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2007/11/28

<こわばり>としての薩摩の思想

「二才咄格式条目」に対して、
ぼくはかつて、こう書いた。
                                    
  先入観なしに読んでみて、
  現在の俺たちはなにをこの「定目」に感じるだろう。
  俺はまずはじめに、条目の全体を律している
  切迫した緊張を否応無しに感得する。
  例えば、「武士道とは死ぬことと見付けたり」 という
  近世の『葉隠』(山本常朝)にひとつの完成された
  表現をみることができるように、<武士道>の論理は
  実践者に絶えざる緊張を強いるものであるといえる。

  だが、ここにある「武士道とは死ぬことと見付けたり」 
  というのは、武士の内部倫理として武士存在である者の、
  自分自身にたいする緊張という関係を表現しているのだと思える。
  この 「定目」 から感じられてくる“緊張”は、それとは少し違う。
  言ってみれば、それは自分自身にたいする緊張ではなく、
  他者に対する切迫した緊張感なのだ。

  武道の嗜み、古風の遵守、虚言への戒め、
  忠孝の道への忠誠などの条目は、
  俺のような門外漢のもっている武士像の通念の範囲でも
  了解できる内容である。
  また 「遅れをとるな」という戒律は、
  これらの項目とともに『葉隠』 にひとつの集約をみることができる
  武士存在の倫理として受け取ることができる。

  しかし第三条にある、万一「咄(郷)」の外、
  つまり共同体の外部へ赴くことがあったら、
  用が済み次窮、長居をせずにさっさと帰るべきであるという戒律は、
  武門の倫理に結実していくものであるとは必ずしも考えられない。
  というのも、これは武門の倫理が強調するひとつである
  「節度」を教えているというよりは、
  共同体外部への警戒心を意味しているように受け止められるからだ。

  つまり「咄(郷)」の外部においては、
  用件以外のことには関らないようにせよという注意を
  促しているように思える。
  もっと言えば、この条項から喚起されるのは、
  「節度」を重んじる武門の姿であるよりは、
  「定目」成立の背後にあったとされる“風紀”の乱れとしての、
  武門の師弟間の喧嘩や諍いの方なのだ。

  道草や長居は、「咄(郷)」外の武門の子弟との
  喧嘩や諍いの可能性を高めるという現実がここにはあると思える。

  『郷中教育の研究』(一九四三年)を著した松本彦三郎は、
  「郷中」で最も顕著な生活現象は「喧嘩」であったと述べている。
  俺は、この伝聞や歴史の記述から導いた松本の見解は、
  条文の志向性に照らしても妥当だと思える。
  しかも共同体間の喧嘩や諍いは、中学校の不良連中が
  学校や地域相互で、どんなきっかけからでも
  反目し対立して喧嘩に及ぶこともあったから、
  こうした武門の子弟の様相も了解に苦しむことはないと言ってよい。

  三条の背後には、ささいなことで喧嘩や諍いに及ぶ
  武門の青少年たちの生々しい実態があったのである。
  この意味で第三条は、第十条のさいごにある、
  「このことは『咄』外の人については全く問題にしていない
  (絶えて知らざることに候事)」という乗りと対をなしている。
  この後半の一文が意味するのは、この「定目」自体が
  「咄(郷)」、つまり共同体の外部を全く無視しているということだ。
  このことは、これを読むものに特異な印象を与えずにはおかない。

  ここでは少なくとも教育意志は、他の「咄(郷)」を相手にしないことで、
  <共同意志>の届く範囲を限定しているからだ。
  だが、これは「定目」の教育意志が<共同意志>として
  普遍性を目指さないことを意味しているのではない。
  そうであるなら、「定目」も「郷中教育」の規範原典となるはずはなかった。
 
  「咄(郷)」外を問題にしない(咄外の人絶えて知らざることに候事) 
  という規定は、「教育意志」の極度な排他性を意味しているのである。
  だから、教育意志としては排他性の普遍化を図るものだと言ってよい。
  ここで武門の論理は、他地域の子弟との喧嘩や評論の禁止の戒律が
  あるにもかかわらず、諍いをなだめ緩和する緩衝地帯となるよりは、
  むしろ対立を不可避として、排他性を根本的な支柱としているのである。
  そうであるなら、この極端な排他性は、極端に暴力に傾斜しやすい
  武門の青少年たちの実態と見合っているというべきである。

  だから「定目」から感受される他者への切迫した緊張とは、
  他地域(共同体)への排他性として表出されていると言っていい。
  (『攻撃的解体』1991年)

だいたいこの定目は、豊臣秀吉の命による朝鮮出兵時に、
薩摩の青年武士たちの喧嘩や諍いが絶えない状況に対して、
「風紀」を引き締めるために作成されたと伝えられているが、
そんな背景を踏まえれば、なおさら意訳は、おすまし顔に過ぎると思える。

かつてぼくは、ここから、薩摩の「郷中教育」とは、
<こわばり>の制度化であるとし、薩摩の思想にいう、
「泣こよか、ひっ飛べ」、「議を言うな」、「ぼっけもん」
などのキーワードは、
<こわばり>の論理の表出であると見なした。

ともすると誇り勝ちな「男尊女卑」にしても、
人間(男性)の人間(女性)に対する
<こわばり>以外の何物でもないと考えた。

 ○ ○ ○

「最低の鞍部で越えるな」という言葉がある。
ぼくもそう考えるものだ。
ぼくは、最高の鞍部に出会いたくて、『薩摩のキセキ』を読んだ。

残念なことに、この書でそれは果たせなかった。
ぼくは、16年前の自分の文章に対して、
更新すべきことも修正すべきことも、
何ひとつ見いだすことができなかった。

ただ、最高の鞍部に出会いたいというのは、
自分の思想や南島論を鍛え上げるために、
薩摩の思想が不可欠な存在だからというのではない。

薩摩の思想は、思想の質としては論外だと思っている。
ぼくが、最高の鞍部として期待するのは、
そうなって初めて対話の緒につけると思えるからだ。

それは、「マイノリティの視線」を書いた
山之内さんのコラムには明示されているものだった。

ぼくは、山之内さんのような
対話のできる薩摩の思想の登場を待ちたいと思う。




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