琉同祖論」と同じ窮屈さを感じるが、いまだに古びない風通しのよさがあった。それは、奄美と沖縄の事例を同列に、等価に扱う視線のことだ。



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一期一会の親子対決の続き

 今年のはじめ、小学校を卒業する子どもの野球チームと父兄チームが対戦するという卒業イベントがあって、参加させてもらった。そのときは、こんな親子対決の舞台は一期一会だろうと、厳粛な気持ちにもなったが、中学になってもあるというので、また、参加させてもらった。

 まあ、前回と同様、スニーカーにジーンズというなめたスタイルはぼくだけで、他のご父兄は、ユニフォーム姿での登場だった。それに、思い返せば一月のあの日以来、ぼくはまともにスポーツをしていない。言ってみれば、一年ぶりのスポーツなわけで、身体が追いつくのか、全く分からなかった。

 でも、終わってみれば楽しい試合。風は強いけれど突き抜けるような青空のもと、身体の急成長軌道に入りつつあり、野球らしいプレイができるようになった子ども達を相手に、走って投げて、嬉しい交流ができた。難しいショートのゴロをきれいにすくうわが子の姿も格好よく、親馬鹿だけれど、嬉しかった。

 考えてみれば、中学一年というのは親子対決ができる最後の年齢なのだろう。来年になれば、もう子どもの方が強くなっている。そうしたことを踏まえての企画なのだ。自分の子どもがまずいるのだけれど、それだけではない。一緒にプレイしている子どもたちのことも見守り育てている。そういう想いがここにはある。そんなありがたいことに、また、気づかせてもらい、感謝の想いが湧いてきた。



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2007/12/23

伊是名のシヌグ

 伊是名のシヌグは、安田のシヌグとも与論のシヌグともずいぶん違う。この三者のシヌグは、地域として近接しているにもかかわらず、似ていないのだ。

事例二一 沖縄伊是名島のシヌグ
 沖縄北部伊是名島では旧七月十八日に行なわれるが、『琉球国由来記』には、「七月、島中ニテ日撰仕申。  遊び一日ノ事 右、アクマハライトテ、男童十人程、アマミ壱人、衣桐袴着テ、白サジ、シレタレ、結ビシテ、手々こ、棒ツキ、アマミ人、並、其日ノ、年ナフリノ人、弓矢持、先立仕、オナヂャライハウ、エイヤイハウ、ト唱テ、家々二入り、又島ノニシ崎マデ行テ、ネズミヲ取り、年ナフリ持タル、矢ノサキアテ、海二人レ捨テ、村二帰り、一所に寄合、神酒持寄、祝申也。」とある。

 当日、男女神人は、諸兄・仲田・伊是名・勢理客の順に各字のアサギで火の神祭を行なう。伊是名島では、神アサギは各字の根所の屋敷内にあって、地アサギとよんでいる。また、これとは別に根所の住居に隣接して大抵火の神を祀っているアサギがある。各字のアサギとはそれのことで、例えば仲田のアサギは〝仲田・ヌ・アサギ″とよんで、屋号にもなっている。

 火の神祭と並行して、シヌグの年齢に当った男児は、白のドンジに白サジ・シンタン (白衣・白鉢巻)を結び、棒をついて各字のアサギに集合し、男の神人が弓矢を持ち先に立って、伊是名・仲田・諸兄は伊是名城に、勢理客は天城に連れて行く。仲田の例では、伊是名の大城のイビ(拝所)へ、男神人が九歳から十五ヤネガク歳までの男の子を連れて行く。ここでウンジャミ祭の折にこしらえておいた屋根形を取り壊す。帰途、子供たちは各組ごとに分れ、それぞれ受け持ち区域の家々を訪れる。「ウナジャーレー、ホーホー、ヒヌネー、チントゥク、トゥイトゥイ」と唱えながら、二番座・三番座・台所と家の中を手に持った樺で叩き廻る。この所作を鼠除けだといい、子供たちが訪れない家は、鼠に畑を荒されると伝えられている。また、子供たちは一度この行事に参加すると健康になるといわれ、三カ年はひき続いて出なければならない。伊是名部落では、子供たちが鼠を一匹つかまえて、阿檀の木で作った船に乗せて海へ流している。こうした厄払いが済んだら、所定の場所で水に浸って身を浄め、アサギに帰って昼食をする。一休みの後、米粟渡りのお粥の直会をして、男神大の音頭で手拍子に合せて、ビルマオナヂャレー、ハウハウ、ヒーマーネーハウハウを合唱して終わる。
『祭儀の空間―その民俗現象の諸相と原型』池浩三)

 伊是名のシヌグは、根所の神アシャギで行われる点、祭儀の新しさを感じさせる。内容が鼠祓いだという点も、稲作農耕の成立を背景に思わせる。
 ところで鼠は、単なる忌み嫌われる生きものではない。柳田國男は「鼠の浄土」で書いている。

 奄美大島の農民たちが、是ほどにもひどい毎年の害に苦しみながら、なお鼠に対して尊敬の意を失わず、かなしの語をつけてこれを呼ぶばかりか、一年のうちに少なくとも一日、通例は旧八月以後の甲子の日をもって、鼠のための物忌の日とし、鼠という語をロにしないのみか、その姿を見れば害があると信じて、終日野原や畠へも出ずにいたというのは、何か梶原によくよくの理由があって、それがもう記憶の外になりかかっているのである。かつては鼠が神山の茂みに住んで、村の生業を荒さずにおられた時代が、あったことも考えられるが、そういう平和な対立の間からは、なお是だけの畏敬の念は生まれなかったろう。ハブという毒蛇の場合にも見られるように、むしろ、稀々に意外な暴威を振うのを実験した者が、これを神秘の力に帰するようになったので、他所の飢えたる鼠の群が、海を渡って入ってくる時などに、とくにこの信仰は伸び広がったのではないかと思う。

 昇曙夢さんの『大奄美史』に、大島では鼠も一つの神がなしで、テルコ神の使者だとあるのは、多分近頃までそういう言い伝えの、まだ残っている村があったことを意味するものであろう。新たな文化が普及する前までは、この島にはナルコテルコという神を、毎年二月に御迎え申し四月に御送り申す厳粛な祭があって、その式作法も詳かに記憶せられている。本来は沖縄諸島のニルヤカナヤの大主も同じように、単に一つの神の二重称呼であったのを、後々是を双神と解するようになって、一方のナルコ神を山の神、テルコ神を海からくる神という人が多くなった。伊平屋の島にもナルクミニアルクミという言葉が残っていて、それがまたニライ・カナィ、すなわち海上遥か彼方の神の世界だったことを考え合わせると古い信仰には伝承の中心がないために、歳月を重ねるうちに、次第に島ごとの変化が多くなってきたのである。島々の神歌は必ず対句をもってくり返され、一神二名ということはむしろ普通であった。歌が衰えて名の暗記を主とすると、是を二つの神と解したのも自然である。沖縄本島では、その一方を天の神と見ようとする傾きも見られるが、奄美の島では蒼空の信仰はまだ起こらず、神山の霊験はなお大きかった故に、こういう説明も可能であったので、或いは海を渡ってきて山に入って行く鼠の群が、こういう双立神の信仰を導いたということも想像せられる。(「鼠の浄土」)

 鼠はニライカナイからの使者として見なされる側面もあるのだ。こうした背景を置けば、伊是名のシヌグで鼠を送る儀礼が、鼠祓いとは別の表情で感じられてくる。

 農耕の発達した伊是名で、鼠がシヌグに登場するのも、むべなるかなと思える。シヌグは幅も広く奥も深い。


 追記。この記事に記すべきことでもないけれど、鼠を与論ではユムヌというが、この音が、与論島の地名呼称であるユンヌときわめて似ているのはとても興味深い



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与論島を語る自選記事三つ

 mb101boldさん(「まなめさんの素敵な企てに私も参加してみよっかな。」)に教えられて、ぼくもまなめさん「304 Not Motified」の企画に参加してみようと思う。

 記事内容はあちこちと飛んでいるので、せっかくの【TB企画】には、ブログのタイトルに合わせて、わが与論島の魅力を語ったもののなかの三記事をあまり考え込まずに、ピックアップしてみた。。

 1.百分間の帰省-映画『めがね』メモ

 今年は珍しく、語る与論より、語られる与論が上回った年だった。言うまでもなく、映画『めがね』のことだ。この映画のおかげで、初めて与論島は、映画として描かれることになった。映画では、「どこかにある南の島」という設定だが、そのことは与論島を語られなくする要因にはならなかった。、むしろ、このメタファーが与論島の現実の位相と同一であることがポイントだった。まさに、あるべき与論島の描かれ方だった。
 映画『めがね』をに関するときどきの記事は、「★ 映画『めがね』ウォッチング」のカテゴリーに集めている。


 2.優しい出入り口-与論砂浜の表情

 与論島の島内呼称であるユンヌの語源を「砂の島」と解しているので、それを実感で確かめようとして、島内の砂浜を円を描くようにめぐり、写真に収めた。巡り終えた感想の記事を、二つ目に選んだ。与論は東西南北、美しく白い砂浜で囲まれていて、人間にとって優しい出入り口に開かれていると思えた。それはすばらしい体験だった。
 ただし、与論島のユンヌが、「砂の島」の意味なのかどうか、それは持ち越された課題だ。砂の島の表情は、「与論砂浜三十景」に収めた。


 3.イノー・ブルー

 与論島の魅力の核心を、あの珊瑚礁の礁湖の蒼に求めたのが、イノー・ブルーの記事だ。ぼくは人を惹きつけてやまない、「礁湖の蒼」を根拠に、与論論を展開したいと思っている。これを少しだけ進めたのが「五色の与論」だが、ここを起点に、与論島の価値の基底を来年は描きたいのだ。




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2007/12/22

安田のシヌグ

 池浩三の『祭儀の空間―その民俗現象の諸相と原型』は、琉球弧の祭儀の事例集として読むこともできてありがたい。

 与論島に近い安田のシヌグ祭も辿ることができる。

事例二十 沖縄国頭村安田のシヌグ
 沖縄本島北部安田では、毎年旧七月発亥の日を例祭とし、ウンジャミ祭と交互に行なう。粟亥の日を選ぶ理由は、昔は猪の害が多く、これを祓うためだったという。シヌグのことを「大シヌグ」と称しウンジャミを「小シヌグ」と呼ぶことがある。昔は亥の日から三日間の行事があったが、昭和初年から二日に短縮された。

 祭りの場所は、神アサギとその前のアサギ庭(シヌグマー)である。神アサギの北に根所、東にアサギヌスリ、南にナカメー、西にノロの拝所(産井)があり、これらは古い屋敷跡である。またアサギ庭の北方にササ、西にメーバ、南にヤマナスとよぶ山がある。これらの山は拝所ではないが、祭りのなかで、男達の登る定められた山で、凝装するためのミーハンチャ(木の実は赤く魔除けになるとして祓いに用いる)やその他の木の枝を用意する山でもある。昔、ササは最も古い家系、メーバはその次、ヤマナスは新しい家系と一定の基準があった。神アサギには、柱が十三本あり、柱数だけ神人がいるという。神人は神アサギの中で柱を背にして定められた位置に着座する。神人が参加できない時はその柱を神人に見たてて、神酒を差し上げる所作をするという。

 第一日、前日に神アサギを修繕し、アサギ庭には豊年祈願のノボリを立て祭りの準備をする。当日、神人達は早朝部落内外の拝所・御嶽で祈願をする。午後ヤマヌブイ(山登り)といって、男達(六歳~五十歳迄)は上半身裸か、シャツにパンツだけ(昔は全員赤フンドシひとつ)で山に登る。以前は山登りの前に神アサギで神人から盃を受けたという。山へ登ると、予め用意してあった木の葉や草を体に纏い、頭には俗称シバという草で造ったガンシナ(冠)を被り、五尺程の小さい木の枝を各自持参する。準備が整うと、太鼓を合図に、山の神に豊焼、健康、子孫繁栄を祈願し、それから太鼓の音に合わせて「エーへーホー」と掛け声をかけながら円陣をつくる。一回まわるごとに、「スクナーレ、スクナーレ」と唱えながら、手に持った木の枝ではげしく地面をたたく(島袋源七『山原の土俗』には、「頂上にある洞<口径四尺、深さ五尺程>を巡りつつ、ユーへーホーイと唱え三回ここなつく」とある)。やがて、メーバからの太鼓の合図が聞えると、男達は一列縦隊に並んで太鼓持ちを先頭にエーへーホーと掛け声勇しく山を降りる。

 その時、各宇内にいる女達は全部酒をもって彼等を迎える。これをサカンケーといっているが、それが終ると部落へ向ってさらに進み、神アサギ近くの畑の中(昔、安田ンマーという家の屋敷跡)で合流する。ここでは、男達は大きな円陣をつくり、一回ごとに手にした木の枝で女の肩をかるくたたく。この所作も三回くりかえす。部落内の各所での祓いを終えると、部落内の道を通って東の浜にでる。浜では、男達は体に巻きつけた蔓葉や木の枝をその場に捨て、砂の上に坐り、まず山に向って礼拝し、次に海に向って礼拝する。続いて太鼓を合図に一斉に海に飛びこみ、身を浄め、海からあがると、ヤナギをかたどって作ったノポリをかかげ、神人を先頭に、部落の西端を流れる川へ行き禊をして神アサギに引きあげる。

 祈願は神アサギを中心にして行なわれるが、最初は根所で神酒・花米・御馳走を供えて豊作、健康を祈り、それがすむと、そこから神アサギに向ってお通しをする。次に神アサギから根所に向って拝み、神アサギでの祈願が終ると、ナカメーの拝所に行き、祈願をする。
 これらの神事に次いで、字の者が円陣になって、猪狩り・魚獲り・船の進水・田革とりなどの模擬演技をくりひろげる。猪狩りでは、男一人が猪に扮し、男児が猟犬となって、神大が猪を射とめる。魚獲りはワラ網で漁の演技をし、船の進水は、丸太に釘を打ったり、それを海に運びだして浮かべるという所作を行なう。
田草とりほ、男女で田草をとったり、弁当を食べたりという演技である。

 また、余興として船の修繕を模した演技だといわれる「ヤーハリコー」がある。一本の丸太に十教本の縄をつけ、青年男女がその丸太を持ってヤーハリコ」の掛け声で、中央から右方へ小走りして行き、またもとの位置にかえる。次には左方に走り、もとの位置にもどり、ヤーハリコーの掛け声で神アサギに向かって突進し、屋根にはげしくぶつける。この動作を三回繰り返す。一方、その間水桶で海水をかける真似をする。以前はノミで船の穴に漆喰を塗りこめる仕草があったという。夜には最後の余興としてウシデーグが行なわ
れる。
 シヌグの二日目には山登りはなく、夕方からウシデークと相撲がある。以前には男女の神人が交互にオモロを唱したという。
『祭儀の空間―その民俗現象の諸相と原型』池浩三)

 シヌグが新しい祭儀ではないかと思えるのはなぜか。
 それは、根所の近辺を拠点になされていることだ。根所の屋敷跡にある神アシャギは、ぼくの考えでは、新しい神アシャギである。

 シヌグが古い祭儀を包含していると思えるのはなぜか。
 それは、「山へ登ると、予め用意してあった木の葉や草を体に纏い、頭には俗称シバという草で造ったガンシナ(冠)を被り、五尺程の小さい木の枝を各自持参する」という擬装が、山としての自然への同化を現しているからだ。ぼくには、「昔は猪の害が多く、これを祓うため」という理由は、住居を山から平地に移して、そもそもの祭儀の意味が忘れられた後につけられた理由のように思える。山の化身となる様式は、稲作儀礼よりは狩猟儀礼の面影を宿していると感じられるのだ。

 ここには、谷川健一が『南島文学発生論』で、シヌグ祭とスクを結びつける根拠になった、「スクナーレ、スクナーレ」の掛け声も見える。(「シニグの由来はイュウガマの豊漁祈願!?」

 シヌグは、たくさんのヒントを包含した新旧混合の祭儀のように見えてくる。もっともっと、その元始の姿が見えるよう、眼力を養いたい。




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2007/12/21

神アシャギとシラ

 池は、正方形という建築形態の同一性から、「高倉」に続いて、「稲積み」についても、神アシャギとの類縁を探っている。

Shira
 
















 稲積みは、八重山では「シラ」と呼ばれている。

事例十七 八重山地方の稲穂みシラ
   稲穂を積み重ねて貯える、いなむら(稲叢)をシラといっている。普段は甘藷食をしていて、時々稲穂をシラから引き出して精米するわけだが、とても便利な構造で、ネズミの害を防げるし、湿気を防ぐのにも最適である。大量に精米する時は、マイクラシ(米おろし)、シラウラシ(しらおろし)といって、三重四重におおいかぷせてある茅こもを取り除いてから、稲束をとり出し、また元どおりの姿にしておくのである。小量の米が必要な場合は、シラのところどころから稲東をつかんで披きとるのであるが、この方法を、シラヌイ(しら抜き)、マイヌイ(米抜き)という。これは抜き方がまずいとネズミに巣を作らせてしまうので、注意深くところどころから適当に抜き出さないといけない。
 新米が入ると稲束のまま庭や道に一面に広げて乾燥させた後、吉日を選んでシラに積み上げ、表面は茅とまをおおうて、頂点をフガラヅナ(黒ツグの毛の綱)で巻きつけた茅で押えてつくり上げる。シラを積み上げたら、シラヌニガイ(願)といって神酒とツカンバナ(一合ほどの白米)を供えて祈願し、夜はシラヌヨイ(祝)といって、ごちそうを作って喜び合う風習がある。

 (中略)ところで、シラは建築的施設とはいい難いが、発達史的にみて稲穂貯蔵の原初的施設といえよう。このシテの石柱の高さを、人が屈んで出入できる程度まで高くし、その上に筆子竹の床のある収納空間を予め造れば、稲束の出し入れに簡便な建築的貯蔵施設ができあがるだろう。このように想定されるシラの発展型は南西諸島の高倉に直接つながるものであろうし、それはまた、外観および正方形平面において、神アシャゲ(伏屋型)のそれに酷似するものであろう。すなわち、神アシャゲとは稲積みであるシラを原型とし、高倉という建築形態へ発展する過程で、祭場として機能分化したものと考えられるのである。
『祭儀の空間―その民俗現象の諸相と原型』池浩三)

 本当はここはゆっくり進みたいところだ。
 柳田國男は、『海上の道』の「稲の産屋」のなかで、「シラ」を「白」と結びつけるとともに、同じく八重山では人間の産屋を「シラ」と呼んだことから、「シラ」を、生むもの、育つものと解釈しようとしている。
 また一方、村山七郎は、「シラ」の「白」を、ティダに通じる「光」としてその語源を追究していた。ぼくはそれを手がかりに、映画『めがね』の舞台にもなった寺崎を、白い崎、光る崎と解釈しようと試みたことがある。(「赤と白-赤碕と寺崎」)。
 それだけでも面白いのだが、ここにもうひとつ、「シラ」が稲積みとして呼ばれてきたということに思いを寄せると、喜山康三さんが言うように、シヌグのサークラの「サー」を「白」と理解する可能性もあることに気づく。与論言葉では、「白」は「サー」だからである。
 「シラ」について、一方で、「生まれるもの、育つもの」という解釈があり、もう一方で「光」という解釈がある。前者によれば、稲積みを「シラ」と呼んでいることの関連から、サークラを「白の倉」と理解できてくるし、「光」と解すれば、寺崎を「白の崎」と理解できてくる。どちらも魅力的な考え方だと思える。

 さて、ここで池の文脈に戻ると、柳田國男や村山七郎の語源探求に比べると、「神アシャゲとは稲積みであるシラを原型とし、高倉という建築形態へ発展する過程で、祭場として機能分化したもの」という池の仮説は底が浅すぎると思える。神アシャギの原型は、稲作農耕以前に求めることができるものであり、「稲積み」が原型であるはずはないと思える。池は、「稲積み」の形態が、彼が神アシャギの原型とみなす「伏屋型」に類似する軒の低さから、そこに原型を見るのかもしれないが、「稲」に起源を封じる窮屈さがある。この窮屈さは、「日琉同祖論」の窮屈さと似ている。



 

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2007/12/20

神アシャギとサークラ

 池は、次に、真四角は神の家として忌避されるが、高倉は真四角であるとして、神アシャギと高倉の類縁性を確かめようとしている。

 奄美加計呂麻島の「真四角の家は神の家として、民家を正方形に建てることを禁じた」とする禁忌が、神アシャゲが存在した南西諸島において普遍的なものであったかどうかは、はっきりしないが、神アシャゲを正方形平面とする形態規範があったことは確かであるから、こうした禁忌の存在は十分に蓋然性のあることと考えなければならない。炊事屋や納屋などに正方形平面のものがあっても、この穴崖構造の建物は一般に耐用年数の短いも のであるから、近年、そうした禁忌観念が希薄になってから建てられたものとも考えられる。しかし、高倉は正方形平面が主流で、その存在は少なくとも『おもろさうし』編纂年代、すなわち十五世紀まで遡るものであるとすれば、神アシャゲとの関連について説明する必要が生じてくるであろう。

事例十二 奄美与論島のシニュグ祭のサークラ 
 与論島のシニュグ祭は、第一期の収穫を終え、旧盆をすませた七月十七日から三日間の行事で、サークラという大家(宗家)を中心とする血種(血縁的集団)が集まって、新穀を祖神に供え、豊年や血種の幸運を祈るが、十七日には、老若男女は晴着を着、味物を携えて村のミヤ(祭祀広場)に建てられた、これもサーグラと呼ぶ仮小屋に集まり、祈願の祝詞を唱えた後、酒や味物を神に供えてから一同も共に大いに飲食し、また祝女など神人による「神遊び」をする。サーグラ集団は四つあるが、主盛となるショー(地名)周辺はかつて麦屋地区の飲料水の水源地となった湧水のあるところで、今でも古い屋敷跡と思わせる大木が立ち、この地区から移動した家が古老の記憶をたどっても数十戸はあるという。サーグラという仮小屋は、素丸太、竹などで骨組をつくり、舟の帆や席を覆せたものである。

事例十三 宮古・八重山諸島の座
宮古・八重山諸島には「座」とか「元」と呼ばれる祭祀場があって、一般に御嶽の中にあるが、建物が設けられているとは限らない。

高倉そのものが祭祀場であったという痕跡は認められない。
『祭儀の空間―その民俗現象の諸相と原型』池浩三)

 池は、この考察の結果、神アシャギと高倉の類縁の根拠を見いだせずにいるように見える。

 しかし、いまはそのことより、ここで与論のサークラも事例に登場することに注意がいく。池は、サークラをセジ(精霊)の倉のように解しているが、この「サー」の解釈にあまり心惹かれない。ただ、神アシャギの考察のなかの事例として出てくるのはうなずける気がする。

 サークラは、シニグにおける祭祀場であり、そうであるなら、シニグにおける神アシャギをサークラと呼ぶというように、位相同型と見なしてよいのではないかと思える。

 また、いまだに、サークラの「サー」の意味について、自分を納得させられずにいるが、八重山に「座」と呼ぶ祭祀場があることは、興味深い示唆に思えたりする。


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2007/12/19

イザイホーの神アシャギ

 続いて、イザイホーの神アシャギを見てみる。長くなるけれど、記録自体が大切に思えるので、そのプロセスを引用しておく。

事例十 沖縄のイザイホー祭
 沖縄知念村久高島では、十二年目ごとの午年旧十一月十五日から五日間にわたってイザイホーとよばれる神祭がある。この島の祭祀組織には男子と女子の組織があるが、イザイホーに関係があるのは女子の祭祀組織である。最上位に外聞ノロ、久高ノロがおり、その下にナンチュ (祭りの時雑用を受けもつ、三十~四一歳)、ヤジグ(祭りの時の世話役・進行係、四二~五三歳)、ウンサグ(神酒を接待する役、五四~六一歳)、タムト(祭りの時白衣をつけてノロ・掟 神の供をする、六一~七十歳)などの神人がいる。イザイホーの神祭の本質は、第一には三十歳を迎えた島の全女性に神人としての資格を与えるための儀式、いわば巫女への入社儀式であるが、通過儀礼としての成女式の意味もある。第二にはニライの神という来訪神を迎えて歓待し、その神の祝福を受け、次いで神人共食を行なうための祭式儀礼であるという。

 祭りの前日までに御殿庭(久高殿)という祭場をはじめ、ノロヤー(祝女屋)、根所、イザイ山の七ツ家(イザイ屋ともいう)、沐浴するイザイ川などに白砂を敷きつめて清める。御殿庭の神アサギは間口・奥行とも四・五メートル、二つの出入口以外はすべて柱と貫で構成されている建物であるが、神祭時には。クバの葉で壁を成し、内部の土間には白砂をまき、その上に竹を編んだムシロを敷きつめる。神人たちが渡る七ツ橋(一メートル×〇・七メートルのグパの枝を梯子に組んだもの)をこの神アサギの入口の地面に半ば砂に埋めてかけられる。はじめてこの儀式に参加するナンチュたちが三日間お籠りする七ツ家は、イザイ山の中に、一軒(二メートル×五メートル)を三区画にしたもの二棟と、ほかに小さなもの一棟、いずれもクバの葉で葺いた片割れの掘立小屋が男手を借りて建てられる。新参のナンチュは「七ツ橋渡り」をし、七ツ家で三日間お寵りをする。その間、毎晩子の刻から寅の刻までオモロを唄い、毎朝早くイザイ川に行って沐浴する。厳しい物忌みの生活を経てナンチュになるのだという。

 第一日、ユクネーガミアシピ(夕神遊び)といっている。夕闇せまる頃、洗い髪をたらし、白衣をつけたナンチュと巻髪に自鉢巻をしたヤジグが、外間ノロ家、久高ノロ家から掟神の先導で、エーファィ、エーファィの掛け声で、御殿庭へ駆け足でやってくる。ここで神アサギの前の七ツ橋をナンチュが七回往復して、ヤジグ共々神アサギの中に入り、グバ戸を閉じてオモロ(神歌)が謡われる。それから、ナンチュは神アサギの後の戸を出てイザイ山の七ツ家に行く。この夜から三日間、夜はオモロを唱し、朝は沐浴潔斎する。
 第二日、朝神遊びという。山籠りしていたナンチュがノロ・掟神・ヤジグの先導で七ツ家から御殿庭に静かに列をなして出て来て、庭でノロ・掟神を中にして、まだ髪をたらしたままのナンチュ、その外側をヤジグが輪になり、静かに左右に手を合わせる動作を繰り返して円陣舞踊を行なう。
 第三日、花さし遊びという。昨日まで洗い髪をたらしていたナンチュたちが、この日になると髪を結い、自鉢巻をし、色紙で作ったイザイ花を前髪に飾って登場する。この日の儀礼はいよいよナンチュ(神人)になる資格を認定する儀式である。その資格を与える司祭者は島の根人とノロである。この日ナンチュは外聞ノロからシュジィ(米の粉団子)を額と両頬に押され、また外間根人から朱印をおされる。

 第四日、朝、御殿庭でアクリヤーの綱引きという行事がある。これは綱引きではなく、実は船漕ぎの神事であるという。午後は各ナンチュの家をノロが廻り、表座敷でその家のナンチュとヰキー(兄弟)とを対座させ、神酒を入れた椀をとりかわす。この時、ナンチュが兄弟を守護するオナリ神の資格をもって訪れたことを祝福するオモロが唱えられる。そのあと、外聞の殿といわれる所と御殿庭で「桶まわり」の儀式がある。ウンサク(神酒)を入れた桶のまわりを、ノロ・掟神・ヤジグ・ナンチュが二重の輪をつくって踊りながら神歌をうたう。舞踊が終ると、神酒を神前に供え、神人や村人にもふるまう。
 第五日、祭りの後始末と後宴の行事がある。
『祭儀の空間―その民俗現象の諸相と原型』池浩三)

 このイザイホーの記述を読むと、吉本隆明の『共同幻想論』の言葉が思い出される。

 この<イザイホウ>の神事が島の女性だけの共同祭儀であるとともに、この祭儀に登場する男性が<夫>ではなく<兄弟>であることに注意すべきである。そして女たちがカトリックの受洗のように額と両頬に朱印をつけてもらうのは神人からであり、そのつぎに<兄弟>がつくった団子で印しなつけてもらうという儀式がおこなわれるのは、神の託宣を女たちが〈兄弟〉とむすびつけるものとかんがえられ、これが何を意味する擬定行為かはわからないとしても、共同祭儀の<姉妹>から<兄弟>への授受を物語っていることはほぼあきらかであろう。

 久高島はわが南島における神の降臨した最初の島として信仰されている島である。ここでは古代、男たちは漁蹄にしたがい、女たちは雑穀をつくっていた。この条件は規模はべつにしても、わが列島のすべての地域において古代にはほとんど変りがないものであったと推測することができる。もちろん<イザイホウ>の神事の形式は、鳥越憲三郎が採取しているそこで和唱される神歌から判断してもかなり新しい時代に再編成されたものであることは明瞭だが、この神事の原型にむかって時代的に遡行するとき、わが列島における<母系>制社会のありかたの原像をかなりな程度に象徴しているとかんがえることができる。すくなくとも神事自体の性格から、水田稲作が定着する以前の時代の<共同幻想>と(対幻想)との同致するへ<母系>制社会の遺制を想定することはできる。この(母系)制ほ、ある地域では(母権)制として結晶したかもしれない。なぜならば、<イザイホウ> の女性だけがかならず通過する儀式は、いわば共同祭儀であり、その資格は共同規範としての性格をもっているから、もし儀式を通過した巫女たちの<兄弟>が、部族において現世的な支配権をもつ条件を準備していると仮定すれば、巫女たちの共同規範はすぐに現実的な政治的強力へと転化することができるからだ。

 祭儀を行われているそのままに受け取るのではなく、そのなかに時間を見るという視線。この視線は、シヌグやウンジャミ、他の祭儀を見る上でも欠かせない。そして、神アシャギは、イザイホーにおいては、はっきりと祭祀場としての役割を担っている。御獄(ウタキ)のなかの御獄(ウタキ)なのだ。




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2007/12/18

「アシャギ」と「庫裡」

 池は、イザイホーの差屋型の神アシャギが、蒲葵の葉で壁をしつらえるやり方に着目、それが、聞得大君の即位式である「おあらおり」のときに臨時に建てられる「三庫裡」(サングーイ)と同じつくりであることから、「あしゃげ」が「庫裡」と呼ばれるようになったとしている。

『おもろさうし』 「うちいではおしかけ節」

斎場嶽(さやはたけ) 御嶽(みちやけ)
ゑよ ゑ やれ 押せ          
    (※「ゑよ ゑ やれ」 囃しことば。)
そこにや嶽(たけ) 卸嶽(みやちけ) 
    (※「そこにや嶽」と「斎場嶽」は同義語。)
三庫裡(さんこおり) 在つる
三庭(さんみや)あしゃげ 在つる   
    (※「三庭あしゃげ」と「三庫裡」は同義語。)

この斎場嶽は沖縄本島南東部知念村にある嶽名であって、ここは沖縄一の霊地として東方海上を通して久高島を遥拝するための拝所などがあり、かつては琉球王の行幸や最高神女・聞得大君の「おあらおり」(即位式)に際して巡礼が行なわれるところであった。そして、このような国家的祭祀がある時、臨時に建てられる三庫裡(三庭あしゃげと同義語)は国王の「をなり神」すなわち聞得大君の祭場で、すべて神木蒲葵をもって造られたという。とすると、国家的祭祀の格式が重んぜられていく過程で、「あしゃげ」が「庫裡」と呼ばれるようになると同時に、本来神祭時ごとに新たに設けられた蒲葵の神アシャゲが、軸組だけ常設化した差屋型の建物になり、神祭時のみ蒲葵の葉をもって壁をしつらえる形式に変わったと考えられよう。次いで高級神女が関係する聖地や首里王府に近い村落の神アシャゲにこの形式が採り入れられ、王政解体後久しくたってから(五十~六十年前頃)奄美地方にも伝播したものと推察される。
『祭儀の空間―その民俗現象の諸相と原型』

 池は、「あしゃげ」の呼称変化として、「庫裡」を見ようとしているが、性急に移行を見なくてもいいのではないだろうか。祭場としての「神アシャギ」は、宮殿であり饗宴を催す場として「足一騰宮(あしひとつあがりのみや)」と同等と思えるが、これらと、「食」の意味を介して、台所である「三庫裡」(サングーイ)はつながっていると見なせばよいように思える。これは、宗教精神の移行という時間軸ではなく、並存という空間軸でみるべきではないか。


 ぼくはそれより、池は、「三庭あしゃげ」と「三庫裡」は同義語と繰り返し指摘しているのだが、その根拠を明示してほしかった。



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2007/12/17

冬の東京の奄美談義

 『奄美諸島史の憂鬱』の高梨さんが、シンポジウムに参加するため上京すると聞いて、お会いさせてもらった。

 そして夏に続いてまたまた、夕方から深夜まで、奄美談義なのであった。
 昼間の陽射しはまばゆいほどだったのに、夕方には冷たい風が肌に刺してくる、すっかり冬の夕暮れだったが、話す中身は、あくまで南の島のことだった。いや、そういえば昨日は、南の島と東北の共通性も話題になったっけ。奄美のブランドづくり、薩摩、道州制、考古学における縄文期の成果、市町村合併の弊害、子ども、などなど。日ごろたまりにたまった話したいことをぶつけ、そして聞かせてもらった。

 お会いするのは二回目というのに話は弾みに弾む。日ごろ、ブログでコミュニケーションしている下地があるからなのかもしれない。ぼくは楽しいことを楽しいといい。苦しいことを苦しいと言っていた。考えてみれば、率直にそう言わせてもらえるのは幸せなことだ。

 高梨さんの心遣いに感謝したい。いつか名瀬でお会いして、恩返しをしたい。


追伸
ちょっと話し足りないと思っているのは、「よろんの里」の店長さんが有泉片手に隣に座ったからかもしれない。(^^;)




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神アシャギとしての祭祀場の原型

 池浩三は、ウンジャミ、シヌグの他に、神女継承式、ノロの葬式、加計呂麻島のウムケ、ウホリ、アラホバナ、ミニャクチ、ウチギヘイなどの祭儀で、神アシャギが登場するのを確認している。
 池の気づきによれば、神アシャギは、稲の収穫祭の祭り小屋としての性格が顕著である。

 ついで、池は、御嶽(ウタキ)、村落、根所との関係に触れ、神アシャギは、根所の庭を発祥の場にすると仮説している。

Saishizyo
Nidukuru_2




















さて、鳥越氏の論考の第四点、神アシャゲと根所(宗家)との地理的関係は認められないとしている点についてであるが、このことは、筆者の調査結果によれば事実に反するものである。

確かに神アシャゲは、一般的には沖縄ではアサギ庭、奄美ではミャーとよばれる村落の公共的な祭りの広場に所在することが多いのであるが、沖縄・伊是名島においては、神アシャゲは各村落(仲田・諸兄・勢理客・伊是名)の根所の屋敷内にあって、建物は根所が管理しているのである。

伊是名島は琉球第二尚王統をひらいた尚円王の出生した由緒ある島であるが、その一つの島全村落にこうした現象が見られることは、やはり注意すべきであろう。

根所(または根屋)とは、沖縄の血縁的村落マキヨの草分けの家のことで、その戸主を根人とよんでいる。沖縄の古代社会において、椒人は、村落の政治的自立の過程で、その支配者となったが、彼はその姉妹である根神の霊力を借りて、祭政一致の体制を作り上げたといわれている。

たしかに、伊是名島における根所と地アサギの関係は、現時点の民俗事例としては異例であろうが、奄美におけるトネヤとアシャゲの関係をも含めて考察すると、そこには、古代血縁的村落マキョにおける根人・根神主導による神祭の基本的な祭祀場の構成を認めないわけにはいかないのではなかろうか。

神アシャゲの所在が、村落の併合発展の過程で、根所の庭から公共的な祭りの庭(神祭の広場)に移っていくことは理解できるが、その逆は社会の発展形態に矛盾するものとして説明ができないであろう。この点においても、伊是名島の事例は神アシャゲを中心とした祭祀場の原型として認めたいと思うのである。
『祭儀の空間―その民俗現象の諸相と原型』池浩三)

 池は、根所の神アシャギを原型とし、加計呂麻の広場の神アシャギが続くとしている。

 昨日、「神アシャギの建築形態の原型は何か」で書いたように、これは、逆だと思う。
 神アシャギは、まず、御獄(ウタキ)のなかの祭祀場として存在した。イザイホーで、ある時期ある属性の女性だけが、御獄(ウタキ)に入り、神アシャギに入ることが許されるように、御獄(ウタキ)も神アシャギもサンクチュアリである。正確に言えば、サンクチュアリである御獄(ウタキ)のなかに神アシャギはある。
 
 御獄(ウタキ)の終わるところから集落は始まる。そして集落が政治的共同性の色合いを持つようになれば、その首長は、御獄(ウタキ)の外縁との接点に、住居を定めるだろう。それが根人が根所につくる根屋である。根人は根所の中心性を高めるべく、御獄(ウタキ)の入口に根所を構える。そして、政治的権力の中心性を高める段階になると、根所のなかに、サンクチュアリのミニチュア、縮減模型をつくるだろう。それが、根所の神アシャギとなる。

 だから、形態としては、加計呂麻の神アシャギが先にあり、伊是名の神アシャギは、その後に来るものだ。


 ところで、根所の内部に御獄(ウタキ)のミニチュアを再現することが、どうして力を持つのか。そのことに関わると思えることを、クロード・レヴィ=ストロースは、『野生の思考』のなかで書いているという。

人はなぜ縮減化されたものを見ると喜ぶのか、と問いを立て、レヴィ=ストロースは、認識過程の逆転が快感のもとだと述べている。ふつう人間はたとえばタイタニック号のような巨大な実物大の対象を前にした場合、部分の認識からはじめ、これを綜合することで全体の認識に達する。しかし、それがミニアチュアになり、巨大だったものが手のひらに乗ると、全体の認識が真っ先に到来し、次に部分の認識がくる。その認識の逆転をもたらすのは、さまざまな要素の縮減、そして削除である。ミニアチュアではサイズが縮減される。
(「群像」4月号、「グッバイ・ゴジラ、ハロー・キティ」加藤典洋)

 ここにあるミニチュア(縮減模型)化に対する快感は、御獄(ウタキ)のミニチュアが力を持つ根拠を構成していると思える。


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2007/12/16

神アシャギの建築形態の原型は何か

 池浩三は、神アシャギの建築形態を、「穴屋型」、「差屋型」、「伏屋型」の三つに類型化している。

穴屋型
奄美・加計呂麻島瀬相のアシャゲは約三〇〇平方メートルのミャーとよばれる祭祀広場の南西側の一隅にある。またその北側には斎部加那志という聖所がある。建物の平面は三・六メートル四方で、軒高は土居桁下端で土間より約一・五メートル、頭を屈めて入れる程度である。柱は四隅と四辺中央に四本、計八本あって、股状の先端をもった椎の木の外皮を荒落ししただけの掘立丸太柱である。

柱は四囲の土居桁を支え、平サスは放射状に、対向する土居桁上に差し、その先端は交差して棟木を受ける。

沖縄諸島には、第二次世界大戦以前まで多く見られた穴屋(据立て)という家屋がある。現在では、納屋や作業小屋に使用しているのを散見しうるにすぎないが、この建物は松・椎などの索丸太を柱・桁に利用し、草・茅・麦稗などで壁をしつらえたもので、その軒高・軸組・小尾組などの構造は瀬相のアシャゲとよく似ているので、このタイプの神アシャゲは一応「穴屋型」としておこう。

Anaya_2





















差屋型
アシャゲの平面は四・五メートル四方で、四面外周には九十センチ間隔に木柱があり、五カ所の出入口を除く柱相互間を貫で連結し、板壁はない。外周の木柱は玉石地形の上に立て、平方向に大引きを四本通し、さらに九十センチ間隔に根太を並べ板張りの床をつくっている。内法高は約二・二メートルで、柱頂部には土居桁を四周めぐらし、柱相互間は床と土居桁との間を三十センチ間隔に貫で構成している。平面内には四五センチ偏心して妻方向に二本の中柱があり、これと外周本柱とは大きなツナギ梁で達姑されている。


Sasuya_2
























伏屋型
沖縄・伊是名島仲田の神アサギは根所(仲田部落の宗家)の屋敷内の南東、主屋から見て左手に位置していて、地元では地アサギとよばれている。建物の平面は土居桁真四・四メートル×四・八メートルでほぼ正方形である。床張りはなく土間、軒高は土居桁下端七十センチで、這うように屈まないと中に入ることができない。

穴屋型との形態上の相違はこの極端に低い軒高にあるといってよい。四隅の石柱は四周の土居桁を支え、妻サスはサス頭を棟木に貫通し、サス尻は土居桁に差し込んでいる。一組の平サス、四組の隅サスは、サス尻を土居桁上に差し、サス頭は棟木上に交差させている。母屋丸太は六十センチ間隔に渡し、その上のタルキとともに縄でからげ、さらに細木を編んだスダレ状の茅下地をのせる。

ちょうど屋根を伏せたように見えるこの仲田の地アサギと穴屋型の神アシャゲとの相違は、形の上では軒高の高低の遠いだけであるが、前者の場合は、中に座って外が見えない。このことは建築空間としては全く異質のものと考えねばならないだろう。したがって類別上一応「伏屋型」として区別しておきたいと思う。
『祭儀の空間―その民俗現象の諸相と原型』池浩三)

Husiya






















 「伏屋型」を、「穴屋型」と「差屋型」とは別の類型として括りだしているのは、池が、「伏屋型」を神アシャギの原形と見なしているからである。

 しかし、ぼくは、「伏屋型」は、原型なのではなく、新しい型だと思う。御獄(ウタキ)の神アシャギが原型であり、根所の神アシャギが原型なのではない。

 御獄(ウタキ)に神アシャギがあり、そこが祭場の核である。しかし、御獄(ウタキ)に接する村落共同体に、政治的共同性が生まれた時、事態は変化する。根所の根人は何によって、政治的共同性の首長を任じるのか。それは、御獄(ウタキ)の持つ宗教性の核を根所内に持つことによってである。根人は、根所の内部に御獄(ウタキ)のミニチュアを再現する。それによって、宗教性の核を御獄(ウタキ)から根所へ移行させるのだ。そしてこうなった場合、本来の御獄(ウタキ)は、宗教性の核としての機能を失い、忘れられてゆく。

 池は、「伏屋型」の軒の低さを古型の根拠として挙げるのだが、ぼくは全く同じ点で、軒が低いのは、それがミニチュアとしての再現であるからだと見做す。だから、神アシャギの変遷は、「穴屋型」から「差屋型」へのゆるやかな流れを想定すれば済み、それが、政治的首長の屋敷内に展開されたとき、「伏屋型」になったのだと思う。




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2007/12/15

神アシャギと「足一騰宮」

 さて、伊波氏が提出している「足一騰宮(あしひとつあがりのみや)」とは、神武天皇東征の折、豊国(後の豊前・豊後、今の大分県のあたり)の宇佐に到った時、土人のウサツヒコとウサツヒメ二人が天皇に卸饗するために作った宮のことであるが、これとアシアゲの縁故を説く氏の念頭には、九州あたりから農耕文化をもった一族が奄美諸島を経て沖縄に定着したとする「日琉基層文化同一論」とか「海部族の南下説」などがあることはいうまでもない。

 次に仲松・外聞両氏の機能説についてであるが、仲松氏のあげる「アシー」には神供の義は全くないようであるし、外聞氏の「あさ(祖先神)揚げ」説は示唆に富むものとはいえ、やや観念的な呼称のようにも思える。沖縄では、稲穂(穎稲)を収納する高倉は、柱の数に応じて四ツ股倉・八ツ股倉などと、視覚的な形態に即した名称がつけられていることは参考になるかもしれない。
 軒の低い伏屋のような神アシャゲの語源としては、むしろ「足揚げ」形態説の方に相応の説得力があるように思うが、どうであろうか。
『祭儀の空間―その民俗現象の諸相と原型』池浩三)

 ぼくも、「神アシャギ」は、神武東征神話に出てくる饗宴のための宮殿、「足一騰宮(あしひとつあがりのみや)」と同型のものを指していると思う。

 そして、ここでの文脈が敷いているところに従えば、九州から南下した稲作農耕族が、「足一騰宮(あしひとつあがりのみや)」を南島に輸入し、三母音化の世界のなかで、「神アシャギ」に変化ということになる。

 しかし、ぼくたちはここでも、必ずしもこの文脈に固定化して考える必要はないと思える。これに従うと、まるで稲作農耕族の南下以前には、神アシャギは存在しなかったかのような印象を受けるが、神アシャギは、御獄(ウタキ)の発祥とともにあると見做すのが妥当だと思う。ただ、その名づけには歴史的な変遷を想定することができる。その文脈のなかで、アシャギが北上し、五母音の稲作農耕族によって「足揚げ」と呼ばれるようになったことも想定のなかに入れていいはずなのだ。

 「日琉基層文化同一論」や「海部族の南下説」は、多様な混合と交流のなかで形成された民族的な起源を、あるひとつの流れの中に封じ込めようとする窮屈さをどうしても免れがたいものとして持っている。


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2007/12/14

永久凍土が溶け出すように

心の傷は治すべきか

 心の傷という言葉をよく耳にします。
 その傷の多くは肩凝りみたいなもので、そういう概念が出来たから気にしているのではないかという気もします。どこまで本気なのかなと思うのです。
 私はよく父親の死について話をします。父親が死んだときの経験からあいさつができない子供になったという話です。要するに幼少期の経験からその後の自分の行動が変わっていった。そういうのが今風に言えば、心の傷、トラウマということなのでしょう。
 それは単に何かつらい経験があったからトラウマが残ったということではありません。トラウマを抱えていること自体にきちんと理由があったのです。簡単に言えば、父親に「さようなら」と言ったらそれきり会えなくなるのではないか、父親を死なせるのではないかという気持ちがあったのです。その次には人にあいさつをすると、その人を死なせるのではないかという怖れが心の中に生まれたのです。無茶苦茶な論理ではありますが、そういう心理になったのです。こういうトラウマを抱えるということは、だれにでもあることです。それがあるから生きていけないというものではありませんし、いつかは自分で気づくものです。
(『超バカの壁』養老猛司)

 養老さんが父の死について、詳しく書いていたのはどの本だったか忘れてしまったので、手元にある本から引用した。たしか、養老さんは、自分のトラウマについて、地下鉄で突然、涙が流れてきた、と、そういう気づき方だったと書いていた。

 この引用のようなことに気づくことがぼくにもあった。
 ぼくは、少年期に与論を離れたことで、その離れ方が痛切だったことで、友達を作りにくい人間になってしまった。仲良くなることも心を開くこともできるけれど、それが永続するのをどこかで怖れている、そんな感じだ。

 養老さんと同じ言い方をすれば、友達を作ると与論とのつながりが切れてしまうのではないか。そんな風に感じていたようなのだ。もちろん、養老さんが言うように、それは「無茶苦茶な論理」だけれど、これから腐れ縁にもなっていくだろう友達と離ればなれにならなければならなかった経験を、ぼくはそんな風に受け取ったようなのだ。

 遅ればせながら、ぼくもそのことに気づいた。友達と離れた辛さが倒錯して、与論で叶えたかったのに他の土地で叶えたくないという気持ちになり、それが昂じて、友達を作ると与論と切れるという怖れを抱くようになったのだ、と。

 こんなことを書くのは、他愛もない傷に過ぎないけれど、そのことに気づいたのはブログのおかげだと思うからだ。ブログを書くことで、ユンヌンチュや与論に縁を持つ人、奄美や琉球に心を寄せる人と知り合い、親しくなることがあって、友人を持つことと、与論とつながることとは何の関係もない、むしろ、与論つながりで友人ができる。そんな経験をすることができた。ぼくはある時、永久凍土が溶け出すように、何かがほどけた気がしたのだ。

 このブログを読んでくれる人、コメントを残してくれる人に心から感謝する所以だ。


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2007/12/13

シヌグのなかの神アシャギ

 次はシヌグ祭である。

 事例二 沖縄のシヌグ
 沖縄北部の国頭地方や中部の東海岸の島々で行なわれているシヌグは祓えと世果報予祝の神事といわれ、多くは旧暦七月の盆明けの卦の日に始まるが、国頭村安田・安波ではウンジャミと一年交替で七月初の亥の日に、伊平屋・伊是名の両島では七月十五日のウンジャミに続いて十八日、そして中部の伊計・宮城・平安座・浜比嘉の島々では六月二八日と八月二八日の年二回もある。

 シヌグはアマン世ヌシヌグ(国始れ神アマミキヨの時代に始まるシヌグ祭の意)、裸世の行事ともいわれ、古くは沖縄南部の東海岸の村々や奄美緒島の与論島・沖之永良部あたりにも分布していた。シヌグは国語の「凌ぐ」の意味ともいわれ、シヌグの祭りはあらゆる災害・病疫などから村人を守るために、村落の男たちの扮した一日神(仮装神)による祓い鎮めの行事であった。

 安田では、かずらや木の葉を身にまとった男たちが、また伊是名島では自鉢巻白衣姿のシヌグ年(五・七・九歳)にあたる少年たちが、村落の田畑・聖地・家々などを廻り祓えごとをする。また、国頭村辺戸では、十五歳以上の男がシヌグモー(祭場)に仮設された籠り屋(グムンジュ、シヌグ屋という)に四泊五日も籠ったといい、宮城島でもシヌグ神とよぷ神女以外の女が参加すると雨が降るといって忌まれた。

 このように、男の折目・ヰキーウガミ(兄弟拝み)といわれるシヌグ祭は、男性集団の祭りとして性格づけられている。その他、男と女が相撲をとって女を必ず勝たせたという伝承をともなう行事、男女青年が大きな丸太を神アシャゲの屋根にぶつけるヤーハリコーの行事(安田)、神アシャゲに集まった女たちが男たちの籠るシヌグモーに押しかけて、男押入の勢頭を杵に乗せて大声ではやすヤーリンホーの行事(辺戸)、シマヌフユーフ (島の大屋子)という男押入が小屋がけして守っているシヌグモーのかまどの火を、アサギ庭にいる女たちが来て火を消そうとして男女で争う行事(奥)などがある。

 またシヌグには踊りはつきもので、安田では祭りの三日間、毎晩シヌグ遊びが続いた。
 尚敬王の一七一九年、清国の冊封副使徐藻光の北琉球巡見でシヌグ遊びが禁止されたのは、豊穣を予祝する神遊びのシヌグ踊りにはかなり性的なしぐさがあって、これが時の王府の役人の忌諱にふれたからであったらしい。

 このように、シヌグが男の折目・兄弟拝みとよばれ、山神の資格で村落の祓えを行なうのを特徴とするのに対して、ウンジャミは女の折目・姉妹拝みとして女を拝する祭りともいわれ、女性祭祀集団による海神送迎の祭りが中心となっている。しかし、両者とも島初めの神に対する祭祀と解釈されているから、沖縄における甘い血縁的村落(マキョ)においては、元来一つのものであったのかもしれない。
  (『祭儀の空間―その民俗現象の諸相と原型』池浩三)

 シヌグはとても興味深い。
 ひとつには、シヌグは、母系の流れを汲む女性原理が優先した祭儀が多い琉球弧のなかにあって、男性原理の祭儀であるという点だ。

 ふたつめは、祭儀の分布と祭儀内容の組み合わせの謎である。
 国頭の安田、安波、伊平屋、伊是名や、伊計、宮城、平安座、浜比嘉という祭儀の分布は、琉球王朝に由来を持つ地と、東海岸を軸に展開されている。そして、仮装神、火、放埓な踊りなどのアイテムが、稲作農耕以前の祭儀を思わせる。

 まず、東海岸を拠点に、シヌグがあるのは、この祭儀が、弥生期の稲作農耕技術を携えて南下した勢力によって、共同宗教として組織化されたことを示していると思える。組織化の意味が強いと思えるのは、たとえば、与論島のシヌグは、安田のような稲作農耕以前の祭儀ではなく、主軸は稲作農耕以降の祭儀であると思えるように、地域差が大きいと思えるのに、同一の祭儀名を冠している点だ。既存の祭儀をシヌグの名のもとに組織化したように見えるのだ。

 シヌグは、その内容は祭儀として珍しい男性原理であり、内容に、稲作農耕以前の要素を見いだすことができるのに、その組織化はきわめて新しい、稲作農耕以降の勢力によってなされたのではないか。
 これが、シヌグにまつわる謎のように思える。

 仮説にもならないアイデアだけれど、ぼくは漠然とこういうことを思う。
 祭儀の内容は、いにしえに北方からやってきた島人から始まったもの。そのときすでに男性原理として祭儀はあった。次に南方からやってきた島人によってなされた女性原理のウンジャミ(海神)と共存していた。それを、次いで農耕技術を携えて南下した勢力が、共同宗教シヌグ、ウンジャミとして組織化していった。

 ところで、シヌグで神アシャギは、女性の拠点として登場している。神アシャギは、女性原理とともにあった祭祀空間だったのだろうか。



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2007/12/12

「あまみ便りblog」の刺激波

 mizumaさんの「あまみ便りblog」は、いつも刺激波を放っていて飽きることがない。

 ★「あまみ便りblog」

 このブログからは、奄美の自然はもちろん、街の様子、イベント、お店の開店など、奄美の日常が伝わってくる。奄美に住んでいなくても、街の息遣いが感じられる。住んでいない人間にとって、お店の開店情報は意味がないと思われるかもしれない。でもそうではない。街の息吹きが風の便り以上に伝わってきて、奄美のことがよく分かってくる。奄美の森だってそうだ。ハブと出会えば、自分もそんな気になるし、森が荒らされたレポートがあれば、ぼくの心も痛む。そうやっていつしか、奄美の住民の気分にさせてもらっているのだ。嬉しい。

 こんど、奄美発の情報を整理しようとした「ウォッチあまみ通」は挫折した。けれど、ただでは起きない。「あまみ便り:ぬ~でん」という試みを引っさげて、再び、挑戦は始まる。 mizumaさんは、持ち前のウェブ・リテラシーで、奄美の情報発信を、あの手この手で試してくれているのだ。

 それは、奄美にとって、とても、ある意味でもっとも必要とされていることだ。というか、奄美の活路の先端を拓く作業を引き受けているのだ。すごいこと、尊いことだと、ぼくは思う。

 与論の日常だって、ぼくは知りたい。たとえば、ぼくも子どもも好きなアイショップのパン情報は、買えなくても知りたくなってくる。こんど行ったときの楽しみのために。そんなものだと思う。

 だから、奄美の日常を、絶え間なく伝えてくれるmizumaさんの「あまみ便りblog」から目が離せないのだ。




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ウンジャミのなかの神アシャギ

 池浩三は、神アシャギの考察をはじめるに当たり、ウンジャミ、シヌグの例を挙げているのだが、これは与論島にもあった祭儀であり、興味を惹かれる。

 神アシャギにおける祭祀  『琉球国由来紀』には、神アシャゲにおける年中祭祀として、稲の祭り・麦の祭り・海神折目・シヌグ折目・芋折目・柴差・年浴などが記されているが、現在、沖縄地方で代表的な祭りはウンジャミ(海神)とシヌグであるから、まずこれらの神祭の模様を概観しておこう。

 事例一 沖縄のウンジャミ 
 沖縄北部の国霊地で旧暦七月の上亥の日(東海岸の安田・安波)、十七日(伊是名島・伊平屋島)、そして盆明けの亥の日(西海岸の辺土・与那・比地・謝名城・塩屋・古宇利島)にかけてウンジャミが行なわれる。

 ウンジャミは神々のふるさと・ニライカナイから来訪するニラ神(ニレー神)を迎えて、村の神女たちが神遊びをし、弓矢(または槍)で猪を射止めたり、魚捕りや船漕ぎの所作を演じて、海山の幸や村落の繁栄を祈願する予祝神事であり、その神女の神遊びによる神迎えと神送りという特徴は、沖縄の祭りの典型を示しているといわれる。

 一般にこの祭りは、(一)お寵り、(二)祭礼、(三)ナガリよりなっている。(一)はウングマイまたはウタカビ(お崇べ)ともいい、三日前の酉の日に行なわれる神人潔斎の行事である。または、ノロや神大とよばれる神女の継承式を、アラハンサ(ハミサガイ・カンサガ・神の座替などとも)といい、次の日の夜に行なう。
(二)ウンジャミ当日は、未明の満潮時にナザー(ナンザモー・ガンザとも)とよばれるニラ神の上陸地で神迎えをする。これを朝折目とよぶところもある。祭場の神アシャゲでは神を迎えて祈願があり、次いでアシャゲ庭でウムイ(オモロ)をうたいつつ的る神遊びをし、猪を退治したり、魚捕り・船漕ぎの所作事をする。終ってナザーまで神を送る。

 (三)ナガリ庭の儀式といい、山の神よりのチトウ(つと、土産)と称する山の幸の猪(冬瓜や鼠を代用)を砂中に埋めたり、儀式中に用いたハブイ(蔓草の被りもの)を海に流す。
  (『祭儀の空間―その民俗現象の諸相と原型』池浩三)

 ウンジャミ(海神)は、琉球弧の来迎神信仰をよく伝えるものだ。

 ぼくがよく分からないのは、「ニライカナイから来訪するニラ神(ニレー神)」の信仰は、稲作農耕以降のものだと思えるが、ウンジャミ(神海)の祈願の対象は、「弓矢(または槍)で猪を射止めたり、魚捕りや船漕ぎの所作を演じて」というように、「海山の幸」が農耕以前であることだ。

 逆に言ってもいい。
 素朴に考えれば、ウンジャミ(海神)信仰は、稲作農耕以前のものだが、ウンジャミで来迎する神名は、稲作農耕以降のものであるのが不思議だ。

 たとえば、与論でもかつて行われていたウンジャミ(海神)は、チャドゥマイという島の南端の岬から南方へ向かって祈る。これをみると、ウンジャミ(海神)が措定している来迎の方角は南を指しているように見えるが、これは、琉球弧全体からみれば、普遍的ではなく、他の方角もありうるだろう。

 そこでぼくは漠然と、もともとあった陸と海の狩猟の祭儀を、ニライ・カナイ信仰のもとに、稲作農耕以降の勢力が共同宗教化したのではないかと想定している。そして、神アシャギも、稲作農耕以前から存在した祭祀場であると考えている。



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2007/12/11

神アシャギの転移

 池浩三の『祭儀の空間』を読んだ。
 新刊というわけではない。30年近くも前の本だ。

 ※『祭儀の空間―その民俗現象の諸相と原型 (1979年)』

 与論島のシヌグのサークラのことを考えていると、漠然と、久高島のイザイホーでも登場する神アシャギのことを連想する。それから、柳田國男の「稲の産屋」を読むと、稲の穂積とサークラとの関連が気になってくる。シラとサークラとティダの名前のつながりももやもやしたままだ。

 サークラ、神アシャギ、「稲の産屋」のことが、堂々めぐりのように、ひとつがもうひとつを連想させるこの頃だったが、そんな状態を見透かすように、康三兄が、読め、と送ってくださった。
 まさに、こんな問題意識にはピッタリの本だった。

 伊是名島には五つの村落が海岸沿いに形成されているが、そのうち諸兄・仲田・伊是名・勢理客という古くからの村落の宗家の屋敷内には、地元で地アサギと呼んでいる祭り小屋が必ず設けられてある。祭り小屋は一辺四メートル前後の正方形の茅茸の建物で、柱は掘立て、床はなく土間で、軒高は土居桁下端で約七十センチ、屈んではうようにしないと中に入れないほど低い。それはちょうど屋根を伏せたようにも見える。  このような多少とも人の目をひく特異な形姿については、これまで、聖なる場所であるから家畜や野鳥などが入らないようにするためとか、祭りを行なう神人たちの動作を人に見られたくないためとか、あるいは古代家屋の表現とか、説明されている。その当否はともかくとして、本書の研究の動機も、やはりこうした特異な外観への関心からであった。

 もう30年近くも前の研究なので、現在的な知見に照らせば、正誤がはっきり確認されていることもあるだろう。

 しかし、残念ながらぼくはそれを知るわけではないので、この本を頼りに、サークラ、神アシャギ、「稲の産屋」の連想に脈絡をつけていきたいと思う。

 ○ ○ ○

 さて、のっけから異を唱えるわけではないけれど、本書で「神アシャゲ」と表記しているところ、ぼくは、「神アシャギ」と表記する。琉球弧が醸成した三母音で表音をイメージすることが、この語義により叶っていると思うからだ。


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2007/12/10

コンサルタントは使わない

 『離島発 生き残るための10の戦略』は、与論島もそうあってほしいと思うことばかりだったが、「コンサルタントは使わない」も、そのひとつだった。

コンサルタントを使わない理由

 現在、私たちは事業をするにあたって、外部のコンサルタントやプランナーに委託することをほとんどしていません。
 とはいえ、最初からそうだったわけではなく、最初の開発商品だったサザエカレーでは、開発のコンセプトやレシピ作りの協力を専門家にお願いしました。とにかく私たちは何も知らなかったので、自力ではとてもできなかったからです。イワガキ養殖もそうでした。
 しかし、それでも業者に丸投げするようなことはしませんでした。頼んだのはあくまで協力で、サザエカレーは全国各地で何度も試食会を行いましたが、すべて町の職員が積極的に関わっていきました。他人任せにしていては、知識もノウハウも自分のものにならないからです。

 「これ、作ってください」
 と依頼するだけ依頼して、できてきたものに対して、いいの悪いのと言っていても、身にはならないのです。どうすれば島のイメージを商品に反映できるか、情報発信をどうするか、管理体制・販売体制をどう作り上げていくか、それらを自分の頭で考え、形にする経験をしなければ、次の商品に繋がることはありません。
 イワガキのときは、生産者と職貞が一緒に市場を歩き回りました。顧客にあたる料理店や仲買業者の感想を聞いて回り、流通の障害を取り除いてきました。そういった努力があったから、高い評価を得ることができたのです。
 答えはすべて現場にあるのです。自分が現場で汗をかき、知恵をひねり出さなければ、答えは見えてきません。
 ですから、私は職員をどこかに研修に出すということをしません。そんな時間があったら現場に出ていた方がよほど有意義だからです。

 その結果、いまではコンサルタントを使う必要がなくなりました。職員自身がどんどんプランニングしてしまうからです。隠岐牛を農業特区にしようというのも、職員が立案したことです。
 強いて言うなら、私たちにとってのコンサルタントは、Iターンで島に来てくれた人や商品開発研修生でしょうか。私たちの気づかない島の魅力を掘り起こして、企画を立て、ついでに商品化までしてくれるのです。
 もちろん、専門家の助力を仰ぐことはいまでもしています。塩にしても梅干しにしても塩辛にしても、その道の専門家に指導はしてもらいます。しかし、誰に指導してもらうかを決めるのも、依頼をするのも、実際に指導を受けるのも、すべて私たち自身がやっています。コンサルタントに丸投げすることはありません。

 職員をどこかに研修に出すことはない。そんな時間があったら現場に行けという。いまでは、職員自身がプランニングしてしまうようになった。これは、絵空事ではなく、現に海士(あま)町で実現できているのだから、与論町にできないはずがない。海士(あま)町に学ぶべきポイントだと思う。

 また、『離島発 生き残るための10の戦略』で触れられてなく、与論島が先んじることができることもあると思う。それは、インターネットの活用だ。与論島はすでにブロードバンド化も完了している。与論島と島外の交流を図るのには、Web(ウェブ)を活用するのがいちばんだ。そのプランニングと実行はどんどん進めるといい。


最後に。この本でもっとも心に残ったのは、「生き残るためには、まず生き延びること」という言葉だった。その通りだ。まず、生き延びよう。



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2007/12/09

サザエカレーの由来 - ケーススタディとして

 「アイランダー2007」で出会った、サザエカレーの由来について、『離島発 生き残るための10の戦略』でも触れられていた。

 ※「アイランダー2007」見聞
  「島じゃ常識」


 地域の産物、島の産物を売る際に、私たちが目指したのは、個別の商品を売るだけではなく、島をまるごと売ろう、島をまるごとブランドにしよう、ということでした。
 「海士といえば○○」
 というフレーズが全国に轟くような大ヒット商品、海士の代名詞となる商品がひとつあるよりも、商品のひとつひとつは小さな規模でもいいから、その小さな商品を積み上げていくことで、海士町の産業全体がトータルとして成立するようになろう、と考えたのです。言ってみれば「塵も積もれば山となる」「1円も積もれば大金になる」というわけです。

 最終的には、海士町をひとつの総合デパートにするのが、私たちの目棟です。海士にはすべてのものがある、中ノ島に行けば何でもある、というデパートを作る。
 その「総合デパー上化に向けた商品開発の第一弾が「島じゃ常識サザエカレー」でした。名前のとおり、具にサザエを使ったレトルトパックのカレーです。サザエの肝もカレーに繰り込まれた、ちょっと苦めの面白いカレーに仕上がりました。
 サザエは、言葉は悪いですが、島にはゴロゴロ転がっており、島ではひじょうにポピュラーな食材です。これを肉の代わりにカレーの具に使うのも、島ではごく当たり前のことです。
 海士では常識だとはいっても、こうした食べ方をしている地域はさほど多くないでしょうし、そうでないところでは面白がってもらえるのではないかということで、商品化の研究を始めました。

 島の職員と農協婦人部との共同開発だったのですが、とにかくレトルトパックの素材のことも何も分からない。そういう商品を作ったことがないから当たり前ではあるのですが、まったく一からの研究になりました。
 試行錯誤を重ねてできあがったこのサザエカレーには、予想以上の反響がありました。私も自分で物産展などに足を運んでサザエカレーの営業をすることがありますが、「おいしい、おいしい」と言って試食をお代わりする人もいれば、翌日に知り合いを連れて買いに来てくれる人などもいます。そういう姿を見せられるとほんとうに嬉しいのですが、さらに嬉しいことに、現在では年間4万個ほどを売り上げるヒット商品になっています。

 実をいうとこのサザエカレー、島では好評とばかりはいえません。それも当然のことで、完全に島民の生活に溶け込んだ食べ物なので、各家庭にはその家独自の「サザエカレー」があるわけです。自分の家のサザエカレーこそがほんとうのカレーだと誰しも思いますから、「こんなのはほんとうのサザエカレーではない」ということになってしまうのです。
 ごく当たり前の家庭の味をあえて売ろうとは、それまで誰も思わなかったのですが、島では当たり前のこと、海士の人間にとっては何の変哲もないことでも、外の人には新鮮な驚きに映ったという好例です。

 海士(あま)の「島をまるごとブランド化」構想は、竹盛窪さんの「与論島まるごと博物館」構想を思い出させる。

 サザエカレーの事例を読みながら、「与論といえば○○」の、中に当てはまるものが何があるだろう、と想像したくなった。この本は、与論島の地域ブランドづくりにとても励みになるのだ。


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2007/12/08

離島発 生き残るための10の戦略

 島根県の隠岐、中ノ島の海士(あま)の町長、山内道雄の書いた『離島発 生き残るための10の戦略』は、与論島のために書かれたような内容だった。

 海士(あま)は、島根県の離島。超過疎ともいうべき人口減少に悩みながら、市町村合併では退路を断って、単独の道を選ぶ。その後、町は収入役の廃止や給与カットで身を削る改革に乗り出す一方、「島をまるごと」ブランド化構想を打ち立てて、商品化の実績を作りつつある。

 与論島は、これからどうしていくべきか。海士(あま)の先行事例は、与論シミュレーションとしても読むことができるだろう。目次をゆっくり眺めてほしい。

『離島発 生き残るための10の戦略』

Ritouhatu














島が消える~海士町の現状
 夕張は対岸の火事ではない/後鳥羽上皇の島/「島」と「本土」/
 超過疎、超少子化、超高齢化/公共事業で生かされてきた島/
 財政再建団体転落の危機
生き残るための戦略

其の1 あえて単独での道を選ぶ
 再編ブームの中で/離島を巻き込む「大合併の嵐」/見えてこない合併のメリット
 /文化の違いを無視した合併には無理がある/
 この島は「俺の島」だという思いこそ大切/あえて退路を断って自立の道へ

其の2 民間の感覚と発想で危機に対する
 町政運営は企業経営である/「やってやる」から「やらせていただく」へ/第
 三セクター事業で感じた議会への苛立ち/味方は思わぬところにいる/
 「お役所仕事」では島は救えない/地縁・血縁選挙を否定した町民の選択

其の3 意思は言葉ではなく行動で示す
 「先憂後楽」の精神で仕事に向かう/スローガンだけでは人は動かない/
 職員に明確なメッセージを送る/管理職の会議は時間外に

其の4 「守り」と「攻め」の両面作戦
 まずは徹底した「守り」から/自らの身を削らない改革は支持されない/
 禁断の給与カットは“未来への投資”/町民と危機感を共有化する/
 「明日は今日よりいい」と思えるように

其の5 「島をまるごとブランド化」戦略
 日分を知る、自分の武器を知る/生き残りのキーはク外貨獲得/
 「総合デパート・海士」を作る/離島のハンディキャップ/
 海産物の新たな展開/新たなビジネスが変えた生産者の意識/
 垣が結ぶ島の産物

其の6 誰もができないと思ったことをやる
 島の障れた名産品/建設業から畜産業へ/市場関係者から受けた指摘/
 東京へ向かえ/島で隠岐牛を食べる

其の7 人が変われば島は変わる
 「島が生き残る」とは・人が島で暮らすこと/Uターン・Iターンを受け入れるために
 /UIターン受け入れが抱えるジレンマ/UIターン者が島に新たな刺激を与える
 /働く意欲のある女性を活写る/子どもが元気を運んできた

其の8 活性化の源は「交流」
 「若者」「馬鹿者」「よそ者」がいれば町は動く/そもそも私が「よそ者」だった/
 外の目によって自らを知る/指示はひとつ、「自由にやってくれ」/
 外部との交流から「自立する人」「自立できる人」を作る/
 思惑を超えて動き出す交流事業/応援団を作る周囲が勝手に動き出せば成功

其の9 答えは常に現場にある
 すべてはお客さんが教えてくれる/コンサルタントを使わない理由/
 日本-安い給料で日本l働く職員/青年団が育てたバイタリティ/
 「信頼できたから、この島に来た」

其の10 ハンディキャップをアドバンテージに
 発想次第で局面はガラリと変わる/隠岐島前高校を売り出す/国境の島/
 持てる能力をいっぱいに使う人間が輝く

最後尾から最先端へ~あとがきにかえて


これを見るだけで、与論と似ていることも分かるけれど、与論の先を行っていることも分かる。島の人にぜひ読んでほしい一冊だ。



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2007/12/07

薩摩とは何か、西郷とは誰か 9

 <薩摩隼人>に与えられている内実にしても同じである。薩摩出身の作家、海音寺潮五郎は、<薩摩隼人>を、「勇敢さと強さを喜ぶ人種」と評するとともに、「おそろしく楽天的で、享楽的で、ジョウダンが好きだ」として、「薩摩人ほどジョウダンを言い、薩摩人ほど大きな声で笑う人々を、ぼくは知らない。どんなことでも、薩摩人は遊楽化してしまう。戦争中のあのイヤな防空演習が、薩摩では見事に連楽化されていた。水かけ演習など、部落対抗の競技になって、それぞれ選手が出、応援団が組織され、応援歌をうたいながら、焼酎をのみながら、いとも楽しく、いとも盛大に行われたのだ」(「ポッケモン入国」)と書いて、二重に評価している。

 お国自慢恒例の盲目さを差し引けば、人はここに書かれた勇敢さと明るさからどんな印象を受けるだろうか。俺はついていけない気遅れと、どこか気負いこんだ窮屈さを感じる。ほんとうに笑っているのか、ほんとうに楽しいのかという声がせりあがってくる。それはかつての自分に向ける言葉でもある。この「明るさ」は俺が欲しいものではない。これは、俺が昭和の戦争期を受け取っているとすれば、そこで明朗アジアの建設や鍛練や修身といったスローガンとともにあった「明るさ」に近いという気がする。いや、薩摩の<こわばり>の論理は、戦争期にこそ適合したのではないか。

 昭和の戦争期とは全国規模で<こわばり>の論理が席捲した時期のことだからである。しかし、本土の南端にある二つの半島を南方につきだした地域の「明るさ」は、北端にある、やはり二つの半島を北方に伸ばした地域を出自にもつ作家が、その戦争中に放った「明ルサハ、滅ビノ姿デアロウカ」という言葉が的中するものだと思える。<こわばり>の論理は絵に描いたような「明るさ」をつくりだす。だがそれはリラックスよりは滅びに近しいのだ。

 そして<桜島>、である。鹿児島を故郷にもつ者は、桜島をみると帰ってきたという安堵感に浸れるという。逆に、外から観光に訪れた者は、非日本的な風土を感受したりするという。しかし俺にはそのどちらの感受もやってこない。そこにいけば必ずある抑圧の石として重たいしこりを落としてゆくだけだ。また、薩摩は南国的な明るさをもつなどという文章に出会うと、俺はそこに、灰に降られて遮られる視界のようにすべては視えなくされているという像を対置せずにはおれない。南国だから明るいなどと言ってみたところで何も言っていないに等しいとしか思えないのだ。だが、こんなことは俺の不幸な感受の型だというだけで別にたいしたことではない。俺が採りあげたいのは、<桜島>が内部から語られるとき、その爆発と噴煙から男性的で雄壮であるという像が導かれやすく、しかも古来からそうであったかのような印象を与えていることだ。しかし、そんなことは決してないのだ。

 俺たちは人間を固定化して考えてはならないのと同じく、風景が県民性と結託して通念像を練り上げる息苦しさに対しても、どこかに風穴をあける自由を保持していることが大切だ。桜島にしても噴火が活発化する以前は、山肌は緑に覆われなだらかな曲線を描き、どちらかといえば女性的なイメージをもっていたという感受もありえたのである。だが、彼らの手にかかれば、鹿児島の象徴として固定化された像に収斂するしかないように出来あがっている。

 かくして<薩摩>といえば、<教育県>であり、<薩摩隼人>であり<桜島>であり、これらは<男尊女卑>を美化した男性的というイメージの連鎖を辿り、その頭目みたいに<西郷南洲>が祭りあげられるのだ。しかしこれらのいずれもが、こうしたイメージ連鎖により内実をすぼめられていることは言うもまたないことだ。この像のもとで息苦しくされているのは、あいかわらずシラス台地とつきあってきた人々ではないのか。

 <こわばり>は、人間のある心的な状態であり、そのこと自体は何ら不自然なものではない。しかし、絶対化され共同意志化された<こわばり>の論理は、死滅すべきものであり、大衆的な規模で「消費」が意識化される地点から全く根拠を無くして死滅するしかないのである。
(『攻撃的解体』1991年)

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2007/12/06

薩摩とは何か、西郷とは誰か 8

 薩摩の制度の代弁者たちは現在でも、鹿児島を語るのに明治維新をもってする。俺はいったい彼らがなにを誇りにしているのかよく解らないところがある。だいたい「明治維新」という歴史の転換を担ったことを誇りにするのであれば、それがもたらしたものにたいしてどこまでも引き受けてみせたらどうなんだ。日本の植民地化を防いだだの、いちはやく西洋技術を採り入れて開明的だのということを振りかざすのであれば、その結果、訪れた「近代」のもつ意味を受け止めてみせるべきである。それが明治維新の責任をとるということに他ならない。

 第一、明治維新の成就を誇るものが、それがもたらしたものの光度に耐ええないというのは滑稽ではないか。結局のところ、<薩摩>は幕末から明治維新にかけてエネルギーの解放をはたしたが、西南戦争で挫折してから以降何が残ったといえるのか。そこで西郷や武門は死んだかもしれないが、<こわばり>の論理だけは存続していったのではないか。そして現在その最たるあらわれを、俺たちは「教育県」にみているのではないか。「教育県」とは、都市化への<こわばり>を共同意志化したものに他ならないのだ。

 また、「九州男児」などという通称が、誇らし気に<薩摩隼人>という像に収斂されるとき、そこにはいつも裏面に<男尊女卑>という考えを随伴している。<男尊女卑>といったところでなにも男が女を虐待し奴隷化しているという単純な図式が妥当するわけではないことは言うまでもない。それでは<薩摩おごじょ>という活き活きした女性像もありえないことになる。だが、だからといって<男尊女卑>が立派なものだということにはならないことも自明のことである。

 男性の女性にたいする関係は、人間の人間にたいするもっとも自然的な関係である。 だから、どの程度まで人間の自然的態度が人間的となったか、あるいはどの程度まで人間的本質が人間にとって自然的本質となったか、どの程度まで人間の人間的自然が人間にとって自然となったかは、男性の女性にたいする関係のなかに示されている。
 また、どの程度まで人間の欲求が人間的欲求となったか、したがってどの程度まで他の人間が人間として欲求されるようになったか、どの程度まで人間がそのもっとも個別的な現存において同時に共同的存在であるか、ということも、この関係のなかに示されている。
            (マルクス『経済学・哲学草稿』)

 間尺のあわぬ引用をしているようで気かひけるが、この言葉は真理だ。男性の女性にたいする関係のなかに、どの程度まで他の人間が人間として欲求されるようになったかが示されるというとき、<男尊女卑>の思想が自滅しなかったとしたら、これ以上の貧困はないと言わなければならない。もう誰も声高にはこの思想を言う者などいないのかもしれない。だが一枚皮をめくってみれば、相も変らぬ信奉者の頑迷さに出会うことはままある。

 俺は<男尊女卑>が時代錯誤だと言いたいのでもなければ、女性を解放せよなどと言いたいはない。この思想では、現在の女性一般が、社会へ進出し、また性の抑圧を解かれ自由を享受している勢いにたいして、男性一般は、この事態にどう対応していけばよいのか判らずに内心戸惑っている状況を隠してしまうのだ。このことは俺たちが日々営んでいる社会の現実的な関係の場を覗いてみれば、避けられない力を持っていることくらいすぐに解るはずである。このとき<男尊女卑>を秘めている著は頑なにその砦を守っているつもりでも、その姿は滑稽でしかない。マンガなのだ。これでどうして人間と人間の関係をむすんでいくことができるのか。<男尊女卑>とは、人間の他の人間にたいする<こわばり>の制度化の謂いに他ならないのだ。
(『攻撃的解体』1991年)

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2007/12/05

薩摩とは何か、西郷とは誰か 7

 <薩摩>とは何か。それは<こわばり>の絶対化のことである。そして<こわばり>が絶対化されるという点で、<薩摩>は他の地域にたいして極北を占めるのであり、これにより全く異なる相貌をもつものへの反転を可能にしたのである。これが「県民性」と呼ばれるものの二重性の根拠であり、<こわばり>の絶対化として、薩摩は<薩摩>であった。

 <薩摩>は、その<こわばり>の絶対化による閉塞と逼迫を、南島支配によって二重の意味で緩和した。しかし、<薩摩>をその<こわばり>の論理に従って解放したのは、明治維新であった。<こわばり>の絶対化を、その論理に沿うように解放することができるのは、緊張と硬直で高まる内部圧力を外部に向って発散することである。そして<薩摩>の<こわばり>の絶対化は、外部にたいする発散にいつでも向けられるようなポテンシャルを維持する意志から産まれてきている。革命の青写真も理念もあったものではない。むしろ彼らの思想は、観念の構築を忌避するところにこそあった。

 <薩摩>の論理にとって明治維新が意味をもったのは、その<こわばり>の絶対化を解除するエネルギーの発散の機会であったからである。しかも<薩摩>にとってこの解放は、記述に現れる限りでは、「熊蘇」や「隼人」の反乱以来、幾度となく繰り返されてきた封じ込めにたいする解放をも意味していた。この歴史的に蓄積された巨大なエネルギーの提供が、<薩摩>が明治維新にたいしてなしたことである。

 だが、行為を担った薩摩の下層武門勢力は、革命が武門の死を意味することを、その成就ののちに知らされる。しかもこんどは再び<薩摩>として、国家権力から従属を強いられるだけではない。<出てゆく>ことと<とどまる>ことの分裂の過程を通じて、農耕社会型の特異な世界を醸成してきた<薩摩>の胎内からも、<出てゆく>者の出現を余儀なくされたのである。そして西南戦争による武門の死滅により<とどまる>論理は挫折する。もはや<とどまる>ことが世界を覆うことはできなくなり、<出てゆく>と<とどまる>は対立する構図を形成していった。そして明治維新が大衆的な規模で強いたのも、この抜き差しならない分裂の意識であった。
(『攻撃的解体』1991年)

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2007/12/04

薩摩とは何か、西郷とは誰か 6

 薩摩は、幕府の国家権力の圧政と藩国家内で衆庶に及ぼしている圧政で、窒息していった。これは<こわばり>の論理はそれのみでは、<こわばり>の果てに凍てつき死んでゆくことを意味している。この窒息の事態を、島津は南島支配により切り抜け、<薩摩>を呼吸させたのである。薩摩は南島にたいして強者の論理で臨んだのだが、ここでも薩摩は浄土真宗と同じ“敵”を南島に見出したのだ。なぜなら南島は、<こわばり>の論理とは相容れない安逸や香気やおおらかさという楽な姿勢を保持した世界だったからである。そして薩摩が南島に輸出した最大のものも、この<こわばり>の論理であった。しかし、薩摩にとって南島支配のもった意味は、藩内部の呼吸というだけに止まらない。

 薩摩は藩国家を独立圏として成立させたが、このことは藩国家内部の<こわばり>の内圧を高めることを意味した。だが、考えてみれば江戸幕府の国家権力も外部世界にたいして門を閉ざし、鎖国体制を敷いていたのであり、薩摩は鎖国内部で、もう一度鎖国の境界を引いていることになる。ところで二重の閉鎖は藩内部の内圧をさらに高めるといえるが、他方、幕府の国家権力から藩を閉ざすという点では、幕府の国家観力が閉ざしている外部世界とは通路が開かれる契機をもつことを意味したのである。司馬などが日本の植民地化を防いだという島津氏の幕末の外交はこのことの現れである。ここでも南島は外部世界の動きをもっともはやく受けており、薩摩は南島支配によりその信号をキャッチし、外部世界との呼吸をも可能にしたのである。だから、国家としての薩摩にとって南島支配とは、国家の内部と外部にたいする呼吸という意味をもったのである。

 このことは<薩摩>が、観念と情念の農王国として、ある極北を占めると考えられる側面も物語っている。これはふつうには、進取の気性に富むことと保守的であるということが矛盾せずに県民性として挙げられていることに関わり、かれらのある痛ましさの内実を伝えるものである。

 薩摩は、「出島」のように江戸幕府の国家の政策的な開放機関であったわけではない。薩摩が外部世界と交通したのは、鎖国内部でさらに鎖国を反復した強度が反転された結果である。この全く異なる相貌をもつものへの反転を可能にする強度において、薩摩は極北を占めるということができるのである。だが、この反転は、精神の自在さや世界の多様性を意味しない。日本という大文字の<共同意志>にたいして<薩摩>の、いわば小文字の<共同意志>が、従属という関係だけではおさまらず、対立し拮抗する志向をどこかに持っているということは、大文字の<共同意志>以上に、いびつなおおらかさのない共同性をしか構成できないことを意味していた。それはこれまで見てきた通りである。だからこの反転は、<共同意志>の二重化が可能にしているのであり、本来別ものではありえず、根底的には<薩摩>のもつ相貌だということに変りはない。

 そして現在、大文字の<共同意志>が白熱する核の根拠を喪失し解体と拡散の一途を辿っている事態にたいしては、小文字の<共同意志>は、動向の遮断と自身の強化を志向し、解体と拡散への反動から大文字の<共同意志>が日本人としての結束を強化しょうとする収束の動きにたいしては、むしろその先鋒をつとめているようにみえる。これが、かの地の“保守と進取”にまつわる現在的な二重性の奇妙なあらわれになっているのだ。
(『攻撃的解体』1991年)

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2007/12/03

「みんなで沖縄の海にサンゴを10,000本植えよう。」

たまたま、こんな企画を見つけました。

 gooホームPROJECT

キャッチフレーズは、
「みんなで沖縄の海にサンゴを10,000本植えよう。」

ぼくは、gooの会員ではないので、
詳しく見れていませんが、
SNS起点の活動のようです。

 あなたと誰かがつながって、リアルが起きる。


このフレーズもいいですね。



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薩摩とは何か、西郷とは誰か 5

 だから、西郷隆盛の死にしても、現象的には「サムライの滅亡」を象徴したとしか言えないものだ。日本史権力としての国家の、薩摩に対する従属の強制は、「熊蘇」や「隼人」にたいする「大和朝廷」以来の歴史的なものだが、こうした背景をもった薩摩にとって明治維新は、高い内圧のエネルギーの発散によって、国家の封じ込めにたいする無意識の解放を果したことを意味したと思える。だが薩摩にとっての内在的な意味と「明治維新」の内実とはおのずと別の事柄に属する。西郷はこの薩摩にとっての内在的な場所を離脱して、「明治維新」の独自の相貌を織ったとき、歴史の突端にたって二重の分裂した意識をかかえこんだ。繰り返すが、そこでは<出てゆく>ことと<とどまる>ことは異なる生の範型であることを、<薩摩>という地方の物語をもっとも大きな振幅で辿らざるをえない負荷を通じて識らされたのである。だが、かれはここでこの分裂に身を晒したのでもなく、革命の遂行を、つまり<出てゆく>ことの意味をどこまでも辿ってみせたみでもなかった。

 西郷は、その意に反して海辺の統治を命じられて青山が枯れるほどに泣きちらしたスサノオのように、<出てゆく>ことを拒否して<とどまる>ことを望んだのだ。だから、西郷の死がほんとうに象徴しているのは、農耕社会型における政治形態の最初の死である。司馬の言う通り、薩長という明治維新の武門勢力は、革命政権について何のブランも持っていなかった。そのことはアジア的・農耕社会型の論理が死ななければならない端緒であったことを示している。西郷はそこに殉じたのだ。

 西郷については、現在でも、親近感を抱くことができる人格的な吸引力が語られる反面、そのネガのように「征韓論」を唱えた人物であるということが、矛盾であり謎であるとする考え方が存在する。だが、こんなことは矛盾でも謎でもありはしない。「敬天愛人」というかれの言葉がよく伝えているように、支配権力は天上に押し上げられ、そのもとでの衆庶相互は愛情に満ちた関係が架橋するという専制的な支配権力の存在と理想的な側面すらもつ人間関係の親和は、ともに農耕型社会の特徴である。そして西郷は、この「帝王」的世界と「阿Q」的世界の双方の在り方を一人格として備えていたのだ。西郷が農耕型社会における政治形態の最初の死を象徴しえているのは、この無限の距離を介して成立するはずの、ディスポティズムの論理と「帝力何ぞ我にあらんや」という衆庶の呟きを一身に具現していたことにあるのであり、かれの魅力もそこにあると言える。

 西郷がこのような思想的人格ともいうべき内実を体現しえたのは、ひとつには薩摩が自閉的な社会を維持し藩国家を独立圏として成立させたため、薩摩藩が外部とは一端絶たれた農耕型社会を純粋培養したことによる。しかし、国家としての薩摩は「帝王と阿Q」の世界を生き写しにもっていたのではなかった。そこには、両者の無限の距離を極小に締めた「郷士制度」が存在しており、「阿Q」的世界に特徴的な安逸や呑気さやおおらかさの代りに<こわばり>の雰囲気が浸透していたのである。つまり西郷は<薩摩>のみでは西郷たりえなかったのである。このことは藩だけでは<薩摩>が薩摩自身を存続させることはできなかったことに対応すると思える。
(『攻撃的解体』1991年)

 いま、補足があるとしたら、農耕社会型の政治の死が、西郷隆盛に始まったとすれば、その終わりを演じたのは、田中角栄だったということだ。


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2007/12/02

薩摩とは何か、西郷とは誰か 4

 ところで司馬は、島津氏は関ケ原の戦闘直後の臨戦態勢のまま、三世紀に近い江戸期のあいだ国境を閉鎖し続けたが、大勢に順応しがちな日本人の集団が、これほどの長期間にわたりひとつの姿勢の持続した例は絶無であり、「日本人が日本人の欠陥を考えるとき、このことは誇るべき特異例であるようにおもえる」(『街道を行く3』)とし、鎌倉期から綿々たる島津家の持続をつくったことについて、「薩摩人というのは日本人の傑作といえるのではあるまいか」(『歴史を紀行する』一九六九年)と書いている。

 この評言には、鹿児島の制度の代弁者たちの言に感じる疲労感と同質の、ひとに言葉を喪わせる憤りを覚える。馬鹿なことばかりぬかすなと言うほかはない。俺にはある地方人が傑作か否かという評価軸は無いから、薩摩人は日本人のなかの傑作であるという評言に反対だと言いたいのではない。むろん傑作だと考えるわけでもない。俺が疲労を感じるのは、このような言い方、つまり、大勢への順応を日本人の欠陥と見做し、薩摩の態度からその道のものを見出してそれを誇りと考え傑作と評することで、薩摩人としてのかれらの、ある痛ましさに届くことができるだろうか、と考えるからである。このような評価では、ここにある痛ましさを解き放つことは決してできないと思える。できるのは制度の代弁者たちの倒錯した優越の砦を強化することくらいである。「傑作」という強弁は「薩摩人」を歴史の過去に凍結することはできても、可能性へむかって解放することはできない。

 その可能性とはなにか。それは<こわばり>を解く、ということ以外ではありえない。<こわばり>の論理とは、虐政、圧政や苛酷な自然の条件下にある「弱者」が「強者」のごとくに振舞おうとして身につけたものだ。「弱者」が「強者」を装った緊張と硬直こそは、その根本にある構えのかたちだ。<武士道>と司馬が美化して呼ぶものの内実も<こわばり>の論理だ。「いつでも死ぬ覚悟」などその典型である。だが司馬の愛好する武士像は同じ「死ぬ覚悟」でも、『葉隠』のような観念的に昇華され武士の内面倫理と化したものではなく(彼は『葉隠』を「蓄膿症じみた教訓哲学」と評しているー注)、行動がそれを物語っていた薩摩武士においてこそ言えるものだ。

 この彼の美学に適っている武士像は、薩摩においては「郷士」が最もよく担っていた。「郷士」は、衆庶と江戸幕府の国家の双方にたいして薩摩藩の<国家意志>を担うものであり、その意味では<こわばり>の論理を最も体現した存在である。司馬によれば、この「傑作」とも言うべき薩摩武士は西南戦争で絶滅したということになる。だが、そうではないのだ。彼の美学に都合よく薩摩武士は滅びの道を歩んだのではない。彼が薩摩の虚像を措くその分だけ、その眼には現代は断絶と映るというにすぎない。

 明治という国家について一冊の書物を編みながら、明治維新がなした歴史的な「善」である「地租改正」のことを司馬は全く触れていないのだが、薩摩においては「地租改正」がもたらした現実は重要である。この農業革命において、「城下士」はその土地を没収され衆庶は土地の所有権を得るが、「郷士」はその土地が自作名義の開墾地であり、これについては士庶を問わず、所有権が持続されたと歴史は伝えている。そこで「城下士」は没落したが、逆にそれまで下位に見放されていた「郷士」が地主上して特権階層を構成することになったのだ。この「郷士」が特権階層を占めるという状況は、戦後の「農地改革」まで続くのである。

 このことの意味するものは何か。「郷士」は藩国家としての薩摩において、即戦的な武装集団であり、藩の境界の外部と藩内の衆庶にたいして直接に向き合っていた存在であり、いわば<こわばり>の論理を最も体現していた。だから、薩摩において薩摩武士は潰えなかったばかりか、むしろさらに薩摩の<共同意志>の構成者として存続したのである。つまり、<こわばり>の論理は<薩摩>に支配的な位置を占め続けたのであり、<こわばり>の伝統は、司馬の嫌悪してみせる昭和の軍部にまで連綿としたのだ。だから司馬の嘆きとは裏腹に武士道の精神とは、復活もしたし継承もされてきたのである。
(『攻撃的解体』1991年)

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2007/12/01

薩摩とは何か、西郷とは誰か 3

 「郷士制度」は藩国家の支配の共同意志をあまねく貫徹させるとともに、偏武的な戦闘集団が遍在することにより藩国家を独立圏としたのである。こうした特異な藩国家形態の欲望がどこにあるのかと言えば、それは薩摩の藩国家が江戸幕府の国家と対立し対峙する契機をもっていたことにあると思える。薩摩の藩国家はむろん江戸幕府の国家に従属していたのであるが、島津氏は外様大名であり国家の権力にたいして親疎の度合が最も<疎>にぶれていたということと、薩摩は国家の地理的な版図からみても<端>に位置していたという二重の関係を媒介して、薩摩は江戸の国家権力に拮抗する国家意志をもったのである。

 なぜ藩としての薩摩は、このような政治形態を採ったのだろうか。武士による地域共同体の直接支配と強固な藩境界の防備による独立圏の形成という二重の権力意志には、過剰な緊迫感の感触がある。このことについて、過剰な武士の存在が直接支配を要請し、江戸幕府の国家権力に対抗する契機を産んだと答えるのは現象的な理解にすぎない。この理解では、薩摩にみなぎっている緊迫や大上段的な構えについて触れることはできないと思える。

 そう考えるとき、俺たちはやはりここでも<こわばり>の感触に突き当っているのだ。そこで俺たちは言うことができる。この薩摩の藩国家は、<こわばり>の政治形態である。武力の遍在による独立圏の形成は江戸幕府の国家権力にたいする<こわばり>を表現したものであり、藩国家の内部にあっては衆庶にたいして<こわばり>、かれらから農耕社会の牧歌を奪い、そうすることで<こわばり>の体現者である武士階級を維持したのである。

 この衆庶にたいする<こわばり>を最もよく示しているのは、浄土真宗(一向宗)の禁制だと思える。国家としての薩摩は、なぜ、全国的なキリスト教の禁制に加え、浄土真宗(一向宗)を禁じたのだろうか。なぜキリスト教禁圧に優る苛烈さで弾圧に臨んだのだろうか。例えば『鹿児島県の歴史』の男は禁制の理由として流布された諸説にたいしていずれも信拠し難いとして、「一向宗禁制の真因は、一向宗の教権第一主義が、往々にして領主権力の軽視にまで発展するのを忌み嫌ったせいだと考えられる」と述べている。だがこうした説明で納得することはできるだろうか。これでは、なぜ、それなら他の領主権力もこぞって同様の禁制の措置を選択しなかったのかが了解できなくなるのであり、せいぜいがまたぞろ島津氏は賢明だったからというお国自慢的な解釈を得るに止まるのであり、この解答は、次の疑問を必然的に招き寄せるものにしかなっていないと思える。つまり、何も言ってないに等しいのである。答えるなら本質的に答えるべきだ。

 国家としての<薩摩>が浄土真宗を禁制にしたのは、浄土真宗の根本にある、楽な姿勢、やさしい行いという考えに、敵の臭いを嗅いだからなのだ。楽な姿勢、やさしい行いは、<こわばり>の論理とは最も相容れないものだからである。つまり、<薩摩>が<浄土真宗>の姿勢に<こわばった>のである。また、このことは<薩摩>が「実際的武断」という評言を得、また自身たちでも行動性を重んじ観念論を忌むと評価している中味についても教えてくれる。ここで、観念論を忌むと言われているのは、観念を軽視しているというのではなく、正確に言おうとすれば、観念を忌避しているのである。つまり、人間の思惟の普遍性、政治的な不自由下にあっても観念は自由でありうるということへの恐れ、敵意がここにはあるのだ。同様の言い方をすれば、<薩摩>は、観念における人間の普遍性にたいして<こわばった>のである。
(『攻撃的解体』1991年)

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