薩摩とは何か、西郷とは誰か 9
<薩摩隼人>に与えられている内実にしても同じである。薩摩出身の作家、海音寺潮五郎は、<薩摩隼人>を、「勇敢さと強さを喜ぶ人種」と評するとともに、「おそろしく楽天的で、享楽的で、ジョウダンが好きだ」として、「薩摩人ほどジョウダンを言い、薩摩人ほど大きな声で笑う人々を、ぼくは知らない。どんなことでも、薩摩人は遊楽化してしまう。戦争中のあのイヤな防空演習が、薩摩では見事に連楽化されていた。水かけ演習など、部落対抗の競技になって、それぞれ選手が出、応援団が組織され、応援歌をうたいながら、焼酎をのみながら、いとも楽しく、いとも盛大に行われたのだ」(「ポッケモン入国」)と書いて、二重に評価している。
お国自慢恒例の盲目さを差し引けば、人はここに書かれた勇敢さと明るさからどんな印象を受けるだろうか。俺はついていけない気遅れと、どこか気負いこんだ窮屈さを感じる。ほんとうに笑っているのか、ほんとうに楽しいのかという声がせりあがってくる。それはかつての自分に向ける言葉でもある。この「明るさ」は俺が欲しいものではない。これは、俺が昭和の戦争期を受け取っているとすれば、そこで明朗アジアの建設や鍛練や修身といったスローガンとともにあった「明るさ」に近いという気がする。いや、薩摩の<こわばり>の論理は、戦争期にこそ適合したのではないか。
昭和の戦争期とは全国規模で<こわばり>の論理が席捲した時期のことだからである。しかし、本土の南端にある二つの半島を南方につきだした地域の「明るさ」は、北端にある、やはり二つの半島を北方に伸ばした地域を出自にもつ作家が、その戦争中に放った「明ルサハ、滅ビノ姿デアロウカ」という言葉が的中するものだと思える。<こわばり>の論理は絵に描いたような「明るさ」をつくりだす。だがそれはリラックスよりは滅びに近しいのだ。
そして<桜島>、である。鹿児島を故郷にもつ者は、桜島をみると帰ってきたという安堵感に浸れるという。逆に、外から観光に訪れた者は、非日本的な風土を感受したりするという。しかし俺にはそのどちらの感受もやってこない。そこにいけば必ずある抑圧の石として重たいしこりを落としてゆくだけだ。また、薩摩は南国的な明るさをもつなどという文章に出会うと、俺はそこに、灰に降られて遮られる視界のようにすべては視えなくされているという像を対置せずにはおれない。南国だから明るいなどと言ってみたところで何も言っていないに等しいとしか思えないのだ。だが、こんなことは俺の不幸な感受の型だというだけで別にたいしたことではない。俺が採りあげたいのは、<桜島>が内部から語られるとき、その爆発と噴煙から男性的で雄壮であるという像が導かれやすく、しかも古来からそうであったかのような印象を与えていることだ。しかし、そんなことは決してないのだ。
俺たちは人間を固定化して考えてはならないのと同じく、風景が県民性と結託して通念像を練り上げる息苦しさに対しても、どこかに風穴をあける自由を保持していることが大切だ。桜島にしても噴火が活発化する以前は、山肌は緑に覆われなだらかな曲線を描き、どちらかといえば女性的なイメージをもっていたという感受もありえたのである。だが、彼らの手にかかれば、鹿児島の象徴として固定化された像に収斂するしかないように出来あがっている。
かくして<薩摩>といえば、<教育県>であり、<薩摩隼人>であり<桜島>であり、これらは<男尊女卑>を美化した男性的というイメージの連鎖を辿り、その頭目みたいに<西郷南洲>が祭りあげられるのだ。しかしこれらのいずれもが、こうしたイメージ連鎖により内実をすぼめられていることは言うもまたないことだ。この像のもとで息苦しくされているのは、あいかわらずシラス台地とつきあってきた人々ではないのか。
<こわばり>は、人間のある心的な状態であり、そのこと自体は何ら不自然なものではない。しかし、絶対化され共同意志化された<こわばり>の論理は、死滅すべきものであり、大衆的な規模で「消費」が意識化される地点から全く根拠を無くして死滅するしかないのである。
(『攻撃的解体』1991年)
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コメント
クオリアさん
ユンヌンチュは ナマジラヌマンディ
(与論の人は よく冗談(ジョーク)を云います)
よくない<こわばり>の究極は、キム・ジョン・ビル
が、今的な人なんででしょうか
世界最強の軍隊の親分も、似たり寄ったりですかね
こんな究極的な輩が「一寸の虫にも五分の魂」だと
開き直れば、1ミリの虫でミクロンの魂はどこに行く
のでしょうか
ユンヌチュる島や インクサクトゥ ナビヌ底中に
ヌーンネーシガ イチャシュラガヤ
話が難しいので、身に迫るものがあります
投稿: サッちゃん | 2007/12/08 01:00
サッちゃんさん。
16年前のものだからというのは言い訳ですが、しんどい文章にお付き合いいただいてありがとうございます。
こわばってゆかない、ユンヌンチュのなまじらは、宝だと思います。
投稿: 喜山 | 2007/12/08 14:55