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2007/11/01

『ウンタマギルー』と『めがね』

高嶺剛監督の1989年の映画『ウンタマギルー』と、
荻上直子監督の2007年の映画『めがね』は、
対極的な位置にある作品だ。

けれど、その質は似ているとぼくは思った。
登り口は違う。けれど頂は同じ。
いや同じと言わないまでも、とても近いと思うのだ。

その頂というのは、よい表現かどうか分からないけれど、
琉球弧の本質に当たるものと言いたい気がする。

「ウンタマギルーのけだるさ」
 「『ウンタマギルー』以後。過剰の交換」

映画『ウンタマギルー』と映画『めがね』が対極的だというのは、
沖縄と与論の起点がまるで違うことに帰せられる。

「沖縄」は、沖縄自身とは似て非なる記号化された「沖縄」の
イメージを過剰に持つ地である。

それに対して、「与論」はといえば、
与論自身が与論とは何か、自問自答できないくらいだから、
他者像としてノン・イメージなのである。

過剰な「沖縄」像と空虚な「与論」像を起点に、
そこから、その場から感受されるものは何か、を描こうとしているのが、
『ウンタマギルー』と『めがね』なのであり、
地霊的な感受を描こうとしている点において両者は共通しているのである。

高嶺監督は、わざわざ方言を使い字幕を施し、
沖縄人役に日本人俳優を起用し、ありそうでないなさそうである
あわいに浮遊する事象を散りばめて、
記号化された「沖縄」像をことごとく虚構化する方法で、
その残余に、琉球弧の感受を置いた。

それに対するようにいえば、
荻上監督は、与論を非在化し(どこかにある南の島)、
琉球的な事象を、自然と子ども以外は排して、
ありのままの自然を描くことで、
琉球弧の感受を描いてみせた。

それを『ウンタマギルー』は、「オキナワン・チルダイ」、
「琉球の聖なるけだるさ」と呼び、
『めがね』は「たそがれる」と呼んだ。

「たそがれる」は、その世界に浸りきれば、
「けだるさ」の世界にすぐに入っていく。
「けだるさ」に出会って恍惚とする、それを「たそがれる」と呼べば、
両者に橋渡しはできるはずだ。

高嶺監督が、荻上監督より徹底しているというのではない。
高嶺剛は石垣島出身。いわば沖縄の内部から描いたのに対し、
荻上直子は、旅人としての外部から描いたという
立ち位置の違いがあるに過ぎない。

それは内部からと外部からの差異に過ぎない。

しかしこれを単に、その差異に過ぎないと
身勝手に言わせるほどに、
両者が本質的なことをやろうとしてくれたということ。
言うべきなのは本当は、このことかもしれない。

かつて、沖縄と与論は、「オキナワ・ヨロン」と、
リゾートとして併記されたことがあった。
『ウンタマギルー』と『めがね』は、
映画作品化を通じた沖縄と与論の再会のようだ。

追記
こんなことを書いたのは、なんと、
『ウンタマギルー』が、動画配信されていたからだ。
ぼくはまだ観ていないが、いずれ、
18年ぶりにあの映像に触れてみるつもりだ。


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コメント

おはようございます。
ウン玉  の配信ありがとうございます。
めがね  をみた後だったので
 よけいに 感動したのこもしれません。

  沖縄  芝居を勉強したくなりました。
 凄いですね。

 奄美の図書館が新築されると聞いて居りましたが、
県庁の最上階の 鳥瞰図見て  よくわかりました。

 島尾 さんの 奄美をもっと勉強する必要があると思いました。奄美が  活き活きしそうな気持ちです。
 夜が明けてので、
   今朝のブログも  おやすみ。

  何時も  ありがとうございます。

   書き込める  かな。

                なだ  そうそう。

投稿: awa | 2007/11/03 06:44

awaさん

「めがね」、ご覧になったんですね。よかったです。
ぜひ、感想をブログに書いてください。

島尾敏雄は、与論でももっと読まれるといいと思います。

投稿: 喜山 | 2007/11/03 19:26

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