優しい出入り口-与論砂浜の表情
与論の砂浜をめぐる旅は一日で足りたのか?
それは甘かった。
では、二日かければ何とかなったか?
それも甘かった。
まだ、見落としている浜辺はいくつもある。
それに、写真に収めた浜辺だって、
立ち寄る程度しか接することはできなかった。
つぶさに立ち寄りたいし、
ひとつひとつを、素足の裏で感じ、座ってもみたい。
座って、海を眺めてみたい。
それに、干瀬から浜辺を眺めてもみたい。
そんなやりたいことたちは、また後日だ。
ひと口に与論の砂浜といっても、
その表情は単調ではなかった。
比較のために撮ったわけではないけれど、
上のティラザキ(寺崎)の砂は、
肌理が細やかで白く、
下のアーサキ(赤崎)近辺の砂は、
粒が大きく丸く赤みを帯びていた。
寺崎は、白崎かもしれないが、
ひょっとして、赤崎も、赤い砂の崎なのかもしれない
と思ったほどだ。
砂の白は神聖なものだが、
でも、感覚的には、足の裏に優しい。
砂浜は、与論島の外への出入り口だとしたら、
与論は、優しい出入り口を南の一部を除いて、
八方美人に数多持った場所だということに気づかされた。
まさに、砂の島だった。
○ ○ ○
とはいえ、与論島が「砂の島」ということに確信を持てたけれど、
「砂の島」が与論島の地名の由来であるかどうかに
確信が持てたわけではなかった。
たとえば、砂の印象とは別のことだけれど、
ユンヌを「砂の島」と解する場合、
「ヌ」を格助詞「の」と解しても、
他にあまり例がなく、どこか不自然な印象がぬぐえない。
それからぼくは、その同系列の地名として、
与那国の地名ドゥナンや与那国の砂浜ダンヌを
同じ地名と見なしているのだが、
与論ほどには、与那国島は「砂の島」とは言いがたく、
地勢が地名という初期原則に則っていないのではないかという
疑念が去らない。
ひょっとしたら、与論=与那国という仮説は、
奄美と八重山の地名相似に由来を求めるのがいいのかもしれない。
地名が相似する根拠は、
北から南へ移った島人が、
奄美の島々に名づけたものを八重山でつけたと解するのだ。
けれどそれは、よく描かれるように、
日琉同祖論にいう弥生期に農耕技術を携えて南下した
「日本人」がつけたものと考えているのではない。
むしろ、もっともっと以前に、北方からやってきた
「日本人」が名づけたとイメージしている。
○ ○ ○
こんな風に、砂の島の想念は去らない。
またいつの日か、「砂の島」与論島を堪能する日を持ちたい。
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