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2007/11/13

与論砂浜三十景 23 アーサキ

そしてぼくたちは、島の民(ユンヌンチュ)が最初に上陸したとされ、
与論民俗において最重要視されているアーサキ(赤崎)にたどり着く。

Asaki

Asaki2

















昭和期の与論民俗考を進めた野口才蔵が、
赤崎をどのように見なしたか、
『南島与論島の文化』に見てみよう。

  シニュグ祭の祭詞に、「大東大口……云々」とあるが、
  この「大口」は、赤崎御願から東北の方向の塵礁の切れ目で、
  そこは船の出入口になっている。
  故麓桓茂先生は、この御願から大口を通る直線を延ばせば、
  大分県の「海部」に通ずるといわれ、
  先住民が自分たちの原郷を拝するため
  「大口」の方向に向かって祝詞をのべた、とは、
  実に注意をひくことばである。
  後で地図を拡げて見たが、やはりその通りの方向であった。
  「アマンジョー」は、そこの井戸を含めた、
  その付近の小地域(ちょっと鞍部になった)を
  「アマンジョー」というから、
  アマミコの入口ということにならないだろうか。
  与論で出入口の事を「ジョー(門)」と、いうから「アマミ門」から、
  「アマンジョー」に転訛が考えられる。
  「アマンジヨウ」が、そこの井戸の付近の小地域の地名であることは、
  最近その井戸の近くの北西に家が新築されているが、
  人々は、「アマンジョー」に新しい家が建てられたというし、
  また、シニュグに使った「デーク(ダンチク)」は、
  「アマンジョー」の海に流すということばでもわかる。
  だいじをとるために、与論島の民俗に詳しい
  与論民具館主菊千代氏に糺したが、やはりその通りであった。
  また、「ジョウ」は、水汲場や井戸の事だから
  「アマミ井」の事だろうの説もある。
  与論島の原住民の最初の小集落は、あの井戸の後方であろう、
  とみるのが、与論の郷土史研究家の定説になっているが、
  里シニュグの内の三座元の方たちは、
  自分の座元が最も古いのでは、なかろうかと信じられている。

  1.ニッチェダークラの座元の方では、ここは根という地名であり、
  「根」とは、「元」を意味することであると考えられている。
  そのことは、ニッチェダークラの座元の祭詞でもわかる。
  その祭詞の中の一部を記すると、
  「……島ぬ初まい、世ぬ初まい、世ぬ初みんしゃあち、たばあちゃる、
  我根地神がなし……云々」となっていることでも推察できるであろう。

  2.プカナダークラの座元の方は梶引半田に船の梶がひっかかり
  島に上がって、南進し(シニュグ神路を通って)更に東進して、
  国垣で居住されたが、後にプカナの土地に移ったということである。
  最初、国垣で暮らしている時、二羽の鳥が兄妹の前で夫婦の契りを
  結ぶのを見て、この兄妹も、それを見まねて、夫婦のちぎりを結んだので、
  子孫が栄え島中にひろがったとの、民話を信じられる。
  それを傍証するかと思われる次の事実談を聞かせてもらった。
  ずっと以前には、ハジピキに六〇坪ぼりの土地があったが、
  七〇年前、親(話者竹菊政氏の親の時代に)が売ってしまったのは、
  遺憾であると語られた。(昭和四十九年聴取)
  民話と一連の関連をもたせたこの話は、
  何と現実的響きの強いことよ。

  3.ショウダークラの座元も、二羽の鳥の夫婦の契り話が
  同じように伝承として残っており、
  「島ぬ姶まいや正ぬ庭から」と信じられている。
  ここで考えられることは

  1.最初の渡来者たちは、農耕者ではないから、低平な小島では、
    水の得られる海辺に住居をとった方が主食である
    海産物を採るのに都合がよいこと。
  2.赤崎から縄文式土器の出土しているのは。
    (木下井の付近からも出しているが)
    やはりそこに人が住んでいた可能性も考えられる。
  3.アマンジョー・シマミジの地名のあること。
  4.ショウダークラは、シニュグ祭りの時に、
    アーサキウガンを中心に神送りをする。
    昔は、そのウガンに行って神を迎えたなどのこと。
  5.南島、特に奄美の遺跡がほとんど東海辺に分布すること。
  6.原住民が赤崎から入ったとの伝承のあること。
  7.アマンジョーの南西の丘に、上城があったことなどからして、
    与論島の先住集落は、赤崎と考えたい。
  (『南島与論島の文化』野口才蔵 1976年)

赤崎について触れたこのくだりは、
『南島与論島の文化』のなかでも、
特に愛着と異和を同時に喚起させる個所だ。
それは、これを最初に読んだ30年前と変わらない。

ただ、

  二羽の鳥が兄妹の前で夫婦の契りを結ぶのを見て、
  この兄妹も、それを見まねて、夫婦のちぎりを結んだ

という、母系優位の社会の民話(神話群)は、
与論島だけでなく、ポリネシアなどの太平洋上の島々にも伝わる
ことを知る今は、かつて以上に愛着も深まる。

また、ニッチェー、プカナ、ショウ各ダークラともに、
自分たちを最古と見なしていることも興味深い。

しかし、何より、最初に読んだ時に、
強い異和を感じないわけにいかなかったのは、
大分県「海部」の登場だった。

そこが、与論人(ユンヌンチュ)の原郷であるという見なしが
いかにも唐突に思え、まったく不可思議だったのだ。

その後、これが、伊波普猷-昇曙夢の流れを汲む、
日琉同祖論が下敷きになっているのを知って、
異和は異和を残したまま、痛ましさを伴うようになった。

なぜ、ある南島の人びとは
自分たちの出自を、本土と見なしたがるのだろう。
いや、何度か繰り返し書いているように、
ユンヌンチュの出自は、本土からも南からも両方あるに決まっている。
ここにいう出自本土観の特徴は、
弥生期本土からやってきたという期間限定つきのものだ。
そして、それ以外の時期と場所からやってきた者は、
いないかのような雰囲気のなかで議論するのが特徴だと思える。

ここには、自分たちを、何が何でも日本人と見なしたい
切実な願望を感じないわけにいかない。

でも、この考え方は、それだけで島人を構成するわけではない窮屈さと、
日本人の範疇が窮屈であるという、二重の窮屈さを抱え込んでいる。
そして、30年経った今も感じるのは、
この立場は瀰漫する雰囲気のように、
決して無くなってはいないということだ。

ぼくの南島論のモチーフのひとつは、
この本土出自観の痛ましさを解除することだと思っている。

その際、アーサキ(赤崎)をどう見做すのかということが
鍵になることは言うまでもない。



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