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2007/11/30

薩摩とは何か、西郷とは誰か 2

 よく知られているように薩摩津の武家人口は極めて多く、専門家の試算によれば、武家対衆庶は三対一の割合であり、これは全国平均の約六倍に該当するという。この他藩に例をみない過剰な武家人口については、九州全域を征服していた島津氏が、豊臣政権により薩摩、大隅、日向に領地を限定されたため武家層もこの三州に封じ込められたという説明が与えられている。このため薩摩藩は藩士を城下に集住させず、領内を百余の区画に区切り、藩士を居住させるという屯田制度を敷いた。この区画を「郷」と呼ぶが、「郷」居住の藩士は、城下居住の藩士である「城下士」にたいして「郷士」と呼ばれ区別されていた。

 「郷」とは藩内の共同性の単位であり、「郷士」とは「城下士」が藩の支配層であるのに対して、地域の共同体の支配層であると言える。この「郷士」という存在に象徴されるという意味で、この屯田制度は「郷士制度」と呼ばれた。あるいは「郷」は古くは外郭的防衛至城の意味で「外城」とも称していたものであり、その意味では「外城制度」とも呼ばれている。いずれにせよ、「郷士(外城)制度」は、薩摩藩の抱える過剰な武家人口を維持するために編み出されたもので、この意味で<薩摩>を特徴づけている根本的な要素であると言うことができる。
 
 「郷」はひとつの行政単位で「郷士」はその支配層だが、「城下士」とは異なりほとんどが農業経営に従事する「半農半士」の生活を営んでいた。しかし、このことは薩摩藩では地方自治が行われていたということを全く意味しておらず、また「郷士」の生活様式は「半農半士」であったとしても、だからといって「郷士」は、武士と衆庶の仲立ちをなし両者の対立を緩和する役割にあったことを全く意味していない。

 「郷士」の生活形態には農が組み込まれているが、彼らの存在規定は「郷士」が、軍事に携わる「武士」と農に従事する「農民」の中間に、その交わる部分にあることを意味しない。「郷士」は「城下士」の下位に位置づけられ、「城下士」からは「一日兵児」と侮蔑される存在だったが、そうであっても「郷士」は武装した農民ではなく、農を営む武士であるというのがその存在規定である。つまり「郷士」は、農民としての衆庶とは階級として一線を画する武士に属することに変りはなく、衆庶にたいしては支配者として振舞ったのである。「郷士」が居住したのは各郷の「麓」と呼ばれる武士集落であり、衆庶の居住する周囲の「在郷」と区別された。「郷」はこの「麓」と「在郷」、により構成されるが、「麓」と「在」とは居住空間の相違であるとともに支配と被支配の関係図式も意味したのである。

 だから「郷士」とは武家と衆庶における支配-被支配の関係をもっとも露骨に尖鋭に表現したのであり、この領内の全共同体に配置した武士存在により、藩は衆庶からはとんど奴隷同然の収奪を可能にしたのである。

 この意味で行政単位としての「郷」は、薩摩の藩国家の内部における小国家を構成したのだと言える。「郷中教育」の実態が教えるように、この小国家相互は排他的な関係にありながら、藩の国家意志を共有しており、ナショナルな情念と観念は藩国家の<共同意志>に白熱の中心をもっていた。だから「郷士」という存在は藩の領地にあまねく貫徹した支配の意志であるとともに、武力機関としては藩全体に国家がびまんすることを意味したのである。しかも薩摩は藩境界の警備が厳重を極めており、鎖国中の鎖国として一種の独立圏を形成していたのだ。

 これらのことは薩摩という農耕社会に特異な特徴をもたらしたと思える。つまり、この二重鎖国の独立圏を形成することで、薩摩はある農耕型社会の世界を純粋培養したのだ。薩摩は「武士」の内部から、その存在規定において武門に属するが、その生活様式においては農を営む「郷士」という存在をもったことで、『葉隠』のような観念的に昇華された「武士道」を手にすることがなかったと同時に、初期武門を産んだ鎌倉武士の粗野さや殺伐さをよく温存したのである。その上薩摩は鎌倉期以来、島津氏の支配体制に変更が無かったため、中世的な後進性はこの点でも保持されやすかったのだ。だが、その一方で「郷士」は薩摩の各地域共同体を直接支配したから、「郷士制度」は農耕社会の政治形態である「阿Qと帝王」にまつわる構造についても重要な変容を与えずにはおかなかった。政治形態としての農耕社会では、衆庶は貧困であるが、貧困下の平等と理想的な親和の関係が存在することと、支配者の専制や圧政が貫徹するということとが共存する。そしてこの世界における両者の共存は、いわゆる「阿Qと帝王」の無限の距離が媒介しているのである。だから、「郷」という共同体が意味するのはこの「阿Qと帝王」の距離を極小値にすることであり、そこでは両者の無限の距離により存在することができた牧歌や安穏やおおらかさが喪われたのである。
(『攻撃的解体』1991年)

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2007/11/29

薩摩とは何か、西郷とは誰か 1

 『薩摩のキセキ』については、昨日の記事で終わりにするつもりでいた。けれど、時間が経つにつれ、薩摩の思想の不変ぶりに今更ながらに愕然とする想いがやってくる。ぼくは16年前の自分の文章を読み返し、時代環境や自分の気負いの変化などを差し引けば、いま書いたとしても同じ文章を書くのではないかとすら思った。それなら、ここまで現実と呼吸していない閉回路の思想に対して、きちんと向き合うべきかもしれないと思い始めた。そこで、そのときの文章の一部を改めて書きとめておこうと思う。

 もとより、ブログを前提とした文章ではないし、読みにくいことはなはだしいと思う。それに、薩摩の思想を追っていくと、道すがら、中高年男性のアイドル、司馬遼太郎も批判せざるをえなかった。ご容赦ください。

『攻撃的解体』、ここから。

 制度としての<薩摩>とは何か。明治のあるジャーナリストは、維新で主要な役割を演じた薩長土肥の各藩について、薩摩の「実際的武断」、長州の「武人的知謀」、土佐の「理論的武断」、肥前の「文弱的知謀」というように評したという。この、薩摩をして「実際的武断」と評して他と区別させた根拠とは何か。日本の共同性の共通性として抽出できるけれども、<観念と情念の農王国>として、その極北をさすと考えられるものは何か。

 そう問うとき、俺は「郷中教育」に突きあたる。なぜならば、「教育県」を称するときに、かの地の<共同意志>が根拠にするのが、“郷中”と呼ばれる共同性で行われた士族青少年の教育制度だからである。

(中略)

 「郷中教育」 の根本にあるものは何か。
 一九世紀の初頭に書かれた白尾国柱の『倭文麻環』は、当時の風俗を次のように伝えている。

わが郷党の面々は、もし風俗についてよからぬ評判がたてば、未練卑怯のいたりであるとして、各々は励ましあって、風俗は正しく立ち直り、稽古事の暇には、山坂の達者、海川の水練まで心懸け、朋友同士は互いに不時な行為を我さきにと諌めあい、信義を結び、自然と婦人や女子を忌み嫌うのは、蛇や蝮を憎むのに似て、道路で美人に会うと、自分の身に不掬が及ぶかのように避けて遠ざかりして、また知恵をはたらかせて、権威があり勢いのある家柄に押し近づいて媚びへつらい、女色を評論して、衣食を選んだりするなどという著がいれば、すみやかに交流を絶ち、郷中を追放し、もっぱら任侠をこととし、質素を尊び、美服盛膳を恥岸とし、髪の毛も耳の上で剃るなどしてつとめていると、淫乱の悪風は自然に変って、古拙の善俗となったのである。 これらの任客少年を世の人々が兵児と呼んだのは、このときから始まっている。
                     (白尾国柱 『倭文麻環』)[私訳]

 たくさんの記述のなかから険しい目つきで探しだしたのではない。専門緒家の文章が、<薩摩>の“士風沿革”として、好んでとりあげる個所である。俺もこの個所は、彼らとはちがう意味で、「郷中教育」の本質を如実に物語っていると思える。それは、山坂達者や海川水練を含めた<武>の偏重にあるのではない。反骨にあるのでもない。そして「質実剛健」にあるのでもない。「これらの任客少年を世の人々が兵児(青年武士)と呼んだのは、このときから始まっている」と、「郷中教育」の成果について誇らし気に語られているこの文章のなかで、最も根底的な個所はどこなのか。

 この観点から答えれば、それは、「自然と婦人や女子を忌み嫌うのは、蛇や蝮を憎むのに似て、道路で美人に会うと、自分の身に不潔が及ぶかのように避けて遠ざかりして」、というこの文章のなかで最も異様な印象を受ける乗りが、最も根底的だと言える。そしてこの条りこそは「郷中教育」の本質を鮮やかに告げているものだ。なぜなら、この部分は、男性にとって最も身近な他者である女性に対する<こわばり>を、「郷中教育」の成果として「自然に」そうなったものだと吐露しているからである。蝮を憎むように婦女子を忌み嫌い、不潔の及ばないように避けて遠ざかるというのは、女性への蔑視と憎悪を表明しているには違いないが、その根底には、女性という最も身近な他者にたいする態度を通じて、そこに人間の人間にたいする<こわばり>が存在することを教えているのである。この、男性あるいは武士の優位性を強調するところで、記述文は「郷中教育」の本質が何であるかを明らかにしている。

 「郷中教育」は、男性としての「他者」である女性にたいしては憎悪と優位の関係を表現し、共同体の同朋という「他者」にたいしては集団主義で臨み、その内部で信義の関係を結ぶ一方で共同義絶による追放を必然化し、共同体外の「他者」にたいしては排他性を発揮するというように、「他者」に対する<こわばり>を制度化したものだ。
 
 「郷中教育」とは、<わばり>の共同意志だ。「定日」にみなぎっている切迫した緊張とは、この「他者」にたいする<こわばり>表出であり、松本が「郷中教育」のスローガンを“日常が非日常”“戦場が平生”と書くのも、郷中教育が何をその共同意志の根幹に据えているかを物語っている。

 だから<薩摩>が、「実際的武断」として評されたとき、それは、この<こわばり>と無関係ではないのであり、むしろ他者にたいする<こわばり>が、「実際的武断」として表現されたと言うことができるのである。これは、司馬が薩摩藩を、「観念よりも現実でもって行動を決するという男性的論理性という点では終始すじが通っていた」と評価し、『鹿児島県の歴史』の男が、「鹿児島県人は激烈な行動性をもち、観念的な空論を忌む」と判断して、おおよそ定説化した“県民性”の謂いとなっているものである。
(『攻撃的解体』1991年)

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2007/11/28

<こわばり>としての薩摩の思想

「二才咄格式条目」に対して、
ぼくはかつて、こう書いた。
                                    
  先入観なしに読んでみて、
  現在の俺たちはなにをこの「定目」に感じるだろう。
  俺はまずはじめに、条目の全体を律している
  切迫した緊張を否応無しに感得する。
  例えば、「武士道とは死ぬことと見付けたり」 という
  近世の『葉隠』(山本常朝)にひとつの完成された
  表現をみることができるように、<武士道>の論理は
  実践者に絶えざる緊張を強いるものであるといえる。

  だが、ここにある「武士道とは死ぬことと見付けたり」 
  というのは、武士の内部倫理として武士存在である者の、
  自分自身にたいする緊張という関係を表現しているのだと思える。
  この 「定目」 から感じられてくる“緊張”は、それとは少し違う。
  言ってみれば、それは自分自身にたいする緊張ではなく、
  他者に対する切迫した緊張感なのだ。

  武道の嗜み、古風の遵守、虚言への戒め、
  忠孝の道への忠誠などの条目は、
  俺のような門外漢のもっている武士像の通念の範囲でも
  了解できる内容である。
  また 「遅れをとるな」という戒律は、
  これらの項目とともに『葉隠』 にひとつの集約をみることができる
  武士存在の倫理として受け取ることができる。

  しかし第三条にある、万一「咄(郷)」の外、
  つまり共同体の外部へ赴くことがあったら、
  用が済み次窮、長居をせずにさっさと帰るべきであるという戒律は、
  武門の倫理に結実していくものであるとは必ずしも考えられない。
  というのも、これは武門の倫理が強調するひとつである
  「節度」を教えているというよりは、
  共同体外部への警戒心を意味しているように受け止められるからだ。

  つまり「咄(郷)」の外部においては、
  用件以外のことには関らないようにせよという注意を
  促しているように思える。
  もっと言えば、この条項から喚起されるのは、
  「節度」を重んじる武門の姿であるよりは、
  「定目」成立の背後にあったとされる“風紀”の乱れとしての、
  武門の師弟間の喧嘩や諍いの方なのだ。

  道草や長居は、「咄(郷)」外の武門の子弟との
  喧嘩や諍いの可能性を高めるという現実がここにはあると思える。

  『郷中教育の研究』(一九四三年)を著した松本彦三郎は、
  「郷中」で最も顕著な生活現象は「喧嘩」であったと述べている。
  俺は、この伝聞や歴史の記述から導いた松本の見解は、
  条文の志向性に照らしても妥当だと思える。
  しかも共同体間の喧嘩や諍いは、中学校の不良連中が
  学校や地域相互で、どんなきっかけからでも
  反目し対立して喧嘩に及ぶこともあったから、
  こうした武門の子弟の様相も了解に苦しむことはないと言ってよい。

  三条の背後には、ささいなことで喧嘩や諍いに及ぶ
  武門の青少年たちの生々しい実態があったのである。
  この意味で第三条は、第十条のさいごにある、
  「このことは『咄』外の人については全く問題にしていない
  (絶えて知らざることに候事)」という乗りと対をなしている。
  この後半の一文が意味するのは、この「定目」自体が
  「咄(郷)」、つまり共同体の外部を全く無視しているということだ。
  このことは、これを読むものに特異な印象を与えずにはおかない。

  ここでは少なくとも教育意志は、他の「咄(郷)」を相手にしないことで、
  <共同意志>の届く範囲を限定しているからだ。
  だが、これは「定目」の教育意志が<共同意志>として
  普遍性を目指さないことを意味しているのではない。
  そうであるなら、「定目」も「郷中教育」の規範原典となるはずはなかった。
 
  「咄(郷)」外を問題にしない(咄外の人絶えて知らざることに候事) 
  という規定は、「教育意志」の極度な排他性を意味しているのである。
  だから、教育意志としては排他性の普遍化を図るものだと言ってよい。
  ここで武門の論理は、他地域の子弟との喧嘩や評論の禁止の戒律が
  あるにもかかわらず、諍いをなだめ緩和する緩衝地帯となるよりは、
  むしろ対立を不可避として、排他性を根本的な支柱としているのである。
  そうであるなら、この極端な排他性は、極端に暴力に傾斜しやすい
  武門の青少年たちの実態と見合っているというべきである。

  だから「定目」から感受される他者への切迫した緊張とは、
  他地域(共同体)への排他性として表出されていると言っていい。
  (『攻撃的解体』1991年)

だいたいこの定目は、豊臣秀吉の命による朝鮮出兵時に、
薩摩の青年武士たちの喧嘩や諍いが絶えない状況に対して、
「風紀」を引き締めるために作成されたと伝えられているが、
そんな背景を踏まえれば、なおさら意訳は、おすまし顔に過ぎると思える。

かつてぼくは、ここから、薩摩の「郷中教育」とは、
<こわばり>の制度化であるとし、薩摩の思想にいう、
「泣こよか、ひっ飛べ」、「議を言うな」、「ぼっけもん」
などのキーワードは、
<こわばり>の論理の表出であると見なした。

ともすると誇り勝ちな「男尊女卑」にしても、
人間(男性)の人間(女性)に対する
<こわばり>以外の何物でもないと考えた。

 ○ ○ ○

「最低の鞍部で越えるな」という言葉がある。
ぼくもそう考えるものだ。
ぼくは、最高の鞍部に出会いたくて、『薩摩のキセキ』を読んだ。

残念なことに、この書でそれは果たせなかった。
ぼくは、16年前の自分の文章に対して、
更新すべきことも修正すべきことも、
何ひとつ見いだすことができなかった。

ただ、最高の鞍部に出会いたいというのは、
自分の思想や南島論を鍛え上げるために、
薩摩の思想が不可欠な存在だからというのではない。

薩摩の思想は、思想の質としては論外だと思っている。
ぼくが、最高の鞍部として期待するのは、
そうなって初めて対話の緒につけると思えるからだ。

それは、「マイノリティの視線」を書いた
山之内さんのコラムには明示されているものだった。

ぼくは、山之内さんのような
対話のできる薩摩の思想の登場を待ちたいと思う。




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これぞ低島-GoogleMapの与論島地形図

GoogleMapで地形図が見れます。

 □与論島地形図□

と、与論島をまず案内しましたが、
え?ただの白地図じゃない?と思うでしょう。

これが地形図だというのを確かめるには、
ヤンバルとか、徳之島とか奄美大島を見てください。

さすがの凹凸が分かります。雄大です。
各集落をシマと呼ぶ、それぞれの閉鎖性も分かるようです。

それに比べて与論島は、
白地図と見まがうほどの真っ白さ。
さすが低島というべきか、
これぞ低島というべきか、
走ると坂がきつい与論島も、
俯瞰すると、高低差のないことがよく分かりますね。




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2007/11/27

「二才咄格式条目」とは何か

薩摩の思想の核心には、「郷中教育」があり、
それは『薩摩のキセキ』でも、
手放しで賞賛されているものだ。

ぼくは16年くらい前に薩摩思想の批判を書いたことがあるが、
「郷中教育」を追究すると、すぐにその元になったものとして、
「二才咄格式条目」に突き当たった。

『薩摩のキセキ』でも、
「二才咄格式条目」が原文と意訳で掲載されている。

長くなるので、意訳だけ、挙げてみる。

  二才咄格式条目(にぜばなしかくしきじょうもく)

  【意訳】
  一、まず、武道をたしなむこと。
  一、日頃から士として身辺油断なく振る舞うこと。
  一、もし、諸用で先輩の家などへ行くときは用件がすみ次第、
     即刻下ること。無駄に長居しないこと。
  一、咄相中(郷中教育の方限のこと)においては、
    ひとえに膝をつき合わせて話し合うことが肝心である。
  一、たとえ親しき仲間内であっても、不作法や過言は禁止である。
    古風を守れ。
  一、咄相中誰であっても、よそに出かけて議論する際に
    双方納得がゆかず意見がまとまらない時には、
    双方納得がいくまで何度も論を詰めて落ち度のないようにすること。
  一、第一は嘘を言わないこと。士の道の一番の真意であるから、
    必ず守ること。
  一、忠孝の道は当然、守ることに心がけるべきであるが、
    万一、不測の事態となったときはその場遅れをとらないように
    一生懸命動くこと。武士の本意たるべきこと。
  一、山坂を登って足腰を鍛えることに心がけよ。
  一、二才(今でいう中高生程度の若者、昔は元服後の噴)は
    落髪をそり大角前髪をとることばかりでなく、
    すべてに於いて武辺を心がけ、心底忠孝の道に背かないこと。
   以上の旨、堅く守ること。もしこの旨に背けば二才としては取り扱わない
   (放り出され村八分にされる)。軍神摩利支天・南無八幡大菩薩、
   武運の冥加尽き果つべき儀疑いなき者なり。

躓くというより、ずっこけることの多い『薩摩のキセキ』のなかで、
ぼくが躓いたのは、この意訳だった。

これは、不正直な意訳だと思う。

まず、第二条の、「身辺油断なく振る舞うこと」の原文は、
「無油断可致穿儀事」で、
「常に油断なく穿儀すべきこと」となる。
穿儀は、詮議でり、字義通りには、
「罪人を取り調べること、捜索すること」になる。

穿儀は、油断なく「振舞う」というより、
武士の格式について油断なく相互監視せよという意味に近いと思える。

この「穿儀」は、第六条の、
「双方納得がいくまで何度も論を詰めて落ち度のないようにすること」
のくだり、「論を詰めて」の個所にも現れる。

ここれは、第一条の「振舞う」よりは、
字義の周辺の意味で使われているが、
的から逸らされている。

ここでは、「論を詰めて」というより、
相互監視を強めて詮索しあえと言っているのだと思える。
だいたい、ふた口目には「議を言うな」でことを済ませる風土で、
「論を詰める」自体、説得力がない。

次に、第二条の「先輩の家」は、
「咄外之人」のことである。
意訳でも注記しているように、
「咄」は、「郷中教育の方限」のこと、
つまり、いうところの“郷”のことだから、
この格式の及ばないところへ行ったときには、という意味だ。
「先輩」という意味ではない。

であればこそそのときには、長居をするな、
と言っているのである。

そして、最も不正直だと思うのは、最後の条にある
「此儀ハ、咄外之人たゑて不知事ニ而候事」の個所を、
意訳に組み入れていないことだ。

「このことは『咄』の外の人については全く知らない、問題にしていない」
と言っているのだと思う。

この格式が、「咄」、つまり、“郷”の内部について、
適用する条目について書かれたものだということを
正直に打ち明けた個所であり、
二十年近く前に、これを読んだときも、
この格式の特徴をもっともよく主張する個所だと思えた。

そこを、意訳から外す仕草に、ぼくは躓く。

この、「咄」と「穿儀」というキーワードからみれば、
賞賛とは別の相貌が「二才咄格式条目」から浮かび上がってくる。

   つづく



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奄美・沖縄セットの記事ふたつ

立て続けに、奄美と沖縄がセットになった記事を見た。

ひとつは沖縄タイムスの記事。
「奄美・沖縄島嶼経済フォーラム~琉球弧の戦略的連携を考える」

沖縄県からの、「どうする沖縄、どうする奄美」というタイトルに、
切実感がこもっている。

道州制への議論として投げかけたようだ。
道州制の議論はなかなか聞えてこないので、興味深いところだ。


もうひとつは、南日本新聞の記事で、
「ゆいまーる琉球の自治」と題して、宇検村で開かれたもの。

奄美と沖縄をセットに琉球圏の視点を設定し、
奄美や沖縄、東京、大阪等などから約30人が参加。
学集会を行ったという。

誰かが言っている、
「奄美と沖縄の交流関係が薄れてきた」というのは事実だと思えるが、
にもかかわらず、奄美・沖縄セットの場が企画されるのは、
そこが活路という点では一致するからだろうか。

議論の深まりを期待したい。



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2007/11/26

野郎自大で我田引水なKY

久しぶりに野郎自大という言葉を思い出した。
野郎自大で我田引水なKYである。

「日本人の中で最も尊敬され、
そして人気のある歴史上の人物は誰かと問われると、
ほとんどの人が西郷隆盛と答えるだろう。」

いきなり、これである?
また、こうも言う。
いまは再び国家存亡の危機にある。
日本史上、最大の危機の中にあるのではないか。

だからこそ、「西郷隆盛、大久保利通、島津斉彬、
そして薩摩を今見直し、学び、
自分たちを変えていかなくてはならないのである。
偉大なる薩摩の英雄たちの人生を知り、
薩摩の教育と精神を知り、
今に生かさなくてはならないのである」

この、首を傾げざるをえない立言に始まる
『薩摩のキセキ』は、誰に向けて、何のために書かれたのだろう。

国家存亡の危機において薩摩に学べと言っているのだから、
日本人に向けて、国家の危機を乗り越えるために、
ということなのだろうか?

だが、この書は、何も、なにも、現在に対して、
投げかけるものを持っていない。

ここにあるKYは何だろう。
あまりに時代錯誤的なので、過去にネタを求めれば、
萩本欣一の「あ~勘違い」というべきものだ。

ぼくは、薩摩の思想は、
明治維新から一歩に外に出ていないと批判してきたが、
『薩摩のキセキ』は、
一歩も外に出ないどころか、
微動だにしていないことを思い知らされた。

不動のままであることが、
薩摩の思想や西郷の絶対化を生み、
冒頭の、KY立言を生むのである。

不動といえば聞えはいいが、
要は、130年もの間、
自らの思想を自問自答し、
鍛え上げることをしてこなかったのだ。

『薩摩のキセキ』は、そのいささか情けない告白になっている。

 ○ ○ ○

しかし、ぼくはゆめゆめくさすためにこの本を読んだのではない。
それほど暇ではない。
だから、せめて南島に対し、この本がどう触れているのか見てみよう。

  藩は、西郷は月照とともに死んだとして幕府に届けたうえで、
  名を菊池源吾と変えさせて、奄美大島に潜居させた。
  それから始まる三年間の島の生活は、
  その後の西郷の人生観、政治観に大きな影響を与えることになった。

  一つは、一般の庶民の生活がいかに苦しいかをいやというほど
  知ることになったことである。
  二つには、一種の人生の敗者としてのつらさと政治権力の非情さを
  わかったことなどである。
  これらが前述の庄内藩の人たちへの思いやりとしてあらわれたり、
  明治になって政府高官や役人たちが
  ぜいたくな暮らしをしているのが許せないと思ったりすることに
  つながったのであろう。


  しかし、西郷は「二人が死ねば天下の大事は誰がするのだ。
  薩摩と日本の行く末のために生き抜こう」と逆に説得したのである。
  大久保は自らの日記に、「安心した」と書いている。
  これは、自分の国事に関する大仕事も続けられるし、
  西郷にも必ず必要とされるときが来るとの思いからだっただろう。
  こうして、西郷は再び島流しとなり、
  今度は徳之島、ついで沖永良部島に送られた。

  前回の島での生活でもそうであったが、今回の島流しの間も、
  西郷は島の人たちに助けられ、愛をもらった。
  「敬天愛人」の思想は、
  こうした実体験から不動のものとなっていったのである。
  (『薩摩のキセキ 日本の礎を築いた英傑たちの真実

これを見ると、父、原口虎雄とは異なり、
南島を、「母なる奄美」と評した、
息子、原口泉を思わせる。

西郷隆盛の「敬天愛人」に、
南島の人々の愛情が寄与したと、
そういう言い方が、
「母なる奄美」との通底を感じさせる。
それは、確かにかつての態度とは異なる。

しかし、「一般の庶民の生活がいかに苦しいか」
というように、南島の人々は「一般の庶民」のもとに同一化されている。
ここは変わらない。ほっかむりをしているのだ。

ぼくは以前、薩摩の琉球侵攻を、
「強者が近隣の弱者を食ったまでのこと」と言ってのけた
原口虎雄について、「感性の死者」と評した。
これを使えば、この間の変化は、
「感性の死者」から「KY」へと言うべきものだ。

 ※「母なる奄美」

 ○ ○ ○

薩摩の思想は対話を欠いている。
生きた現在との対話である。
その欠如が、130年前の行為や言葉を、
無媒介に生のまま、
現在の規範として出して恥じないKYを生むのだ。

薩摩の思想は、現在、何が生きられるのか。
自身に対して問わなければならないのである。

薩摩を語るのに、西郷と大久保と斉彬を持ってする。
それは130年前から変わらない。
そして、それだけでは足りない意識が、
稲盛和夫の推薦文と『バガボンド』や『スラムダンク』の
井上雅彦の装画という派手?な布陣を敷かせている。

なぜ、薩摩の思想は、
自身を語るのに、偉人を持ってするのだろう。
なぜ、シラス台地に、「のさんないねぇ」とあえいで耐えてきた
衆庶の場所から、思想を鍛え直そうとしないのだろうか。

『薩摩のキセキ』は肩透かしを喰らわせる。
この、肩透かしに、ぼくはほんの少しだけ立ち止まる。
こんな情けなさでは困ると思うからだ。


 つづく



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2007/11/25

優しい出入り口-与論砂浜の表情

与論の砂浜をめぐる旅は一日で足りたのか?
それは甘かった。
では、二日かければ何とかなったか?
それも甘かった。

まだ、見落としている浜辺はいくつもある。
それに、写真に収めた浜辺だって、
立ち寄る程度しか接することはできなかった。

つぶさに立ち寄りたいし、
ひとつひとつを、素足の裏で感じ、座ってもみたい。
座って、海を眺めてみたい。
それに、干瀬から浜辺を眺めてもみたい。

そんなやりたいことたちは、また後日だ。

Tilazakisand














Asakisand














ひと口に与論の砂浜といっても、
その表情は単調ではなかった。

比較のために撮ったわけではないけれど、
上のティラザキ(寺崎)の砂は、
肌理が細やかで白く、
下のアーサキ(赤崎)近辺の砂は、
粒が大きく丸く赤みを帯びていた。

寺崎は、白崎かもしれないが、
ひょっとして、赤崎も、赤い砂の崎なのかもしれない
と思ったほどだ。


砂の白は神聖なものだが、
でも、感覚的には、足の裏に優しい。
砂浜は、与論島の外への出入り口だとしたら、
与論は、優しい出入り口を南の一部を除いて、
八方美人に数多持った場所だということに気づかされた。

まさに、砂の島だった。

 ○ ○ ○

とはいえ、与論島が「砂の島」ということに確信を持てたけれど、
「砂の島」が与論島の地名の由来であるかどうかに
確信が持てたわけではなかった。

たとえば、砂の印象とは別のことだけれど、
ユンヌを「砂の島」と解する場合、
「ヌ」を格助詞「の」と解しても、
他にあまり例がなく、どこか不自然な印象がぬぐえない。

それからぼくは、その同系列の地名として、
与那国の地名ドゥナンや与那国の砂浜ダンヌを
同じ地名と見なしているのだが、
与論ほどには、与那国島は「砂の島」とは言いがたく、
地勢が地名という初期原則に則っていないのではないかという
疑念が去らない。

ひょっとしたら、与論=与那国という仮説は、
奄美と八重山の地名相似に由来を求めるのがいいのかもしれない。
地名が相似する根拠は、
北から南へ移った島人が、
奄美の島々に名づけたものを八重山でつけたと解するのだ。

けれどそれは、よく描かれるように、
日琉同祖論にいう弥生期に農耕技術を携えて南下した
「日本人」がつけたものと考えているのではない。
むしろ、もっともっと以前に、北方からやってきた
「日本人」が名づけたとイメージしている。

 ※「ユンヌの語源、註」
  「大隈・奄美、八重山の地名相似説」

 ○ ○ ○

こんな風に、砂の島の想念は去らない。
またいつの日か、「砂の島」与論島を堪能する日を持ちたい。



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『めがね』ウィスパー

与論島でも映画『めがね』が上映されることになった。
そして、映画サイドからは、
与論が舞台だと声高に言わないで欲しいといわれている、
と聞いて、なるほどと思った。

与論島上映に向けて動くべきだ、クチコミを起こせと
言ってきたことが少し恥ずかしくなった。

なるほど「どこかにある南の島」なのだから、
与論島です、と言わないほうがいい。

でもって、ここは大事なポイントだから、
映画サイドからの要請が無くなっても生かしたほうがいい。

たとえば、映画上映が終わった後に、
与論島に行ってみたら、
「ここがタエコの降りた空港です」、
「ここがメルシー体操をやっていた浜辺です」、
「ここで、梅はその日の難逃れと言ってたんです」、
「ここで、タエコはサクラさんに自転車に乗せてもらいました」
とか、いちいち案内板があったらそれこそ興ざめ、
たそがれ気分も半減してしまうだろう。

いちばんいい姿を極端化してみる。
島に着くと、『めがね』の案内はどこにもない。
旅人は不安になって聞く。
「ここは、『めがね』を撮った島ですか?」。
するとそこで初めて、「はい、そうですよ」と島人は嬉しそうに答える。
「メルシー体操をやっていた浜辺はどこですか?」
「島の北の方に行って聞くといいですよ」
「犬のコージに会えますか?」
「宿を教えましょう」
以下、同様。

島内のどこでも、聞かれれば島人の誰もが、答える。
ただし、道案内はどこにもない。
すべてクチコミがガイドする。

そんな絵が、『めがね』コンテンツを生かすのには
いいのではないだろうか。

では、どこで、『めがね』の舞台は与論だとアピールするのか。
それこそ、ネットでするのである。
ネットでは、正直に積極的に言えばいい、書けばいい。

ただし、地元は、たそがれるにふさわしい場所として、
映画と地続きの場所であるように、
なるべく映画世界のままであるように保つ。

たとえば、寺崎に「めがね海岸」なんて看板でも立ったら、
映画世界からいきなり現実に連れ戻されるわけだから、
興ざめはなはだしいことは分かると思う。

だから、島のなかでは、案内は極力なくして、
島自体がささやくように、「そう、めがねの島です」
と言っているくらいがちょうどよい訴求だと思う。

そこを間違わずに、素敵な案内をしてほしいと思う。




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琉球弧の一ノ矢

「現役最年長力士の引退」の報は、
46歳という年齢への驚きとは別に、
琉球弧に想いを寄せる者には、もうひとつの感慨も呼び起こす。

 ※現役最年長力士、46歳・一ノ矢が引退

それは、一ノ矢が、「徳之島出身、琉球大学卒」という
経歴を持つことによってもたらされるものだ。

 ※一ノ矢が引退/琉大後輩ら「励まされた」

記事によれば、

  1979年、自ら土俵を作って琉球大学相撲部を立ち上げた一ノ矢。
  卒業後も本場所を終えた後など、年2回は母校を訪れ、
  後輩に胸を貸した。2年前には新しい土俵を贈り、
  今年9月には屋根を設置して練習環境を整えた。

とあり、琉球大相撲部からも感謝の言葉が贈られている。

これが感慨を呼び起こすのは、
徳之島という琉球弧出身の力士だからというだけではない。

琉球弧出身といっても、奄美の場合、
琉球大学でもウチナーンチュの壁が立ちはだかるからだ。

力士一ノ矢のなしたことは、
その壁を越えて、素直に感謝されるまでに至ったからである。

琉球弧出身の力士としての功績を、
ぼくは、奄美のなかにいる者として、特筆しておきたいと思う。


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2007/11/24

「島じゃ常識」

今回の「アイランダー2007」で、ナンバー1だったのは、
隠岐だったと思う。

福来のハーブティを試飲さっせてもらった。
そして、思わず、これは買ってしまった。

Sazaecurry1Sazaecurry4












「島じゃ常識」。
このコピーがなんとも最高じゃないですか。

「暴君ハバネロ」を連想させるパッケージデザインといい、
さざえ、という素材を生かしたことといい、
いい地域ブランドに思えた。

Sazaecurry5












で、早速、サザエカレー。
副菜は、らっきょう、ではなく、
母が送ってくれた与論のきび酢で漬けたレンコンだった。

サザエカレーも、きび酢漬けのlレンコンも、
どちらも美味しかった。

パンフレットを無理やり配るより、
地域ブランドで、自分たちを紹介する。
隠岐は力強かった。

「さざえカレー」は、これからも成長すると思う。
通販もしていたので、ご紹介します。

 ※「島じゃ常識!さざえカレー!!」



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与論砂浜三十景 34 ハニク

茶花に来ればイチョーキ長浜が撮れる。
そんな期待で、砂浜めぐりは終盤を迎えたのだが、
イチョーキは、ウフガネク(大金久)ほど長くはなく、
茶花の湾岸にはさまざまな砂浜名がついていた。

盛窪さんにいただいた砂浜地名によれば、
イチョーキの部分は、人工海浜に当たる個所だった。

人工海浜は、さすがに撮る気がしない。
残念だが、砂浜シリーズのなかにイチョーキを入れられなかった。

写真に収めたのは、ハニクだ。

Haniku



















豊かな礁湖(イノー)を受ける砂浜が
ゆったりと続いている。

一日半をかけて、後半はこれ以上を望めない
盛窪ガイドさんの案内に助けられて、
砂浜めぐりを終えることができた。

与論はひろい。
「海は広いな大きいな」、
同じように、
与論は広いな大きいな。
そんな実感が、白砂にさざ波が消え入るように、
身体に染みていった。



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「アイランダー2007」見聞

『奄美の島々の楽しみ方』の山川さんに誘われるように、
「与論町地域雇用創造促進協議会のブログ」の
「池袋に島集合!」に背中を押されるように、
「アイランダー2007」を見に行った。

与論島は単独でブースを出していて、
なかなかにぎわっていた。

Yoronbooth_2









向かいの「奄美」よりも盛況だったと思う。

「奄美」より「与論島」は人気がある、というより、
「奄美」のなかに喜界島や加計呂麻島を一緒くたに入れるより、
個別に露出したほうが訴求するということではないかと思える。

できるだけ狭く、できるだけ小さく。
そのほうが強い。

アイランドはアイランド単位で発想すればいいということだから、
考えやすいではないか。


ぼくは久しぶりに植田さんに会い、
「与論町地域雇用創造促進協議会のブログ」の柳田さんと面識を
持つことができた。

それが嬉しかった。



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2007/11/23

与論砂浜三十景 33 ハニブ

与論の砂浜めぐりは、とうとうハニブ(兼母)に辿り着いた。
ここはもう、人工施設を入れずには撮ることができない。


Hanibu



















与論島の西の端、日の入りの舞台である。
『無学日記』の池田さんにとっては、漁の舞台だった。

  三十六章 『昭和十三年 私は一人ハニブの海に行く』

  ナアーハニブから沖へ出てノーを下げティノーウするのである。
  その日は潮の流れが早かったしばらくノーを下げていると
  ミシバこブまで流れている。
  今日は魚は釣り上げることは出来そうにないと焦っているうちに
  とうとうイピヤーグチまで流されてしまった。
  その時潮はシャンシャン、ショウショウと音をたてイピャーへ向かって
  ものすごく流れているのである。

  驚いた私は島に向かって力一杯泳いだのである。
  一寸も前に進むことが出来ない、
  あっという間に遠い沖まで流されてしまった。
  その時俺は命はもう最後だと思った。
  それは兼ねてイピャーグチの沖には
  人を呑むフカがいるという話を聞いていたからである。

  私は島に向かっては全く泳ぐ事は出来ないからどうなるか 
  ヤンバルに向かって泳いだのである。
  そうするうちに少しづつ島に近づいて来る。

  フカが出て来ないかとあたりを見ながら「生懸命に泳ぐのである、
  とうとうペーハニブに近づいた。
  あまりにもイピヤーグチでイピャー向かって
  そびき出されたので自分が入った 
  ナーハニブには泳ぎ着く事は出来ず
  ペーハこブにようやく泳ぎ着く事が出来たのである。
  このよしうに潮の流れは恐ろしいものである、
  だから子供たちは人々や友達から
  話をよく聞いていなければならぬ。
  そして俺のような一人あるきの海はやってはならぬ。
  (『無学日記』池田福重)

ハニブからイヒャーグチから、
外洋に出て、ヤンバル(山原)に向かって泳ぎ、
やっとペーハニブに泳ぎ着いた。

なんとダイナミックなことか、
と、外洋に出て泳いだことのないぼくは思う。

すごいものだ。

この浜辺から海を見るとき、
そんな舞台でもあったことを忘れまいと思う。




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2007/11/22

与論砂浜三十景 32 ペーハニブ

島の西側に移り、空港にも間近い。
ここは、ほぼ直線の浜辺で、
波と植生が並行になるグラデーションが美しい。

ハニブ(兼母)の南、ペーハニブ(南兼母)だ。

Pehanibu



















ここまで来ると、洋上にはふたたび、七離れが見える。

与論島の洋上は、東西南北に見える島影は
そのままそこへの愛着を形づくってきたように見える。

西に浮かぶ七離れは、夕陽の輝きとともに思い出され、
北に行けば、兄弟島、沖永良部を臨み、
南に行けば、母なる島、あるいは時に、
対峙する島として沖縄本島を臨む。
そして、東は、はるか太平洋。
でも、東には島が見えないのではなかった。
パイパティローマやウフアガリのように、
もうひとつの島や世界を幻視してきたのだ。


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2007/11/21

与論砂浜三十景 31 フバマ(ハニブ)

これが、三つ目の、もうひとつのフバマ。
ハニブ(兼母)のフバマだ。

H_fubama

















フバマは、

・宇和寺 (与論砂浜三十景 1 フバマ(宇和寺)
・古里  (与論砂浜三十景 16 フバマ(フルサトゥ)
・兼母

の三ヶ所ある。

地名はその初源、地勢名であり、
フバマは、地勢に同一性があれば、同一の地名になることの、
ささやかなサンプルを提供しているようだ。

考えてみれば、与論で最も多い砂浜名なのかもしれない。

ハニブ(兼母)のフバマも、
小さく愛らしいたたずまいだ。



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2007/11/20

与論砂浜三十景 30 トゥイシ

ナーバマの(とぼくが思っている)隣が、トゥイシになる。
ナーバマの右下に見えた影は、
この三つ連なる巨岩のものだ。

ここが境界になるのも不思議はない、
そして与論ではあまり見ない、堂々たる佇まいだ。

岩は大綱で渡してあって、
祭儀の場所を思わせる。

この三連巨岩の名を知りたい。

Tuishi


Tuishi2



















ここからは与論港が臨める。
旅情を感じる浜辺だった。

いちばん奥の立神のような岩のふもとでは、
旅の青年がウクレレの練習をしていた。
与論がいちばんいい、と言ってくれた。

 ※トライアルは「海」、リピートは「人」



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2007/11/19

与論砂浜三十景 29 ナーバマ

もうここからは供利の与論港が見える。

東に向かって撮ったこの浜を、ナーバマと読んでいいのか、
ほんとは分からない。

トゥイシ、ナーバマ、フォータイという並びのなか、
ナーバマなのかなと推測した。

Nabama



















右下の影は、立神のような巨岩のもの。
これが、次の浜辺との境界をなしているように見えた。

ナーバマは横に伸びているものの、
なんというか、らしさに欠けるような気がした。
独立した砂浜名がないように思えたのだ。
それで、撮り方も、海が入らない、
ちょっとなおざりな感じになってしまった。

後背地の土砂が崩れ気味なので、
どことなく大切にされていない印象を受けたのかもしれない。

浜辺よ、ごめんなさい、という感じである。



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2007/11/18

与論砂浜三十景 28 マンマ

ハキビナあたりから、また豊富な砂浜に出あうようになる。
マンマもそうだ。

楠語がそのまま名前になったような、
愛らしい、チュムチャサイ、名前だ。

Manma

Manma2



















絵になる浜辺。

ぼくは、他では目にしたことのない岩肌が新鮮だった。
ほんとうは人を写したくなかったのだが、
どいてもらうわけにもいかず、
失礼して撮らせてもらった。

写真に収めないわけにいかない独特な砂浜の表情がある。
でも、盛窪さんによれば、
台風で、岩がだいぶ露出してきたとのことだった。

ハキビナもマンマもどこも、
砂の島は、台風の影響で表情をつどつど変えてゆく。
砂の島は、輪郭の揺れる島でもある。




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2007/11/17

与論砂浜三十景 27 ナガサキ

ここを砂浜というのは本当はためらわれる。
砂のある岩場と言ったほうがよさそうだけれど、
砂浜の少ない南岸を通っていたので、
わずかでも「砂」を認めると、撮りたくなった。

ナガサキ、だと思う。
地名としては、砂浜名のなかで最も共通語化している。
また、ナガサキの意味も、南にやや突き出た場所にあるので、
その名の通り、長い崎なのだと思う。

Nagasaki



















ここは港の役割を果たしたようにはみえない。
風葬跡は、ありそうな雰囲気はあるが、
あるのかどうか分からない。

いつか、降りて確かめてみたい気がする。


このあたりだと、向こうに必ず、辺土を含む沖縄本島を臨める。


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2007/11/16

与論砂浜三十景 26 ハキビナ

ここに着く前に、ハミゴー、シゴー、チャドゥマイと
重要な場所を過ぎるが、
砂浜ではないので、間を開けての砂浜である。
そのハキビナは、島のなかでよく知られた浜のひとつだと思う。

民話のサービマートゥイやウプドーナタが、
沖縄にお遊びに行って帰ってくるのも、この、
ハキビナに設定されていた。

Hakibina



















また、口承で伝えられた民話にも、ハキビナは登場している。

  「ハキビナ」 の地面は、盛り立てて、田の畦を作っているのに、
  水に流されてしまって、田と田との境の畦が、
  作られなくなったということである。
  そこで、島の開発祖神は、天つ神のまします天の国へ天上りされて、
  ヨモギ革の種子、ノオダキ、マヒヤア、稲、麦、豆などの種子を
  持ち帰っておいでになって、農作業をして、
  すべての諸々の農作物の作り事を、始めたということである。
  (『与論島の生活と伝承』山田実)

この伝承は、海に洗われやすいハキビナの地形の特徴を
よく捉えていてリアルだ。

それと同時に、この民話(神話)は、
与論島にとって、稲をはじめとする「農」が、
外来ものであることを示唆しているように見える。



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2007/11/15

与論砂浜三十景 25 ダリバマ

朝、宇和寺のフバマを出発して、
ティラザキ(寺崎)を前に、一度、高台の家に戻り、
それから再び動いて、トゥーシでお昼。
その後、プナグラ(船倉)でスコールに会って涼しくなったものの、
メーバル(前原)を過ぎた午後二時頃には、
ふたたび陽射しは強烈になり、
自転車をこぐぼくの疲労もピークになっていた。

坂の上の風葬跡を背に下っていくと、
出現した海岸を見て、ぼくはびっくりした。
与論らしからぬ荒涼たる風景が突然、現れたのだ。

与論にも、まるで他界に直結するかのような場所が
あるという驚きだった。

ダリバマだと思う。

Daribama

















Daribama2












Daribama3














その驚きと疲労で、
肝心の砂浜は目の端にしか見えておらず、
写真も砂浜メインになっていない。

けれど、いま改めて入り江をよく見ると、
ここは豊かな漁場なのではないだろうか。

ある意味で、今回の砂浜めぐりのなかでも
もっとも強烈な印象を残した場所だったのだが、
ぼくは入り江の右手の荒涼たる岩場に目を奪われて、
砂浜のさまを見据えることができなかった。

岩場の向こうの沖縄本島にも気づいてなかったかもしれない。

くたくたで、呼吸を整えて、
次に向かうエネルギーが湧いてくるのを待つしかできなかった。

こんどはぜひこの浜辺に下りてみたい。

その時、荒涼とした他界の入口にみえたダリバマは
別の表情を見せてくれる気がする。



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2007/11/14

与論砂浜三十景 24 メーバル

アーサキ(赤碕)から、浜辺は島の南側に移る。
南側に移ると、メーバル(前浜)にいたる間にも
ぼくの気づいていない浜辺もあると思うが、
砂浜のない海岸が続くようになる。

そして、メーバルまで来ると、
砂浜が断続的になるということともに、
もうひとつの特徴が現れる。

それは、ある意味で与論らしくない厳しい地形が現れ、
他界の雰囲気をかもし出すことだ。

メーバルもそうだ。
メーバル(前浜)の後背には、
風葬のある断崖が控えている。

心なしか、写真の雲もただならぬ気配を漂わせている。

Mebama1

Mebama2


















メーバル(前浜)は、池田さんの『無学日記』にも
たびたび登場してくる。

そして、『無学日記』の副主人公の海霊イシャトゥも、
メーバル(前浜)はよく出没している。

長くなるが、民話のように読めるので紹介したい。

  四十七章 『昭和二十六年旧九月九日 イシャトゥ に出逢う』

  隣の川上さん兄弟と三人夜の海に行った時の事である、
  場所は前浜とワタンジの中間である。
  川上さん達はデントウアイキで私はアヒョウ釣りである。
  あの二人はデントウを照らして泳いで行く。
  私も泳いでアヒョウを釣るつもりで来たのに
  ビュービューと吹いてくる
  北風に肌寒くなり泳いで行く事が出来ずに
  仕方なくハンバラに立っていて釣ることにした。

  ところが私の前五、六米から
  子供のような者が流れて行くのである。
  足が見えないだから流れるように見える
  そして向こうのバンバラに隠れて行く
  イシャトゥである事がすぐ判る、
  悪口さえ言わなければ良いとただ黙っていた。
  そしてあちらこちらへと餌を投げ込む、
  いくら投げ込んでも何の音沙汰も出てこない。

  イシャトゥと出会った時は
  ティクジワッサヌ ヌーン トウララヌという事は
  誰れもが判っている事である。
  だから今夜はもうだめだと友達が帰って来るまで座って待つ事にした。
  そしてあれ達の着物のそばに座っていた。

  初めはどうもなかったのにあのクソは私が今座っている所から出て
  来たと思えば、ここはあいつ(イシャトゥ)が
  家であるという事がわかり、
  イシャトゥは今自分のそばにいると、こう思うのである。
  そう思ったら急に ヒィプチキ ムイティキチ 
  とても怖くて怖くて座っていられない。
  あの二人はいくら待っても帰って来ない。
  私のそばにはイシャトウが黙って座っている。
  見えないで座っていると思えば
  もう怖くなってきて座っていられない。
  そんな苦し紛れの一時間や二時間は
  普通の十時間よりもきつかった。

  ようやくの事二人は帰って来る、
  私はあのクスの事を言いたかったが我慢した。
  それはイシャトウは何か俺の事を言わないかと何処までも付いて歩き、
  もし悪口でも言うたらシタタカ ワジャクをするものである。
  それで家に帰って寝るまであいつの事を言ぅものじゃない。
  ところが私はあまりにも怖かったのにこらえ切れずに
  半分道まで上がって来て精考の耳に小さな声で
  「イシャトゥ ミチャン」と囁いたそのクソはそばから
  一緒に付いて歩いていたらしい、聞いたらしい。

  その四日後の十三日の夜ワタンジ海に行った
  潮はまだヒッテはいない。
  潮がヒッチビシバナに渡れるまでこのバンバラのそばで
  あるいて見ようと餌を投げ込んだ九日の夜のイシャネウがあるいた
  すぐそばの所だ。
  あいつがまた邪魔せんかと思いながら餌を投げ込んだのである。
  どうですか二十斤位の大ものが押しっけて来るのである。
  その時私はこれはあまりにも大き過ぎる、
  これはこの前の夜のあのクソであるとすぐ判る、
  いくら引き上げようとしても引き上げることはできない。
  これはもしかしたらまた魚ではなかろうかとも思われる。
  そこで釣り竿を肩に載せてイチヤジキにそびき上げようとした。
  その時今まで二十斤位の魚と恩はせたものが
  急にパッと消えてしまうのである、やはりあのクソであった。

  こうしてイシャトゥにワジヤクされている間に
  潮はもうよくヒッテきてピシバナに行くことができる。
  私は今夜もまただめだとは思いながらも
  ピシバナヘと渡り行くのである。
  さて、かねてのアリクであるハタマに
  餌を落としても何の返事もこない、
  そしてシガイがするマチブイがする。
  そこで今夜もだめである事がはっきりしてくる。
  私は九日の夜十三日の夜と続けて
  何一つ釣れずナアムリして帰った事がある。
  だから夜の海はよく注意して歩かなければならない。
  (『無学日記』池田福重)

「イシャトゥは今自分のそばにいる」。
昔の人は生き生きと、そう感じることができたのだ。


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2007/11/13

与論砂浜三十景 23 アーサキ

そしてぼくたちは、島の民(ユンヌンチュ)が最初に上陸したとされ、
与論民俗において最重要視されているアーサキ(赤崎)にたどり着く。

Asaki

Asaki2

















昭和期の与論民俗考を進めた野口才蔵が、
赤崎をどのように見なしたか、
『南島与論島の文化』に見てみよう。

  シニュグ祭の祭詞に、「大東大口……云々」とあるが、
  この「大口」は、赤崎御願から東北の方向の塵礁の切れ目で、
  そこは船の出入口になっている。
  故麓桓茂先生は、この御願から大口を通る直線を延ばせば、
  大分県の「海部」に通ずるといわれ、
  先住民が自分たちの原郷を拝するため
  「大口」の方向に向かって祝詞をのべた、とは、
  実に注意をひくことばである。
  後で地図を拡げて見たが、やはりその通りの方向であった。
  「アマンジョー」は、そこの井戸を含めた、
  その付近の小地域(ちょっと鞍部になった)を
  「アマンジョー」というから、
  アマミコの入口ということにならないだろうか。
  与論で出入口の事を「ジョー(門)」と、いうから「アマミ門」から、
  「アマンジョー」に転訛が考えられる。
  「アマンジヨウ」が、そこの井戸の付近の小地域の地名であることは、
  最近その井戸の近くの北西に家が新築されているが、
  人々は、「アマンジョー」に新しい家が建てられたというし、
  また、シニュグに使った「デーク(ダンチク)」は、
  「アマンジョー」の海に流すということばでもわかる。
  だいじをとるために、与論島の民俗に詳しい
  与論民具館主菊千代氏に糺したが、やはりその通りであった。
  また、「ジョウ」は、水汲場や井戸の事だから
  「アマミ井」の事だろうの説もある。
  与論島の原住民の最初の小集落は、あの井戸の後方であろう、
  とみるのが、与論の郷土史研究家の定説になっているが、
  里シニュグの内の三座元の方たちは、
  自分の座元が最も古いのでは、なかろうかと信じられている。

  1.ニッチェダークラの座元の方では、ここは根という地名であり、
  「根」とは、「元」を意味することであると考えられている。
  そのことは、ニッチェダークラの座元の祭詞でもわかる。
  その祭詞の中の一部を記すると、
  「……島ぬ初まい、世ぬ初まい、世ぬ初みんしゃあち、たばあちゃる、
  我根地神がなし……云々」となっていることでも推察できるであろう。

  2.プカナダークラの座元の方は梶引半田に船の梶がひっかかり
  島に上がって、南進し(シニュグ神路を通って)更に東進して、
  国垣で居住されたが、後にプカナの土地に移ったということである。
  最初、国垣で暮らしている時、二羽の鳥が兄妹の前で夫婦の契りを
  結ぶのを見て、この兄妹も、それを見まねて、夫婦のちぎりを結んだので、
  子孫が栄え島中にひろがったとの、民話を信じられる。
  それを傍証するかと思われる次の事実談を聞かせてもらった。
  ずっと以前には、ハジピキに六〇坪ぼりの土地があったが、
  七〇年前、親(話者竹菊政氏の親の時代に)が売ってしまったのは、
  遺憾であると語られた。(昭和四十九年聴取)
  民話と一連の関連をもたせたこの話は、
  何と現実的響きの強いことよ。

  3.ショウダークラの座元も、二羽の鳥の夫婦の契り話が
  同じように伝承として残っており、
  「島ぬ姶まいや正ぬ庭から」と信じられている。
  ここで考えられることは

  1.最初の渡来者たちは、農耕者ではないから、低平な小島では、
    水の得られる海辺に住居をとった方が主食である
    海産物を採るのに都合がよいこと。
  2.赤崎から縄文式土器の出土しているのは。
    (木下井の付近からも出しているが)
    やはりそこに人が住んでいた可能性も考えられる。
  3.アマンジョー・シマミジの地名のあること。
  4.ショウダークラは、シニュグ祭りの時に、
    アーサキウガンを中心に神送りをする。
    昔は、そのウガンに行って神を迎えたなどのこと。
  5.南島、特に奄美の遺跡がほとんど東海辺に分布すること。
  6.原住民が赤崎から入ったとの伝承のあること。
  7.アマンジョーの南西の丘に、上城があったことなどからして、
    与論島の先住集落は、赤崎と考えたい。
  (『南島与論島の文化』野口才蔵 1976年)

赤崎について触れたこのくだりは、
『南島与論島の文化』のなかでも、
特に愛着と異和を同時に喚起させる個所だ。
それは、これを最初に読んだ30年前と変わらない。

ただ、

  二羽の鳥が兄妹の前で夫婦の契りを結ぶのを見て、
  この兄妹も、それを見まねて、夫婦のちぎりを結んだ

という、母系優位の社会の民話(神話群)は、
与論島だけでなく、ポリネシアなどの太平洋上の島々にも伝わる
ことを知る今は、かつて以上に愛着も深まる。

また、ニッチェー、プカナ、ショウ各ダークラともに、
自分たちを最古と見なしていることも興味深い。

しかし、何より、最初に読んだ時に、
強い異和を感じないわけにいかなかったのは、
大分県「海部」の登場だった。

そこが、与論人(ユンヌンチュ)の原郷であるという見なしが
いかにも唐突に思え、まったく不可思議だったのだ。

その後、これが、伊波普猷-昇曙夢の流れを汲む、
日琉同祖論が下敷きになっているのを知って、
異和は異和を残したまま、痛ましさを伴うようになった。

なぜ、ある南島の人びとは
自分たちの出自を、本土と見なしたがるのだろう。
いや、何度か繰り返し書いているように、
ユンヌンチュの出自は、本土からも南からも両方あるに決まっている。
ここにいう出自本土観の特徴は、
弥生期本土からやってきたという期間限定つきのものだ。
そして、それ以外の時期と場所からやってきた者は、
いないかのような雰囲気のなかで議論するのが特徴だと思える。

ここには、自分たちを、何が何でも日本人と見なしたい
切実な願望を感じないわけにいかない。

でも、この考え方は、それだけで島人を構成するわけではない窮屈さと、
日本人の範疇が窮屈であるという、二重の窮屈さを抱え込んでいる。
そして、30年経った今も感じるのは、
この立場は瀰漫する雰囲気のように、
決して無くなってはいないということだ。

ぼくの南島論のモチーフのひとつは、
この本土出自観の痛ましさを解除することだと思っている。

その際、アーサキ(赤崎)をどう見做すのかということが
鍵になることは言うまでもない。



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2007/11/12

与論砂浜三十景 22 トゥーシ

トゥーシの浜に行くには、
パマゴウのアーチ(穴)の手前で右手に進んで、
岩の裂け目をくぐるのがいい。

盛窪さんの案内のおかげで、
ぼくはこの通り抜けをしてドラマティックに、
トゥーシに出あうことができた。
思わず、おおと声を上げた。
いいガイドさんがいると、島の魅力倍増だ。

Tushi


















ここは豊かなウプガニク(大金久)の終わりをリフレインするように、
砂のひろがる浜辺だ。

けれど、ただの砂浜ではない。

  さて、ここの大きなイノーウシに立って餌を投げ込むと同時に
  私の東側ピシバナから年下の若者がこちらに向かって歩きながら
  「イシャトゥドォー、イシャトゥドォー、
  ハタパギドォー、ハタパギドォー」
  と大きな声で怒鳴りながらこちら向かって来る。
  私は夜の海でこんなクチバシを使ってはいかんと思うその瞬間
  私が立っている大きなイノーウシが
  ゴッツン、ゴッツンと崩れ落ちて行くのである。
  その時私はこれはいかんと向こう三、四間も離れた所の
  イノーウシに力一杯跳んだのである。
  ところが左手だけはようやくすがり付くことが出来たが、
  どうですか左腕の内側は包丁で酢あえナマスを刻んだように
  みな切り裂かれているではないか真っ黒い血が流れ出て来る、
  夜のせいか血は赤くは見えなかった。
  これは大変だと私は舟に駆けつけて行き乗った。
  その後の自分はもうどうなったか判らない。
  気が付いたらトゥーシの浜であった。
  三人の方々はすこしでも近いトゥーシに早く舟を着けようして
  当たり前のトウマイであるジバナリには漕がず
  トゥーシに舟を漕いだのだった。
  私が気付いて起きたらトゥククヤカがワヌ ハンギティ ソーラン
  とおっしゃった。その時私はナイギサイドーアイカリギサイドーと
  ゆっくり歩いて来た事がある。
  夜でも畳でも海での言葉使いは憤まねばならない、
  特に夜は注意せねばならぬ。

  話は後に戻るが私が立っていた崩れ落ちた大きなイノーウシ
  それが本当に崩れ落ちたかその後私は行って見たのだ。
  それがなに!崩れ落ちるものかイノーウシが
  崩れ落ちると見せ掛けてあいつが私を取って投げたのであった。
  (『無学日記』池田福重)

海霊イシャトゥと一戦を潜り抜けて、
気づくとそこは、トゥーシだったというように、
池田さんの日記には出てくる。

『無学日記』を念頭に、トゥーシを見ると、
そこはただの砂浜ではなく、
民話に溶け込んでいそうな物語の舞台として、
俄然、意味を帯び始める。
ここにも、自然と神と交わる島人の姿があったのだ。




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2007/11/11

与論砂浜三十景 21 パマゴウ

張り出した珊瑚岩が、ウプガニク(大金久)の終わりを告げるような浜辺だ。

パマゴウ、だと思う。

Pamago



















二つの大きな珊瑚岩が重なるようにして、
そこに丸い穴を形づくっている。

この穴の向こうに太平洋はゆったりと広がっている。

穴の向こうに眺めたり、岩陰で読書したり、
佇んでいたくなる場所だ。

この近くには、湧水があり、海に流れていると思う。
その意味での、パマゴウ(浜の川)ではないだろうか。



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2007/11/10

与論砂浜三十景 20 ペーガニク

ウプガニク(大金久)をさらに南へくだると、
ペーガニク、“南の金久”になる。

ここがペーガニクで合っているのか、
情けないことに確信がない。
この光景のなかにある、というので精一杯。

Peganiku



















ウプガニク(大金久)は終わりに近づくと、
砂の遍在が終わるように、珊瑚岩の表情が加わってくる。

なんだかオットセイやセイイチが列をなして、
海に入ろうとしている絵のように見えてくる。

また、ウプガニク(大金久)を通じて、
浜の背後には、モクマオウがずっと続いている。
年表によれば、防砂林としてのモクマオウの植付は、
1937年、昭和12年に始まっている。
もともと、与論島には無かったものだ。

アフリカマイマイで騒がしい昨今だが、
植物、動物ともに、もともとは無かったものも多い。
ソテツ、砂糖きびもそうだ。

民俗の基層を探る作業とともに、
途中で入ってきたものを除いていったらどんな姿が現れるのか。
そんな与論の自然の基層を描くこともできたらいいと思っている。


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2007/11/09

与論砂浜三十景 19 ウプガニク

ミナタ(皆田)、プナグラ(船倉)を過ぎて、
いよいよ、あの百合ヶ浜を擁するウプガニク(大金久)に辿りついた。

Upuganiku


















といって、写真はいきなり、ウプガニクの南から北を臨んでいるが、
本当は、このどこかにナーガニク(中金久?)と
呼ぶべきポイントがあるらしいことは、
砂浜地図から分かるのだけれど、
残念ながら、ぼくにはうまくつかめない。

だからいきなり、ウプガニク(大金久)の南からの画像になってしまった。

それにしても、砂・砂・砂。
沖合いの百合ヶ浜を含めれば、
これほど美事に、砂の島・与論島を象徴する場所はない。

小さな島なのに、与論は広い大きいと感じるのを支えているひとつが、
ここ、ウプガニク(大金久)だと思う。

まるで東に横たわる太平洋の大きさに応えようとしているみたいだ。



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アフリカマイマイの逆襲

出水市や指宿市で見つかったアフリカマイマイの数は、
132匹に上るという。

  「アフリカマイマイ鹿児島で注意報 
  10月以降本土で130匹 温暖化で生息域拡大?」

「対策打ち出せず」という見出しで、
記事は、「明確な侵入防止策を打ち出せずにいる」と
結んでいる。

いまや「悪の枢軸」を越えて、諸悪の根源の役を担うように、
記事自体のタイトルは、「地球温暖化」を言挙げするのだが、
それを読んだぼくの想念は、
七島灘を越えて本土上陸するアフリカマイマイが、
日本の南島復帰、あるいは、南の逆襲のメタファーのように,
不埒な方へ膨らんでゆくのだった。


それにしてももとはといえば、
ときは1937年から47年、
食用として入れられたことも触れられている。
やっぱり本当だったんだ。

 ※「懐かしきアフリカマイマイ」



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2007/11/08

与論砂浜三十景 18 プナグラ

亜熱帯の景色は不思議だ。
さっきまでは強烈な陽射しのもと、圧倒的な光に囲まれていたのに、
雲が覆うやいなや、生気がうせたように
灰色がかった世界に場所をゆずっていく。

プナグラ(船倉)に着いたとき、
待っていましたとばかりに一斉にスコールが降りだした。
ピャンチク離れが黒々としている。

Punagula


















漁船のエンジン室の軒の下で雨宿りを決め込んだが、
しばらくやみそうにもないので、
浜を歩いていたウジャと、漁船のエンジン室の扉を開けて中に入った。

ウジャは耳が遠いのか、話しかけても答えがないときもあった。
それどころか、どこか、ぼくがいないかのように振舞ってるみたいだった。
ぼくがユンヌンチュだと分かっても、その反応は変わらなかった。
ただの見物に来たような風情の者には心を開かないのかもしれない。
単にそういう人だというだけかもしれない。
いやそれは考えすぎで、人見知りしているだけなのかもしれなかった。

でもどちらにしてもぼくは、プナグラ(船倉)に縁のある人と、
束の間、話ができて嬉しいに違いなかった。

プナグラ(船倉)はその名の通り、舟の拠点に違いない。
あの、百合ヶ浜港建設計画の舞台となったように。

またプナグラ(船倉)は、砂の動き激しい地でもあるらしい。
台風の影響が、砂地の移動にも現れている。
向こうに見える砂山はその影響の大きさを物語るようだ。

Punagula2














浜辺の入口には、その台風被害を食い止めるための防砂林、
モクマオウが植えられ、木の防壁で囲われていた。

 ○ ○ ○

そういえばプナグラ(船倉)は、あの『無学日記』にも
ミナタ(皆田)と一緒に出てくる。
生活の一齣に出てくると、愛おしくなってくる。

  それから少し中の方へホーティ行くと母のタンスが見える
  このタンスは二百年になると母は話していた。
  これは母の嫁入りした時持って来た品だと私が七才の時母は言うた。
  そんなタンスの上にミジタンヲイ トゥ ウンブイビラヌ
  (水級み用柄杓とイモ堀用ヘラ)ミャアーリュイ(が見える)
  このウンブイビラは私が七才の時母がこのビラでイモを掘るのをよく見たのだ。
  また、このヲケで ミナタの海より潮を汲んできたり
  プナグラの井戸から水を汲んできたりした事、
  母の苦労が目の前に浮かぶのである。
  (『無学日記』池田福重)




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2007/11/07

与論砂浜三十景 17 ワリバマ

ミナタ(皆田)から、あのウプガニク(大金久)に行く間には、
半島として伸びるのを止めたようなでっぱりがある。
古里のフバマのそのなかにあるが、次のワリバマもそうだ。

草原のなかの昔道を通って行くと、
小道が見えて浜辺に辿り着いた。
そこに浜があるとは知らずに自転車を走らせていたのでほっとした。


Waribama1_2


















フバマから来ると、空はすっかり雲に覆われて暗くなっていた。
こうなるとまるで景色が変わるから不思議だ。
心なしか、あれだけ暑かったのに肌寒くすらあった。

ぼくはこのとき、ここがワリバマとは知らずに、
浜辺はこれで終わりだと思って、引き上げてしまった。
雲行きが怪しいのも不安だったし。

ところが、十月、盛窪さんがまさにここを案内してくれて、
一瞬、ここなら来ましたと言いかけたのだけれど、
さにあらずで、ぼくはもうひとつ片割れの浜辺を見逃していたのだった。

上の写真の右の珊瑚岩を過ぎると、
なんと、そこにもうひとつの浜辺が控えていた。

Waribama2


















それがこの浜辺。このときの陽射しはいつもの陽射しで、
浜辺は、いつものように輝いていた。

ワリバマ。その名の通りで、珊瑚岩で割れた浜辺。
自然の造型は面白い。
かくれんぼしたくなる浜辺もつくるのだから。




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2007/11/06

与論砂浜三十景 16 フバマ(フルサトゥ)

ミナタから南に進むと、植物が割れて門を開けてくれたような
チャーミングな入口があった。

その門をくぐると、小さな愛らしい浜辺が現れた。

F_fubama1













F_fubama2


















ここは、もうひとつのフバマだと知ったのはつい最近のことだ。
古里のフバマ、だ。

宇和寺のフバマと、同じ名の浜辺だから、
それだけで親近感が湧いてくる。

ところが、ミナタからフバマに差し掛かるところで、
急に雲が迫ってきた。

少し渋めに写ったフバマだった。



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2007/11/05

与論砂浜三十景 15 ミナタ

クルパナを過ぎると、道は南東の方角に向いて、
次は、島の北東に位置するミナタに着いた。

ミナタは、池田福重さんの『無学日記』にも、
お袋さんとタコを捕った場所として出ていた。

 ※「ウシュクミ - 潮汲み」

  大正七年母とミナタの海にウシュクミ(潮汲み)に行く、
  浜についたらナアマルは潮が
  ピットーリティヤンバッタイ(荒れた畑みたい)
  となっている。ナアマルと言えば
  ミナタの浜の西側の沖のことを言うのだが、
  母は「イッチユー ワッタイ タフ トゥトゥン
  (さあ、二人でタコ捕ってきましょう)」
  と言って私を海の中につれた。(『無学日記』池田福重)

ミナタは、与論最大の離島?だ。

Minata



















いつも、漁港とミナタ離れが視界に入ってくるので、
砂浜を撮ろうとすると、なにか見慣れない光景になったが、
でも、落ち着きがいい。

百合が浜が、砂浜としての与論のミニチュアだとすれば、
ミナタ離れは、隆起珊瑚としての与論のミニチュアだろう。

それが、ミナタに湧く愛着の由来なのではないだろうか。



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2007/11/04

「奄美が生んだ奇跡の唄声」

偶然、TV東京で、中孝介を見た。

「奄美が生んだ奇跡の唄声」と題して、中孝介を特集していた。

 ※「みゅーじん」


「なつかしゃ」。

心の琴線に何かが触れたときに出てくるのが、
「なつかしゃ」という奄美の言葉。
その「なつかしゃ」を表現したいのだ、と中は語っていた。

中孝介が、「なつかしゃ」という言葉を口にして、
それが、彼の歌に心を動かされる人に宿ったら、
それはひとつの奄美の表情として生きることになるだろう。

「なつかしゃ」も、奄美の地域ブランドなのだ。

 ○ ○ ○

ところで、これは、与論でいえば、どの言葉に当たるのだろう。
ぼくにはよく分からない。

与論の言葉で、生かすとしたら、
ぼくは、「ちゅむちゃさい」を真先に思い出す。
ぱーぱーたちが、子どもたちを見守りながら、
「ちゅむちゃさい」というときの愛情の深さときたら。

「とおとぅがなし」と並んで大好きな言葉だ。



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与論砂浜三十景 14 クルパナ

与論島の北の海岸を、寺崎から東に向かうと、黒花海岸に着く。

黒花は、もともとクルパナと呼ばれている。
その音から見ても、クルパナは、「黒い花」の意味のように見えから、
「黒花」は、意味に合った漢字を当てられているように思えるのだが、
なぜ、黒花なのか、全く分からなかった。

せいぜい、「黒い花びら」、昔の歌謡曲を思い出させる
独特な語感の地名だと思ってきただけだ。

でも今回、盛窪さんから、
「海から浜に向かうと、岩が黒い花のように見える角度があるそうです」
と教えていただいた。

海からの見え方で地名が付けられるのは、
とても理に適っているように思えた。

確かに、クルパナは、隣のティラザキと比べても、
両側の珊瑚岩が大きく控えているのが特徴的だ。


Kurupana

















島の神話(民話)によれば、
赤崎の次に上陸した地は、寺崎と黒花だとされている。
そのように、島の中でも聖地的な意味が強く、
寺崎に寺崎ウガンがあるように、黒花には黒花ウガンがある。

いわば、寺崎と黒花は、北方に対しての島の顔であり、
入口出口であった。

さて、そんな風に見てみると、
クルパナ(黒花)という地名には、
ティラザキ(寺崎)との対も思わせる。

つまり、ティラザキの「白」に対して、
クルパナを「黒」と、色で対比させたということだ。

こう考えると、与論島への上陸地点とされる地が、
いずれも色にちなんだ地名になっているのに気づく。

 赤崎 「赤」
 寺崎 「白」
 黒花 「黒」

これはとても興味深いことだ。


※※※※

こんなことを書いたら、盛窪さんに、
「花」ではなく「鼻」、と修正してもらった。
なんとぼくは、勘違いしながら聞いていたというわけだ。
お恥ずかしい。

というわけで、クルパナは、「黒鼻」だと言われているそうだ。
これはこれで、独特な地名ですね。



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2007/11/03

与論砂浜三十景 13 ティラザキ

そしてトゥマイの右隣りが、ティラザキだ。
神話(民話)の語るところによれば、ティラザキは、
赤崎に次いで、島人が上陸した地だとされている。

  ウプアガリ(大東)は、与論島の東方のこと。
  ウプグチ〈大口)は、赤崎海岸のことで、
  そこから開発祖神のアマミクとシこグク両神が入り来た所である。
  アアサキウガンは、祖神が上陸して居住した所である。
  その次に与論島の開発祖神が上陸した所は、
  ティラサキウガンとクルパナウガンである。
  ティラサキサアクラの祭主は以前に、三日前から物忌みをして身を浄め、
  ティラサキウガンにこもって、夜通し神憑りして神を迎え、
  神の吉凶豊年の託宣を受け、十七日の神送りをすますまでは、
  神としての資格と待遇を受けていた。
  (『与論島の生活と伝承』山田実)

この信仰の混じった言葉を、
史実を伝承のなかに封じ込めた記憶と受け取れば、
赤崎、寺崎は、島人が上陸した順番とされている。

与論の島人(ユンヌンチュ)はどこから来たのだろう?
その謎を解くにあたって、この伝承はヒントを与えてくれる。

赤崎、寺崎の位置から素直に推察すれば、
与論には、まず、南から赤崎へ人が訪れ、
ついで、北から寺崎へ人が訪れたことになる。

与論島にはまず、南からの人が入り、次に北から人が入った。
単純化すれば、南洋系が先住者であり、
本土からが後から入ったように受け取れる。
もっと単純化すれば、北からの到来は、
稲作技術を持った人たちだったと見なすことだ。

そうだとすれば、寺崎に入った島人たちに、
稲作技術を持った人の姿を仮説することもできるかもしれない。



(ティラザキの写真は、浜辺というより海岸になってしまっているので、
洗骨の日の浜辺を補足しておきます)


Tiladaki










Tiladaki1

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2007/11/02

与論砂浜三十景 12 トゥマイ

映画『めがね』の舞台を、
ぼくたちは一帯の呼称で寺崎海岸と呼んでいるが、
タエコの立った浜辺は、実はトゥマイと言うのだそうだ。

Tumai1_2














Tumai2

















映画では、タエコが編み物をしたり、みんなでメルシー体操するくらい、
穏やかだったが、この日、浜辺には波が寄せていた。

島の北側にあり、干瀬までの距離は近い。
波浪の時には、浜辺まで波が立って寄せてくる。

陽射しも強く、映画よりも“白”が輝いている。

トゥマイというからには、
泊(とまり)で、「港」の意に解したくなるが、
供利などと違って、港にふさわしい深さがない。
それとも漁港の役割を果たしていたのだろうか。


映画でタエコたちがトゥマイ(泊り)したのは、
確かにここに違いないのだけれど。



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2007/11/01

『ウンタマギルー』と『めがね』

高嶺剛監督の1989年の映画『ウンタマギルー』と、
荻上直子監督の2007年の映画『めがね』は、
対極的な位置にある作品だ。

けれど、その質は似ているとぼくは思った。
登り口は違う。けれど頂は同じ。
いや同じと言わないまでも、とても近いと思うのだ。

その頂というのは、よい表現かどうか分からないけれど、
琉球弧の本質に当たるものと言いたい気がする。

「ウンタマギルーのけだるさ」
 「『ウンタマギルー』以後。過剰の交換」

映画『ウンタマギルー』と映画『めがね』が対極的だというのは、
沖縄と与論の起点がまるで違うことに帰せられる。

「沖縄」は、沖縄自身とは似て非なる記号化された「沖縄」の
イメージを過剰に持つ地である。

それに対して、「与論」はといえば、
与論自身が与論とは何か、自問自答できないくらいだから、
他者像としてノン・イメージなのである。

過剰な「沖縄」像と空虚な「与論」像を起点に、
そこから、その場から感受されるものは何か、を描こうとしているのが、
『ウンタマギルー』と『めがね』なのであり、
地霊的な感受を描こうとしている点において両者は共通しているのである。

高嶺監督は、わざわざ方言を使い字幕を施し、
沖縄人役に日本人俳優を起用し、ありそうでないなさそうである
あわいに浮遊する事象を散りばめて、
記号化された「沖縄」像をことごとく虚構化する方法で、
その残余に、琉球弧の感受を置いた。

それに対するようにいえば、
荻上監督は、与論を非在化し(どこかにある南の島)、
琉球的な事象を、自然と子ども以外は排して、
ありのままの自然を描くことで、
琉球弧の感受を描いてみせた。

それを『ウンタマギルー』は、「オキナワン・チルダイ」、
「琉球の聖なるけだるさ」と呼び、
『めがね』は「たそがれる」と呼んだ。

「たそがれる」は、その世界に浸りきれば、
「けだるさ」の世界にすぐに入っていく。
「けだるさ」に出会って恍惚とする、それを「たそがれる」と呼べば、
両者に橋渡しはできるはずだ。

高嶺監督が、荻上監督より徹底しているというのではない。
高嶺剛は石垣島出身。いわば沖縄の内部から描いたのに対し、
荻上直子は、旅人としての外部から描いたという
立ち位置の違いがあるに過ぎない。

それは内部からと外部からの差異に過ぎない。

しかしこれを単に、その差異に過ぎないと
身勝手に言わせるほどに、
両者が本質的なことをやろうとしてくれたということ。
言うべきなのは本当は、このことかもしれない。

かつて、沖縄と与論は、「オキナワ・ヨロン」と、
リゾートとして併記されたことがあった。
『ウンタマギルー』と『めがね』は、
映画作品化を通じた沖縄と与論の再会のようだ。

追記
こんなことを書いたのは、なんと、
『ウンタマギルー』が、動画配信されていたからだ。
ぼくはまだ観ていないが、いずれ、
18年ぶりにあの映像に触れてみるつもりだ。


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与論砂浜三十景 11 ユバマ

漁港になっているが、地は砂浜であるのが分かる。

これも、砂浜地図によると、ユバマに思えるのだが正確だろうか。

Yubama

















砂浜めぐりは、西のフバマから出発し、
北を少し過ぎたところでユバマに着いた。

フバマとユバマ。
フバマは「小さな浜」だが、ユバマは何だろう。
「寄る浜」の「ユリバマ」の「リ」が脱音したのだろうか、
それとも、「ユ」自体で、何かを意味するだろうか。
はたまた、砂の「ユナ」の「ナ」が脱音したのだろうか。

「ユンヌ」の音に近くて、親近感の湧く浜の名で、
地名の意味の想像に掻き立てられる。

こんどはもう少し、漁港の前の砂浜をイメージできるくらい
ゆっくり訪れてみたい。


さて、もうすぐ寺崎と出あうはずだ。




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