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2007/12/02

薩摩とは何か、西郷とは誰か 4

 ところで司馬は、島津氏は関ケ原の戦闘直後の臨戦態勢のまま、三世紀に近い江戸期のあいだ国境を閉鎖し続けたが、大勢に順応しがちな日本人の集団が、これほどの長期間にわたりひとつの姿勢の持続した例は絶無であり、「日本人が日本人の欠陥を考えるとき、このことは誇るべき特異例であるようにおもえる」(『街道を行く3』)とし、鎌倉期から綿々たる島津家の持続をつくったことについて、「薩摩人というのは日本人の傑作といえるのではあるまいか」(『歴史を紀行する』一九六九年)と書いている。

 この評言には、鹿児島の制度の代弁者たちの言に感じる疲労感と同質の、ひとに言葉を喪わせる憤りを覚える。馬鹿なことばかりぬかすなと言うほかはない。俺にはある地方人が傑作か否かという評価軸は無いから、薩摩人は日本人のなかの傑作であるという評言に反対だと言いたいのではない。むろん傑作だと考えるわけでもない。俺が疲労を感じるのは、このような言い方、つまり、大勢への順応を日本人の欠陥と見做し、薩摩の態度からその道のものを見出してそれを誇りと考え傑作と評することで、薩摩人としてのかれらの、ある痛ましさに届くことができるだろうか、と考えるからである。このような評価では、ここにある痛ましさを解き放つことは決してできないと思える。できるのは制度の代弁者たちの倒錯した優越の砦を強化することくらいである。「傑作」という強弁は「薩摩人」を歴史の過去に凍結することはできても、可能性へむかって解放することはできない。

 その可能性とはなにか。それは<こわばり>を解く、ということ以外ではありえない。<こわばり>の論理とは、虐政、圧政や苛酷な自然の条件下にある「弱者」が「強者」のごとくに振舞おうとして身につけたものだ。「弱者」が「強者」を装った緊張と硬直こそは、その根本にある構えのかたちだ。<武士道>と司馬が美化して呼ぶものの内実も<こわばり>の論理だ。「いつでも死ぬ覚悟」などその典型である。だが司馬の愛好する武士像は同じ「死ぬ覚悟」でも、『葉隠』のような観念的に昇華され武士の内面倫理と化したものではなく(彼は『葉隠』を「蓄膿症じみた教訓哲学」と評しているー注)、行動がそれを物語っていた薩摩武士においてこそ言えるものだ。

 この彼の美学に適っている武士像は、薩摩においては「郷士」が最もよく担っていた。「郷士」は、衆庶と江戸幕府の国家の双方にたいして薩摩藩の<国家意志>を担うものであり、その意味では<こわばり>の論理を最も体現した存在である。司馬によれば、この「傑作」とも言うべき薩摩武士は西南戦争で絶滅したということになる。だが、そうではないのだ。彼の美学に都合よく薩摩武士は滅びの道を歩んだのではない。彼が薩摩の虚像を措くその分だけ、その眼には現代は断絶と映るというにすぎない。

 明治という国家について一冊の書物を編みながら、明治維新がなした歴史的な「善」である「地租改正」のことを司馬は全く触れていないのだが、薩摩においては「地租改正」がもたらした現実は重要である。この農業革命において、「城下士」はその土地を没収され衆庶は土地の所有権を得るが、「郷士」はその土地が自作名義の開墾地であり、これについては士庶を問わず、所有権が持続されたと歴史は伝えている。そこで「城下士」は没落したが、逆にそれまで下位に見放されていた「郷士」が地主上して特権階層を構成することになったのだ。この「郷士」が特権階層を占めるという状況は、戦後の「農地改革」まで続くのである。

 このことの意味するものは何か。「郷士」は藩国家としての薩摩において、即戦的な武装集団であり、藩の境界の外部と藩内の衆庶にたいして直接に向き合っていた存在であり、いわば<こわばり>の論理を最も体現していた。だから、薩摩において薩摩武士は潰えなかったばかりか、むしろさらに薩摩の<共同意志>の構成者として存続したのである。つまり、<こわばり>の論理は<薩摩>に支配的な位置を占め続けたのであり、<こわばり>の伝統は、司馬の嫌悪してみせる昭和の軍部にまで連綿としたのだ。だから司馬の嘆きとは裏腹に武士道の精神とは、復活もしたし継承もされてきたのである。
(『攻撃的解体』1991年)

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